2-4 Void Structure:4
立ち上がったシュウが彼の背後に回る。入り口の襖を開けると、そこには最初の面接室。もはや空間の接合すらメチャクチャだったが、これも零子とやらによる神の力だと考えることにして、彼は立ち上がる。シュウを見るときは角か眼、或いは足首から下を凝視していれば問題は発生しなさそうだが、何故か足袋と生足の境目が目に焼き付いて離れなくなってしまう。
「バディ?どうしたのさ」
「なんでもないです。ほら。」
渋面が紅染になる前に背中を押して、一緒に吹き抜けの面接会場へと入る。襖を閉じるとシャッターが降りて、吹き抜け天井から覗く雲が遠ざかっていく。その雲の流れに集中していると、天井の境目が見えたかのように青空の切れ目が突然の漆黒へと変貌。重力を感じないながら移動しているという実感に包まれ、何処まで落下していくのかわからない密室で、案内役となる女神を見た。
シュウは微笑みながら鼻歌まで歌っており、機嫌がいい。旅行気分なのだろうかそのまま踊りだしそうな身動ぎである。
そんな背中と黒髪を眺めていたら、古いエレベーターベルのような軽い音が鳴り響く。シャッターが上がった入り口は再び一枚扉に成っており、裸足の彼女を靴音が追う。開け放たれた先はやはり夜の店の畳ではなく、気持ちいい風の吹き抜ける大地であった。
「……スーパーナチュラル。」
大自然、の意。何処から出てきたかわからない語彙を振りかざして、彼は訪れた世界に恐る恐る踏み出していった。森の匂い。遠い昔に遠足で登った山でしか嗅いだことのない独特の青臭さ。土もこんなに香るものだったか、慣れないがしかし、野菜畑の更に大きな物、と捉えることで納得はできた。現代人の彼に出来る最大限の表現だった。
生い茂る木々、爽やかな風が吹き抜ける中に輝きが紛れているようだった。自分がおかしな存在に片足を突っ込みつつあるからか、元からこの世界では普通なのか。今となってはわからない。
「それはねー、フィルターかければ見えなくなるよ。細かいやり方は教えてあげるけど、あえて可視化してあるんだ」
視線を追ったのだろう、思考を呼んだかのように答えるシュウは髪を束ね、花魁衣装を短パン・ベスト・ハンチング帽に変えた。外に出した黒髪を結わえてアップにしても、先端が延々と伸びてやっぱり地面をすっていたし、どうしても服の色は黒メインの白に固定されるようだ。あと、絶対にノースリーブを貫く。
それら典型的な特徴を持ちながらもピクニック用衣装を仕立てた女神は、小枝を踏もうが小石に滑ろうがお構いなしに進軍開始。男はといえば革靴とスーツで来たことを後悔している。歩きにくさったらない。
「この世界はねー、ボクが試験用につくったんだ。街が3つと村が3つ、エネミー用の魔王城、魔族。人間同士の戦争抑止に都合がいいんだ」
「アリの巣観察キットみたいですね。」
障害物のほうが避けているのではと思うほど、足取りは軽い。『オレ』は枝を避けては頬を切りつまずいてはズボンを切りと散々なのに、これが神というものなのだろうか。軽々と行ってのけたセリフも経験値を感じさせる説得力が……いや、ない。ただただ、神族の価値観というものを見せつけられる現実感のなさだけが残る。
「介入している神様はなし。転生者、転移者もなし。んでもぼちぼち人類側が疲弊して、魔族が頑張りすぎてるから、ここいらでいっちょ勇者してきてほしいんだ」
「勇者、ですか。……勇者ぁ?!」
「そ。後の世で語り継がれるような快進撃を頼むね!」
荒唐無稽な無理難題しか言わない神様である。こうしている間にも距離を開けられ、いつの間にかお互いに怒鳴り合って語り合うまでになっていた。シュウ自身は良く立ち止まっては振り返り、待ってはくれるのだけど。
「待って、どうやって?あ、あなた確か、オレに自分の力でどうとか、って。」
「そだよ?零子を見える、触れられるようにしただけ。後の使い方を自分で見つける事!あ、死んだらふつーにまた死ぬからね。二度目はないぞ☆」
「参考までに魔物の強さについて教えてくれます?」
「最も一般的なスライムが冬眠前のツキノワグマの群れを壊滅させるのが基準やね!」
「アラサー男子になにさせてんだこらァ!!?」
さしもの彼も我慢できずに掴みかかろうと腕を伸ばすが、落葉のように身をかわしたシュウの代わりに掴んだのは、難く生え揃った毛皮であった。掴み上げて額を突き合わせたところ、はて、と違和感に気づくのが遅れる。数秒の間があった。ぶつかったはずの後頭部もやっぱり硬い毛皮に覆われていて、鼻につく獣臭がした。断じてあのフェロモン漂うミルクの香りではないな、と判断する間に、ぐるりと男の身体ごと回転した。振り回されて脚が浮かぶが、横合いに伸びた短くも太くたくましい両腕が迫りくるのを見て、なんとなしに察しが付いた。巨体に伸びた丸耳が首を翻してこちらを見る視線が絡み合う。ただただ、生臭く凶暴な吐息。
「とりあえず、生き残ろっか!話はそれからだ!」
「クマぁぁああ↑↑ああああああ(裏返り)ッッッ!!!??」
腹の底からこみ上げてきた絶叫で興奮した4mはありそうな熊がより大きく身を捩り、四足になって走り出す寸前。指が剥がれて一目散に駆け出す。視界の端に映ったシュウは能天気に手を降って見送ってくださり、回転した勢いで横滑りしていた熊が四足歩行で男の追跡を始めた。遠巻きに見つけたのであれば背を向けて全力疾走が下策なこと、大声を出して興奮させてはいけないことは思い出せたのだろうが、シュウが作り出した状況に流された不運がすべてを台無しにした。さて、全力疾走なぞ中学でやった長距離マラソン以来である。気管支と脇腹が悲鳴を上げるより早く離脱できるかどうかは全て熊の機嫌次第と言え、それはつまり不可能の代名詞であった。
「たぁすけてぇええええーーー!!」
熊は追跡を諦めない。直近で大声を出された上に脚も鈍く、体力もなさそうな毛のない猿だ。見つけ出して八つ裂きにしてやると怒髪天を突きつつあったが、当の猿は得意の独り言も忘れて必死である。以前ネットで調べた熊害事件の数々が脳裏をよぎり、女神の前で取り乱したときとは違う意味で涙目だったが、危機を前にして生存本能が刺激されているのか、何度も噎せて足を止めそうになりながら、その都度隠れた障害物をベアクローがたたっ壊して尻を叩かれ逃げ出すのである。尻餅をつく暇もないし、あまりに咽るので喉から血が出る。大変に辛い。辛いが、見つかったときは何も出来ずに死を待つしか無いのである。頭ではなく肌で理解した恐怖に比べたら、脇腹の痛みや破れそうな肺の痛みなどなんてこと、なんて、こと……、
(ないわけねえだろボケがッ!!こっちで死ぬわ!!)
『オレ』は今、森の中をさまよっていた。何処に逃げれば勝利条件を完遂したことになるかわからないし、まして土地に明るいわけでも、樹海に慣れているわけでもない。体力的な問題がないとなれば後は河に入るしかなかったのだが、踏み込もうとした川岸の対岸でこれまた身長より巨大な蛇がトグロを巻いているのに気づいてしまい、突入角を広く取るようにターンして元の木阿弥である。その結果が喋ることも出来ずに道に迷い、見つからないように口を抑えて置きた呼吸不全で窒息しかける死に体である。喋ることは愚か立ち上がることすら出来ず、視界がホワイトアウトしながらもひたすらに気配を押し殺す。
(あ、脚がっ、立てないッッ!頭痛がしてきた、は、吐き気もだッッ!?勇者どころじゃねえ、っていうか、運動不足の夜型インドア派が転生もなしに放り出されたら結果は目に見えていただろうがッッ!!)
人は窮地に陥った時、責任を転嫁することで精神防衛を図ろうとする。あれほど息巻いていた熊の気配がようやく薄れ、膝の大爆笑と戦いながら原因となった女神を心中で罵倒する余裕ができた。酸素不足で倒れそうだが、呼吸を整え溜まった痰を吐き出し、破れそうな胸を掴んで浅く呼吸を繰り返した。可能な限り気配を消し、周囲の気配を探りながらシンキングタイムに移る。あまり没頭もしていられないのだ。
(えーっと、何だっけ?目的は、生き残り?そうそうサバイバル。シュウの領域にいる間は気にしてなかったけど腹も減ってきたぞ?水もほしい、ってことはこの世界にいる間は普通にサバイバルしないといけないわけだよね?スマホ…ダメだ二番煎じ、じゃなくて持ってきてないし、仮に人間に見つかっても言葉が通じ、……、)
「はぁーっ、はぁーっ…ここ、何処、ッえほっっ」
答え。森の中。詰みです。女神の幻聴が聞こえて、男は頭をもたれかかっていた岩肌に叩きつけた。そのままぶち割れる石頭でもなかったので思わず転げ回ったが、幸い聞きつけて変な獣が寄ってきたりはしなかったようだ。負のご都合主義の連鎖は一時休戦と相成ったようだが、一抹の安心感はそれを上回る不安にかき消されていく。
彼は体を起こし、考えを未来から現在に絞って考えることにする。がむしゃらに走ってきた事で景色は少しずつ変化を見せており、空は相変わらず生い茂る草木に覆われて詳細には観察できないが、空の色は青から赤へと変わりつつあった。走り進むうちに樹木の幹や根は太く大きく、吊り下がった果実が目立つようになってきていた。夕日が差し込みつつあるせいか、葉の色も薄っすらとグロスインジェクションを彷彿とさせる虹色の光沢を放ち、汗の蒸発が進んだことも体感温度の低下を告げた。今しがた喧嘩した岩肌を視線でたどり、木々に混じって岩石が転がりはじめた状況に気づくと、自分に言い聞かせるように数度胸をたたいて、重たい脚をあげ始めた。
「岩場、…洞窟、とか、ないかな…森に野ざらしは、マズい…」
ファンタジーの気配が漂い始めた事に感動するのは後にして、その想像力を反映するかのように希望を握る。悪い想像が現実に変わる前に、身を守らなければいけない、と。