3-26 However,We Survive.:2
灰色の、プリムラが作った過去の世界。モノクロームの立体写真に置かれたさくらは、世界のイメージソースである彼の傍らで静かに話を聞いていた。途中口を挟む余地はない壮絶な境遇である。他の世界の常識は持たないさくらだが、仲違いしたままの両親を崖から突き落としたような心境は伝わる。理解できる、とは口が裂けても言えなかったけれど、代わりに天を仰いだ。自らが突入した世界の亀裂は変わらずに光を取り込んできらめいて見えた。
彼は燃える家を見ていた。時の止まった、彼がいう「あの時」そのままの景色に釘付けられてうなだれることもできずにいた。もはやうつむくことすら許されない、彼にとっての今がそこにあるのだから。
「もう、オレは二人を笑わせてあげることが出来ない。忘れたつもりになって、しあわせになろうとしたけれど、出来ない。オレは、オレは、」
少し、考えた。天を仰ぎながらさくらは想う。ここに来ておいて何をすべきかと、耳から入る弱音にどう返せばいいかと考えた。時間の経過は、主観ではかなりあったと想う。少しか、たくさんか。考えていたと後に解雇するけれど、幾ばくか間をおいて彼がうなだれたのは気配でわかった。膝の中に押し込めてくぐもった声が続いたからだ。
「……オレは、失敗した。」
だからもう、何も出来ない。とでも続きそうだった。それがひどく、上向いたままのさくらの目を曇らせたものだ。耳障りだと理性は思い、喉まで出そうになった時別のフィルターを通して変わったようにこぼれた。
「そして?」
鼻で笑われてもさくらは反応しない。そこまで子供ではないつもりだった。ただ自分よりも背の高い男の発する弱音を眉一つ動かさずに聞き届ける。
「そこで終わりだよ。オレは逃げた。逃げて逃げて、代わりに何の価値もない言葉だけを叩きつけた。一発たまさかあたったが、それっきりだ。」
悔恨の詰まった言葉を吐いて、男は沈黙した。それを誰も攻めはしない。灰色の景色を眺めながら、肺の中に溜まった物を吐き出す無為な生理現象を黙って聞いている。男は何も言わず、もちろん、思い出の中にさくらはいない。彼に対し、あらゆる意味で返答を示さない彼を、しかしさくらはしっかり噛み締めた。天を見上げて微動だにしないまま、彼が言う虚しいコトバを甘く喰む。
「―――世界には、生きていてはいけない命がある。外的にせよ内的理由にせよ、存在していることで他の存在に悪い影響を与えるのであれば、それは生きていてはいけないと考えている。自分もそうだと思っている。オレは、オレは生きていては、いけない…、」
ついに我慢できず、さくらは怒りを顔全体に塗って迫った。まるで反応しない彼の手を握りしめ、さくらは口開けた。何を発すべきか、まとめたわけではない唇を放り出す。
「そんなことは、ない」
あまりにも、芸のない言葉。彼も呆れたのか顔を上げることはなくとも、無為に蠢いていた唇を止めた。このまま二の句を告げさせる代わりにその手を握りしめて、こちらに注目を集めようとしていた。身動ぎが止まった瞬間動き始めた脳内をまとめて、さくらは少しずつ淡い唇と喉を震わせる。
「わかるか、お前の握る手が。熱いか、冷たいか。我にとっては、…まあ、一人では味わえない熱だ」
難しく悩もうとして、やめた。結局直截な方が伝わることが多いと信じる。特に妹にはそうだったから、という経験則で沈む男を諭すように手を握った。彼の手は、悲しみに沈んでいる割には強い熱を持っていたと想う。さくらはそれを確かめるように撫でてから、この空間を視た。灰色の寒々しく、ひょっとしたら男を苛む視線を一笑に付して、
「よく視ろ、貴方にとっては傷かもしれないが、我には紙芝居に過ぎぬ。灰色でつまらない世界だ、これを見たとて、我のすべきことは何も変わらぬよ」
娘はそう言って豪快に高く笑う。沈んでいた眼差しが不意に娘に注がれた。目が合う。何の面白みもない瞳だったけれど、これが神の眼と思えば何かが愉快だった。これが、いま自分の命をつなぐたった一つの楔と思えば、さくらにとってはその仔細に意味はない。だから握り返す。何の力もない指先を握って、目線を水平に合わせながら痛快に微笑んでも見せよう。心のあり方そのままに笑って。
「神よ、我らは貴方に祈らねばならぬ。求められるのはヒトの為すべきではなく、神の為すべきことなのだ」
さくらははっきりと告げて、彼は過去しか見なかった眼を正面に向けた。今を見る娘と過去に囚われた男の視線が交わり、彼の時間は止まった。さくらからしてみれば神という、天井の存在を射止めたかのごとく。そして二の句は告げさせず、胸ぐらをつかみ額を付け合わせ小さな娘は言う。額を押し付け、半ば脅迫じみた眼差しで。
「そうだろう?あなたは我らを助けた。命を救い、だからこうして、我があなたに言葉をかけている。―――何も出来ないなんて嘘だよ」
「嘘、…嘘、か。」
目をそらせない距離、二人は無間を視線に注いだ。その狭間で男は想う。何故、神が二人も新たな神である自分に時間を稼いでいるのか。そして目の前の娘が、自分なんかに意識を割いているのか。
この世界は灰色のまま。彼が思い続けた場所の色を想う途端、逸らせない視線の向こうでさくらが頷いた。
「我は、貴方を待つ。世界の時間は例え流れても、貴方は必ず立つヒトだと信じている」
「オレを?」
「そうとも。何故、などとは聴くなよ。今目の前にあるのだ。理解らぬ貴方ではなかろう」
さくらの顔は少し歪んでいた。真剣ながら、しかし何処かそれていきそうな揺らぎを隠せずにいた。こんな時、物語の中ならどうなるのか、と考えたけれど、彼はそれを思いつくことが出来なかった。何故、と思うことはなかった。しかし彼女の言葉を胸の中に抱きながら、あえて口にするのだ。
「………、何故?」
灰色の、時の止まった世界の肌寒さを感じながら、愚かな問が溢れた瞬間。娘は呆けて、そしてあふれるように笑った。手を話して顔を抑えようとして、果たせずに漏れて来た声は聞き漏らしようがない。写真は音を立てないのだと遠くから見ている自分がいた。それを理解するまでの短い時間に戸惑っているのを感じる。答えを探してさまよった瞳の端で、彼女のそれが笑顔だと感じ取ることが出来るまで、少し時間がかかっていたと思う。
「戯け、聞くなといったのに」
さくらの言葉は笑っていた。顔も身体も諸共、ついに手を放し立ち上がって腰に手を当てて見下ろす形になっていた。視線を切れないまま追いかけた自分の顔は理解らなかったけれど、背景に突き刺さったままの水晶のナイフを見上げ、その煌めきに照らされ生まれた影を浴びながら、向こうにある光を感じていた。外からの光を乱反射するように目を眩ませるが、それよりも答えは影の中にあった。
「理由など、ただの一つ。ミろ。此処にあるものを」
座ったままの男が、目を見開く。初めて目を見開く赤子のように。さくらはそれに手を伸ばし、男は手を取ったか。軋むような身体の音を遠くに聞いた気がして、灰色の世界がひび割れる音を肌で聞いた。なんてことはない小さな娘だ。この場で縊ればすぐにでも消え去る命なのだろう。彼にしてみれば。でも彼はそれをしない。手を撮って、その惹かれるままに伸びた膝。見下ろした命にすら眩そうに目を細めながら、伸びた手は命ではなく頭に触れただけだ。載せられだけの手のひらが感じたものに、彼は悲哀ではない物を感じた。くしゃりと視界が歪んで、もう片方の拳は握られた。
「―――そう、だね。オレは、……責任を、取らなければいけない。」
かつてはなかったものを意識する。或いは、かつて目を背けていた物を握りしめた。見下ろした娘の姿を消し去り難い物に感じて、自分の言葉を、…改める。後悔、は悪い言葉だと。目を開いて、良い言葉を探した。今なら出来る気がしたから。
「いや、報いたい。君に保証されたなら、オレは何もしないままにしたくないから。―――そうとも。」
かつて、誰かに言ってもらいたかった言葉を手に入れた気がした。彼女の笑顔が見える。例え曖昧なままでも、かきむしりたい己の胸の中に染みて癒やした気がしたから。
それが答えなら、それでいい気がした。視界の外で灰色に亀裂を視た。
「行こう。答えなきゃ、…あの神様達に、」
手を天に掲げた。かつての恩師の言葉が蘇り、それに笑って答えた。天にさした、さくらが指した刃の奥に答えの光を見出して、
「…オレは、何かが出来る。オレは生きて、何かが出来るはずだと!!」