3-24 Pain the Universe, We Guilty.:2
男は学者だった。考古学に没頭し現場も測量も調査も一人で全てやりたかったが、その性格ゆえに心を壊した。心の歪みが体に現れて薬なしではまともに振る舞えないほどだったけれど、最も蝕んだものをより正しく言えば、男への無理解であったことは想像に難くない。『普通』の人間は異質なモノを理解しようとはしないし、男も自分とは違う『普通』のモノを拒むことで報復としていた節があり、それが根治治療を困難なものとした。薬の量は歳月と共に積み重なっていった。
その彼を根気強く支えた人物を、青年は母と呼ぶ。変わり者の箱入り娘だったが、人を理解しようとする思いやりのある人だったからこそ、二人は両親となったのだ。その背景を理解したのは中学に上る前だったと彼は記憶しているが、同時に人生の暗黒期でもあったことは、今なお覚えている。
――――忘れられないことばかりだ。
「あ、あ、…あ。」
思い出したくないと思えば、目の前の景色が逆回しに古い映像を映し出し、音のように過ぎ去った。
それは実体を持ち、俯瞰する景色の中に青年がいることを記憶は認識しないのだから、映像と呼ぶに差し支えないだろう。その局面で例えば扉を開けることは出来ても、直接記憶の中で喋る人物達に対しては何も出来ないまま、まざまざと見せつけられる過去。
思い出す。思い出す。拒めば拒むほど思い出す。
父の病が原因で起きた事故。故郷との軋轢。学校で起きた些細な思い出、友だちの顔、名前、仕草、それらを無に帰す転校。故郷で迎えられなかった卒業はいつまでも心に残った。滝壺の濁流のように流れ落ちては溜まる記憶の中にはもっとひどいものがあった。忘れられない光景、忘れたい光景を意識したが最後、映像は律儀に目の前でそれを再生するが、ラベルのように一文がちらつくだけでも、サブリミナル効果さながらに焼き付く景色からは、目をそらしても逃れられない。
――――息子の前でロープに首を通す人間は、親と呼べるのだろうか?
消えない命題は中学生の息子にこびりつき、彼から子供らしさを奪う。学業に没頭して忘れることも出来たのだろうが、人間に対して彼は怯えるようになってしまって、外に出られなくなった。きっとよくあることだと、大人になって初めて感じることが出来たかもしれないけれど。
少年が父の二の轍を踏まずに済んだのは、母のおかげだった。引っ越し以来男は母に依存したが、慣れない生活にあえぐ母に息子もまた拠り所を求めるしかなかった。他の味方はいなかったけれど、彼女は息子を受け入れてくれたのだ。
「大きくなったら何になりたい?」
「……笑わない?」
「笑わないよ。あなたの夢だもの。さあ、聞かせて」
前後の流れは覚えていないけれど、その会話は耳に残る。顔を伏せる青年の中にあった。
「……小説家に、なりたい。絵はかけないけど、文章ならなんとかかける。たくさん元気づけてもらったんだ、だから――――」
「そう。じゃあ、ちょっと頑張らないとね。どうすればいいか、わかるよね?」
「うん…。」
いい思い出、いい思い出…の、はずだ。なのに青年は胸を抑え、夢を語る少年と優しくも厳しさを持って抱きしめる母親の像に手を伸ばし、果たせないまま過去は流れてゆく。また動機が激しくなり、走馬灯にしては生々しく、本当に目の前で繰り広げられる寸劇を笑い飛ばす余裕もない。
もちろんこのあと起こったことも克明に覚えている。学校に通わないまま原稿用紙を出版社に送りつけてお祈りの葉書とともに突き返され、勉強して書き直してもダメ。別のジャンルにしたらより酷評されて、ついにはネットに出会って投稿サイトの片隅に独り言のように投げ込むようになったものだ。
母は応援してくれたが、父はいい顔はしていなかった。ただ大学だけはでておけというばかりで何もしない。年々やつれて仕事にもいけなくなり、パートの母と収入が逆転していく。家で横になっている日が増えた、生活態度には口を出さなかったけれど、勉強と出席だけは常に強弁して、次第に少年はある疑問を覚えるようになる。…なったが、しかしまだよかった。睡眠障害を患って昼夜が逆転しても行ける学校はある。二次創作投稿の傍ら、勉強した知識で文系の通信制高校に受験して、受かって、
「―――やめろ。」
父は何も言わなかった。何処でも高卒が取れれば大学には自分のコネを使えばいいと思っていたからだと、後になって悟った。母は少ない貯金を崩して少年のために必要なものにこまることが内容にしてくれた。その頃には、図書館ぐらいには自力で行けるようになった。せめて少しでも負担を和らげてあげたい一心で、人間を野菜だと思いこむ技を身に着けたのだった。
「…やめろ、もういい。わかった、やめろ。」
耳をふさいでも目を閉じても上映会は続く。すべて内から出る景色なのだ、意味がない。
その間小説は書き続けたし、必要な知識は勉強したつもりだった。しかし文体を見れば何かがわかるのだろう、公式の募集には応募しても応募しても落ち続けて、それらは少年の成長に何ももたらさなかった。というのも、選評の合否に係る内容はワンポイントに留まっており、修正しても修正しても一向に一次審査を抜けることはなかったのだ。目立つことを嫌って大手の出版社を避けたりネット上での広報を疎んだのが一因とも言えただろうが、結局彼に実のあるアドバイスを貰えたのは随分先になってからのことだったのだ。
母は励ましてくれた。あまりに苦しくてみっともなく泣き濡らしたときも、少しいいものを振る舞ってくれたり、気分転換に外に連れ出してくれたりした。父もそれに付き合ったけれど、何も言わなかった。その頃にはもう聡明な父の姿はなく、ただ少年に母を取られたくない子供がもうひとりいただけだった。二人は母を通してしかやり取りをしなくなっていった。
そして、
「やめろっ、もうやめてくれ、聴きたくないッッ!!」
進路を決断しなければいけなくなったあの夏、父は言った。大学にいけと。
行く気はなかった、資料として図書館しか価値はないし、そんなお金はないと答えると、父は言った。公務員になれば取り返せる、大学にいけと。
仰るとおりだ、働く宛がない今選択の余地はない。説得されて折れようとしたとき、父はいった。これでもうあのつまらない駄文を描くのをやめるんだな、と。
少年は耳を疑い聞き返し、そして知った。若い時代の貯金を切り崩して出版社に投稿文章を落とさせていたのは父だった。将来のために大学に行かせたかったとはいっていたけれど、少年は悟った。母が少年の執筆を応援していたのが気に入らなかったからだ。
それが真実だったかどうかは問題ではなかった。少年は父に生まれてはじめて掴みかかり、そして病気の父もまた殴りかかってきた。程なく母が気づいて少年を抑え込んだが、それが余計に火に油を注いでしまい、ついに最後の引き金を引く。最初の傷からずっと持ち続けてきた膿が溢れた。
助けるんじゃなかった!!
お前なんか、あのとき死んでおけばよかったんだ!!!
膝から崩れ落ちた青年は手を伸ばしたが、やはり何も触れることは出来なかった。隣で少年の慟哭が聞こえる。見知った声だ、よく知っているけれど、少年も青年も互いを見ることはなく、ただ築70年を云うに超える木造平屋建が煌々と燃え上がるのを見ていた。庭の緑も車も包んで、住宅街の只中だったことから延焼もひどい。狭い道を苦心して折り曲がる消防車のサイレンも二人には風よりも遠くの出来事だった。少年の肩を近所のおじさんが強く引き止めているが、その手には力の限り握りしめられた厚い茶封筒があった。
場面が飛んだ間に何が起こったはよくわかっている。父に介入されないように、あの後完成させた直後の現行を国語の教師のところに持っていって添削してもらったのだ。誰にも内密で、という約束で文章に目を通した先生は、一言、文が荒っぽくて読みづらいと結論を述べてから、つらつらと赤ペンを入れていったのを覚えている。
勿論少年は半泣きだったが、全て聞いていた。ペンを入れられる文章構成の修正点を手書きで自分がメモして、表のどころか裏の余白まで使ってたくさん、たくさん。返事はすべてはい、仰るとおりです。他に答えるべき言葉が見つからなかったけれど、正直に言えば初めてまともにもらえた技術的な感想にひたすら感謝の念しかなかった。かきあげたものに対する率直な感想に胸打たれて、感動して、そのまま頭を下げて持ち帰ろうとすべてメモした文字は滲んでいるのだろう。
そして先生は最後に一つ、付け加える。
物語とは、伝えたい芯や軸がブレてはいけない。君は本当は、たくさんのことをいいたいけれど我慢しているね?それが一度に溢れ出しているから伝わりにくいんだ。一つずつ、丁寧に込めていけば、きっと素晴らしい作品になるだろう。
楽しみにしているよ、未来の作家くん。
『―――いやだぁーーーっ!!』
悲鳴が聞こえる。現行の持ち主が手を伸ばし、原稿のはいった茶封筒を突き出しながら火災に飛び込もうとしている。鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、バカなことはよせと近所のあまり顔も知らないおじさんたちに必死で押し止められながら、赤ん坊のように喚いていた。
『いやだぁ、やだよぉーーーっ!!おかあさぁん!!おかああさーーーーーーーんっっ!!』
言いたいことは、一つや二つで済むわけがない。
僕は、僕はただ―――――――――。
「ただ、笑ってほしかった。それだけだったんだ……。」