3-11 Disaster Doll:1~Scarface
「……便利だよね、ひと目で状況の推移がわかる。現実でもこれぐらい空気が読めたら…」
「たぶんどうにもならなかったわゾ。」
同じ物を見たのか遠い目で漏らす黎衣だったが、彼自身は状況が掴めていない。危機的状況を示すシグナルだろうが、目に痛い、と感じたシグナルが単純に淡い黄色の明滅に変わっていくのを見送りながらも、実際の変化は何もなかったからだ。
ただし、肌がひりつくような空気はわかる。先程零子で認識覚を広げたからだろうか。
「黎衣さん、悪いけどついてきて欲しい。対処できるか自信がないが、連れと合流したい。」
「心得た。居場所はわかるね?」
ナチュラルに意を組んで先導を任せてくれる黎衣。頷いたら、彼は先程見えた地形図に沿って駆け出した。散策するうちに離れてしまっていたが、二人が動かずに居てくれるのであれば追いかけるだけだ。
彼も脚は早くない。早くしろ、と思えば出来たかもしれないが、姉妹を捕捉したままマッピングを維持するのにも難儀する。場所を見失わないことに集中しないと知覚が途切れてしまいそうになるが、集中が何者か、耳朶を打つ雑音に妨げられている。
「ジャミング…いや、ノイズか。フィルタリングする」
追従する黎衣が声を上げた。そこから零子の波が紐状に縒られて伸びてくると、彼の周囲に広がって薄い膜を作る。頭痛を引き起こすノイズが黎衣の作った音の膜によって相殺され、マッピングの負荷を軽減された上で走力の強化にも気を回せる余裕が生まれた。距離を完全に維持したまま張り付いてくる黎衣。
「私の見立て、聞くかい?」
「必要ならぜひ!」
「現在この書庫で発生しているノイズは情報の濁流、行き過ぎた圧縮言語だ。1音節に図鑑数冊に相当する情報量を持ち、耳で聞いても理解は出来ないだろうが零子知覚者…つまり神に触れた場合は零子として取り込まれてしまい、間を開けて脳が理解し始めるために負荷がかかる。何らかの方法で濾過、または単一零子に戻さなければ、君は廃人になるよ」
「それを黎衣さんがやってくれてるってことか。…どうしてこんな事になってる?」
「わからない。今解析しているが、圧縮データの内容は支離滅裂で、……いや」
目の前で零子が黄色から赤に変わるより一瞬早く、彼は首を掴まれて力づくで立ち止まる羽目になった。強引に引き倒されて尻もちを付き、目を白黒させながら患部を擦っているも、黎衣は言葉をよこさず、進行方向を顎で示した。彼もその先を追うと奇妙な現象が起こっていた。
棚の中に隙間なく収まっていた蔵書。本を抜くときも戻すときも、完全にサイズを合わせて1mmの猶予もない場所にピッタリと収まり、するりとこぼれていた不思議な棚であるが、その膨大な蔵書がラップ音をたてて犇めいていた。地震でもないのに棚全体が鳴動し、各々の隙間から漏れる光は、もしかすると表紙でも光っているのかもしれない。警戒色の黄色から赤に変わった空気のまま、本達はガタガタがなり立てながら二人を脅かそうとしていた。
だがそんなものは前座、予兆に過ぎない。程なくして一冊の本が棚からこぼれ落ち、地面に広がるように開かれた。追いかけるようにして棚から漏れ出したのは絵の具を無造作にぶちまけた様なマーブル模様の液体に見えた。目を凝らしてみれば何のことはない、高密度の文字がぎっしりと、実体を持ちながらも固体になりきれずに流れ出しているのである。
「なっ、なんじゃこりゃ!?文字、文字か!?スライムみたいだぞ!?」
「この図書館の本質は情報集積施設。そこから考えるに、どうも情報自体が質量を持って好き放題暴れているみたいだ」
「なにそれこわい!!」
文字のスライムは弱い粘性を持つのか、地面を這うときにわずかながら粘つくような音を立てていた。開かれた本の上にのしかかると、モザイクのように行き交う文字たちに遊ばれて、本の記述そのものが剥がれ落ち、油汚れを溶かす洗剤のように浮かび上がってスライムの一部になっていく。
人間で例えるなら今、本が一冊溶かし殺されたようにも見える。おぞましい光景を前に若干嫌悪感を示しながらも、冷静な黎衣の後ろで立ち上がる。だがふと、スライムから低い呪詛のような声が聞こえた。何を言っているのかと耳を澄まそうとしたところ、黎衣が首を振る。
「聞いてはいけない、アレがノイズの元凶だ。先程減衰した物よりもずっと密度が高いから、聞き入ると破壊されるぞ」
「じゃあ、聞き流して退けないとな…っ!」
陰気な声だ、何を言っているのかは、考えないことにして脚を前に。結晶の世界でやったように足に力を込め、それができる、と己を定義することで無茶な機動ができる自分へと変わる。スライムもまたこちらに意識を向けたようで、反応してずるり、ずるりと巨体を引きずり進んでくるが、またしても黎衣から待ったがかかる。
「ダメだ、逃げよう」
「逃げる?心配ないよ、こっちなら使い方は…っ」
「違う、ルールの強度が足りない!」
声を張り上げた黎衣に反応し、スライムが飛びかかってきた。静止を無視してすかさず飛び出しソバットを叩き込んだが、手応えが重い。柔らかそうな見た目に重量を感じて、その文字は波打つように脚を吸い込んでしまった。驚きながらも引き抜こうと悪戦苦闘するが、体温を感じない冷たい粘液が徐々にひりつき、身体補助をかけようとした瞬間に鋭い頭痛が刺さる。背骨の中から髄液をかき分け、脳幹に直接刺さるかのような衝撃に悲鳴があがった。自分のものだと思い至る頃には、吹き飛んだ景色がゆっくりと戻ってきていた。黎衣が今の一瞬で何かをしたようだけれど、焦げ付いた匂い以外には何もわからなかった。
「立てるかい?情報汚染のダメージは…大きくはなさそうだ。よかった」
ふらつきながら支えられ、視界から消し飛んだ何もかもをゆっくりと思い出していた。進行方向へとおぼつかない足を進めながら、黎衣は緩やかにたしなめる。
「基底元素のNPC相手には充分でも、こちらはすべて零子知覚存在が基準だ。我々は指向性を持たない零子を味方につけるが、同時に相手のルールを崩すことで掌握が可能でもある。書き手の初歩は、最低限自分の定義を崩されない構築だけれど、」
声が漏れた、う、とか、あ、とか意味のない音にしかならず、口を閉じきれずにヨダレが溢れる。その無様を認識して袖で口元を拭うことすら秒単位で遅れる彼に、
「いいから、私に任せて。一刻も早く立ち直ってくれ。…道はこのままでいいのか?」
黎衣は追求しない。ただ励まして、目的を見失うなと建設的に話を進めようとした。彼は答えられないが頷くことは出来たので、そのまま肩を借りておぼつかない足取りで進んでいたが、少し進むと歯ぎしりして離れた。本棚に手をつくとまた何が起こるかわからなかったので膝をついたが、伸ばされた手を払い除けながら額を抑えつつも自力で立ち上がる。黎衣が差し伸ばした手を避ける。
「……いい、行くぞ。次のところで、左、だ。」
次第に目は覚めてきた。…いや、意識の混濁や酩酊以上に強い屈辱が意識を奮い立たせたのである。誓って黎衣に非はないし、責めるつもりもない。その言動は彼を労ってしっかり選ばれたものなのは理解できるが、しかしその優しさがより深く胸をえぐる。自分以外に責めるべき相手が誰もいない。
黎衣の目の前を通り過ぎ、フラフラと進んでいく。その姿を手持ち無沙汰になった手をおろして、黎衣は後ろでため息を付いた。彼は今何を言っても聞こえはしないだろう。精神状態に乱れが見える、顔にすら出る始末で、黎衣は苦笑気味につぶやいた。
「そうか。そんな顔を、するのか―――――」