2-6 Void Structure:6
『価値ィ?んなもん、てめェに言われる筋合いはねェッッ!!』
不遜な抵抗宣言に腸を煮やした熊、森の大将は結晶化したツメを振り下ろし、獲物を絶命せしめんとした。が、男は壁についていた手を押し出して自らの身体を横へと逃してしゃがむ。獣の反応速度だからすぐに動きを追って彼を捉えたが、その鼻先に投げつけられた水晶が命中、思わず目を閉じて顔を払う仕草を見せる。
『がっ、な、なんのつもりじゃいッ、そんな事しても無駄やぞ!!』
顔の前を払っていたが、大将の前で飛び散った破片が再び顔の周りを回転し始める。程なくして身体に取り込まれると、熊の身体はまた一回り大きく、身体から生えた結晶の数は増加していた。取り込んだよりも多く。
『魔族に晶石を浴びせるたァ、自殺志願者じゃな?それともんなこともわからんど田舎から来たんか?カカカッ!』
「わかってるよ。眼を開けてみろ。」
熊の丸耳が動いた。後ろからかけられた声の言う通り、恐る恐る固く閉じられていた瞼を開く。目の前に縮こまっていたはずの男の姿はなく、周囲を見渡してから、声の主を見つけるべく振り返り、そして見上げた。ウォールクライムに励む彼の姿がそこにあった。懸命に結晶を掴み、日が出ているうちはきれいだった表面に出来上がった凹凸を利用して、懸命に。
『我ェ、何しとんのじゃ!?』
「逃げてるんだよ。確かに晶石とか魔族とかについてはわからないが、今色々学んだよ。魔族はこの晶石で強化される。晶石が砕けて取り込まれるまでには若干の猶予がある、知能は何処まで行こうが猿以下だ、ってね。」
『…んだごらァ!?スットロ肉ばネギトロんすんぞォ!!』
身体能力に優れているわけではない男が出せる速度は平均よりも遅かっただろう。4mの熊が目をつむる間に懐から通り抜け、決死の覚悟で登頂を開始。掴んだ水晶で手指を切ろうと話しながら登り続け、ようやく熊の目線と同じぐらいだ。落とすのはハエを狩るようなものだろうと高をくくった熊が腕を振り下ろすが、狙いが正確出会ったが為に匠に用意していた移動準備のまま、身体をずらすことで攻撃が回避された。意気が揚がりかけていたが、アドレナリンでも湧き出していたのか僅かな合間にまた着々と高度をあげていく。追いかけるベアクローを誘導しては、その隙間をくぐり抜けるクライム技術は、付け焼き刃ながらも挑発された熊の判断力が鈍ったこともあって的確なものとなっていた。薄皮一枚かすめる事はあっても。
「普通の熊のほうが頭いいんじゃないの?個体差か?」
『ぐるるぁああぅッッ!!』
考える時間を与えないように挑発したところ、熊は怒り狂って吠える。身体から生えていた水晶に光が溜まっていくのを尻目に、一目散に高度を稼ぐ男。焦って手が滑ったら水の泡だ、慎重かつ大胆にを心がけていたところ、大将は腕を大きく引いて壁に対峙した。なにかろくでもないことをする予兆を感じて、男は身構えるが、程なく予感は的中。
いくら大きくても熊のものとは思えない、ツメを揃えた刺突を壁にぶち込んだのである。砕け散った晶石を更に吸収しながら断崖には亀裂が走り、ちょうど彼の真下に広がっていく。
「やば、いッッ!!うっ、ぐ、ァああッッ!!」
身体が放り出される寸前、鋭利な水晶に手のひらを突き刺して貫いた。とんでもない激痛。血に塗れる腕。体重に振り回されて落ちそうになるが、もう片方の腕で壁にしがみつき高度を落とすことだけは避ける。亀裂の真上に入ればそのまま落下していたことは明白だが、衝撃で広がった岩盤と一緒に、表面に生え揃っていた晶石が落ち、大将の体に吸い込まれていく。ゾッとした。破壊を重ねるほどに強化される生態。これが魔族。
『おうおう、根性あるじゃねェの?だが、いつまで持つかねェ、カッカッカッ!』
「…こ、んなもん、何でも、ない、ッッづぅううっ!!」
実際にトラックが身体を殴りつけた衝撃を覚えている。思考というものを粉々に砕かれ、身体の中から命が流れて壊れていく。
それと比べれば、手のひらを水晶で貫き、あまつさえ引き抜いて吹き出す真っ赤な血しぶき、激痛、動きが鈍る指先なんて屁でもない。まだ元気な反対側の指を使って、そのままクライミングを続行する。下で熊が更に腕を回していた。今度は更に力を使い、より強大な一撃を噛ますだろう。条件付きで無尽蔵に増大する、人類の仮想敵。気楽でいられたのは神の視点だったからだが、だからこうして人間に立ち返って見た時の意味が重い。
死の恐怖が迫る。今度は対処する。現実感のない他人事になんてさせない。こうして覚えている彼は恐怖と対峙し、必死になって崖を登っていく。鋭利な先端で服も肌も切り裂きながら、何度となく自分を叩いて落とそうとする大将から確実に遠ざかっていく。
『せいぜいがんばんなァ!壊れるまでッ遊んでやっからよォらァ!!』
血で滑りそうになるのを堪えるのは大変だった。走る衝撃、落ちていく晶石。いつまでも耐えられるものではないが、そもそも登りきるまでが遠い。これでは延命行為に過ぎない。衝撃のインターバルの間にハンカチを裂きいい加減な処置は施したが、亀裂の回避をしようと横向きに登頂を続ければ上昇速度だって落ちる。下の魔物は既に遊びに興じているのか、終焉を数えながら逃げる獲物を嘲笑う。
「死にたくない。」
「もう死にたくない。」
「まだだ、まだ死ねない…ッッぎぃああああっっ!!」
自分に言い聞かせるような言葉をつぶやき続けて、包帯を巻いた左手が衝撃で滑り落ちた。魔物のパンチが来る前に、やむを得ず右腕も水晶の杭で縫い止める。体重がかかり中指と薬指の狭間までを大きく引き裂くも、間一髪身体は岩肌にしがみついて難を逃れる。指が動かない、感覚がないが、それでもしびれる親指側の三本指を駆使して登頂を続ける。今の衝撃で少々高度が落ちて、速度も低下。ジリ貧だが、それでもめげずに登頂を続けて魔物から逃れようと試みる。降って来た血しぶきに顔をしかめて、大将はため息まじりに語りかけてくる。
『おいおい坊っちゃんよォ、無駄なことはやめなってェ。なーんで諦めねェんけ?さっさと諦めて落ちてくればよォ、オレサマが一瞬で楽にしてやっからァ。ああ、約束するってェ。お前はもう充分苦しんだじゃアねェかよォ』
なんともお優しい言葉だが、彼には答える余裕はない。比較対象がアレでも激痛には違いない。それがいま両腕をしびれさせ、思考が奪われつつあるのだ。今下なんて見たら意識を失ってしまうだろう。
『強情っぱりがよォ。今までの人間達もそこまではやらなかったゼ。早々諦めて小便チビってよォ、命だけはとか言ってきれいな石ころを差し出そうとしやがるァ。ケッ。腹の足しにならねェもんもらってどうしろってんだ。なァ、おい』
(確かに、後先、考えなかったツケ、だなこりゃ…ッッ。)
悠長に喋ってくれている理由は明白。上昇がついに停止した。痛みがひどい。出血もひどい。心臓より高く伸ばされた手先から体温諸共奪われ、いよいよ動けなくなってくるのだ。もう追いかける必要も血相変えて壁を殴る必要もない。まして、壁面を伝って来る気配を感じて、頭はあげられずに視線だけを左右に振ってみる。
トカゲだ。熊同様、結晶を身体にはやしたトカゲが数体。体の表面に赤い模様と、体温調節のためか伸ばされた舌先に炎が小さく踊っていた。火蜥蜴というやつだろう。
『サラマンダーたちも集まってきやがった。なァ、黒焦げになったら食えなくなっちまうしよォ、降りてこいよォ。燃えるってのはいつものたうち回って、声が出なくなるまでビッタンビッタンよォ。惨めだぜェ、ありゃあなァ』
呼吸が荒くなり、容易い考えが浮かんでくる。大将の言葉に従って楽になりたい、という生物的衝動。火蜥蜴達は言葉をしゃべる知能も低いのか、呼吸音と火の熱以外はなにも言葉を発さず、先程結晶の上においてきた血溜まりに群がって血をなめている。このまま待っていても手首から先をかじられて叩き落されるか、餌の調理に入って火を吹かれるかだ。自分の豊かな想像力を恨む。口元に浮かんだ笑みは、押し付けられた壁面に消える。
「ふ、フフフ…。」
『ビビっておかしくもなるよなァ、わかるわかる。わかった、降りてきたら助けてやる。マジで痛みもなく一瞬で仕留めてよォ、痛くしないでやるって約束してやるぜ。ッカカカッ!こんな寛大なオレサマにもぉっと感謝してくれよォ?』
「好き勝手喋りやがって。…だがノッた。降りてやる。」
登ってきた歓声は、ついに餌が食えるという大将の心持ちを表していた。追いかけっこに疲れてもいたのだろうか、ひょっとしたらあの気の立ち様、執念深く彼だけを追いかけ続けていたのかもしれない。なかなか個性的だ。やつになら食われてもいい、と思ったのかどうかは表情から窺い知ることは出来なかった。
トカゲが左右から迫る。ついに血の出どころである男を嗅ぎつけ、走り寄ってきたところである。が、男はそのまま掴んでいた晶石に体重をかけてへし折り、真下で待ち構えていた熊に向かって頭から落下していく。大口を開けて待ち構える愚か者だと男は嗤って、見様見真似で傷の小さい脚を振り子にして上下を逆転。手の傷を覆っていた左腕のハンカチに折り砕いた晶石を挟み込み、ダメ押しに避けた右手をも添えて鋭利な先端を突き刺す。口の中からではなく、鼻先を掠めながら左目に吸い込まれていく。
『ぎ、ッッ、ぉ、』
「ッッッ……!!!」
落下の勢い、重力運動に加えて、ダメ押しに添えた右腕に体重を載せた。一瞬で深々と突き刺さる水晶の質量。感覚の薄れた腕全体に伝わる肉の潰れたような、不快な感触が痛快ですらあった。
『ッッ、ぐ、ぅおおおおおおぉおーーーーーっっ!!??』