第二話 村での暮らし
新たな身体の意識が世界を認識したのは、恐らく子どものとき。三、四歳くらいだったろうか。
赤ん坊の時は何が何やら訳がわからず、知覚も出来ないまま過ぎて行ったように思う。なぜなら、覚えていないからだ。
何となく他の子どもの遊びに混じれず、静かに過ごしていることが多かったように思う。
そのためか大人受けは良かった。
しかも、容姿が優れていた。鏡らしきものが見当たらなかったので、水面に自分を映して観察してみたところ、なるほどこれはちやほやされる訳だと納得。
麦わら色のゆるく波打つ髪、深みのある碧眼は光の加減で色が変わる。整った顔の作りは、将来美人になることが約束されているように思えた。
このせいで何故か女児には嫌われ、男児には好かれたが、正直精神年齢的に見ても対象外すぎてどうでもいい。そのため、嫌がらせがあるかもしれないと仮定し、何かいたずらが仕掛けられていないか少し注意すればいい。
そんな日々だった。
ちなみに名前はイリス・ティファート。
瞳の色にちなんで、女神さまの名前がつけられた。花の神様の名前だ。あの場にいたかどうかは分からないが、皮肉な話だ。
そんなイリスが強制的に転生させられたのは、中世より少し前くらいの欧州とよく似た小さな村だった。床は土間だし、家も村人で建てるからか、隙間だらけだったりして、おおよそ快適とはいえない暮らし。
それでも、両親はとても優しくておおらかで、村人も悪人などいない。
農耕と牧畜で細々と暮していた。
気候もそれほど厳しくはないし、水も豊富。
いちいち汲みに行かなければならないのが苦労だが、清潔な水があるのは本当にありがたい。食べ物も素朴だったし、量も少なかったが、概ね生きて行くのに足りる程度にはあった。
領主が鬼畜じゃなかったからだろう。
美しい風景が広がる中には、獣も沢山いた。まあ、獣以外の魔獣やら獣人やらもいたわけだし、時々山に入った村人が帰ってこないなんてこともある。
魔物は普通にいたが、定期的に神殿の人々が見回りに来ては結界を張ったり退治していったりしてくれる。神殿というのが生活していくうえで、ものすごく大切な場所になっていた。
月一回程度、近くの神殿に供物とお弁当を持ってお出掛けするのが、皆の楽しみだった。
まあ、道中獣だ魔物だ山賊だに出くわさなければ、だが。
運が良ければ、巡回してくれている神官たちと一緒に行けることもある。そうすればもう道中の安全は大体確約されたものと同然だった。
それに彼らと話をすることでようやく現状を把握することが出来るのだ。
何しろ小さな村だ。全くと言っていいほど情報が入らない。新聞もない。ラジオさえない訳だ。時折村を訪れる旅人や、大道芸人、吟遊詩人、そして神官たちの話を聞くことだけが唯一の情報を得られる機会。
そして、結論として先ほどの中世くらいだろうかという結論に至った訳だ。状況としては日本だと戦国時代のような感じだろう。
あちこちに小国が興ってそれぞれで戦っては領地を広げている最中らしい。日本と違ってどこも地続き。国境などあってないようなものだ。
少し情勢が変われば、すぐにでも書き換えられる。
全く、嫌なところへ生まれさせられたものだ。
頑張り甲斐があるだろうとでも言わんばかり。光しか見えなかったので顔は不明だが、光に向かって文句を言いたい。
――大体、神々とやらは私を哀れんで転生させた訳だよね。だとしたら、そこそこ生活に困らない程度の場所に生まれさせてくれたって良いだろうに……。
「まったく、訳がわからない」
ぼやいて、イリスは今日も自分に課せられた仕事をする。
水汲みだ。
家から近くの沢へ、重い木のバケツを持って何往復もする。しかしこれをしなければ飲み水もないし、家畜にも飲ませられないし、畑にまくことも出来ない。
「もう少し暖かければ、水浴びできたのにな」
唯一の特権といえばこっそり綺麗な水で沐浴できるということか。まだ寒いので、布で拭くくらいしか出来ないが、何もしないよりはましだ。まあ、誰にも見つからないようにしなければいけないので大変だが、汚いのはきつい。
服は簡単に変えられないが、せめて身体は綺麗にしたいところだ。
時々淡い緑の草花が春を告げる小道を歩きながら、沢へ向かう。
小鳥が舞い、木々には小さな蕾が見える。
その内野草がもっとたくさん摘めるようになるだろう。さらに時期がくればベリー類が楽しみだ。採集しながらこっそり食べる。これが最高に美味しい。
ようやくうっとうしい冬も終わるなと思いながら沢に辿りつくと、まずは水を飲んでから、バケツに汲む。一度は持ち帰って、それから汗を拭こう。
そう考えて沢から離れて歩き出すと、不意に見慣れた少年が現れた。
ぼさぼさの茶色の髪に、そばかすの散った顔。
大きな目はこちらを食い入るように見ており、頬は薄ら上気している。
イリスはまたか、と心の中で呻いた。
「おい、貸せよ。俺が運んでやる!」
「自分で運ぶからいい」
すげなく言って歩き出すと、バケツをもぎ取られてしまった。非力な己が恨めしい。まだ十歳では十三歳に敵わない。しかも相手は男。
恩寵とやらで綺麗な容姿と、丈夫な肉体に生まれさせてもらったらしく、この程度の重さは大したことがない。ろくに重いものを持ち上げられなかった前世の非力さに比べればかなりの御の字だし、今の所病気ひとつしたことがない。
つまり――助けなど要らない。
イリスは半眼で彼――ベルントを睨み、言った。
「また怒られるよ? 返して」
「いいから、行くぞ」
「ちょっと!」
声を掛けても彼はずんずんと進んで行ってしまう。困った。
ほんの数日前にも同じことをされ、ふたりまとめて怒られた。
――いくら私は断ったと言ってもだめだったし。何であいつの親にまで怒られなきゃならないんだか。と言うか、どうして性懲りもなく同じことをするんだ。いや、意味はわかってるけど……。
どうやらあいつはイリスの気を引きたいらしい。
そんなことをされてもイリスとしては迷惑極まりないし、また村の女の子に陰口を叩かれる。あんな風だが、彼は意外に女の子にモテるらしい。
興味はないが、情報は狭すぎる村なので勝手に入ってくる。
イリスはさてどうしたものか、と考え、近くにまだ何かの実が残っているのを見つける。確か、あれはコフの実。酒に漬けても良いし、乾燥させて種子を粉にすればスパイスみたいになる。
売れば、実は結構高い。
よし、あれを少し摘んで行こう。
いい手土産になる。
いそいそと木に近づき、トゲに気を付けながら実を取る。
「お~い、何してんだ! 行くぞ!」
「はいはい」
ため息をつきつつ、イリスは手早く残っていた実を摘み、ベルントの後を追った。
◆
「あの、私は断ったんです。でもベルントが助けてくれると言うので……甘えちゃって。これ、見つけたのでよければ……」
イリスは大きな碧眼をうるうると潤ませ、案の定自分の仕事を放りだして来ていた少年、ベルントの母親にすぐさま手土産を渡した。
母親は一瞬虚を突かれたように黙り、イリスの手のひらの上に載せられた布に包まれたものを見る。
「これ、コフの実かい? いいのかい、こんないいものを貰っても?」
「はい。いつも手伝って貰っているので。私、こういうの見つけるの得意なんです!」
たっぷりの笑顔。子どもの笑顔と言うのは破壊力が高い。うまく利用すれば心証をいくらでも良く出来るとここに至って気づいた。
前世の子ども時代には考えもつかなかったが。
それに、こういう草花を見分ける力は本当に高い。なので、わが家にはこういう買えば高い系の実がいっぱいある。時々来る物売りといい品を交換するとき重宝するのだ。それもあって、母はイリスに水汲みをさせている。ついでに何かあったら採って来てねというのは、送り出される時にいつも言われる言葉だ。
ただし、これも恩寵かと思うといいのか悪いのか訳が分からなくなる。だが、とりあえず使えるものは使う。これもこちらに来て学んだ事だった。
「そ、そうかい。何だか逆に済まないねぇ……全く、それに比べてお前は!」
「だ、だって困ってたら助けないと。こいつ力なさそうだし、かわいそうじゃんか!」
いいえ、お気持ちだけで結構です。
イリスは内心そう思いながら、喧嘩する親子を微笑ましく見る。
「それじゃあ、私は戻りますね」
「ああ、悪かったね」
「また困ったことがあったら言えよ!」
特にない。かといってここで波風を立てる必要はない。
「ありがとう」
それだけ告げて、イリスは家に向かう。途中まで持って来て貰った水の入ったバケツを手に、ほんの少し先の家へ。
そこには、面倒を見ている鶏や山羊がいる。
「今日は卵あるかなあ」
呟きつつ、今日は怒られずに済んだことに安堵した。
小さい問題はたくさんあるが、穏やかな日常。旅人の話では近く戦があるらしいのだが、柔らかみを帯びはじめた風からはそんな感じは全くしない。
何より、戦になど巻き込まれたくない。
前世だって事件に巻き込まれた事さえないのだ。
人の死は見てきたが、殺すだの殺されるだのといった事とは全くの無縁。そんなことになったら、どうなるのか。考えたくもない。なのに、不安だった。
イリスはそんな思いを振り払うように頭を振ると、足を動かすことにした。
◆
その予感は、最も悪い形でイリスとこの村に降り掛かる事になる。