第九話 幼き子の涙
「これを、ご覧ください」
そう言って、村長が差し出して来たのは一枚の羊皮紙だった。そこには血文字で「これから、村に生贄を要求する。旅人でも構わない、十日に一人森へ送り込めと。出来なければ、村からひとりずつ攫う」と書かれていた。
羊皮紙から初めて見る黒い炎のような力を感じ、イリスは眉をひそめた。
どうやらこれを書いたのはただの魔物ではないらしい。しかも炎の種類が二つ見えている。と言うことは魔物は一匹ではないのではないか。
そう思いつつ成り行きを見守る。
どちらにせよ、この話が終わらない限り服の替えなどの話にもならないし、魔物退治をどうするのかという話も始まらない。
知識の無さが情けないが、ここは大人しく座っているのが正解だろう。
などと考えていると、それまで話をアドリアンに任せていたトビアスが剣呑な顔をして言った。
「まさか、生贄を差し出したんですか?」
「……最初から、そうした訳ではないのです。結果的にはそうなってしまいましたが、村一番の力を持つ者が最初に犠牲になりました。次からは、病で先が長くない者が自分が行くと……ですが」
「差し出したんですね」
「はい。何人か……旅人も混ざっております。しかし、そうするしか、我々に生き残る道は無かったのです」
苦悶の声。
とは言えどうしようも無かったのは理解出来る。出来はするが不快な気分はどうしようもない。イリスは飲み干した白湯のカップをテーブルにそっと戻して、隣のトビアスを見やる。
激高しているようだ。
それはそうだろう。だが冷静になって考えてみれば、この力のない人間たちが簡単に人を食い殺すような魔物から生き延びるには、その選択肢しかなかったのだろう。生贄を差し出しつつ、巡回神官が訊ねて来てくれるのを待つ。
全滅を避けるという点では正しい。
「状況はわかりました。では……」
話の続きをしようとしたアドリアンに、トビアスが言った。
「今すぐにでも行きましょう! 魔物は森にいるんですよね? だったら!」
「落ち着け。まだ情報が足りない。何の魔物なのかも分からないんだ。亡くなった人の状況や傷の様子など、聞きたいことがまだある。それに今日は私たちも疲れているんだ。強力な魔物だった場合どうする? 万全の態勢で臨むべきだ。もしも私たちが返り討ちにあえば、この村はどうなると思う」
静かだが断固とした声音で告げるアドリアン。
トビアスは拳を震わせ歯を食いしばって耐えているようだ。今すぐにでも魔物をボコりに行きたいのだろうが、イリスとしてもアドリアンに賛成だった。
「く、わかりました」
「そういう訳です。我々はまず情報を集め、休息をとって退治に向かいますが、それでよろしいですか?」
「はい。あまり大したもてなしも出来ませんが、せめて温かい食事と寝床はご用意出来ますので、どうかお使い下さい」
村長は少し安堵した様子で言った。
もしかしたら受けてもらえないとか考えていたのだろうか。少なくとも、ここまでの話で村から出たら襲ってくることは分かっているのだから、どちらにせよ戦うことになったはずだ。だとしたら、村長が恐れているのは神殿による断罪だろうか。やはり罪の意識はあったらしい。
「あの、神官様……我々の犯した罪は、やはり……」
「犯した罪? 魔物に脅されてやったことでしょう。私達の仕事はあくまでも人間を襲う魔物やそれに近い存在への対処ですから、神殿があなた達を罰するなどということはありませんよ」
村長はさらに気の抜けたような顔になり、すっかり冷めた湯を啜った。なるほど、やはり神殿による断罪を恐れていたのかと納得。
「それにもし、私達に何かあった場合でも責任はありません。ただ、そうなった場合お願いがあるのですが」
「はあ、何でしょう?」
「他の巡回神官が現れるまで、その子をここで預かって頂けないでしょうか?」
「ああ、なるほど。わかりました。もしも何かあった場合はお預かりします」
村長がイリスを見る。
そうなった時の事を考えているのだろう。
だとしたら、イリスが真っ先に生贄にされるだけだと思うのだが、その事にアドリアン達は気づいていないのだろうか。
不安になってきた。
――と言うことは、もしもトビアス達が負けるようなことがあれば、自分の力で魔物とやらを倒さなければならないのか……。
まあ恐らく可能だろう。
無駄に大量の神々に愛されたこの身が簡単に死ぬはずはない。もしも今ある力で足りなければ、祈り、願えばいい。追い詰められた時、神々の誰だかが現れて状況を打開する力をくれる事だろう。
そう、追い詰められた時に。
イリスは自然と渋面になった。
それを見たトビアスが背中を優しく叩いてきた。
「大丈夫。僕らは負けないから。ちゃんと君を神殿に連れて行くと約束する」
「はい、信じます」
嘘だがそう言っておいた方が色々面倒がなさそうだ。それに、そうであることを心から願いたい。トビアス達が勝てさえすれば何にもせずに済むのだ。その後村人から感謝され、次の日には神殿を目指す旅に戻れるのだから。
「そうだ、その子に合いそうな服はありませんか? 色々あって汚れているのですが、替えがないもので」
「おお、それは大変だ。お前、何か見繕ってやりなさい。無ければ村の者にも声を掛けて、一着用意させるんだ」
「はい、わかりました」
荒んだ目をした中年の女性が私を手招きする。
よし、これでようやく血の匂いのする服からおさらば出来る、そう思って椅子から下りた時、勢いよく後ろの戸が開いた。
「神官様!」
少し舌足らずな子どもの声がした。
訝しげに振り向けば、イリスより三つ四つ幼い子どもが、大きな目に涙を一杯ためてそこに立っている。随分と愛らしい子どもだ。
癖の強い金髪に、やや青みを帯びたエメラルドグリーンの瞳。肌は白いが健康的。病的な印象を与えがちなイリスには少々羨ましいところ。
服は至って普通の木綿の貫頭衣に皮を継ぎはぎしたワンピースのような服を重ねるという、この世界の農村などでは一般的なものだ。
「神官様! おとうさんの仇をとって、おねがい!」
幼いその子どもは、近くにいたトビアスの神官衣の裾にしがみつくと叫んだ。トビアスは突然のことに驚いていてすぐに反応出来ないでいる。
「エルナ! 来るなと言っただろう!」
集まっていた村人の一人が怖い顔をする。しかし、エルナと呼ばれた子どもは首を激しく左右に振りながら叫ぶ。
「だって、どうしてもわたしがお願いしたかったの! おとうさんは、みんなを守るためにひとりで森に行って、帰ってこなかった。そしたら、魔物に食べられたって、だから」
「うん、大丈夫だよ。君のお父さんをひどい目にあわせた魔物は、僕たちが退治するから。だから泣かないで」
狼狽するトビアス。それでもエルナと呼ばれた子はずっとしがみついている。このままでは今日中に服を変えてもらえないのではないか。
そう考えたイリスは、その子のところへ行って頭を撫でてやった。
「大丈夫。この人たちならちゃんと退治してくれるから」
これで少しは泣き止んでくれると良いのだが、と思いながら優しく声を掛けると、今度はこちらに抱き付いてきた。随分と人懐こい子どもだなと思う。
見知らぬ他人にここまで接触してくるとは、珍しいのではないか。
イリスなど前世でも今世でも知らない大人にはついていくなと言われていた。何より、知らない人間ということは信用ならない人間だということでもあるのだから、本当に驚きだった。
恐らく、イリスの外見が子どもだからだろうと理解する。
そうでなければおかしい。
「ほんと?」
「本当本当、この人たち強いから、だいじょうぶ」
多分、という言葉は飲み込んで無理矢理笑顔を作ってみせる。するとようやく彼女は静かになった。よし、これで服をと思って中年の女性の方へ向かおうとすると、ぐい、と引っ張られる。
何だと思えば、子どもが腕をしっかり掴んで離さない。
強引にはがすのも気が引けてトビアスを見やれば、微笑んでいる。
微笑んでいないで助けて欲しいのだが。
「やっぱり、歳が近い方が話しやすいんだね」
いや、全く近くはないのだが……と思ったのだが、イリスの魂や精神部分について知っている者は基本的にいない。頭がおかしいと勘繰られるのは嫌なのでずっと隠してきたのだ。
どうしたら良いものか。
途方に暮れていると、女性がため息まじりに言った。
「仕方ないね。じゃあ一緒に来な……その代わり、あんたもその子の服を直すのを手伝うんだよ」
「はい、わかりました!」
礼儀正しく答えた子どもは、イリスが見ているのに気づくと嬉しそうに笑った。これは、懐かれたのか。困る……困るが服は替えたい。
イリスはしばらく逡巡し、もう一度無理矢理に笑顔になって言ったのだった。
「じ、じゃあ一緒に行こうね」
「うん」
嬉しそうに返される。
ああ、こういう時一体どうしたら良いものか。
前世では一人っ子だったのだ。ゆえに小さい子の相手などどうしたら良いか分からない。しかも、先程の叫びを聞くに、父親を魔物に殺されているようだ。そんな小さな子どもを無下に扱うのは流石に人としてよろしくない。
そんなクソ人間に成り下がるつもりはない。ないが――。
誰か教えて欲しい。
どうしたらいいんだ?