序章 その神子の日常
良く晴れた朝、一面の緑に染まる丘陵地帯の中に、ぽつんと佇む巨大な白い建物があった。そこに続く石畳の道には、かなりの数の人々が集っている。
全員、ごくごく普通の人々。
時折、貴族階級も入り混じっているが、その大半は普通の人や貧しい人々だ。それも、どこか皆具合の悪そうな者が殆ど。中には怪我人を背負っていたり、複数の人間の手で運ばれている者さえいた。
その群衆のほとんどは怪我人か病人か、彼らを介助する者たちだった。
彼らは一心不乱に白い建物――神殿を目指していた。
やがて、重々しい音と共に、神殿の巨体な扉が開かれる。
入り口には、全身を白い衣で覆い、手には殺傷力の低い槍を持った若く鍛えられた門番役の神官兵たちが立ちふさがっている。
彼らはすぐさま声を張り上げ、前の者を押さないようにと言うが、誰よりも先に神殿へ辿り着いて一番に治療を受けたいと願う様子の人々は言うことを聞かない。
「ああ、今日もだめか!」
「諦めるな! 少しでも順番を守ってもらわないと、治さなきゃならない人間が増えるだろ」
「だけど! どうしようもな……! あぁぁあぁぁっ」
若い神官が人波に飲まれた。
これもいつもの風景だった。
そして――。
「どけどけ! ここにおられる方をどなただと思っている。子爵様だぞ! お前らよりも真っ先に治療を受ける権利がある!」
何やら甲冑に身を包んだ偉そうな兵士が声を荒らげた。
それだけではなく、持っていた槍まで周囲にいただけの民衆に突き付ける。
「何だと! こっちは死にそうなんだぞ、順番は守れ!」
「そうだそうだ!」
「神殿の決まりにもあるぞ!」
民たちが口々にゴテゴテと飾られた赤い馬車に向かって抗議の声を上げる。
「この、たかが民草の分際で……!」
兵士はそう言い放ち、槍の柄で叫ぶ者たちを殴り倒そうとする。
「あ、こら!」
それを見つけた神官が止めようとするが、距離があり間に合わない。暴力を誰もが想像し、固唾を飲んだ時だった。
突然突風が吹き荒れ、兵士がその場に転ぶ。
続いて、上から声が降ってきた。
「ここは癒しの神殿。人を治す場所、人に暴力を振るう場所ではありません」
静かで落ち着いた、少女の声。人々が驚いて目を上へ向けると、そこには露出のほとんどない白い神官衣に身を包み、上空で静止する存在があった。
彼女は恐ろしいほど整った容姿をしている。
転んだ兵士を冷たく睥睨する様は、人ではない超常の存在のように彼女を見せていた。
ゆるく波打つ長い白銀の髪。血色の薄い白い肌。光の加減で薄青にも深い青にも変わる切れ長の瞳。背はそれほど高くなく、体型も至ってすらりとしていて、飾りも最小限。
だと言うのに、彼女は異彩を放っていた。
「あ、ああ、恩寵の神子様だ!」
群衆から声が上がる。
そこへ来て、ようやく馬車から壮年のやや痩せて目の飛び出た男性が顔を出した。そのまま戸を開けて、まろぶように外へ出る。
「おぉ、おお! 神子様! 私の所へ自らいらして頂けるとは! なんという方だ。私めは、ダルデンヌを治める伯爵……」
神子はすっ、と手を出しそれ以上の口上を止めさせて言う。
「神官兵、そこの者をいつもの場所へ案内して差し上げろ。皆様の迷惑だ」
「は、はいぃっ!」
何とか群衆からはい出て来た神官兵が急いで子爵達に声を掛けて、別の方向へと誘う。子爵達はやや不満そうな顔をしつつも神官に従った。
「全く、神殿の決まりを知っていてどうしてああいうことをするんだか。本来なら追い出したいところだけど、そうもいかないし」
小声でぼやいてから、少女はため息をつき、改めて眼下の民衆に向き直る。
「お騒がせ致しました。ご迷惑をお掛けしたお詫びに、癒しの歌を皆様に捧げましょう」
少女はそう言って歌い出す。
どこの国の言語でもない、神が使うとされる言語で、祈りの言葉を紡ぐ。優しく流れる声は神殿の前広場全体に行き渡るように広がっていく。
「何だか、体が楽だぞ……」
「疲れが消えていくようだ」
「見ろ、擦り傷が治癒したぞ!」
人々がざわめきだす。
少女は少しの間歌い続けた。ほどなくして歌が終わると、告げる。
「それでは皆様、危険を避けるためにも順番をお守りになって下さいね。今日中に診られない方には宿舎もございますから、慌てないで。では後程お会いしましょう」
どこまでも穏やかな笑顔ですべての人々を見渡し、少女はゆっくりと神殿の方へと飛び去って行く。
残るのは、歌の余韻と感動だ。
少女は途中で振り返り、その様子を満足げに見やると小さく嘆息する。
「一か月に一度だけ解放する決まりだから仕方ないけど、しばらくは休めそうにないかな。その前に、あのお貴族様をどうにかしないと」
美しい顔を面倒くさそうに歪め、半眼になると、少女は神殿の大きく開け放たれた窓から中へと入る。
中はシンプルながら荘厳な作りで、どこもかしこも白く、時々金で模様が描かれている。廊下には絨毯が敷かれ、何人もの神官が行き交っていた。
その中に、見慣れた小さな影を見つける。
まだ十歳程度の幼い女の子だ。
赤みの強い金色のふわふわ髪に大きな緑色の瞳。まさにこれこそ汚れの無いといった形容詞が相応しい存在もいないだろう。
「お帰りなさいませ。結局、今回も出て頂くことになっちゃいましたね」
「そうね。仕方ないかな、だってあの人たちはほとんどが私目当てな訳だし。とは言え、他の神官たちで十分対応出来るものがほとんどなんだけど」
「ですよねぇ、わざわざイリス様に診て頂くほどひどい方は少ないですし、そういう方がいれば他の神官達がじぶんたちの手に負えないからとお願いしに来ますし、でもあの貴族は厄介そうですね」
「そうね、だから行くの。お説教しにね。ああ、貴女にはこれから私が診なければならない方々のお世話をしておいて貰えると助かるわ」
「はいっ! おまかせくださいっ!」
綺麗な瞳をきらきらと輝かせ、彼女は仕事に向かった。
「さて、行きますか」
少女――イリスはうんざりした声で言って、神殿の賓客室へと足を向けた。
◆
この巨大な神殿はいくつかのブロックに分かれている。
祈りの場である祭壇が置かれている一番目立つ巨大な塔。すぐ近くに神官たちの宿舎と、女神官たちの宿舎。清めのための泉の湧く場所。そこに隣接するように、畑が広がっている。他にも鍛錬場やら、小さいが浴場と図書室もある。
さらに、神殿は親を亡くしたり、捨てられたりで行き場を失くした子どもを預かったりすることもあり、彼らのための宿舎というものまである。その中から新しい神官を教育するため、小さいが教室のような場所さえあった。
それ以外にも細かい儀式に必要な施設が散在しているため、回るだけでも半日はかかる。
そして今、イリスが向かうのは怪我人や病人を診るための建物だ。
ようするに病院のようなものなのだが、クリニック程度の広さしかない。とは言えそれで一応事足りる。特に怪我程度なら、簡単に治せる。治療が終わればお帰り頂けばいいのだ。
何しろここ、治癒の神を祭る大神殿は、この神に仕える中でも、選りすぐりの者たちが集められている場所なのである。
もちろん、イリスもその一人。
ただし、イリスは色々と規格外ではあるが。
やがて、建物に近づくと集まっている人々から声が掛かる。にこやかに手を振り返して、混乱が起きないように立っている見張りの神官に挨拶すると、イリスはさっさと中へ入る。
そのまま奥へと向かい、やはりいた見張りの神官に挨拶して中へ入る。
ここは本来なら王族など、他の人々と混ぜると面倒なことになる人々のための場所だ。神殿では貴賤は問わないのがルールなので、あくまでも治療の円滑化のために作られた場所である。
そのため、室内は他の場所より広く、明り取りの窓も大きく作られていて、風通しも程よい。冬には暖炉もあるし、鎧戸を下せば他者の目からも隠される。
きちんとした寝台も設えられているし、飾りこそ大してないものの、とても快適な部屋だ。
そこでは先ほどの貴族が苛立った様子で待っていたが、気にもしない。そもそも、見るからにイリスの手が必要な感じは受けない。
長らく放蕩を繰り返した結果、内臓を病んだのだろう。そういう場合は、薬草と法術を組み合わせた長い目の療養が一番だ。
「おお! いらして頂けたのですな。おい」
貴族は何やら手を打ち鳴らし、一抱えもある箱を持って来させる。
「……これは?」
イリスは眉をひそめ、病のせいで肌が浅黒くなっている貴族を見た。
「何、手ずから見て頂くのです。こちらの気持ちですよ。是非お受け取り下さい。あくまでも、気持ちですからな」
「……必要ありません。お布施は我が神に捧げなさい」
「もちろん! そちらもぬかりなくご用意しておりますとも。ただ、恩寵の神子様においては、我々の名を覚えておいて頂ければ、と」
ようするに、賄賂か。
自分たちだけ特別扱いしろということか。
脳裏に不愉快な記憶がよみがえり、イリスは嘆息した。
「そのような行為に出られるのなら、お帰り下さい。そして、お近くの神殿を頼り下さい。あなたの病状であれば、それで回復するでしょう」
「なっ、これでは足りないと?」
そういう訳ではないのだが、困った奴だなとイリスは嘆息する。
「な、ならば! 今度我が家に伝わる調度を寄贈しましょう。お願いです、どうか貴女様のお力で私を直して頂けませぬか?」
「貴方の病は、我々バルドテウス神殿と薬師組合の協力でなければ治らないのです。それでも、どうしてもと仰るのなら、治して差し上げますが?」
「無論、貴女様に治して頂きたいのです!」
「……わかりました」
そう告げれば、貴族は端願して何度も何度も礼を言う。しかし、同席していたなじみの神官兵が苦い顔で言った。
「イリス様、おやめになられて下さい」
「ここまで言うのです。それに、私なら一瞬で治して差し上げられる。こんなに沢山の寄進も頂けるというのに、頼みを受けないのは失礼では?」
「ですが!」
それ以上言いつのろうとした神官兵を、イリスはひと睨みした。それで、彼は喉をごくりと鳴らして黙り込む。彼が黙認したのを認めると、イリスは今だ礼を述べる貴族の額にすっと人差し指を当てる。貴族は礼を言うのをやめ、こちらを凝視してくる。
その淀んだ目を見ながら、イリスは言霊を紡ぐ。
「我が神よ、力を貸し給え。その温情熱き御心のひと雫をこの者に与え、この者の身を清め給え」
その瞬間、貴族の体が黄金の光に包まれる。
ほんのひと時。ただそれだけで彼の顔色は良くなる。彼は驚きに満ちた様子でこちらを見やると、恐る恐る立ち上がる。今まで痛みによって動かなかったであろう体は、恐ろしく軽くなっているはずだ。
「おお! おお! 何と素晴らしい……有難うございます。有難う!」
「いえ、多額の寄進。ありがとうございます。それでは、今後とも良き人生を」
イリスはそう言って踵を返す。
それから、入り口にいた神官兵に目を向け、
「あの寄進を奥の金庫へ持って行っておくように」
と命じると退室した。
「……はぁ、まあいいか。これで増えた人員分の服が賄えるし」
呟くと、先ほど部屋にいた壮年の神官兵が追ってくる。
イリスはその場に立ち止まり、自分より頭二つは背の高い彼の苦りきった顔を見つめる。白髪の混じる茶色い短髪。神官衣は鍛え上げられた肉体を隠し切れず、威圧感さえ覚える。
しかし、イリスにとっては大した脅威でもない。
「アーロン。どうかした?」
「本当に、あれでよろしかったのですか?」
「よろしかったですよ。ここの所戦が多くて、孤児だらけだから。こうも戦ばかりだと嫌になる。魔物の脅威だってあるというのに。それに、金はある所から取っておかないと取れないから」
「そうではなく!」
彼が言いたいことは分かっている。
イリスは特に顔色を変えることもなく答える。
「治療に残り少ない寿命を使ったこと? そんなことを気にしていてどうするの。いくら心を砕いても、ああいう輩は恐らくまた民草に重税を課して、その金で戦争を起こし、さらには餓死していく彼らから奪い取った作物で自分たちの腹を満たす。長生きさせていいことなどないでしょう」
「それでも、あまり良いことでは……」
「病はきちんと治したし、寿命も治療費のひとつでしょう。悪いことをした訳ではないし、話を聞いて、あの者の願いを叶えてやった。それだけ。
それに、金ごときで命が買えるなどと思っている輩に、慈悲は必要ない」
そうでしょう、と言いたげにイリスは微笑んだ。目は全く笑っていない。綺麗な顔だからこそ、その笑顔が恐ろしい。
アーロンは一瞬詰まり、そら恐ろしいものでも見たように身を固くすると、
「申し訳ありませんでした」
と謝罪し、仕事に戻っていった。
イリスは笑みを消してその背を見送り、自分もやらねばならない仕事へ向かう。
そう、人なんて、いつどんなキッカケで死ぬか分からない。
経験上それだけは分かっている。
思い出したくもない嫌な経験だが、記憶が残っているのだから始末に負えない。そう、そもそもイリスがこの世界に生まれたこと。そこから全てが始まっている訳だ。
望んだわけでもないのに、ここで生きなくてはならない。
「全く、忌々しい」
吐き捨てるように呟いた言葉は、その場にいた誰の耳にも届くことはなかった。