第五章 ただいまを言う前に
◇第五章 ただいまを言う前に
この一月に関わった一連の事件から解放されるまで、五日はかかった。結果だけ見れば一人の犠牲者も出さずに、未曾有の大災害をもたらしうるウイルスを退治できて、万々歳で済むのだが、いかんせん過程がまずかった。命令違反を繰り返した沢辺さんと僕は厳しいお説教と反省文の提出、一週間の停職が課せられた。
そして司令部の制止を振り切ってダイブを強行した小春さんは、更に重い処分が待っていた。一ヶ月の停職および一年間減給、これでもまだ上司が庇ってくれた結果であって、クビになる寸前だったとかなんとか。
「一ヶ月休める! やったあ、何しよう? とりあえず家の掃除して……それから髪切って、新しい服買って……悩むわ」
とはいえ、処分が決まったときの小春さんの反応はこんなものだったけど。あんまり出世に興味のない人とは言え、懲戒処分を食らった時の反応だろうか、これは。
強面のおじさんたちのお説教を適当に聞き流し、夏休みの読書感想文を思い出しながら反省文をちょちょいと書き上げ、フラメア病研究者から今回のウイルス騒動について細かく聞き取りをされて、後、おばさんに「何、無茶してんのよ馬鹿夏樹、お詫びはおばさんのお小遣いの増量で! あとごちそうを作りなさい! とにかくおばさん孝行しなさい!」としこたま怒られ、山のような買い物に付き合わされ……それから細々とした調べ物をしたり……となんやかんやしている内に、五日過ぎていた。
透河さんの見舞いに行けたのは、事件から六日経ってからだった。
ウイルスを退治したとは言え、いかんせん特殊なウイルスだったから、経過を見るらしい。それに首の傷もまだある。退院はもうしばらく先になる、と沢辺さんが教えてくれた。
透河さんは個室に入っていた。病室の扉に一つだけかかった「沢辺透河」のネームプレートを確認して、ノックをする。「桜木です」と告げると、返事があった。
「どうぞ、中へお入り下さい」
電話口で、そして精神世界で聞いた声と同じだった。引き戸を開けると、白いシーツのベッドに少女が横たわっている。
パジャマにカーディガンを掛けた格好だった。襟元から白い包帯が覗いており、あの電話の日のことを思い起こさせる。髪は背中の中頃で一つにまとめてくくってある。顔立ちはすっぴんの沢辺さんとそっくりで、目がぱっちりとしていて丸い。ただ病院暮らしが長いせいか、いくらかやつれている印象があり、肌は雪のように白い。
扉を閉めて、向き直ると彼女はにこりと笑った。
「遠いところから、わざわざ足を運んで下さってありがとうございます。……初めまして、桜木さん。姉がいつもお世話になっています」
そう言って、透河さんはぺこりと頭を下げる。僕もつられて会釈を返す。
「初めまして、透河さん。……って言っても、正直あんまりそういう気がしないんだけど」
苦笑混じりにつぶやく。だって、散々電話でも精神世界でも同じ声と顔で喋ったし、初対面というのは変な感じがする。
透河さんは口元を隠して、くすくす笑う。
「ごめんなさいね。私の方は全然、覚えてないんです。ですから、桜木さんのこと、姉から伝え聞いた話以上のことはほとんど知らないんです」
透河さんが笑いながら、「どうぞ」と言って勧めてくれた椅子に腰を下ろす。
「沢辺さんから聞いた話ってろくでもないような気がするんだけど。……変なこと吹き込まれてないだろうね?」
「そうですね……」
透河さんは視線を宙にさまよわせて、記憶の糸をたぐっている様子。
「えっと……その。お金にがめ……いえ、倹約家でいらっしゃるとか、へた……いえいえ、その大変奥ゆかしい方ですとか」
「日本語って便利だね」
モノは言いようということが、この双子を見ていればよく分かる。金にがめついとへたれ、って吹き込んだな沢辺さん、おのれ。
透河さんははっと我に返って、慌てた様子で首を振った。
「ち、違います違いますそういう意味じゃないです」
「そうだね、君は悪くない。諸悪の根元は、君の失礼なお姉さんだな」
申し訳なさそうに、透河さんはしゅんとうなだれる。
「あ、姉も……その、悪意があって言ったわけでは……ないと思うのです」
どう考えても庇いようのないお姉ちゃんを庇うなんて、まあよく出来た妹さんだ。沢辺さんには勿体ない。
ここまで出来ていなければ、今回のような悲劇はきっと起きなかったに違いない。
「今回の事件の経緯、お姉さんから聞いてる?」
透河さんはうなだれた顔を上げる。しばらく僕の顔をじっと見つめていて、やがてこくりと頷いた。
「だいたいのことは、聞きました」
彼女は布団に視線を落としながら、言った。
「桜木さんに電話越しで言ったことも、それから……このことも」
襟元の包帯に透河さんは手を触れる。
「あと……精神世界で、お二人に言ったことも、全部」
「一つ、聞いてもいいかな?」
歯切れ悪く語る透河さんの顔を盗み見しながら、言った。
「僕が以前会ったのは、君を騙るウイルスだったわけだけど……あいつが言っていたことは本当だったの?」
透河さんはなかなか答えなかった。慎重に言葉を選んでいたのか、たっぷりと時間をかけてから口を開いた。
「嘘は言っていません。……そうであったなら、良かったのですが」
ため息混じりに透河さんはつぶやいた。
「命を懸けて私のことを守ってくれた姉に対して抱く感情じゃないですよね。……最低ですよね」
透河さんはそう言って、掛け布団をぎゅっと握りしめる。
僕は軽く肩をすくめた。
「仕方ないよ。感情なんて、自分でも制御しきれるものじゃないから」
「でも」
「君は隠してたんでしょう? 今回みたいな事がなければ、墓の下まで持って行くつもりだったんだろ。それで十分だと思うけどな」
透河さんは答えない。布団を握りしめたまま、固く唇を引き結んでいる。……安易に自分を許すような言葉を受け入れることを、拒絶しているらしかった。
そんな簡単なものじゃないだろう、というのは僕だって分かってる。僕だって、同じ言葉を誰かから掛けられたら、他人事だと思いやがって、と腹を立てるだろう。
けど、僕は他人事のつもりで言っているわけじゃない。
「あのね……僕もね、色々ばれてたんだ。だから、すごい気まずいの、よく分かるよ」
透河さんが目線だけをあげて、僕を見る。警戒心の強い小動物のように、じっと僕を見つめている。彼女の視線を感じつつ、話を続ける。
「僕にも、君のお姉さんみたいな人がいてね。金にがめついただのヘタレにさ、安定した将来とかそういうの全部投げ捨てて、生きろって、死ぬなってずっと訴えかけてくるんだ」
僕は透河さんに、笑いかける。泣き顔の一歩手前ぐらいの、情けない笑顔で語りかける。
「そういう人に、ばれてた。隠しきれてないのは、薄々分かってたけど……もう、僕の思考を覗く穴でもあるのかなってぐらい、ばれてた。……すっげえ、情けないよ。今までもさ、あんまり顔合わせしたくなかったけど……もう本当に逃げたいよ」
透河さんがもう聞きたくないという風に顔を伏せる。
でも、僕は最後まで言いたかった。だから顔を背けてしまった透河さんに向けて、語り続ける。
「けどね、これで良かったんだろうな。彼女には非常に悪いことをしたと思う……でも少しだけ楽になったような気がする」
僕はふうと息をついた。
「傷つけてしまったけど……本当に僕のことを分かってくれてるんだって、理解できたから」
独り言のようにつぶやく。すると、僕から顔を背けた透河さんの頬に涙の滴の跡が刻まれていた。
彼女はそれを手でふき取ると、こちらを向いた。
「私も、なれるでしょうか」
はにかむような笑みを浮かべて、僕に笑いかけた。
僕は頷く。
「大丈夫だよ。君と、君のお姉さんならね」
停職が解けた日の朝、今まで通りの時間に自転車に乗って機構に向かう。信号待ちをしていると、背後からぱたぱたとやかましい足音がする。
「やっほー、なっぴー。久しぶり。一週間のお休みはどーでしたあ?」
振り返るのも煩わしい。七子が勝手に荷台に乗ってくるが、途中で自転車をこぎ出して逃げ出したい気分だった。
「遊んでたわけじゃない」
「へー。じゃ、何してたの? 自宅警備に勤しんでおばさんに煙たがられてた?」
「退職してから、嫁に煙たがれる旦那かよ」
っていうか、むしろ僕がいないとあの家は荒れる。家にいてくれと頼まれたことはあっても、煙たがられたことは一度もない。
「忙しかったんだよ。色々とね」
「ふーん、なっぴーって休み貰うと暇を持て余しそうなのにね。ほら、友達いないから、遊び相手いないし」
信号が変わったので、自転車を漕ぐ。
誰か荷台の小学生だけに追突してくれないだろうか、自転車一台おじゃんになってもいいので。……こいつは冗談抜きで、この世から排除した方がいい存在なのだから。
「お前のことについて、調べてたんだよ」
「うん? そりゃあ、どういう意味かなあ?」
間抜けな口調で、とぼける七子。馬鹿馬鹿しくて、僕は鼻で笑った。
「人間ごっこは楽しいか? ……電話越しと精神世界で、透河さんのふりをしたウイルスはお前だろ?」
車と人の通りはなく、自転車の車輪が風を切る音しかしない。不気味な沈黙がしばらくあって、ようやく七子が口を開いた。
「なっぴーの癖に勘がいいね。どこで気づいたの?」
飄々と七子が言った。まるで、ちょっとしたいたずらがばれた時みたいに悪びれていない。
「良く言うよ。お前、隠す気更々なかっただろうが」
透河さんの精神世界に囚われ、そして解放された日にもっとよく考えれば良かったのだ。……七子はなぜだか知らないけど、僕の家族のことをどうしてだか分からないけど、よく知っていたように、どこで調べたんだろうと思うようなことさえ知っている。そして、恐ろしく鋭い。まるで、僕の精神を残らず読み解く力があるみたいに。
七子との会話の後に起こったことを思い返せばいい。電話での、透河さんとのやりとりだ。あれは、電話に出たのはウイルスで精神世界を直接見聞きすることが出来たから、本物ならば知らない情報を握っていたのだ。
じゃあ、あの七子の言動も同じ理由で説明が出来る。七子と透河さんの振りをしたウイルスが同じ存在だと仮定すれば、何の不思議もない。……それに、異常な勘の鋭さもウイルスとしての精神を読み取る能力だと仮定すれば、すんなりと納得できる。
とはいえ、囚われた精神世界でのやりとりなんて、透河さんとの会話で口にしなければ七子を怪しむ機会なんてなかった。なのに、こいつは愚かにもぬけぬけと喋った。隠す気があったとは到底思えない。
「透河さんに取り付いたウイルスは、明らかにおかしかった。能力的にはあちらの方が遙かに上で、まともにやりあってたら間違いなく僕も沢辺さんも帰還不能だった」
小春さんを説得できたのは、透河さんにとりついたウイルスの異常性を指摘出来たことにある。……よその精神世界にゲートを作り、分身を送り込む。挙句、本人の意識を乗っ取る力を持つウイルスだ。これを組織の方針が変わるまで、放っておくなど愚行でしかない。それこそ、始末書の一枚や二枚で済む話ではない。
あのウイルスのおかしな点はこれだけにはとどまらない。
「狙いは僕らを帰還不能にして、ウイルスの仲間入りをさせることが一番じゃないのは明らかだ。……あいつの狙いは、僕らを絶望させることだった。僕らの心を傷つけることが一番の狙いだった」
赤信号に引っかかって、自転車を止める。そのついでに、背後を振り返る。
「お前とそっくりだったよ。呼吸をするように、人を惑わして心をえぐるお前とね」
七子は笑っていた。唇を三日月の形につり上げ、目を見開いて、不気味な表情で僕を見上げていた。
「名探偵なっぴー、残念ながらその回答では百点はあげられない。五十五点だね。根幹の部分を見落としている。……透河ちゃんをかたったウイルスは確かに死んでいる。何日経過を見たっていいけど、彼女はもうウイルスから解放されているよ」
七子は自転車から降りる。そして腰に手を当て、右手の人指し指を立てる。
「ねえ、君はフラメアのことを知っているかな?」
「フラメア? フラメア病の最初の患者だろ。それがどうした」
フラメア症候群発見者のベルトンの妻でもあった女性の名前だ。
唐突に、何を言い出すのやら。いぶかしんで七子を見下ろすと、彼女は「ちっちっち」と口で言いながら、立てた指を振った。
「やっぱり百点の回答は出ないか。君に探偵の資格はないねえ?」
「御託はいい。……とっとっと百点の回答とやらを教えろ」
指を振る動作が止まる。そして、七子は真顔に戻って言った。
「フラメアはこの世で一番初めに生まれたウイルス。全てのウイルスの母で……今は精神世界の海の一番奥深いところで眠っている」
七子は立てた指で自分の顔を指す。
「私たちは、皆、フラメアの子供たち。フラメアを介して、私たちは繋がっている。だから、確かにあの沢辺透河をかたったウイルスは私とは別の個体、でも記憶と思考を共有している」
七子は腕を下ろし、体の後ろで組む。
「フラメアとその子供たち……私たちの願いはただ一つ。全ての人間たちを滅ぼすこと。それ以外に望むことは何もない」
七子は……いや、七子だと思っていたモノはその小柄な体で僕を見上げる。
「私たちに必要なのは、人類には決して太刀打ち出来ないような強力な同胞。ただ一人でも、そんな同胞が見つかれば私たちの目標は達成されるのです」
フラメアの子供は、澄んだ瞳をまっすぐに僕に向けた。
「桜木夏樹、あなたには優秀なフラメアの子供になれる素質があります。……どうです? 私たちと一緒に来ませんか?」
僕はじっと、自転車の上からフラメアの子供を見下ろした。美しいとまで思えるような、邪念のない澄んだ瞳に吸い込まれてしまうような気がして、顔を背けた。
「適正者だけじゃなくて、ウイルスにまで勧誘されるとはね」
皮肉でも言わなきゃ、自分を保てないような気がした。異次元の会話に、理解が追いついてこなかった。
「それは当然の帰結と言っていいでしょう。適正者とは、優秀なフラメアの子供たちを効率よく生み出すために作られたシステムなのです。言い換えれば、適正者とはすなわちフラメアの子供たちの卵」
ウイルスは僕を置き去りにして、よどみなく話を続ける。
「あなたたち人間は適正者を人類の科学が生み出した武器だと勘違いしていますが、作り出したのは私たちです。適正者とは、私たちの武器なのです」
「……へえ」
額を抑えながら、つぶやく。それ以上の返事は、出来なかった。
頭が痛かった。次々と語られる世界の秘密に、僕は混乱していた。
じゃあ、ダイブマシンの生みの親、すなわち適正者のシステムを生んだベルトン博士もフラメアの関係者と見ていい。資料をいっさい残さず死んだという奇怪な事実も、これで説明されるわけだ。
それから、七子のように人間の顔をしたウイルスは他にもいるのかもしれない。もしかすると機構の中に、その中枢にさえ巣食っているのかもしれない。機構の馬鹿げているとさえ思える、腰の引けた対応の原因はそこかもしれない……? 調査と言うのも、実は形だけで何も調べていないのかもしれない……?
ダメだ。こんな話、聞いてどうする。聞いたって、頭痛の種が増えるだけだ。
僕は七子から目を逸らしながら、顔を上げた。
「ま、僕が知りたかったのは、今回の事件に関係することだけさ。七子と透河さんをかたったウイルスは根っこでは繋がっていた。そういうからくりが分かれば、もう十分気が済んだよ」
信号を見ると、青に切り替わっていた。腕時計を確認すると、このまま七子の頭のおかしな話に付き合うと遅刻する時間だった。
「世界規模の話なんか、僕の手には負えないね。そういう難しい話は、誰か正義の味方に言ってくれよ」
いよいよペダルに足をかけて、こぎ出そうとしたその瞬間だった。
「あなたは母親の死の真相を知りたいのではありませんか?」
ペダルを踏み込もうとして、止まる。片足を地面につけて、振り返る。
七子は相変わらずの感情をそぎ落としたような顔で、僕を見上げている。
「あなたの母親、桜木雪乃は我々の同胞です。フラメアの子供の仲間入りをすれば、自ずと桜木雪乃の記憶も全て手に入ります。あなたが求める真相を知ることなど、容易い」
頭の中が真っ白に、塗りつぶされた。目は七子の澄んだ瞳に釘付けで、耳には彼女の淡々とした声だけが聞こえた。
「それなら、教えてくれ」
唇がまるで誰かに操られたみたいに、独りでに動く。半開きの唇から、掠れた声がこぼれ落ちる。
「母さんがどうして……紅葉を殺して、自分も死んで、それから僕を生かしたのか。お前も、知っているんだろう。それなら……教えてくれ」
七子が始めて表情を崩す。唇をほころばせて、微笑を浮かべた。
「いいですよ。ただし、一つだけ条件があります」
そう言って、小さな右手の人差し指を立てる。
「我々の同胞になること。……今のあなたなら、その資格がある」
七子は微笑を浮かべたまま、続ける。
「あなたと沢辺清河を安易に帰還不能によって、我々の同胞に仲間入りさせなかったのは、理由があります。……世界を呪う力、人間への絶望。素質はもちろんですが、そういった想いの強い人間から生まれた同胞は、精神世界を食い荒らされただけの哀れな患者たちから生まれた同胞とは格が違う」
七子は、いやフラメアの子供は手を差し出す。子供のような小さな手をさしのべ、僕を見つめる。
「今のあなたなら素質も、そして世界へ向ける呪いも、十分です。さあ、人間なんかやめて、こんな生きづらい世界なんて捨ててしまいしょう?」
僕はさしのべられた手を、食い入るように見つめている。
五年前から追い求めていた真実が、この先にはある。
目が離せなかった。さしのべられた手を、僕はずっとずっと眺めていた。
この手を取ってしまえ、と囁きかけてくる僕がいた。これは僕の悲願、そのために今まで生きてきたのだ。自分で言ったことだろう……何故、生きているのか、その理由を知らなければ、生きていても夢のようなものだ、と。本当の生はむしろこれから始まるのだ、だから、この手を取らない選択肢はないのだ、とそいつは言う。
一方で、振り払え、と言う僕がいた。透河さんに言ったみたいに、こんな最低な感情は墓の下に行くまで封じておけ、とそいつは言った。僕がこの手を取れば、どうなるだろう? それを考えてみろ、と僕に促す。
おばさんはきっと、怒り狂うだろう。残された遺産は、金銭的な余裕を与えはするだろうが、心の支えにはなるまい。馬鹿な選択をした僕に憤りながら、残りの人生を過ごしていくだろう。
想像するのが一番怖いのは、白鳥さんだった。彼女は、約束をしている。僕が死ねば、そのあとを追うという脅迫にも近い約束をしている。……残念ながら、約束を違える人ではない。約束通り、僕がこの手を取って人としての死を選べば、彼女だって自ら死を選ぶだろう。
僕がすんなりと手を取れないでいるのは、彼女の存在のせいだった。
すぐでなくてもいい、いつか僕を過去に置き去りして、彼女が幸せに生きていってくれるという保証があるのならば、思い残すことは何もない。僕はこの手を、迷うことなく取るだろう。
でも、そんな選択肢は僕に与えられていない。誰もが幸福な選択肢は、存在しない。
ウイルスの手を取れば、僕を大切に思う人が不幸になる。取らなければ、僕が不幸になる。不完全な人間としての生を続けることになる。……白鳥さんか、僕か。僕が選ぶのは、そのいずれかの犠牲だ。
手を取れという僕も、取るなという僕も、結局僕の一部でしかない。どちらが強いわけでも、弱いわけでもなかった。今、この僕は細い糸の上に立っていて、少しバランスを崩してしまえば、そのどちらかに落ちるだろう、という程度の力関係しかなかった。
決められなかった。僕は白鳥さんのことを大事だとは思っていたけれど、それと同じぐらい大事にしたいものがある。
別に、命なんて惜しくない。ただそれ以上に、尊いものがある。命よりも大事なものを――生きている理由を引き換えにしてでも、彼女を守りたいと思っているのか、僕にははっきりと断定できなかった。
だから、人間なんて滅べばいいのかもしれない。僕は、ふいに思った。人間である以上、悩んで、迷って、苦しんで、何かを犠牲にしなければ存在できない。誰かの想いと望みを、あるいは自分の想いと望みを、いずれかを踏みにじりながら、生きている。その事実がたまらなく醜く思えてきて……ああ、僕がこのことを悟るまで、ウイルスの奴らは僕を放置してきたのか、と悟った。
深い思考の海から、はっと我に返ったのは、後ろからなじみのある声が聞こえてきたからに過ぎない。
「夏樹、七子、おはよう。……二人とも、何してるの?」
足音が近づいてきて、白鳥さんが僕の隣に並んだ。
「えっと……」
白鳥さんの目は差し出された七子の手を,不思議そうに見ている。
七子がさっと手を引っ込める。
「あー、ちーちゃんおはよ! あのね、なっぴーが有り金だしやがれこんにゃろうってカツあげしてきたの、怖かった!」
いつもの腹立つ七子に戻って、くるりと表情が変わる。素早い転身に思わず、七子を二度見していると、腕をぐいっと引っ張られる。
「夏樹、七子いじめたりしてないよね?」
白鳥さんの形のいい眉がいぶかしげに、潜められている。僕は慌てた。
「い、いじめるなんてしないって。むしろいじめられたの僕なんですけど」
「ひどーい! なっぴー、最低! こんなかわいい女の子に罪を擦り付けるなんて!」
七子がわざとらしく頬を膨らませる。本当にかわいい女の子は、自分からかわいいなんて言わねーやい。やっぱり、いつものうっとおしい七子に戻っている。
ぎゃあぎゃあ騒ぐ七子を放置して、白鳥さんは青信号がちかちかと点滅しているのを一瞥する。そして、つかつかと歩き始める。
「二人とも、早く行かなきゃ遅刻するよ」
振り返りもしないで歩いていく。「あー、ちーちゃん待ってー」と七子が駆け出す。……ぽかんとして、二人の背中を見送っていると、白鳥さん振り返った。そして、開いた手で僕を手招きする。
「ほら、夏樹も早く。置いて行っちゃうよ」
そこでようやく、僕は腕時計の時間を見た。
「あ、本当だ……」
今日のオペレーターは小春さんじゃないけど、あんまり遅れると嫌みを言ってくるのは大体どのオペレーターも変わらない。
ペダルを漕ぎ出す。わざわざ振り返って、待ってくれている白鳥さんの元へ、僕は自転車を漕いでいく。
「朝から両手に花で出勤とはいいご身分でしたねえ、桜木さん」
お昼の食堂で、向かい側の席に座っている沢辺が言う。無論、すっぴんではなく、元の顔が良く分からない化粧に、本日は真っ赤っかのドレスがお召し物。このドレス、誰か殺してきてその血で染めたんじゃないだろうかという色合いである。並んで歩くのが非常に嫌だ。
「君、なんか小春さんに言動が似てきたんじゃない?」
ほとんど同じ台詞をいつか聞いた気がする。沢辺さんが眉間にしわを寄せる。
「あんな年増と一緒にするとか、それ私に喧嘩売ってますよね?」
「その前に、まず君が小春さんに喧嘩売ってるよね」
この場にいたら、それは姦しい大喧嘩が始まっただろう。ああ、停職中で良かったかもしれない。
むすっと唇をとがらせて、沢辺さんは頬杖をつく。
「桜木さんって、本当ぐちぐち理屈くさいですよね。うざいです」
「あっそ。光栄ですな、それはむしろ」
うざくて大いに結構である。
はあ、と盛大にため息をつく沢辺さん。背もたれにもたれ掛かって、天を仰いでいる。
「なーんで、透河はもう……」
しかめ面で、なにやらご不満の模様。
「透河さんがどうかした?」
何故にここで透河さんの名前が出てくる。不思議に思ったので聞いてみると、沢辺さんはちらっと僕を一瞥して、そっぽを向いた。
「べっつにー。あなたにはまーったく、何の関係もない話です」
関係なくてもいいけど、まあ他人の神経を見事に逆撫でする声である。……僕も盛大にため息をついてみる。
「双子ってこんなに似ないものなのかな」
「あ? なんか言いましたか、クズらぎさん?」
沢辺さんがぎろっと僕を睨む。おいおい、いつにも増して機嫌悪いな。まるで食事を抜かれた獣みたいだ。これ以上突っかかれてはたまらないので、肩をすくめる。話を逸らすか。
「で、その透河さんの調子はどうなの?」
「順調です。二週間後に退院予定」
スマートフォンを鞄から取り出しながら、沢辺さんが言った。他人としゃべりながら携帯いじるのはどうよって思う派だけど、まあ、それで大人しくなるならいっか。それに透河さんが退院するのは、素直にいいニュースだった。
「もう一回、お見舞い行こうかな。退院祝いになんか持っていこう……彼女好きなものとか、ある?」
「はあ……」
沢辺さんが横目でじろっと僕を見ている。……なんだ、このジト目は。
「あの、沢辺さん?」
まるで不審者を見るような目つきが気に食わない。しばらくすると、彼女はスマートフォンに視線を戻した。
「苺が好きだそうです。……尚、一粒五万円の美人姫が特に好きなんだそうです」
「それ、本当に苺なの?」
そんな高級品、もったいなくて罪悪感に怯えずに食べられる人間が存在するのだろうか?
それはさておき。ちょっと前から、沢辺さんについて気になることがいくつかあった。
「あのさ。……君さあ、適正者になったのって、透河さんがきっかけなんだよね」
「それがどうかしましたか」
沢辺さんはスマートフォンをいじる手を止めない。視線は画面に釘付けのまま。
僕はおそるおそる、今まで聞けなかった質問を口にした。
「透河さん治ったけど、今後も適正者続けるの?」
「続けますよ」
即答だった。沢辺さんはスマートフォンから顔すら上げない。お昼のうどんも伸びるぞ。
「透河が治ったから、はいさようなら、なんて無責任なことはしません。そりゃ人手が余ってるなら、さっさと辞めますけど、全然足りてないじゃないですか。フラメア病で苦しんでる患者さんは山のようにいるんですから、一応三年間続けるつもりですけど」
「透河さん、大反対してるんじゃ?」
「あ、してます。止めろってうるさいです。怒鳴ったりはしませんけど、ねちねち言ってくるんですよ、まったく陰湿な妹です」
画面に忙しく指を滑らせながら、沢辺さんが言う。ちらっと見えた画面は、落ちモノパズルゲームだった。あ、五連鎖してる。
にしても、ずいぶん軽いな。僕は透河さんの苦労を思って、苦笑する。
「大事な妹さんでしょ? 適正者止めろとはもう言わないけどさ、心配してくれる家族の気持ちは考えてあげなきゃだめだよ」
沢辺さんの指の動きが止まる。それと同時に顔を上げた。
「知りませんよ。私はやりたいようにやるだけです。……透河の気持ちなんて知ったことではありませんので」
いっさい、迷いのない言葉だった。……おいおい、その言い方はないだろ。おかげで、僕は面食らって飲もうとした水に咽せた。
「君、すごい自己中だな」
しばらくせき込んでから顔を上げると、沢辺さんはまたスマートフォンに夢中だった。
「そうですか?」
「そうだよ。普通、もうちょい考えるって」
沢辺さんが露骨に顔をしかめた。
「めんどくさい」
「あのね、そういう問題じゃないでしょ」
嘆息混じりにつぶやく。すると、沢辺さんがスマートフォンの画面から視線をあげる。
「そんなに他人のことばっかり考えてたら、息ぐるしくてたまりませんって」
沢辺さんはそう言うと、スマートフォンをテーブルに置く。そして、足を組み直して、椅子にふんぞり返る。
「私の人生は、私のものです。私の命を何に使い、何に喜び、悲しむのか、そして誰を大切にするかは私が決める。……逆に言えば、自分で決められることなんて、ただそれだけです」
沢辺さんは不敵に、そして力強く微笑んでみせる。
「どうせ、他人が何考えてるかなんて、私には分かりっこないんです。そんなもののために、うだうだ悩むなんて時間の無駄です」
「分かったよ。じゃ、君にはもう説教垂れたりしないって」
手のひらを見せて、降参のポーズをする。彼女相手に、僕の話は通じない。馬に念仏を聞かせるみたいなものだ。
「まいったよ。……君みたいに、そうも迷いなく自分を信じられはしない。僕には無理な芸当だよ」
今朝、僕自身と白鳥さんとの選択で、苦しんできた後では、彼女の力強い言葉は羨ましいばかりである。迷って、悩んで、それでも決められない。そんなことを繰り返してばかりいる僕には、到底言えない。
……というか、ここまで断言できる人って、人類全体見渡してもそこまで多くないのではなかろうか? とも思うけれども。
七子の姿を借りたウイルスは言った。適正者は、優秀なウイルスの卵なのだと。
なんとなく、分かるのだ。適正者はわけありばかりで、まっとうな人たちがそろっている集団ではない。世界を呪うような境遇の子供たちも多い。
でも、全員がウイルスの卵にふさわしい子供たちだというわけじゃない。その筆頭が、沢辺さんのように僕には思われるのだ。
透河さんを救えないと知ったときの彼女の姿を、忘れたわけじゃない。けどあれはむしろ例外的な場面で、彼女の本質ではない。……透河さんの姿を借りたウイルスの言葉に惑わされなかったように、きっと本来の彼女は強い人間なのだ。
褒めたつもりだったのだ。しかし、沢辺さんは不愉快そうに顔をしかめた。
「皮肉ですか?」
「違うけど」
心外な、と思った。だが、僕の気持ちは通じていないらしい。
「私だって、迷いますし、悩みますよ。……誤解しないでいただきたいんですけど、そこまで傲慢じゃありません」
沢辺さんは目を伏せた。
「私はいつも、自分のことを信じているのではありません。祈っているのです。……どうか自分の選択が誤っていませんように、と心の底から願っているのです」
彼女の薄く開けた瞳は、どこを見ているのか分からなかった。テーブルに視線を落としているのかもしれないし、あるいはもっと遠くを見ているのかもしれなかった。
まるで、この世ではないどこかを見ているような気がした。不吉な目をしている、と僕は思った。
「ねえ、それならさ……自分が間違っていると確信できていて、でもそうせざるを得ないとしたら? 君の祈りも願いも通じないとき、君は一体どうするの?」
背筋をつたう寒気を、口もとに張り付けた笑みでごまかしながら、尋ねる。
すると、沢辺さんは僕に目をやると、唇を吊り上げた。
「そんな世界は、滅ぼしましょう」
やんちゃな子供のような、無邪気な笑みだった。
僕は、頬がひきつるのを感じた。……だが、乾いた声で無理やり笑ってみせる。
「そうか、そうか。そりゃあ、勇ましいな」
今の答えは、冗談だよな? まさか、本気じゃあないよな? どうか冗談でありますように……それこそ祈るような気持ちになって、楽しそうに笑う沢辺さんの笑顔を見つめた。
間もなく、互いの昼食の皿が空になる。ラーメンの具材と麺は残さず平らげて、スープももったいないから飲もうと思っていたのに、さっさと沢辺さんが立ち上がる。
「え、ちょっと待ってよ。僕、まだ……」
「何、ぐすぐずしてるんですか」
沢辺さんが声を尖らす。
「私たちの治療を待ってる人たちがいるんです。さっさとダイブ、行きますよ」
そう言い残すと、彼女は僕を待たずに歩き出す。あっという間に、食堂の人混みに紛れて……服装が服装なので、しばらくその赤いドレスが存在を主張していたけど……やがて見えなくなった。
スマホいじりながらうどん食べてたくせに、なんで僕より早いんだよ。目の前でずっと見ていたはずなのだけれども、腑に落ちない。……ってそうか、僕が遅いだけだった。彼女、つゆどころか中身多少残しているし、そりゃ早いよ。もったいない。
もうここまで出遅れたのなら、開き直って時間ぎりぎりまで居座ってやろうか。ちびちびとラーメンの残り汁をすすりながら、呟く。
「私たちの治療を待つ人、ね……」
誰よりも高い素質を持ったウイルスとして、大切な人々を、世界を滅ぼす悲劇がありうることを、彼女はまだ知らない。
もし、それが現実になったとき、彼女は一体誰に祈りを捧げればよいのだろうか?
汁を飲む手を止めて、少し考えてみる。答えを導き出すと同時に、僕は席を立つ。
「ちょっとは、まじめにやろうか」
彼女を、パートナーとして守り抜かなければならない。確かな自覚が生まれたのは、この時が初めてだった。
随分むかーしに書いた作品なんですが、ちょっと手を入れる機会があったので掲載してみました。
今思えば粗削りな部分は多々あるのですが、それでも愛着のある作品です。編集中に読んだ限りでは、最近書いている作品とは主人公像がだいぶん違っていて、自分自身の感性が変わったんだなあとしみじみ思う限り。
続きがありそうな終わり方ですが、続ける予定はありません。それより新しい作品を早く書かねば……。