表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第四章 悲鳴

 白鳥さんを無理やり引きはがして帰るわけにはいかなかったので、周囲の視線が痛かったが、彼女が落ち着くまでしばらく待った。嗚咽が小さくなって、頷くか首を振ることぐらいは出来るようになったところで、公園のベンチに移動した。

「大丈夫?」

 近くの自販機で買ってきた水のペットボトルを手渡す。彼女は無言で受け取ると、キャップを開けて飲み始める。それを確認して、彼女の隣に腰を下ろす。

 同時に深々とため息をもらす。……どっと疲れが肩にのしかかる。やっと、落ち着いたか? 横目で彼女の方を見やると、ちょうど向こうも僕の方を向いていた。

「飲む?」

 白鳥さんは今しがた口をつけたばかりのペットボトルを差し出す。一瞬、ぽかんとその飲み口を眺めて……苦笑する。僕は首を横に振った。

「いいよ」

「あ、そう」

 そっけなく言うと、彼女はペットボトルを引っ込めた。

 ほっと一息つくもつかの間……顔面に冷たい水がぶちまけられる。

「え」

何が起こったのか分からなくて、目をぱちくりさせる。そんな僕に対して、ペットボトルの飲み口を白鳥さんは銃口のように突き付けている。

「それで、慰めてるつもりなの?」

月明かりで照らされた顔には、能面のように表情がなかった。

「ふざけてる。……馬鹿にしてる。……本当、信じられない」

 かぶった水を拭うことも忘れて、僕は彼女の端正な顔を見つめた。……瞳だけがぎらぎらと輝いている。囁くような密やかな声だったが、滲み出た苛立ちは隠しようがなかった。

 何に対して、彼女が怒りを露わにしているか。そんなこと、考えるまでもない。

「ごめん」

 彼女に頭を垂れる。

「約束、自分から破ろうとした。……本当、ごめん」

 ひと月ほど前、左手の小指で結んだ約束――死なないで、という彼女の願いを、僕は自分から踏みにじった。

 返事はなかった。夜の公園は、しん、と静まり返る。

「ごめん、なんて聞きたくない。どうせ、それだって嘘なんでしょう」

 まるで深呼吸をしているような、深いため息が聞こえた。

「謝るふりをするぐらいなら……教えてよ」

 僕の左手の手首に、彼女の手のひらの滑らかな感触が伝わる。

「どうして、飛び込んだの? 何故、自分から……もう戻れない死地へ向かったの?」

 手首を握られているだけなのに、まるで首を絞められているようだった。僕の喉から、声がなかなか出てこなかった。

「それは、沢辺さんが」

「詳しい状況説明は小春さんから聞いている。彼女は騙せたとしても、私は騙せない」

 僕の声を遮って、白鳥さんが言った。

「言い直そうか? ……夏樹はどうして、適性者になろうと思ったの?」

 続けようとした言葉が、たちまち散っていく。

 それでも、悪あがきと知っていてもなお、重たい頭を回転させて、答えを絞り出す。

「てっとり早くお金が欲しかったんだ。ただ、それだけ」

「じゃあ、こうしよう。私の稼ぎは全てあなたにあげる。だから、あなたは適性者をいますぐ辞めて」

 白鳥さんはまっすぐに僕を見据えて言う。

 彼女は僕と違って、嘘を言わない。……誤魔化すのは無理だ。僕は力なく首を振った。

「ごめん」

 ただひたすら、九官鳥のように意味もなく謝罪を繰り返すことしか、僕には出来ない。

 白鳥さんは、すっと目を細めた。

「五年前の事件でしょう? 夏樹はずっと、囚われているんでしょう。あなたのお母さんと妹さんに」

 どうして知っているの、なんて陳腐な質問はいらない。彼女は僕が二人を亡くしたことを、知っている。既にいない二人の他は誰にも埋められない溝を抱えていることにだって、もう五年も一緒にいるのだから知っていたっておかしくはない。

 彼女が気付いていることに、僕だって気づいていた。いつか、直接指摘される日が来ることは覚悟していた。……でも、出来ることならば、そんな日は訪れないでほしいと心の底から願っていた。

「答えて」

 白鳥さんが僕をせかすように、言った。でも、僕は何も言うつもりはなかった。後は石のように黙っていようと、決めていた。

 彼女は辛抱強く僕の告白を待っていたが、無駄だった。ただただ無為に時間が流れ、空の色が茜から夜の闇へと姿を変えていく。……どれだけの間そうしていたか分からないが、不意に僕の左手の指の間に彼女の指が絡まる。そのぬくもりがじんわりと広がっている。

「よく、紅葉ちゃんとこうしていたでしょう?」

 手のひらのぬくもりと相反して、ささやくような声はどこか冷たい。湿り気を帯びた、夕方の風とよく似ていた。

「絶対に離さないように、絶対に誰にも傷つけられないように。そんな風に、手をつないでいたでしょう」

「さあ、覚えてないよ」

 僕は何も答えたくなかった。答えは、慎重に選んだ。……白鳥さんは、微笑した。

「私、よく見ていたよ」

「え?」

 僕と白鳥さんの間に、まともな交流が成立するのは中学以降の話だ。その頃には、紅葉既に死んでいる。驚く僕に、白鳥さんはただ微笑するばかり。

「あなたが私のこと、全然認識してなかった頃だった。でも、私はあなたのこと、意識していた。何度も、あなたのことを考えていた」

 小学生の時ことは、初めて聞く話だった。……鼓動が早まる。緊張しているのか、それとも僕は恐れているのか、いずれとも分からなかった。

「ねえ、夏樹」

 白鳥さんが僕を呼ぶ。……その瞬間、どきりと心臓が跳ねる。

 彼女の表情から、雨で洗い流された絵具のように、微笑が消えた。

「あれほど大事にしているものを失ったら、人は一体どうなってしまうんだろうと思ったの。……きっと恐ろしいことになるに違いないと、予感したよ」

 抑揚に乏しく、声を低くした白鳥さんの声が聞こえる。

「その通りだったね。……ほんの少し、目を離した隙に消えてしまうんだね。ほんの小さな衝撃で、二度と手の届かないところにまで行ってしまって、もう会えなくなってしまうかもしれないんだね」

 半ば瞼に閉ざされた彼女の瞳が、夜の闇を見上げていた。彼女は歌うような口調で、言った。

「もう夏樹のことなんか、信じないから……だから、今度は私の方から、約束する」

 隣の僕に、目をくれることすら、彼女はしなかった。

「あなたが死んだら、私も死ぬ。あなたの後を追いかけるよ」

 恐れおののく獣のように白鳥さんの顔を怖々と窺うのが、精いっぱいだった。……嘘であってほしかった。でも、彼女は嘘を言わないことを、約束を違えないことを、僕は既に知っている。

 彼女は、いつものように優しい微笑を空に向けていた。

「だから、死なないで。……生きて、生き続けて」

左手の拘束が緩む。彼女は立ち上がった。

「じゃあ、また明日」

それだけ言い残すと、彼女はゆったりと歩き出した。

白鳥さんの姿が見えなくなると、僕はベンチからふらりと立ち上がった。

そのあとは全力で、駆け出した。少しでも早く、白鳥さんから距離を取りたかった。彼女から逃げ出したくて、逃げ出したくて、たまらなかった。

 途中で息が切れた。足がふらついて、電信柱にもたれかかる。ほらみろ、僕はこの程度なんだ。運動は不得意だし、勉強も全然だめだったし、揚句捻くれ者の根性なしと来た……救いようがない、馬鹿だ。息を弾ませながら、夕闇を帯びてきた空を見上げる。散々精神世界で見上げてきた夜空を思い出して、無性に泣きたくなった。

 どうしてだよ。なんで、僕にそこまでするんだよ。何故、そんなに一生懸命になって守ろうとする? ……そりゃ、僕を繋ぎ止めておきたいからさ。分かってないわけじゃない。手を放したら空に上がってしまう風船みたいに、飛んでいかないように重しをつけているのだ。

 彼女は心底、恐れている。僕が自ら消えようとしているのを、もう戻れない精神世界へ自ら飛び込んだ僕を目に焼き付けて、今まで以上に必死になっている。……手を繋ぐことは今までに何度かあったけれど、抱き付かれた記憶はない。彼女はこんな直接的なやり方で僕を縛ろうとはしてこなかった。

白鳥さんの手の感触がまだ左手にこびりついている。僕はそれが嫌で、怖くて、悲しかった。何よりも、不気味だった。

そもそも、どうしてこんな愚か者を、失くしたくない大事なものみたいに握りしめる? ああ、そうさ、事実としては知っている。沢辺さんに語った通り、こんな僕でも何故か大切にしてくれる人がいる。でも、どうしてそんな人がいるのかはさっぱり分からない。僕は得意なことなんて何にもないし、口は悪いし、金にはうるさいし、それに死にたがりだし。大事にしたって、恩を仇で返されることばかりだろうに。……どうして、命まで掛けようと言うのか? わけが分からない。僕は彼女から逃げ出したい。もう二度と関わりたくない。

 僕は白鳥さんのことを嫌っているわけじゃない。でも、好きかと言えば、違う。そんな分かりやすい単純な概念で説明できやしない。その代り、確実に言えるのは、僕にとって彼女はかけがえのない人である、ということ。大切で、傷つけたくなくて……それゆえに、傍にいてほしくない。僕のせいで、彼女が死ぬなんて考えたくない。

 帰りたくなかった。このまま、姿をくらませたかった。どこか誰も知らないところに逃げ出したかった。

 車が行き交う道路に飛び出したかった。そうすれば死ぬだろうから。もう僕は一秒だって呼吸を続けたくない。これ以上、彼女と同じ世界にいたくない。……でも、僕が死ねば彼女も死ぬという。

 いい加減呼吸は整っていたけれども、僕は電信柱にもたれかかったまま、動けなかった。すっかり夜に染まった空には、欠けた月がぽつりと浮かび、晴れてはいるが、街の明かりで星はほとんど見えない。

 ぼんやりと空を見上げる僕に、歩み寄る人影があった。

「こんばんはー、なっぴー。そんな空なんか見上げて、星でも見てるの? すごいねえ、七子の目にはなあんにも見えないけどな」

 ぽつぽつと立つ街灯が、七子の姿を照らし出していた。……今、一番会いたくないやつだった。電信柱にもたれかかったまま、僕は奴を睨みつけた。

「減らず口はいいから、早く帰れよ。小学生がこんな時間に歩いていたら補導されるぞ」

「小学生じゃないもーん。七子、身分証明書ちゃあんと持ってるもーん」

 そう言って、リュックからわざわざ原付の運転免許証を取り出して見せる。

「ああ、はいはい。分かったよ、好きに出歩けよ。まあ、僕は帰るけどな」

 こいつを動かせないなら、僕が動いたほうが早い。背を向けて、歩き出す。すると、背後からぱたぱたと足音が近づいてきて、七子が横に並んできた。

「もー、なっぴーってば冷たあい。こんな可憐で幼い女の子を一人にしちゃうなんて。何かあったとき、責任取ってくれるわけ?」

「さっき、自分は小学生じゃないとかぬかしてなかったか?」

「えー。そんなこと言ったかなー?」

 随分、都合のいい頭で。そんなおめでたい頭はどこかにぶつけて、死ねばいいのに。

 振り切ろうと早歩きになる。しかし、奴は小走りで僕の隣から離れない。しつこいな、と思い切り舌うちするが、七子はへらへら笑ってる。

「あのさあ、なっぴー。七子はねー、お疲れさまって言いに来たんだよう。そんなに邪険にしなくていいじゃない」

「お前にお疲れ様って言われると、余計に疲れるよ。さあとっとと早く帰れ」

「ひどいなー。これだからなっぴーはダメ男なんだよ、優しさが足りない」

「知るかボケ」

 ダッシュして一度は、振り切った。しかし、七子は涼しい顔で前方の路地からひょっこり顔を出した。……僕は諦めた。七子を無視して歩き出すと、奴は構わずについてくる。横に並んで、けけけ、と物の怪みたいに七子が笑う。

 七子の笑い声が静かな夜道に響いて、消える。僕と七子の二人分の足音ばかりが聞こえてくる。やっと黙ったか、と安堵した瞬間、七子は僕を見上げた。

「ねえねえ、なっぴー。今日さ、ちいちゃん、助けに来てくれたでしょ? どう、嬉しかった?」

 屈託のない笑みがこちらを向いていた。その顔に唾を吐きかけてやりたい気分だった。

「そんなわけあるか。白鳥さんを危険に晒しといて、嬉しいとかありえない」

「ふーん。そうなの、そうですかあ」

 意味ありげにもったいぶって、七子がにやにやする。……小賢しいやつ。しかし、こいつの相手をすればするほど、奴の思う壺。ポケットに手を突っ込んで、前だけを見て歩く。足を止めたら、逃げられなくなる。自分に強く言い聞かせて、遮二無二進んでいく。

 七子が唐突に足を止めた。僕の視界から、うざったい奴の姿が流れて行って消える。やっと飽きて帰ってくれたか。ほっとしたのもつかの間、あいつの声が後ろから聞こえてきた。

「でも、本当は嬉しかったんでしょ?」

 ぴたり、と足が止まった。地面に足が縫い付けられたかのように、動かなくなった。

 背後を振り返る。七子は笑っていた。楽しそうに。他人をあざ笑うのが楽しくてならないという風に。

「どう? 気分はどうだった? あの子が泣いて君の帰りを心配するのとか、君が勝手に死のうとしてることに腹を立てて怒ってるのとか、見ててどうだった?」

 七子がゆったりと歩き出す。間もなく僕との距離を詰めると、少し背伸びして僕の肩をたたく。

「君はそれで、自信を持つことが出来たでしょう? ……僕はこんなにも必要とされている。そうさ、だから……生きていてもいいんだ、って。紅葉ちゃんを見殺しにしたけれども、お母さんに捨てられたけれども、生きていたっていいんだって」

 心臓が壊れるんじゃないかと思うぐらい、鼓動が激しくなった。耳は心臓がどくどく言う音でいっぱいなのに、七子の声は不思議とよく通った。

「違わないよね? だって、違うなら、こんなことになる前にちづるちゃんを突き放している。もっと遠くに逃げることだってできるんだからさ。君は誰にも後をつけられたりしていないし、お金だってある。その気になれば、北海道だろうが沖縄だろうが、それこそ海外でも逃げられるでしょ。……ただ、逃げようとしないだけで」

 握りしめた手がみっともないぐらいに、震えていた。

「馬鹿言うなよ」

 死にかけの鳥の声みたいに、弱弱しかった。しかし、これが今の僕に出せる精一杯の声だった。

「そりゃ、逃げれればいいけど。……出来るかよ。逃げたら逃げたで、悲しませる。だから……」

「なら、せめて喜ばせてあげるべきじゃないの?」

 七子はわざとらしく首をかしげる。

「あの子が君に望んでいること、それが何か分からないほど、君は愚かじゃないでしょう?」

 僕は自らの鼓動の音を聞きながら、言葉を探す。

「僕には、やりたいことがある。だから、彼女の望みは叶えられない」

「ごまかさないで、答えて?」

 七子はくすくす笑った。

「だって、関係ないでしょ。君の望みとちづるちゃんの望みは相反しない。両立しうるんだ。だったら、満たしてあげるのは当然のことでしょう?」

 黒目を極限まで見開いて、七子が不気味に笑う。……嫌な予感がして、さっと顔から血の気が引くのを感じた。

「やめてくれ」

 ほとんど反射的に、僕は呻いた。聞きたくなかった。この先の言葉を、形にしないでほしかった。……七子は心の底から楽しそうに、にぃっと唇を吊り上げる。

「今から、メールの一本でも打ってごらん? 好きだよ、愛してる、って。すっごく簡単でしょ? ちづるちゃんの望みは、たったこれだけなんだよ。どうしてそれが出来ないと言うの?」

 息が詰まるような感覚に襲われた。めまいがして、ふらりと一歩後ろによろけた。

「やめてくれ……!」

 血反吐を吐くような想いで、声を振り絞る。

「それは、どうして?」

七子は弾んだ声で続ける。

「きっと、すごく喜ぶと思うよ。それこそ、君が生きて帰ってきた時以上に喜ぶんじゃないかな」

 七子は僕に向かって手を差し出す。

「試す勇気がないなら、代わりにやってあげるよ。ちづるちゃんが泣いて喜ぶような、文面考えてあげるからさ。……ほら、君ってさ、ちづるちゃんを悲しませたくないんでしょ?」

 差し出された手はまるで、天使が人間に差し伸べる彫像のよう。……ぎし、と強く噛みしめた歯が悲鳴を上げる。

 僕は差し出された手から視線を背ける。携帯は鞄の奥底に閉まったまま。……ここで携帯を取り出すぐらいなら、僕の心臓を抜き出して差し出すことだって選ぶだろう。

「こんなの、間違ってるんだ。絶対に、おかしい。……僕じゃ、だめだ。一番だめな選択肢なんだ」

 噛みしめた歯の隙間から、声を絞り出す。

「どうして? 何がそんなにいけないというのかな? 七子にはちっとも分からないな」

まるで本物の幼い子供のようなあどけない動作で首を傾げる。

「ちづるちゃんが望む通りにさ、手繋いで、キスして、抱き合って……籍まで入れれば、完璧? ああでも、まだ年齢的に無理か……それなら先に、孕ませちゃった方がいいね。形のない約束なんかよりも、ずっと強固な束縛になるだろうから」

 あどけない顔に、七子は無邪気な笑みを浮かべる。

「そうやって、二人の愛情を確かめう幸せな日々の果てに、君はある日突然、自ら死を選ぶ。……別に、いいんじゃないかな?」

自らの言葉を露とも疑わない、力強い口調だった。

脳裏に、ちらつく。僕と彼女が、手を繋いで……本物の恋人として振る舞う様が。その光景に、じんわりと吐き気がこみあげてきた。あまりの醜悪さと、現実との距離の近さに。

僕は弱弱しく、首を横に振る。

「無責任にもほどがある」

「でも、二人とも幸せだよ」

 七子の答は素早かった。

「ちづるちゃんは、君と愛し合えて幸せ。そして、君はちづるちゃんを幸せにできて、更に自分の目的も果たせて、幸せ」

 七子は僕に差し出した手をひっこめながら、言う。

「それにさあ、手に入れられないものは尊く見えるけれど、手に入ってみたら、ガラクタだって気づくことってあるじゃない? ……ちづるちゃんだって、ある日突然、気づくかもよ? 何でこんなつまらない男に身を削っていたんだろうって、夢から覚めたように思うかもしれない」

七子は歯を見せて、僕に笑いかける。

「思うんだけどさあ、結構その確率高いと思うんだよね? だってさあ、そこまで彼女だって馬鹿じゃないよ。君みたいな、よわっちくて何の取り柄もない男に熱を上げているのは、隣の花は赤いとか言うじゃない? あと、なんてゆーの、一時の過ち、若さゆえの見る目のなさってやつぅ? とにかく、そーいう事情が招いたものでしかなくって、君に何かの価値を見出しているわけじゃあないんだよねえ」

 けたけた七子が笑い声をあげる。とびっきりの喜劇でも見ているみたいに、腹を抱えて七子は笑う。

「ちづるちゃんも君を手に入れれば、君から解放されるよ。次の恋を、次の人生を探し始めるだろうさ。今度は犠牲を伴うことなく、本当に幸福で実りのある人生を送るだろうよ」

 僕は何も言えない。七子が笑い転げる姿を、言い返すこともできずに茫然と立っている。だって、反論はことごとく七子が潰してしまったから。

「僕はただ、彼女に幸せになってほしいんだよ」

 蚊の鳴くような声が唇から、漏れた。

「嘘だね。あるいは、偽善だよ」

七子は微笑んだ。

「君が守りたいのは、彼女じゃないよ。……君自身だよ。彼女は僕を愛していて、それから僕は彼女を不幸になんてしていないんだ、っていう自己欺瞞、それを君は守りたいだけ」

僕を指をさして、七子は唇を吊り上げる。

「あんな綺麗で将来有望な女の子の未来台無しにしてさ、よくのうのう生きてられるよね? 信じられないよお。なっぴーってマジでクズ、世界のゴミだ、誰か早く処分してほしいな」

 七子が背を向けて、僕の視界には例のもこもこのうさぎのリュックが見えた。

「君が生きてるだけで、迷惑するんだ。もう、さっさとお母さんのところに逝っちゃってくれない?」

 そう言い残して、本物のウサギのような俊敏さで駆け出していく。あっという間に、七子の姿は小さくなって見えなくなった。



 家に帰っても、何もする気が起きなかった。おばさんは既に僕の無事を知っていたみたいで、別段驚きはしなかった。大げさに喜ぶそぶりも見せずに、いつも通り振る舞ってくれてありがたかった。疲れたから早く休みたいと伝えると、嫌な顔をするどころか、生還祝いと称しておばさんは出前を取った。洗い物も全部しておくから、と言って、さっさと僕をすべての家事から解放してくれた。そのおかげで、いつもより格段に早い時間に自分の部屋の寝台に入っていた。

 目をつぶっても、なかなか眠気は訪れなかった。何度も何度も、今日の出来事が瞼の裏で再生されて、その度に鼓動が早くなって目が覚める。

 白鳥さんの泣き顔、喧嘩をしようと言った時の抑えた怒りの顔。それから、七子の言葉。

 彼女が助けに来たとき、本当に僕は全く喜ばなかったのだろうか? 七子の言う通り、彼女が深く僕のことを想っていてくれると知って、誇らしく思わなかったか?

 嘘じゃない、と思った。……分かっているのだ。僕が彼女から逃げたいと言いながら、逃げないでいるのは、やはりそれだけの理由がある。喜んでいる自分は、間違いなく僕の中に存在する。

 でも、僕はその存在を肯定してはならない。そんな僕がいるということを、決して表に出しちゃいけない。本当なら、殺して炎に投げ込みたいところだけど、それをやろうものなら、この僕の肉体ごと葬り去らなければならない。

 彼女が僕を想ってくれているのならば、僕もそれに応えなくちゃいけない。誰かの好意に、愛情に、胡坐をかいてはいけない。

 だって、それはとても尊いことだから。誰かに認めてもらえて一緒にいてほしいと願われることなんて、僕にとっては奇跡のようなものだから。

 だから、彼女が僕のためにその身を犠牲にするならば、僕はその犠牲に報いなければならない。彼女が捨てたものと等しく、いいやそれ以上の見返りを返さなければならない。……でも、今の僕は何も返せていない。無力な僕に出来ることは限られていて、しかも諦めたくないことがあって、彼女を悲しませてばかりいる。

布団の中で、悶々と悩んでいる。早く眠ってしまいたいのに、眠気は一向に訪れてくれない。全部七子のせいだ。あいつが、余計なことを言うから。

 これだから、七子と喋るのは嫌いだ。だって、疲れるから。あいつが一言なにか言うたびに傷つけられる。毎日、十分会話するだけでもぼろぼろになるだろう。

 何故、こんなにも七子との会話に疲れるのか? それはあいつが腹立たしいことばかり言うから、というのは説明としては不十分だ。……あいつが言うのは、事実、あるいは事実の一側面。嘘は言わないのだ。あいつの言葉が嘘で塗り固められているなら、こんなにも深い爪跡を残しやしない。全て聞き流せばいいだけの話で済む。

 あんな小学生みたいな奴に、どうして他人の深いところ、一番大切なところを抉り取る力があるのか、前々から不思議でならない。禄に話したこともないというのに、何故かあいつはこちらのことをよく知っていて、気味が悪い。しかも、大っぴらにしていないことまで知っていることもままあって、一体どこで調べてきたのやらと首をかしげることも多い。

 目が冴えて、全く眠れなかった。何度も寝返りを打って、それならいっそ眠くなるまで起きていようと布団をはねのけた時に、携帯が鳴った。

 誰だ、この非常識な時間に電話を掛けてくる奴は。確かに今日はたまたま起きているけど、普通ならこんな時間はとっくに夢の中だっていうのに……渋々携帯を手に取る。着信画面を確かめると、沢辺清河の文字。……なんとなく、納得してしまった。白鳥さんならこんなことしないけど、沢辺さんなら……と思ってしまう。

 しかし、好都合でもあった。精神世界から帰還して、彼女が何を考えているのか。さっきは普段通りの負けん気の強さを発揮して、小春さんに噛みついていたけど、だからといって元気なのだろうと判断するには弱い。帰還してから、本心を確かめるような時間はなかったので、いい機会かもしれない。何せ、沢辺さんの頑張りを全否定して、彼女の心を折った張本人は僕だし。責任は、感じている。

「もしもし、桜木ですけど。こんな時間に何の用?」

 でも、時間が非常識なのは別問題。当てつけに、思いっきり不機嫌な声で電話に出てやる。

 すると、電話の向こうからは物音ひとつも聞こえてこない。「もしもし?」と繰り返すが、声は返ってこない。……いたずら電話か? おいおい、嫌がらせにも程があるだろう、僕はそこまで暇人じゃないぞ。着信を切るボタンに指を掛けたところで、「あの」と怯えたような声がした。

 あれ、これ沢辺さんか? 声は確かによく似ているけど、電話越しだから当てにならない。それよりも、この腰の引けた態度は沢辺さんじゃなさそうな気がする。でも、掛けてきたのは間違いなく沢辺さんの携帯だ。

「沢辺さん? どうしたの?」

 一応待ってみる。何の音か分からないけど、もぞもぞと音がする。……しかし沈黙が続く。……ということは、イタ電? どうしようか悩んでいると、また「あの」と沢辺さんの声が言った。

「わ、わたし、沢辺です」

 しどろもどろ、沢辺さんの声が言った。そりゃ沢辺さんだな、だって沢辺さんの携帯から掛かってきてるし。

「えっと、それで?」

 新手のギャグだろうか? やっぱり相当疲れてるんだろうな。

「い、いえ、ですからわたしは……沢辺……透河です!」

「え、あ……はあ」

 いや、君が沢辺さんだってことは……分かってるんだけどさ。

 電話越しに気まずい沈黙が流れる。……えっと、切っていいかな? どうも疲れているみたいだし、また今度ということで。そろりと通話終了のボタンを押そうとしたところで、また慌てて電話の声がまくしたてた。

「普段、あなたと会ってる沢辺さんは……清河です! わたしは沢辺透河。清河は姉です、私はその妹です!」

 通話終了のボタンを押しかけて、止まる。電話口の声につられて、僕も慌ててしまった。

「妹?」

 沢辺さんの下の名前、全然覚えてなかったから気づかなかった……。

「えっと、桜木夏樹さんでしたよね? お噂はかねがね、いつも姉がお世話になっています」

 ぺこりと電話の向こうでお辞儀をしていそうな、丁寧な口調だった。……彼女の姉と、初めて会った日のことを思い出す。

「ああ、こちらこそ。……あー、清河さんでしたっけ?」

「清河は姉です」

 苦笑いを浮かべていそうな声だった。おっと、失敬。

「ごめん。えっと……」

「透河です」

「そうそれ」

 人の名前を覚えるのは非常に苦手なのだ。しかもこの姉妹、名前似ているから余計ややこしい。なんか電話の向こうでまた笑われてるっぽい。

「私と清河、双子なんですよ。名前も似せてつけられたみたいで。……名前を間違えられるのは、わりと慣れっこです」

「へえ、そうなんだ」

 名前は似ているが、全然性格や物腰は似ていないなあと思った。

「双子なんだ、知らなかった。一卵性? 二卵性?」

「一卵性です」

「じゃあ、似てるんだ?」

 頭の中で透河さんの顔を想像する。ううむ、清河×2か、ぜひとも対面したくないな。

 またまた電話口から苦笑が聞こえる。

「顔は似てますよ、仲のいい友人じゃなきゃ区別つきません。……まあ、顔を見なくても髪の色とか服装とかで大体見分けつくでしょうけど」

 なるほど、妹はゴシックな人ではないらしい。「ふーん」と興味があるんだかないんだかあいまいな返事をしておく。

「で、何の用ですか?」

 とりあえず相手は分かった。話を進めよう。

「僕、てっきりお姉さんの方から掛かって来たんだと思っていたけど……何で、君が僕に掛けてきているのかな?」

 姉が命がけで救いたかった妹というのが、この透河さんなのだろう。しかし、それ以上のことを僕は知らない。彼女と一切、面識はないのだが。

「こんな時間にごめんなさい。……次、いつまた連絡できるか分かりませんので。失礼を承知で、連絡を取らせてもらいました」

 透河さんは控えめな口調で言った。僕はその瞬間、彼女が言外に含んだ意図を悟った。

恐らく今は運よく目覚めているだけで、しばらくすればまた昏睡状態に戻る。そんな貴重な時間を使って掛けてきたのだから、相当の理由があるはずだ。

「わたし、どうしても桜木さんと一度、お話をしてみたくって」

「話って……何の?」

「お礼を言いたかったんです」

 透河さんは穏やかな口調で言った。

「姉が今、生きているのはあなたのおかげですから。……言っておけるうちに、言っておきたくって。今日のことも含め、姉を何度も救ってくれてありがとうございます」

 電話口から衣擦れの音がした。きっと、見えない僕に向かってお辞儀をしているのだろう。

 しかし、そう丁寧にお礼を言われても困るのだった。

「いや、そりゃパートナーだから、僕は当然のことをやったまでですし。それを言うなら、僕だって沢辺さんに救われた場面があるわけで。お互い様、というやつですよ」

 透河さんの言葉がちくりと胸を刺す。……僕が救おうとしたわけじゃない。むしろ、彼女を絶望に追い込んだのは僕だ。僕が透河さんを救える可能性を否定したから、沢辺さんは未知のゲートへ連れ去られるのも抵抗しなかった。

 実際に救ったのは、白鳥さんだ。彼女が命を賭して、僕らがいる精神世界に飛び込んできたから、僕と沢辺さんは現実に帰ってくることが出来た。

 だが、本音をわざわざ語る必要はない。透河さんに知らせる必要はないことだ。

「あれ、透河さん、今日のことは知っているんだ? 機構は最低限の人間にしか教えていないはずですけど」

 だから、わざと話を逸らす。

「ああ、それは……姉に聞いたんです。今日お見舞いに来たので、その時に」

 透河さんは思い出しながら話しているように言った。

「ふーん……そうなんだ」

 僕は少し意外に思った。

「清河は強がりなんですよ。他人に弱いところ、見せるの苦手なんです。……平気な振りするんです。辛くて、今にも重圧に押しつぶされそうなときでも、そんなことないよって、自分はもっともっと頑張れるよ、って嘘ばっかり言うんです」

 僕は黙っている。透河さんの言葉にじっと耳を傾けて、そう、だから意外に思えるんだよな、としみじみ思っている。……そうでもなきゃ、あそこまで追い詰められやしないだろう。……精神世界での沢辺さんの、すがすがしい表情を思い返す。

 きっと透河さんだって辛いだろうな、と思った。自分の治りそうもない病のために、姉が将来を捨てて、命をも顧みないのは。目覚めるたびに、ぼろぼろになっていく姉の姿を見て、心を痛めないわけがない。

「ごめんなさい。……わたし、桜木さんにお礼を言いたくて連絡しました、なんて言いましたけど、あれ、嘘でした。本当はそんな綺麗ごとじゃないんです。……我儘な、わたしのお願いを叶えてもらいたくて、こんな時間にお電話を差し上げたんです」

 透河さんの声は、か細い。一言紡ぎ出すにも深呼吸が必要じゃないだろうかと思うぐらい、震えていた。

「どうか、姉のことを、これからも守ってあげてくれませんか。……残り少ない命しかないわたしの代わりに、見守っていてほしいんです」

 沈黙を返した。すぐに答えられるお願いでは、なかった。

 沢辺さんの努力は今まで、たくさんの人に否定されてきたはずだ。小春さんを筆頭に、家族や友人や……とにかく彼女のことを大事に思う人々は皆止めただろう。だから、彼女を絶望に追いやったのは多分僕一人の責任ではない。……でも、最後のトドメを刺したのは僕だ。そんな奴に守っていてくれ、というお願いが来るというのは何とも皮肉な話だった。

「いいよ。それぐらい、お安い御用さ」

 けど、ただ頷くだけなら、誰にだって出来るのだった。

 透河さんから、なかなか返答がなかった。電話口からゆっくりと息を吐き出す音が聞こえてきた。

「ありがとうございます。桜木さんにお願い出来て良かったです」

「僕なんて、そんなに当てにならないと思うけどね」

 喜びをじっくりとかみしめるような透河さんの声が、僕の中で罪悪感を呼び起こす。茶化すように言ってみたが、透河さんは「めっそうもない」と言った。

「思い残すことはありません。……これで安心して、死ねます」

 儚く笑う透河さんの声が聞こえた。僕は無言でいた。任せておいてと請け合うことも、そんなことを言うなと無責任なことを言うのも気が引けて、黙っていた。

 やろうと思えば、本当はきっと透河さんは救えるのだ。ランクSと戦ってみて、絶対に倒せない敵ではないと思ったのだ。一つ間違えれば死ぬことは確かで、勝率を計算するなら六割ぐらいになるだろう。でも残りの四割で負ける可能性がある以上、機構は博打をしたくない。一人の患者のために、適正者を危険に晒して、予想もおよびつかないような犠牲者を生み出す化け物を作る可能性を選びはしない。

 機構の許可が出ない以上、ダイブは出来ない。ダイブ出来ない僕には、どうすることもできない。

「そっか」

 色々な可能性と選択肢を喉の奥へと飲み下して、中身のない相槌を打つ。僕にできることと言えば、ただそれだけだった。

 僕の声が間抜けに響いたに違いない。透河さんがくすくすと笑う声が聞こえてきた。

「頼りにしてるんですから。しっかりしてくださいね」

「頼む人をまちがえていると、思うんだけどね。もっといい人、紹介してあげようか」

「いえ、結構です。あなたで大丈夫です」

 まだ透河さんは声を弾ませている。何が楽しいのか分からないけど、彼女は楽しそうに笑っている。僕が黙り込んでも、透河さんはまだ笑い続けている。

 僕は段々、怖くなってきた。透河さんの笑い声が不気味に思われてきて、何か取り返しのつかないことをしてしまったような気分になった。

 そして、唐突に笑い声がやんだ。

「じゃあ、後は任せました。……さようなら、もう二度と会うことはないでしょう」

 晴れ渡る青空のような、さわやかな声だった。

 鞘から何か抜き放たれるような、かすかな音がした。ぼす、と布団に携帯が落ちる音が聞こえた。……いけない。電話の向こうで何が起こっているか悟って、僕はとっさに叫んだ。

「待って! 死ぬのはまだ、先だろ!」

 押し殺した悲鳴が、電話の向こうからくぐもって聞こえてきた。

 僕はそのあと何度も、透河さんの名前を呼んだ。返事は全くなくて、今にも途切れそうな荒っぽい呼吸音と苦痛の呻きばかりが返って来た。……透河さんがどこを刺したのか、分からない。でも、重傷であることに間違いはなさそうだった。

 そうしているうちに、足音が近づいてきた。複数ではなく、一人だった。ヒールが床を叩く甲高い音がのんびりと近づいてきて、だいぶん近くなってから、小走りで走り始めた。カーテンのレールが引かれる音がして、息をのむ音がした。

「透河!」

 沢辺さんの悲鳴が響いた。



 すぐにナースコールの音がして、沢辺さんが要領を得ない説明をする。間もなく大勢の足音が聞こえてきて、医者と看護師の声でいっぱいに満たされる。茫然と電話の向こうの物音に耳を傾けていると、間近でごそごそと音がした。

「何が、あったんですか」

 涙声で沢辺さんが言った。どう答えるか迷って、僕は素直な気持ちを伝えることにした。

「分からない」

 何があったのか、教えてほしいのは僕も同じだった。



 沢辺さんには、簡単に事情を説明した。透河さんから電話があったこと、そして沢辺さんが僕に助けられてきたことの礼を言い、姉のことをよろしく頼むと言って、それきり電話が通じなくなったこと。沢辺さんは黙って僕の話を聞いていた。話が終わっても黙っているので、そちらがどうなっているのか教えてほしいと頼むと、透河さんは果物ナイフで首を掻き切って倒れ、これから手術をするのだという話をしてくれた。

 他に話すことはなかった。どう声を掛ければいいものか分からなくて、「妹さん、助かるといいね」と他人事のようなことを言って、電話を切った。



 全ての適正者に、ダイブ禁止の通達が正式に出たのは翌日だった。期限は一週間。機構のお偉いさんの名前で、フラメア症候群に苦しむ患者を放置するのは心苦しいが、更なる被害の拡大を防ぐために、やむを得ない、という内容だった。通達のメールにさっと目を通した後、僕はダイブのない休日と同じように一日を過ごした。洗濯物を干して、朝食を作って、おばさんを起こして、喫茶店の仕事の手伝い。時間が余ったので、あちこち掃除をして、前々からやりたいと思っていたキッチンの換気扇の掃除まで出来た。ちょっと前までなら、有意義な一日だったと満足していそうな時間の使い方だった。

 ところが、今日の僕はこの一日に物足りなさを覚えていた。……そうか、今日は訓練やらないんだ。

 沢辺さんがパートナーになってから、休みの日も頻繁に訓練という名目で呼び出された。前に、僕と沢辺さんだけのダイブ禁止令の時はもちろんだったけど、他の休日もよく彼女につぶされた。貴重な休みをつぶさないでほしいんだけどなあ、と何度も嫌味を言ったが、いざ無くなってみると拍子抜けしている。

 いや、当然のことだろうと思ってはいる。確かに、沢辺さんは奇跡的に生還を果たした。でも彼女の心は既に死んでいた。生きていることの意義を完全に見失っていた。……その矢先に、透河さんは自ら死を選んだ。

 彼女は今、どんな気持ちでいるのだろうか? 考えようとしている自分がいることに気づくたびに、頭を振って思考を中断させた。

 店の仕事が一段落して、夕食を作る。作り終わって、後は皿に盛って食べるだけ。そこまで仕上げて、習慣通りリビングの隅の仏壇に手を合わせる。

 顔を上げると、僕と母と妹が映った写真が目に入る。毎日見ているのに、僕は飽きずにそれを数十秒は眺めている。写真を通して、二人のことを思い返さない日はない。

「夏樹は、二人のことよく覚えているの?」

 写真を眺めていると、おばさんが背後に立っていた。僕は振り返って、あいまいに笑った。

「あんまり。……写真、見なかったら、そのうち顔も忘れそう」

 おばさんはくすくす笑った。

「人の顔だけは、全然覚えないし、すぐに忘れるよね。スーパーの野菜の値段なんて、一年間通して把握しているくせに」

「だって人の顔なんて皆、だいたい同じじゃん。みんな目が二つあって、鼻と唇が一個あって……ジャガイモの方がよっぽど個性あるよ」

 おばさんは頭痛でも訴えるかのように、額を抑えた。

「これだから、女の子にモテないんだい。もっと人間に興味持ちなさい」

「おばさんだって、三次元への関心薄いよね? 二次元には行けないんだからさ、目の前の現実にもっと興味持とうよ?」

「しょ、将来二次元の世界に旅立てる装置が開発されるからいいもん」

 おばさんが唇を尖らせる。……僕は首を傾げる。なおさらだめじゃないか?

「帰ってこなくなるよね、それ?」

「か、帰って来るもん。……たまには」

 おばさんが僕をじっとりと睨んできて、僕は肩を竦めた。たまに、って言い訳になってないんですけど?

 会話が途切れる。僕は再び、仏壇に向き直る。忘れそうになる母と妹の顔を、記憶に焼き付ける。

 おばさんの気配はまだ僕の背後にあった。背中に視線を感じていると、おばさんの声が聞こえた。

「ねえ、夏樹。二次元に行く装置はさておき、死んだ人に会える装置は、夏樹が天寿を全うしても、まだ先の話になると思うんだ」

「だろうね」

 僕は振り返らずに、答える。

「だからさ、言うよ。もう紅葉ちゃんにも、お母さんにも、夏樹は会えないよ」

 まるで小さな子供に言い聞かせるように、おばさんは言う。僕は間をあけず、相槌を打つ。

「分かっているよ」

「精神世界で会えたとしても、それは違う。……あなたのお母さん……雪乃姉さんのふりをした、化け物。断じて、姉さんじゃない」

 僕は瞼を引き下ろす。……出掛かったため息を、飲み下す。

「知ってる」

 今まで、何度も言われてきたことだ。おばさんは、僕が適正者を志した理由を知っている。機構に入る際、その本当の理由を打ち明けることを交換条件に、適正者になることを承諾してくれたのだ。打ち明けるまでもなく、感づいてはいたらしいが。……最初は僕の外出を禁じるほどに、強く反対していたが、僕の意志が固いことを知ってから、諦めた。

 でも、今でもしょっちゅう遠まわしに適正者なんてやめるように言ってくるし、折を見て、僕を説得しようとする。

「それに、さ。そもそも……」

 歯切れ悪く、おばさんが切り出す。僕は潮時を悟って、仏壇から立ち上がる。

「ご飯、食べよっか」

 聞く耳を持たずに、台所へと歩いていく。僕があからさまに聞く態度を見せなかったためか、おばさんの声はしなかった。



 おばさんが何を言うか、もうすっかり予想はついている。僕の母親は碌でもない人間だったのだから、あんな女に執着する理由なんて、どこにもないのだ、と言うのだ。

 母は、僕と紅葉の面倒をまともに見なかった。精神的な病で弱っていたとはいえ、母親らしいことをほとんどしなかったし、僕と紅葉に度々暴力をふるった言い訳にはならない。……おばさんは母を憎んでいる。まっとうな保護者として、子供たちを苦しめた母親に憤慨している。

 初めて、僕の口から適正者を志す理由を語った時だった。おばさんはいつもの食卓で僕と向かい合って、普段は見せない神妙な表情で言った。

『夏樹がさ、妹の面倒見て、その小さい手で家事して……お母さんのために、必死で頑張ってるのに……あいつは、あんたに何言ったか覚えている?』

 おばさんは僕に目くばせをする。……何を言わせたいのか、その時の僕は瞬時に理解した。

『下心が見え見えで、気持ち悪い』

 一言一句、母さんが言ったとおりに答えてみせる。おばさんがいる目の前で、僕に言い放った言葉だった。

 当時の情景を思い返したのだろうか、おばさんは心底不愉快そうに唇をひきつらせた。

『そんなこと、実の子供に言うやつなのよ。夏樹、あたしは何度だって言うわ。あんな奴、早く忘れなさい。もう、あいつはいないの。あなたは既にあいつから解放されているの』

 おばさんは一言一言、ゆっくりと言う。まるで、僕に暗示を掛けるかのように。

『あなたを愛してくれる人は、いるんだよ。あたしは勿論そうだし……他に心当たりだってあるでしょう? それに、まだ出会っていない誰かにだっているでしょうから』

 彼女は僕の目をまっすぐに見つめて、言った。

『ねえ、分かって。どうしてあいつが紅葉ちゃんだけを殺して、あなたを置いて行ったかなんて……真相なんて、知らなくていい。あいつに愛されていたかどうかなんて、もう夏樹の人生には関係ないんだから』

 おばさんの哀願にも似た声は、風のように僕の耳を素通りしていった。



 次の日も、前日と同じ時間の使い方をしていた。家事を済ませた後は、店の手伝いをしていた。客もひと段落した昼下がりのころ、自分の携帯が鳴っているのに気付いた。

沢辺さんからの着信だった。……僕は迷わずに携帯をとった。

「沢辺さん? どうしたの?」

 勢い込んで尋ねると、ややあって返事が来た。

「ああ、桜木さん。こんにちは」

 抑揚のない、乾いた声だった。

「すみません、突然、お電話なんてしちゃって。……お昼はお忙しいでしょうし、メールの方が良かったですよね。ごめんなさい」

 電話越しに聞こえる声は、丁寧な腰の低い態度で言う。

「電話でいい。それで、何の用?」

 僕はいらだって、ぶっきらぼうに言った。沢辺さんは一瞬だけ、黙った。

「手術、成功しました。……一週間持てばいいほう、だそうです」

 それだけ言って、沢辺さんは再び黙った。

 短い言葉だったが、その意味を十分にくみ取るのに、僕は数秒間の時間を要した。

「そうか」

一時しのぎは出来た。しかし、フラメア症候群を患っている以上、身体の衰弱は止まらない。透河さんの命の期限は、残り一週間ということだ。

「教えてくれて、ありがとう。僕も気になっていたんだ」

 当たりさわりのない言葉を選んだ、つもりだった。

「ごめんなさい」

 消え入るような声で、沢辺さんが呟いた。

「あなたまで巻き込んでしまって。……本当に、申し訳ないです」

 電話の向こう側で、深々と頭を垂れている彼女の姿が頭に浮かんだ。

 針でつつかれたみたいに、鼻の奥がつんとするのを感じた。

「らしくないよ、君」

 僕は、たまらず悲鳴を上げた。

「違うだろ。……ありがとうなんて気持ち悪い、とかさ。気にかけるなんてうっとおしいとかさ、君が言うのはそういうことだろう。……今まで貰った罵倒の中で、今のが一番きついよ」

「ないですよ、あなたに浴びせる罵倒なんて」

 柔らかい声で、沢辺さんが言った。

「私自身の分だけで、手一杯ですから」

 はかなく沢辺さんが笑う。彼女が自分自身に向ける罵倒……それがどんな内容か、想像ぐらい僕にだってつく。

「やれることは全てやったじゃないか。罵倒だなんて、そんな」

「慰めなんて、いりません」

 沢辺さんは疲れ切った声で言った。

「結果が全てです。私は透河を救えなかった。その事実は変わらないんです」

 長く、息を吐く音が聞こえてきた。

「言ったでしょう。……私にはもう、生きている価値なんてないんです」

「そんなこと、言うんじゃないって」

 僕は慌てて言った。

「透河さんを救えなかった自分を、許せないのは分かる。でも、それは死んでもいい理由にはならない。君は生き続けなくちゃ、いけないよ」

 たどたどしく、最後は消え言えるような声で僕は言った。使い慣れない言葉は、全く僕の口に馴染まなかった。

 僕の言葉が付け焼刃に過ぎない、ということは彼女にも十分伝わったらしい。ふん、と鼻で笑う声が聞こえた。

「じゃあ、助けて下さいよ? 透河と……私を、救ってみせて下さいよ?」

 声には滴り落ちてきそうなほどに、嘲りと軽蔑が含まれていた。僕はたちまち、言葉に詰まった。

「それは……」

「出来ないなら、黙っていてください。目障りです」

 きっぱりと、沢辺さんは言う。僕はじっと、押し黙った。

 当然の反応だ、と思った。理解を示すには、遅すぎた。半端な覚悟で声を掛けたって、何を今更と怒るだけだろう。彼女の怒りの炎に油を注ぐだけだ。

 やっぱり、僕は約束を破るしかないのだろうか。透河さんの、姉を守ってほしいという願いを聞き遂げることは、出来ないのだろうか?

 最初から、約束を守ることは無理だろうとは思っていた。だから、あれは約束をするふりに過ぎなかった。おまけに、その後透河さんは理由も分からず自殺を試みるし……約束なんてなかったと言えるかもしれない。だから、僕はただ沢辺さんを引き止めようと努力した、それで十分なのかもしれない。僕は自分を納得させてもいいのかもしれない。

 ……けれども。

「透河さんを助ければ、君を助けることも出来るんだね?」

 電話の向こうは、しんとしていた。

「……え?」

 一拍遅れて、沢辺さんの気の抜けた声が聞こえてきた。

「聞こえた? もう一度、言おうか。……透河さんを助ければ、君はちゃんと前を向いて生きていくと約束できるかい?」

 彼女の口から答えが出るまでに、間があった。

「そりゃ……約束、しますけど」

 ぼそぼそと彼女は言った。それで十分だった。

「分かった。それなら、いい。……なんとかするよ。透河さんの精神世界へ、今から」

 最後まで、言えなかった。右耳に押し当てていた携帯が、それを掴む右腕ごと、突如耳元から離れた。直後、握りしめていた携帯が指からすり抜ける。僕の右手が空になって、通話を切る操作音が聞こえた。

 白鳥さんが、傍にいた。僕の通話が終わったばかりの携帯を、今度は彼女が握りしめていた。

 店のカウンターの奥、自宅に繋がる廊下に僕らはいた。本来客が立ち入ってはいけないスペースだったが、僕の声が店に届いてしまったのだろうか。

「沢辺さんの妹さんの精神世界へ行こうって、言いかけていたよね?」

 その通りだ。僕が言おうとしたのは、まさに彼女が指摘する通り。

「ねえ、夏樹。あなたは罪悪感から、こう言ったのね? 沢辺さんが自分のせいで、自分が手を貸さなかったから死んでしまうんじゃないかと思って、反射的にこんなことを言い出したのね?」

ああ、全くもって、その通りだ。さすが、白鳥さんは僕のことをよく知っている。

沢辺さんが死ぬとしたら、責任は僕にある。僕は責任から逃れたかった。しかも、彼女が言うように反射的に……じっくりと考え抜いたわけでも、強固な意志で決めたわけでもなく。……僕は白鳥さんの視線から逃げるように、目を逸らす。

「大丈夫だよ。今度はちゃんと帰ってくるよ」

 掴まれた右腕も、振り払う。

「私、あなたのことをもう信用しないって言ったよね?」

しかし、彼女の鋭い視線を振り払うことは出来ない。

「これは沢辺さんたち家族の問題でしょう。機構だって、妹さんを見殺しにするつもりでいる。……どうして、赤の他人の夏樹が命を張らなければならないの?」

「君の言う通り、僕は罪滅ぼしがしたいんだ」

 白鳥さんの焼けつくような視線を頬に感じながら、僕は答えた。

「出来ることがあるなら、しなくちゃいけない。……そう、思うんだ」

 今更、かもしれないけれど。……出掛かった一言を、なんとか飲み込む。沢辺さんをここまで追い詰めてしまうのなら、もっと早くに、それこそ出会った時から沢辺さんに協力していればよかったのだ。沢辺さんにもっと協力的になれば、という考えが掠めることは何度かあったのだ。

 だが、その度に僕は考えを打ち消した。今はそれを後悔している。

「罪滅ぼしなんて、馬鹿らしい。そんなもの、僕の自意識の問題でしかなくて、君には無関係なんだ。僕以外の誰にとっても、些細でつまらないことでしかない。でも、その取るに足らない問題を捨てた瞬間、きっと僕は僕でなくなるんだろう。……ああ、いや、そんなことが言いたいんじゃない」

 僕は少しだけ考えて、言い直した。

「彼女も、だ。沢辺さんもそう思っているみたいで。……そう、だから……似た者同士、放っておけないな、って」

 白鳥さんは黙っていた。僕の目を、その一番深いところまでを覗き込もうとしているみたいに、じっと見つめていた。

 今度は彼女から逃げずに、僕も彼女の目を見つめ返す。

 先に目を逸らしたのは、白鳥さんの方だった。

「夏樹」

「なに?」

「どうして、私が沢辺さんのこと、気にかけてあげてって言ってたか、分かる?」

 唐突な質問に、僕は目をぱちくりさせた。

「えっと……仲よくなっておいた方が、いいからだよね? 戦いに役立つから」

 ひと月以上前のことを思い返しながら、言った。白鳥さんは小さく首を横に振った。

「それだけじゃ、不十分。戦いに限ったことじゃない。あなたに生きていて欲しいから、私は彼女ともっと関わるべきだって言ったの」

 白鳥さんは、その細い手でぎゅっと握り拳を作った。

「私一人じゃ、きっとあなたをこの世に繋ぎ止めることは出来ないだろうから。……私じゃなくてもいい、誰かがあなたのことを引き止めてくれさえすれば、それでいいの」

 彼女は、ゆっくりと息を吐いた。まるで、今から長い演説を始めるみたいに大仰な仕草で。

「だというのに……」

 出てきた言葉は、それきりだった。彼女の握りしめた拳は、先に続く言葉をつぶしているみたいに、強く握られていた。

「あなたがあなたでなくなったとしても、私はきっと、あなたのことを見限ったりしない」

 ぽつりと白鳥さんが呟いた。

「……うん」

 僕は頷いた。その言葉はきっと嘘ではないだろう、と思った。

 今まで彼女を誤解していたことを反省した。彼女の愛は、根本から間違っているのだと僕は信じて疑っていなかった。彼女の想いは気の迷いのようなもので、彼女本人の意志とは無関係だろうと思っていた。

「それでも、あなたは……沢辺さんを助けたいと思うし、それに……五年前の真相を知りたいと言うの?」

 僕を見つめる彼女の目は、鋭い。隠し事も誤魔化しも一切合切許さない、厳しさがあった。

 でも、同時に諦めで満ちていた。その二つの間には、五年間僕を待ち続けて、それでも尚見限らないで隣にいてくれた優しさがあった。

 彼女の感情を偽物と呼ぶなら、では、本物とは一体、何だろう? 僕はふと思った。

「ああ、そうだ」

 答えることに、ためらいを感じなかった。

「分かった」

 白鳥さんは頷いた。

「協力するよ。……沢辺さんの妹さんを助けられるように、私も手伝うよ」

「ありがとう」

 僕は、感謝の気持ちをありったけ詰め込んで言った。

「どういたしまして」

 白鳥さんは、なんでもないことのように微笑して答える。

 いつの間にか肩に入っていた力が、すっと抜けるのを感じた。

「それは、ありがたいな。絶対、これ色々根回しとかいるよね。そういうの苦手だから、助かる」

「何それ。私がいると、捗るみたいじゃない。……まさか、脅迫が得意そう、だとか思ってない?」

「あ、いや、その……あ、頭いいから説得とか得意そうなって意味ね、うん」

 白鳥さんがじろりと僕をねめつける。……僕のライフを散々削りまくった(物理的にも精神的にも)手腕を評価してみました、とか言ったら、0以下にされそうだな。怖い怖い。

 取られていた携帯を返してもらって、ついでにエプロンを解く。やると決めれば、後は行動するのみである。

 店はおばさんに任せて、白鳥さんと外に出る。自転車のチェーンを外していると、白鳥さんが何気ない様子で声を掛けてきた。

「夏樹ってさ、沢辺さんのことどう思ってるの?」

「へ?」

 目を真ん丸にして、白鳥さんを見上げる。

「気の合う友達? それとも……気になる女の子?」

 ちょっとやめてよ、チェーンの番号、頭から吹っ飛んだぞ。

「え? えーっと……ご、ゴスロリ怪人? 貧乳?」

「まじめに答えて」

 彼女は歯を見せずに、にっこりと笑う。……僕の生存本能が生きろと叫んだ。

「た、ただの後輩!」

「よく分かりました」

 白鳥さん、にっこり。この菩薩みたいな表情に隠れている感情が、僕には読み取れない……!

「あのー……何でそんなことを聞くの?」

 番号がまだ思い出せないチェーンをがちゃがちゃやりながら、怖々聞いてみる。

「そうねえ」

白鳥さんは、腕を組んだ。ちらっと、僕の方を見やってから呟いた。

「確認、したかったからかな。……ふーん、夏樹ってそういう趣味なのかなって」

「ぼ、僕、ゴスロリと貧乳は嫌いだから」

 そういう趣味、の意味を一生懸命推理して、僕は頬のひきつりと戦いながら、言う。

 白鳥さんはにっこりと笑う。

「そう。なら、良かったな」

 チェーンをぶっちぎってでも、自転車でこの場から逃走したい気持ちでいっぱいになった。



 翌日、沢辺さんに電話を入れた。コール音がしばらくしてから、「もしもし。桜木さん、何の用ですか」と陰気な声で沢辺さんが電話に出た。

「今どこ?」

 余計な挨拶をするのももどかしい。それだけ言うと、面食らったのか、もじもじしながら沢辺さんが言う。

「え? えーっと……家に、いますけど」

「今すぐ、機構のダイブルームに来て」

「……は?」

 事態がうまく飲み込めていない様子。が、懇切丁寧に説明してやる気はさらさらない。

「十分以内に家を出て。っていうか、タクシー使っていいから急いで。経費は小春さんのポケットマネーから出るから気にしないでいい」

「いやいや、あの桜木さん、経費よりも事情の説明を……」

 ああ、めんどくせえ。苛々してきて、僕はガラケーに向かってがなり立てた。

「透河さんのダイブが決まったんだよ! 早く来い!」

 電話はしん、としていた。おや? と僕は首を傾げた。切れたか? と思って、受話器に耳を押し当てる。……その瞬間、鼓膜が破れるような叫び声が携帯から発せられた。

「今すぐ行きます!」



 忙しく調査に飛び回る小春さんを説得し、透河さんのダイブが行われると決定したのは、翌日の昼頃だ。僕と白鳥さんで調べまわった情報と組み立てた仮説を、一晩かけて考え抜いた結果らしい。

 小春さんだって、最初はけんもほろろな態度だった。……司令部が反対している以上、同情はするが、組織には従う義務がある。貴重なランクA適正者を失えば、多くの患者に危険が及ぶ。そんな大きな責任は個人で背負いきれるものじゃないし、例え僕らの言い分が正しいにしても、それは組織としての方針のかじ取りが変わってからだ、と彼女は言った。

 予想していた言い分だった。馬鹿正直に訴えたところで、小春さんは情だけでは動いてくれない。ちゃんと僕らは、切り札を用意していた。

「透河さんをこのまま放置して死なせることが、今回の事件の最悪のシナリオだとしたら、どうします? ……あなたの一番嫌いな仕事が山のように増えますよ」

 実利に訴えること。これが小春さんの説得がうまくいった要因だった。


 機構の玄関口で待っていると、しばらくして大層立派な車が玄関に横付けされた。車にさっぱり興味のない僕でも一目で「あ、これ高い……」と分かるピカピカの外車の扉が、乱暴に開く。

 出てきたのは、少女だった。黒い髪をボブにして、黒縁眼鏡にTシャツとGパン姿のラフな格好。目玉が飛び出るほど高そうな外車とは、何の縁もゆかりもなさそうに見えた。

 今度はたたきつけるように扉を閉めると、少女は走り出す。慌てて出てきた運転手が狼狽えているが、振り返りもしない。……なんだあ、あの女の子、と遠目に見ていると、少女はまっすぐに僕の方を目指して走って来た。

「とっとと案内しなさい!」

 沢辺さんの声で、少女が怒鳴った。僕は混乱した。あれ、沢辺さんの声真似? すげーや、すっごいよく似てる! でもなんでそんなことしてるわけ? あれれ?

 訳が分からない、と目を白黒させているうちに気づいた。

 どうやら、僕は初めて沢辺さんのすっぴんを拝んでいるらしかった。



 姿こそ別人だったけれども、中身は紛れもなく姉の方の沢辺さんだった。ダイブルームにたどり着くと、余計な話は一切しない。合間合間に容赦ない罵声と毒舌を飛ばしながら、あの薔薇庭園のウイルスにどうやって対抗するか話し合った。

 普通にやれば、まず端末が壊される。端末が壊れれば、トランスが解除され、ゲートも閉ざされる。帰還不能になれば、僕らの負け。しかも、今度は患者の透河さんの命が危うい。救助を期待しようにも、その前に透河さんの命が持つか怪しい。前回以上に失敗は許されない。

 相手が分かっていて、無策で挑むほど僕らは馬鹿じゃない。端末狙いの対処を筆頭に、大量の茨の捌き方、それから未だに見つかっていないコアの探し方……様々な論点をかわるがわる取り上げて、話題が出尽くした。

 一息ついた頃に、ふと沢辺さんの服装に目がいった。

「君、実は普通の服も持ってたんだね」

 どこにでも売ってそうな服だった。いつものゴテゴテしたドレスとは正反対で非常にシンプルな恰好だった。

「馬鹿にしてます?」

 沢辺さんが眼鏡の弦を抑えて、僕をにらんだ。目を縁どるきついアイラインがないので、その丸くてぱっちりした目で凄まれてもあんまり迫力がない。そうか、今日は化粧する暇もなかったからすっぴんなんだな。

 っていうか、化粧しないでいいのに。普段は不自然なほど白い肌も健康的な色してるし、妙に赤かったり黒かったりする唇も今はさくらんぼみたいな普通の色。地味な黒縁眼鏡も黒髪も、清楚でおとなしい印象を出すのに一役買ってるし……まあ印象だけなんだけど……僕はため息をついた。

「君さあ、もうゴスロリやめようよ」

「はあ? なんでそんなこと、あなたに言われなきゃいけないんです」

 むっと唇を尖らせる沢辺さん。ううむ、やっぱり普通の子の顔だ。……もったいないなあ。

「だってさ。あれ、百害あって一利なしじゃん。着るの面倒くさそうだし、高そうだし、似合ってないし、あとドン引きするし」

「あなたが口を開いても同様のことが言えますね、百害あって一利なしと」

 氷点下の目で僕を見つめながら、眼鏡をくいくい上下に動かす沢辺さん。

「あのですね、似合ってなかろうが、ドン引きされようが、私はどうでもいいんですよ。別にかわいいとか綺麗とかそういうのを目指して着てるわけじゃないで」

「へ? あ、そうなの」

 あれがかわいいと勘違いして着てる可哀想な子だとてっきり思っていました。

「じゃ、何? コスプレ?」

 沢辺さんは露骨に眉をひそめた。

「コスプレなんて軟弱者がするものです」

「はあ」

 なんかよーわからんけど、根深い確執がありそうだ。深く追求しないでおこう。

「じゃ、何なの結局」

「戦闘服です」

「へー、そう戦闘服……戦闘服?」

 脳裏に赤いレンジャーとか青いレンジャーとかが一列に並んでいる映像が浮かびあがった。五人ぐらい並んで決めポーズをして、その後ろでちゅどーんと何か爆発した。脳内映像と一緒に沢辺さんは厳かな口調で言った。

「普段着じゃないですよ、あれは。もう一度言いますが、戦闘服なのです」

「……さようっすか」

 戦隊モノ詳しくないけど、ブラックに限ってあんなひらひらドレス着てた覚えはない。うん、あったとしてもそれは僕の知らない戦隊モノだ。

 沢辺さんが肩を竦める。

「戦闘服というのは死に装束も、兼ねているのです。……どうせなら、好きな服着て死にたいでしょう」

 僕は、ぽかんとしていた。……そうか、そういう考え方もあったのか。僕は素直に感心した。

 ごほんごほんと咳払いする。

「まあ、なんていうかさ……とりあえず、気楽にいこうか」

「気楽に?」

 沢辺さんが眦を吊り上げる。不謹慎だと怒鳴りたそうな眼をしている。

「肩の力を抜け、って意味だよ」

 思わず苦笑。わざわざ注釈をつけないと、伝わらないとは。

「今日はその格好でいいよ。……死に装束なんて、準備しなくていいから」

 じーっと沢辺さんを見つめる。沢辺さんは眉根を下げて、僕から目を背けた。

「分かりましたよ」

 拗ねたように、唇をとがらせている。いい返事、とは言い難いけど、ま

「ウイルスをさっさとぶっ飛ばして、さっさとと帰ってこよう、誰も欠けることなく、さ」

 沢辺さんの目が、ちらっと僕の方を窺った。彼女の視線に気づいて振り返ると、おいたてられた魚みたいに沢辺さんの視線が逃げていく。

「あんまり言うと、死亡フラグが立ちますよ」

 ぼそっと低い声で沢辺さんが言った。僕は軽い声を響かせて笑った。

「それもそうか。……じゃあ、ここまでにしとく。いい人ごっこはしばらくお休みにする」

 すると沢辺さんがふんと鼻を鳴らした。

「ええ、そうしておいてください。それこそ似合ってませんし、ドン引きしますので」

「ああ、はいはい」

 僕の優しさは沢辺さんのゴスロリと同列らしい。肩を竦めた。

 沢辺さんは、むっつりと黙り込んでいる。何、フグみたいに頬膨らませてるんだ? と目だけで、彼女の顔を覗き込もうとすると、思い切り顔を逸らされた。

「本当は、今日……あなたに謝るつもりだったんです」

 耳を澄まさなければ、聞き逃してしまいそうな小さな声だった。

「あなたは、本来関係なかったんです。……巻き込んで、すみません。お電話で一度、言いましたけど、もう一度……いいえ、何度でも言おうと、思ってたんです……けど」

 沢辺さんが、振り返った。

「やっぱりやめました。お礼も、謝罪もあなたには言いません」

 僕はきょとんとして、一度沢辺さんを見やった。

その拗ねたような表情がおもしろかったので、声を弾ませて笑った。

「君も死亡フラグ立てるなよ」



 ゲートが開いた瞬間、既に戦いは始まっていた。

 青白い月が浮かぶ夜空の下では、もはや美しかった薔薇庭園は茨の森に飲み込まれていて、見る影もなかった。無数の茨の蔓が上空に投げ出された僕と沢辺さん、それから小春さんが操る端末の気配に気づくと、目覚めた蛇のように動き出した。

 右手を伸ばすと、沢辺さんの指先に触れた。迷う時間は僕らには、一秒だってありやしない。彼女が手を伸ばして差し出すと、僕はその手首を掴んだ。……沢辺さんの姿が白い光に包まれる。光にとけ込んで姿が見えなくなると、僕の手のひらの中には冷たい金属の感触がある。

 茨は猛烈な勢いで、落下を続ける僕に手を伸ばす。体全身で風を、そしてウイルスの接近を感じつつも、握り締めた短剣を左腕に突き立てる。短剣から迸る黒い炎が僕の血を舐め取り、短かった刃が槌で叩かれたかのように延びる。左腕の苦痛と視界の隅に散った赤い血で【解放】が完了したことを確かめる。……夜空に溶けてしまいそうな黒い刃が赤みを帯び、握った柄にじんわりと熱を感じる。剣の刃は、ランプの炎のような淡い光をともし、徐々にその鮮やかさを増していく。

 眼下の茨の庭園は、遠目に見る分で十分気味の悪い光景だったが、距離が詰まって間近で見ると、鼠一匹潜り抜けられそうにないほどに茨が密集していて、まるで押し寄せてくる津波のようだった。

剣の黒い刃が赤く輝く。

『全部薪にしてやります』

 声に、恐れも迷いも微塵もない。不敵な笑みさえ湛えていそうだ。……【代償】の進行を怖がる素振りはどこにもない。

 熱せられた鉄のように、赤く輝く剣を振り上げる。獣が牙をむき出しにして顎を開くように、茨の大群は僕を包み込もうと頭上に蔓を伸ばす。頭上に影がさし、本能的な恐怖が電撃のように僕の体を走る。しかし、それで驚いて動きを鈍らせるほどではない。

 手首を利かせて、剣を投擲。茨の海に向かってまっすぐに、赤い刃が飛来する。茨は避ける素振りもない。狙い違わず茨の群の一点に剣が突き立つ。刃が貫通した一本の茨が断ち切られ、動きを止める。だが、被害がなかった他の茨の動きは鈍らない。丸腰になった僕を狙って、蔓を伸ばす。……重力に囚われる僕に避ける術はない。剣がないから防御も出来ない。でも、死ぬことはおろか、怪我一つすることはないだろうと思っていた。

 茨に突き立った剣の刃が、白く輝く。目を焼くような強い光に目をすがめる。頬を皮膚が焦げるような熱風が掠め、そして火花がはじける音がする。

 視界を覆い尽くす茨の森が、炎に包まれていた。一つの例外も無く、茨の蔓は鮮やかな紅蓮の炎の中で、茨が黒い影となってもがき苦しむように揺れていた。

 僕が落下していくと、僕の足場となった茨だけ、吹き消されたみたいに炎は失せる。炭クズと化した茨の残骸の上に立って、周囲を見渡せば、一面炎が荒れ狂い、茨の森を蹂躙している。植物が焼ける臭いが鼻を突き、煙の白さが夜空を背景に際だつ。

 まるでこの世の終わりのような、おぞましい光景。【煉獄】が生み出す地獄絵図を再び、一週間も経たない内にこの目に焼き付けることになろうとは。……眼前の光景と、沢辺さんに圧し掛かる【代償】の大きさを想像して背筋に寒気が走る。

 茨の森はほとんど無力化できたが、だからと言って、ゆったりと感傷にふけっている時間はない。

 荒れ狂う炎と茨の中から、黒い刃の剣を探す。すぐに目に止まって、跳躍。剣を取り囲む炎はたちまち静まって、茨の残骸の上に着地。剣を拾うと、声が聞こえてきた。

『コアは見つかりましたか?』

 事務的な口調で沢辺さんが言った。僕は首を横に振った。

「まだ」

『探しましょう』

「どうやって?」

 一面、炎の海の状態では探しようもない。かといって、解除するにはまだ早い。動ける茨が残っているかもしれない。

 返答に間があった。

『待ちましょう。調べるのは、茨が燃え尽きてからです』

 僕は頷いた。

「そうしよう」

 冷静な判断は出来るらしい。僕は安堵した。


 僕らは炎が茨を残らず焼きつくすのを待った。無論、ただぼんやりと突っ立っていたわけではなくて、慎重に周囲を警戒しながら、だ。動く気配のある茨がないか神経を尖らせていた。ここまでやって、不意打ちで端末を壊されたりしては堪らない。小春さんも決して下りてこないように頼んである。

 僕と沢辺さんの間に会話はない。それは気を緩めずに辺りを伺っていたからだし、また、沢辺さんにそこまでの余裕がなかったからだろう。妹の命が掛かっているこの現場で、慎重に待つという選択肢を取れるほど、彼女は落ち着いている。でもそれが精一杯で、本当は今すぐにでも駆け出したいはず。言葉はなく、ちょっとした息づかいから気づけるぐらい、沢辺さんの焦燥を読みとることは容易かった。

 僕だって、もうこれ以上彼女にとやかく言うことはない。ダイブ前に既に言った。同じ事をわざわざ繰り返したくない。だから、沢辺さんが焦っていることを気づかない振りをして周囲を伺っていた。

 やがて燃やせるものが無くなって、炎の勢いが弱まる。辺りに充満する焦げ臭い臭い、白い煙が立ち上る焦土を認め、もういいだろうと判断する。

「とりあえず、探そうか。……でも、警戒はまだ解かないように」

 剣を右手に携えて、ゆっくりと歩き出す。長い待ち時間を使って、簡単にだが、左手は手当しておいたので、血が足りなくてふらつくということはない。万全の状態ではないが、もうしばらく戦える程度に体力は残っている。

 焼けた茨の残骸で、地面は埋め尽くされていた。無数の茨を踏みしめながら、周囲を歩く。足下には細心の注意を払う。足音が変化しないか、足の裏から茨とは異なる硬い感触が返ってこないか、コアの場所の手がかりを見逃さないように神経を尖らす。

 ウイルスがこの精神世界に巣くっている以上、本体たるコアはどこかにあるはず。……でも、果たして僕らに見つけられるのだろうか? 地面の奥深くに埋まっているとか、あるいは上空にぷかりと浮いているとか? 一抹の不安を覚えながら、僕と沢辺さんは無言でコアの在処を探し求めていた。

 そこに、鈴が鳴ったような笑い声が聞こえた。

「そんなところをいくら探したって、コアはありませんよ」

 背後を振り返る。すると延々と続く焦土にいつの間にか、人の姿があった。物音どころか気配すら感じさせずに、影のように現れていた。

 現れた少女の姿を一瞥して、僕は鼻で笑った。

「趣味の悪いことをするね。ただのウイルスのくせに」

 少女は、すっぴんの沢辺さんとそっくりの顔をしていた。ただし、ブレザーの制服姿で眼鏡はなく、髪型も少し違う。沢辺さんを模した少女は首を傾げて、目を細める。

「誤解してません? 私は沢辺です。沢辺透河です。……ね、清河お姉ちゃん?」

 剣から声は聞こえてこない。言葉にならない吐息ばかりが聞こえてくる。……僕は首を横に振った。

「騙されないで、沢辺さん。こいつがウイルス本体だ。……こいつを殺せば、透河さんは救われるんだ」

 剣の切っ先を少女の姿をしたウイルスに向ける。

『分かって、ます』

 消え入るような声で返事がある。……小春さんに話したことは沢辺さんにも話してある。

 電話で僕が話した透河さんは、偽物だ。理由は簡単だ。本物の透河さんなら、言わないはずのことを言った。したがって、あれはウイルスである、と。

 透河さんは、姉が精神世界に囚われていたことを本人から聞いたと言っていた。……だが、現実には、姉は妹に何も言っていない。当たり前だ、久しぶりに目覚めた妹に自分が死にかけた話をするわけがない。ましてや、妹を救うためだったのである。意地でも隠し通すだろう。

 無論、沢辺さんが僕を知っていたように、精神世界でのやりとりを覚えていたという可能性もある。だが、それだと嘘をついた理由がない。素直に言えばいいだけの話だ。

 なら、他にどんな可能性があるか? その結論が、ウイルスだ。今までに例のない、人々の意識を乗っ取るウイルスが透河さんの姿を借りたのだ。

だから理屈は分かっているはず。でも、感情は追いついていない。動揺は手に取るように僕には分かる。

 しかし、それは向こうも同じ。ウイルスは憐憫を誘うような、弱々しい笑みを沢辺さんに向ける。

「お姉ちゃん、騙されないで? 私は透河なの。私は、あなたの妹なんだよ」

 沢辺さんは黙っている。荒っぽい呼吸音だけが聞こえてくる。僕は溜まらず口を挟んだ。

「沢辺さん、耳を貸すな。……こいつはウイルス。君の妹は現実にしか存在しない」

 沈黙が返ってくる。だが、一瞬の間があって沢辺さんが口を開いた。

『ええ……そうです。桜木さんの言うとおりです。清河はここにはいない。ここにいるお前は……清河じゃない』

 声を絞り出すようにして、沢辺さんが言う。苦しげながらも、はっきりとウイルスの言葉を否定する。

 透河さんの姿を模したウイルスは、じっと剣と化した沢辺さんを見つめている。その眼差しは哀れみを誘うような目でも、開き直るって睨みつけるような目でもない。乾いた目をしていた。まるで、縁もゆかりもない他人に向けるような冷たい目だった。

「やっぱり、あなたは分かってないのね」

 少女は失笑した。沢辺さんをあざ笑うように。

「何度だって言うわ、私は間違いなく沢辺透河。あなたの妹。でも、あなたは私のことを知らないでしょう。存在すら知らなかったでしょう」

「何が言いたい?」

 僕は、少女を睨んだ。彼女は優しく微笑んだ。まるで話の分からない子供を相手にしているみたいに。

「私はあなたが知らない部分の、沢辺透河です。現実の沢辺透河があなたから隠し通してきた部分が、私。……わかりやすく言ってあげましょうか? 私は沢辺透河の偽らざる本心なのです」

 歌うような口調で、少女は言う。

『本心……?』

 譫言のように、沢辺さんがつぶやく。まるで熱に浮かされた患者のように。少女は頷く。

「ええ、そうです。だから精神世界にいるのです。ここはいわば私の心の中。現実には出せない本心が姿を持って現れても、おかしくなんてないでしょう?」

 沢辺さんは答えない。……ただ、黙っている。

 危険だ、と思った。これ以上、ウイルスの言葉を聞かせるのはまずい。話はここまでにした方がいい。僕は少女に突きつけた剣を持つ腕を下ろした。少女は僕の腕の動きにちらっと目を向けて、小さく頷いた。

「桜木さんにも分かっていただけたようですね。なら、姉と今すぐトランスを……」

 その瞬間、僕は地面を蹴った。瞬く間に距離が詰まって、無防備に立つ少女の眼前に迫る。剣の柄を硬く握り締めて、頭上へと振り上げる。

「黙れ」

 少女の頭部へ、剣を振り下ろす。黒い刃は違えることなく、旋毛を叩き割ろうとしていた。しかし硬い金属の手応えがあって、刃が弾かれる。僕が驚きに目を見開くと、少女は唇を歪めて笑って僕を見ていた。

 剣の刃は、少女が掲げた左腕で止められていた。鮮やかな緑色をした、指の先まで金属に覆われた籠手が彼女の左腕を覆っていた。

 同時に、僕の右足に何の前触れもなく激痛が走る。まるで不可視の杭を打ち込まれたように、太ももの血肉がはぜる。左足一本で地面を蹴り、後方に飛ぶ。僕が地面を蹴った瞬間に、少女は籠手がはまった左腕を突き出し、その指先が肩を掠める。……無事に着地をすると、シャツの肩口が破けて薄く血がにじんでいる。

「なるほど、お前はやっぱりどう言い訳したってウイルスだよ」

 緑色の籠手に、相手の攻撃を跳ね返す能力。……間違いなく、これは先日車のウイルスによって帰還不能に追いやられ、ついに帰ってこなかったコンビのトランスだ。

 そんなものを持っている奴がウイルス以外の存在であるわけがない。現に、籠手に見覚えはあったが、手の甲の部分に血よりも赤い宝石がはまっている。間違いなく、ウイルスのコアだ。

 少女は肩をすくめる。

「ええ、そうです。だから、さっきから言っているじゃありませんか。私は沢辺透河のいわば本心。……人間である、とは言ってません。そしてウイルスではない、とも言ってません」

 剣の切っ先を少女の姿をしたウイルスに突きつける。

「分かったよ。お前は危険だ。今までのウイルスとは違う。何があっても、絶対に殺さなきゃいけない」

 ゲートを介して他人の精神世界にウイルスを送り込んだり、透河さんの体を乗っ取って自殺を試みたり、挙げ句の果てにはウイルス化したトランスの能力まで使いこなす。……こんなものを放置すれば、今後どれだけの被害が出るか分からない。だから、早いうちに倒しておくべきだ。

 小春さんには不確かなことばかり言ったけれども、無理を言って正解だったわけだ。

 少女はくすくすと声を上げて笑った。

「殺せるものなら、殺してみなさい」

 直後に、少女の姿がふっと消える。目を疑った次の瞬間に、目の前で左腕を突き出しているのに気づいて、右足の痛みをこらえつつ、後方へと飛ぶ。少女は逃げた僕を追う。僕が着地したところにまるで待ち伏せしていたかのように現れ、左腕を横薙に振るう。身を引いて回避すると、今度は突きに変化し、それもステップを踏んで避ける。すると、次は足元を払われるが、これは大きく後方に距離を取って逃げる。少女は攻撃の手を止めて、口を開いた。

「大口叩いたわりには、逃げてばっかりですね」

「ふうん、僕と正面からやり合いたいのか? ならその籠手さえ捨ててくれれば、こっちから行ってやるよ」

 少女の緑色の籠手を見やる。これにはガーディアンの肉体に入った傷と籠手で受けた攻撃を、相手に返す能力がある。返ってくる傷は与えた傷よりも強化されて返ってくる。たとえばこいつの片腕を切り飛ばせば、僕の両腕が飛ぶ、といったように。一撃でしとめなければ、自分の攻撃で死ぬなんてことになりかねない。対ウイルスでは、扱いづらいトランスとして有名だった。上手く籠手で受けるか、あるいは軽微なダメージをわざと負うか、という博打の上でしかまともな攻撃が出来ないのだから。だが、いざ敵に回すとこれほどうっとおしい能力はない。

 しかも、身体能力はどう見ても適正者を上回っている。今のところ、ぎりぎりのところで裁けているが、正直これがどこまで続くかは分からない。剣で弾ければ、もう少しやりやすくなるが、そうもいかない。僕の勝機は相手の攻撃は全部避けた上で、籠手にはまったウイルスのコアを一撃で叩き割ること。……数多くウイルスとは戦ってきたけれども、ここまで勝てる気がしない相手は初めてだった。

 ウイルスは腕組みをして、つぶやく。

「あなたが言うことも、ごもっともです。そうですね、正面切って私と戦うのは嫌ですよね」

「その通りだ、すごく嫌なんだ。……だから自分でそのコアぶち割って死んでくれない? そうするとすごく助かるんだけど」

「すみませんが、別にあなたを助けたいわけじゃないので、断ります」

 ウイルスは苦笑いと共に首を振る。

「じゃあ、こうします。……あなたが嫌でも戦わなければならないように仕向けますので」

 籠手がはまった腕をウイルスは頭上に掲げる。すると、手甲のコアが輝き、深紅の光が周囲一帯を照らし出す。光を浴びて、地面に燃え尽きて横たわっていた茨が、あちこちで蘇る。茨が鎌首をもたげて立ち上がると、ウイルスはにっと唇をつり上げる。

「あまりにもぐずぐずしているようなら、端末を狙います。……早く私を殺さないと、清河諸共帰還不能になりますよ」

 少女の言葉を合図に、茨が蔓を伸ばす。端末が退避している上空へ向かって、じらすようにゆっくりと、だが着実に。

 このまま放置すれば、端末が壊される。だが、かと言って無策でウイルスに突っ込むのは、得策ではない。……なら、茨を全部処分した方が確実。そう考えるのは読まれていたみたいで、少女が考える隙を与えないように突進。思考を手放して、慌てて飛びすさる。籠手の一撃は、茨の残骸を吹き飛ばし、地面を抉る。振り返るやいなや、僕の方へと跳躍、あっという間に肉薄すると、強烈な突きを放つ。僕の左肩にまともに命中、骨が砕ける嫌な感触がして、肉がはぜる。吹き飛ばされる勢いに乗って、後方へと退避。左腕の刺し傷の痛みが霞むほどに、肩が痛い。脂汗が滲む。立ってるのが、つらい。

 こんな化け物、ぼろぼろの状態でまともにやりあえるわけがない。いや、そもそもおかしい。……何で、僕一人で戦っているんだ?

「いつまで、君ぼさっとしてるわけ?」

 右手の黒い剣に、声をかける。

『すみません……』

 弱々しい声が返ってくる。

『その……どうしていいか、分からなくて』

 たどたどしく言うその声に、かちんと来た。

「は? 何、君、ふざけたこと言ってるの? 散々あれはウイルスだって言ってるじゃないか」

『で、でも……』

「桜木さん、それぐらいにしてあげて下さいよ」

 透河さんの顔をしたウイルスが、僕から距離を置いたままで言う。

「清河は、透河をそれは大事にしているのですから。私を傷つけることなんて、できっこないんですから」

「お前は口を挟むな!」

 少女の方を向いて、声をあげる。

『いえ、待って下さい、桜木さん。少しだけ、話をさせてくれませんか』

 沢辺さんが、小さな声で、しかし落ち着いた様子で言った。

『あなたに、一つ聞きたいの。あなたは、透河の本心……私の知らない部分のあの子だと、言った』

「沢辺さん!」

 僕は怒鳴りつけたが、沢辺さんの声は止まない。

『教えてほしいの。あなたが言う、私が知らないあの子の気持ちって何なの?』

 すると、ウイルスは驚いたように目を丸くした。

「あら、言ってしまっていいの? 透河が何故隠していたのか、分かるでしょうに?」

『隠しているからこそ、じゃない』

 沢辺さんはきっぱりと言った。

『私はあの子の隣にずっといたわ。うれしいことも、辛いことも全部一緒に分かち合ってきたの。だから知りたい。あの子が何に苦しんでいるのか、私は知らなくちゃいけない。……助けたいの。あの子を守るのは、私の役目だから』

 僕は口を開き掛けて、止めた。

 もう何を言っても、沢辺さんを止められる気がしなかった。僕ごときでは、彼女の意志を曲げることは出来ないだろうと思った。……それなら、もう彼女の気が済むまで話をさせよう。

 ウイルスは黙りこくっていた。うつむき加減で、目を伏せ、髪で表情は伺えない。

「そういうところが、大嫌いなのよ」

 ぽつりとウイルスが言った。

「清河はいいよね。強くて、まっすぐで、迷いがなくて。……私とはまるきり正反対。弱虫で、ひねくれて、迷ってばっかりの私とは大違い」

 透河さんの姿をした少女は顔をあげた。その目は僕が握る黒い剣に向けられている。

「私を見下してるんでしょ? 優越感に浸ってるんでしょ? ねえ、どう? 出来損ないの双子の妹を見ているのは、楽しい?」

 少女はすっと目を細める。刃物のような鋭さを帯びて、沢辺さんをにらむ。

「私を救いたいとか、守りたいとか、ふざけてる。……私はあんたに救われるなんて御免なの。それぐらいなら、死んでやる。あんたに救われる前に、自分で自分を殺すわ」

 そう言って、少女は一度目を閉じる。ややあって、目を開けると今度は優しい微笑をたたえて、沢辺さんを見つめていた。

「残念ね、清河お姉ちゃん。……あなたが命懸けでやっていることは、全然望まれていないの。全部、あなたの自惚れよ」

 慰めるような柔らかい声で、少女は言う。ここ一月の間の、いやそれよりもっと前に遡って、姉を否定する。

 あんまりだ、と思った。命を掛けて守ろうとした人に、全てを否定されるなんてひどすぎる。……僕は剣の柄をぐっと握りしめる。

「こいつの言うことに、耳を貸しちゃいけない。君をたぶらかそうとしているだけだよ。……こんなの全部、真っ赤な嘘だ」

 手のひらに冷たい金属の感触が伝わってくる。沢辺さんは何も言わない。まるでただの剣のように、声は聞こえてこない。

 笑い声が聞こえてくる。口元に手を当てて、さもおかしそうにウイルスが笑っていた。

「お優しいんですね、桜木さん」

 僕は答えない。ただ、ウイルスに一瞥をくれてやるだけ。人をかどかわす化け物と話すことなど、何もない。

 しかし、ウイルスはまだ笑うのを止めない。笑いながら、僕の方を向いて語りかけてくる。

「あなたこそ、分かってるんでしょう? 私が本当のことを言っている、ということを。救われたくない、という私の気持ちを誰よりも理解しているのは、あなたですから」

 僕は沈黙を守る。違うと大声を出したいのを唇をかみしめて堪える。実際はウイルスが言う通りであっても、言ってはいけない。

 救われたくないと願っているのは、僕も同じ。ただ静かに、消え入るように、いつか姿を消したい。邪魔をしないでくれと憤りすら覚えているのは、多分否定しようがない。

 でも、口に出してはいけない。間違っているのは、僕であって彼女たちじゃない。それは僕だけじゃなくて、透河さんだって同じ考えでいるのだろう。今日この日まで隠し通してきたからこそ、沢辺さんの知らない本心として、語られているのだ。

「あれはただのウイルス。……君の妹とは何の関係もない」

 同じ事を何度も繰り返すしか、僕には出来ない。どこかに真実が含まれているだろうと確信していても、嘘だと言い続ける以上に出来ることはない。

 周囲は水を打ったように、静かだった。肩口から流れ出る血の感触が、熱を持った傷口が、いやに意識された。のたうち回りたくなるような激痛は、鈍い痛みへと変わっていた。一方で、時折視界がちらつく。意識が遠のいてきていることに気づかされる。

『いいんですよ、桜木さん。……あなたは気づいているんでしょう。これは、本当のことなのだと。無理に否定する必要はありません』

 沢辺の声が聞こえてきた。川のせせらぎのような、不思議と穏やかな声だった。……僕は驚いて、剣を見やった。

『妄言には耳を貸しません。でも、本当のことから目を背けるのは、違うでしょう。……あなたがそう信じているなら、私も今の言葉を信じることにします』

「待ってくれ。一言も、本当のことだなんて言ってない」

 必死になって、僕は叫んだ。しかし、返ってきたのはかすかな笑い声だった。

『あなたは、隠し事が壊滅的に下手ですので。言わなくても、筒抜けですよ。……私を庇ってくれていることぐらい、分かりますって』

 苦笑だった。……僕は言葉に詰まった。情けなくなって、呆然と立ち尽くした。

「さすが、私のお姉ちゃん。潔いね。今まで自分が失ってきたものが無駄だって、逃げずにちゃんと認めたね」

 小馬鹿にしたように、ウイルスが言う。更に顎を引くと、声を落として、

「馬鹿だね」

 ぼそりと付け加える。唇は笑みの形をかたどっていたが、目は笑ってなどいなかった。

 沈黙が下りる。沢辺さんは何も言わない。弁解も、反論も、何一つしない。

「沢辺、さん?」

 囁き声で、呼びかけてみる。……剣はやはり沈黙していた。もう一度呼ぼうとしたそのとき、沢辺さんの声が聞こえた。

『目を瞑って下さい。合図を送った瞬間に』

 周りに聞こえないように、最低限に絞った声だった。「え?」と聞き返そうとすると、「しっ」と静かにするよう促される。わけも分からず、黙らされると、沢辺さんが声を張り上げた。

『教えてくれてありがとう。感謝するわ。……透河の本心はよく分かった』

「それは良かった」

 ウイルスは顔をほころばせる。

「じゃあ、私が言いたいことも分かるよね。……大人しく帰ってくれるよね? 透河を見捨ててくれるんだよね?」

 弾んだ声でウイルスが言う。透河さんの声で無邪気に喜んでみせる。

『ええ、そうね。透河の願いなら仕方ないわね』

 声と同時に、刃の色は変わらぬまま、剣の柄がじんわりと熱を帯びる。……合図はこれだ。急いで目を閉じる。僕が目を瞑るのとほとんど同じタイミングで、沢辺さんが叫んだ。

『んなわけねーだろうが、バーカ!』

 沢辺さんの怒声が響きわたる。……僕はここに至って、沢辺さんの意図をくみ取る。

 視界が真っ黒に塗りつぶされた中で、地面を蹴る。足がふらつきそうになったが、最後の力を振り絞って、ウイルスめがけて飛び出す。

 キン、と耳鳴りのような音がした。直後に透河さんの声のくぐもった悲鳴が聞こえる。風を切って跳躍する途中で目を開けると、両目を押さえて無防備に立ち尽くすウイルスの姿がある。

 狙いは、目を押さえる左腕の籠手。神経を研ぎ澄ませて、手甲に輝く赤いコアへ刃を振り下ろす。

 刃が触れる寸前になって、両目から手をどけて、ウイルスが顔を上げる。

 信じられない。めいっぱいに見開かれた瞳が、そう語っている。

 狙い違わず、剣の刃が籠手にはまった赤い宝石を砕く。砕かれた欠片が舞い散る中、剣から声が聞こえてきた。

『透河を傷つける奴は誰であろうと許さない! 例え、それが透河本人であったとしてもね!』


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ