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第三章 誇りを胸に

 沢辺さんとコンビを組み始めて、三週間が経った。毎日休むことなく、ダイブを繰り返していく。ランクCを一週間で三十件ほどこなしてから、ランクB対象へと昇格。二週間で、もう六十件に達しただろうか。

 その間も、一日も欠かすことなくゴスロリ衣装、化粧もばっちり、しかも髪の色やら長さもころころ変えてやってくる。一回、「それ毎回染めてるの?」と聞いたら、「ウィッグに決まってるじゃないですか。あ、ひょっとして、ウィッグって言葉も通じませんか?」と思い切り馬鹿にされた。うるせー、要するにヅラのことだろうが、格好つけんな。

 とにもかくも、彼女のラフな姿を僕はまだ一度も見た記憶がない。化粧落として、普通の服着ていたら多分、誰か分からないだろう。ちょっと素顔が気になるところ。

 そうして、沢辺さんの素顔を拝む前に、ランクA討伐許可が下りた。初めてのランクA患者へのダイブが今日なのだった。

「許可が遅すぎます。ランクAなんて、一週間あれば到達できていましたよ」

 ダイブ開始予定時刻まで、後五分。ダイブルームでダイブポッドに腰を下ろして、沢辺さんが言った。

「慎重なんだよ、小春さんは。ああ見えて、適正者の管理についてはあの人すごいシビアだから」

 最初のダイブは前代未聞の無茶ぶりだったが、あれは司令部の意向らしく、小春さん自身は大反対していた。最初のダイブ以降は、彼女本来の慎重さを発揮している。

 沢辺さんは軽く頬を膨らませて、ぷいと顔を背けた。

「納得行きませんね。適正者の実力に応じたウイルス討伐許可を出すのが、オペレーターの仕事でしょう? 万が一事故が起こった時に責任をとるのが怖いだけでは?」

 僕は苦笑した。

「そんなことはないと思うんだけど」

 オペレーターの評価は、担当しているコンビの戦績によって変わる。確かに建前としては、適性者の命最優先ではあるけれど、出世欲の強いオペレーターだと、多少の危険を冒してでも結果を出すことを優先する。対して、出世欲皆無の小春さんは、石橋を叩いて渡る、という言葉があるけど、叩いても渡らないんじゃないかというぐらい用心深い。

 適正者の帰還を第一に考えるべきオペレーターとしては、模範的な態度である。理由を尋ねたら「始末書書くの、どれだけ大変か分かってる?」とのことだったが、とりあえず僕ら適正者としてはありがたいオペレーターであることに異論はないだろう。

「オペレーターって変えられないんですか? このままあの人の下だと、実力相応に評価されない気がするんですけど」

 えらく辛辣な意見だ。小春さんが聞いたら、ちょっと気を悪くするかな? まだ彼女と連絡がつながってなくて良かった。

 ただ、沢辺さんの態度は理解できる。

「仕方ないって。……焦っていいことなんかない」

 そっぽを向いた沢辺さんが、振り返った。唇を尖らせて、僕を軽く睨んでいた。

「焦ってません。言いがかりです」

 声が冷たい。本気で怒っているのが、言葉の端々から伝わってくる。……ああ、焦ってるな、と確認する。でも、それを口にすると沢辺さんは怒る。焦ってなんかない、とムキになって否定する。

「はいはい」

 聞き流すふりをして、ダイブ開始時刻が来るのを待つ。



 結局、沢辺さんが機構に入った理由を知っていることをまだ告げていない。それは僕の方だって同じ。彼女の中では、僕が機構に入ったのは金のため。

 話すことと言えば、白鳥さんとの仲をときどき茶化されることを除けば、大して中身のない悪口のたたき合いに終始している。

 三週間で戦闘の呼吸は大分合うようになってきたけれども、現実での絆が深まったようには思えない。


 澄み切った青い空の下には、小麦色の砂漠が広がっていた。隣の沢辺さんが左手でひさしを作って、眩しそうに空を見上げた。

「意外と熱くはないですね」

 体感は現在四月末頃の現実とあまり変わらない。精神世界は、本物の昼間の砂漠と気候まで似せるつもりはないらしい。

 乾いた風が吹きつけてきた。風は砂塵を派手に巻き上げ、僕らの服もはためく。目に砂が入らないように手で覆っていると、指の隙間から沢辺さんが左手で目元を覆って、ドレスの裾を右手で押さえているのが見えた。無駄なことをするなあ、と思った。

「あのさ、君のカボチャパンツ見えても別に欲情したりしないから、右手こっちにやってくれない?」

「分かりましたはいどうぞ!」

 さっと足をどけると、鋭く尖ったブーツのヒールが振り下ろされ、砂の中に埋まる。

「あのさ、右足で僕の足を踏みつけろとは言ってないんだけど」

 ちっ、と舌打ちの音が響いた。

『だから、あんたたちはどうしていつもそうなの』

 小春さんの呆れ声が上空から振ってくる。

「沢辺さんがだいたい悪いんです」

「桜木さんが一切合切悪いです」

 ほとんど同時に、僕と沢辺さんが答える。

『ああ、はいはい。あんたたちの仲の良さは分かった、分かった』

 風が止んで、沢辺さんが右手を僕に差し出す。彼女の手を取ると、沢辺さんの姿が光に包まれる。彼女の姿が消えて、黒い短剣が僕の手の中に現れる。

「で、音声は通ってるみたいですが、画像はどうです?」

『鮮明。ウイルスの気配は?』

「ありません」

 視界を遮る障害物は一切無い。にも関わらず、ウイルスの姿は欠片も見えない。

『警戒しなさい。見えないということは、恐らく……』

 足下にかすかな揺れを感じた。僕は柔らかな砂の地面を蹴りつける。

 地面が遠ざかり、空の青に向かって舞い上がる。短剣を握る右手に力を入れる。

「来ました!」

 巨大な触手のようなものが、砂をまき散らして、地面から突き出される。……いや、巨大ミミズというべきか。直径は大人が三人ほど手をつないだぐらいはあって、全長はまだ分からない。どれだけまだ地面に埋まっているのやら。

 ミミズの胴体が鞭のようにしなって、空中の僕らを狙う。上から振り下ろされた一撃目は、身を捻ってすんでのところで回避。横殴りの一撃は、頭を下げて回避。……ミミズの皮膚を掠めた黒い短剣の軌跡に沿って、緑色の体液が空中に糸を引く。ミミズは痛みに悶えるように、僕らを放置してぐにゃぐにゃと体をひきつらせる。

「ふむ。悪くない手応えかな」

 自然に任せて落下しながら、呟く。

『もう【解放】切ります?』

「悪くはないかな。多分、【解放】すれば胴体は一撃で両断できるだろうし。……でも、コアも見つかってないし、それにまだ隠し玉があるかもしれない」

 ちらっと足下に視線をやる。延々と広がる砂漠から、ミミズの胴体がまるで歪な塔のようにそびえ立っている。もう十メートルは軽く露出しているが、胴体はまだ砂の奥に続いているように見える。

『じゃあ、様子見?』

「そうだね、無難にいこうか」

 会話が一段落したところで、痛みから立ち直ったのか、斜め下からの突きの一撃が来る。……この一撃は、大して身動きのとれない空中では避けられそうもない。かと言って、迎え撃つには【解放】が不可欠だ。……刹那の時間、対応を思案する。結論は出た。短剣を逆手に持ち替え、わずか数メートルまで迫りつつあるミミズに向かって、振り上げる。沢辺さんが息をのむ音が聞こえた。

『ちょ、ちょっと桜木さ』

「ごめん、しばらくさようなら」

 振り上げた短剣を、そのまま投擲。沢辺さんの甲高い悲鳴と共に、短剣が飛来。狙いを違えることなく、突き出されたミミズの胴体に命中。刃が半ばまで埋まって、ミミズは胴体を振り回して、のたうち回る。

 その間に地面に膝をたわめて、着地。ミミズから距離を取って、上空を見上げる。青い空を背景に、ミミズの胴体が気味悪くうねっていて、その更に上空、ミミズが届きそうにない高度に端末がぽかりと浮いている。遠すぎてほとんど点にしか見えない。

『何、あなたのんびり高見の見物決め込んでいるんですか! 早く来なさい!』

 沢辺さんの怒鳴り声が綺麗に晴れた空に響く。熱くはないが、太陽の光の眩しさは現実準拠らしい。目を細めて、ひさしを作る。うわー、あれってきっとジェットコースター並の速度の観覧車に乗っている気分だろうな。

「ごめんごめん、行けるようになったら迎えに行くから。それまでちょっと我慢してね」

『ふざけんじゃないです! 今すぐきなさ……』

 沢辺さんの怒号が、耳をつんざくような悲鳴に切り替わる。散々振り回された短剣が抜け、ミミズの胴体から投げ出されて空中を舞う。

 助走をつけて、跳躍。放物線の軌跡を描いて跳んでいく最中で、短剣を回収。乱暴に殴りかかってきたミミズの一撃を軽く回避し、お返しに短剣の刃を振るう。分厚い皮膚を切り裂き、緑の体液が刃先を濡らす。ミミズが痛みに身をくねらせるうちに、着地。短剣をふるって、血糊を飛ばす。

「沢辺さん、お疲れさま。悪いね、他に手がなかった」

『今すぐトランス解いて、あなたをぶん殴りたいんですけどいいですか、もちろんいいですよね?』

 沢辺さんの声が怒りで震えていた。

「ああ、今忙しいから後でね」

『覚えてなさい』

 地獄から響いてきたような、物騒な声だった。おお、怖い怖い。

 が、のんびり怖がっている間も無かった。……頭上に影が差していた。緑の体液が垂れていないまっさらなミミズの体――先端に血のように赤い宝石をつけている――が振り下ろされようとしていた。

 後方へ跳躍、目前にミミズの尾だか頭だか分からない先端が叩きつけられる。続けざまに跳んだ先の地面が持ち上がる。砂に埋もれていたミミズの身体が姿を現したのだ。迷わず飛び降りる。その着地の隙を狙って、緑の体液をまき散らしながら、地面を水平に払うミミズの胴体が迫る。

 頃合いだ。――僕は右手の短剣を振り上げる。無論、狙いは僕の左腕。

 僕の腕に刃が達する刹那の時間に、黒い炎が短剣を覆う。炎を纏った刃が皮膚を破り、肉に達し、赤い血を散らす。腕を貫く痛みを振り切り、刃を引き抜く。短剣の刃が伸び、剣へと姿を変える。

 同時に、剣の柄から黒い炎が吹き出し、刃の先端までを覆う。迫り来るミミズの身体に向かって、刃を水平に薙払う。紙を裂くようにミミズの身体はぱっくりと上下に分かれる。肉の断面と溢れる緑の血だまりが見えたが、次の瞬間、剣に纏う黒い炎がミミズの身体を走る蛇となる。

 炎が、一瞬でミミズの身体を焼き付くし、焦げ臭いが鼻を突く。肉の断面は黒い炭となり、溢れた体液は白い煙と姿を変える。動く力を失い、炭くずとなり果てた身体が砂漠に崩れ落ちる。これで、ミミズの半分――最初から姿を現していた部分は倒した。

 このひと月で、沢辺さんも大分連携が取れてきた。能力を使うタイミングを弁えてきた。まあ、悪くない動きだ。

 ただ一つ難点を挙げるなら、能力を簡単に使う傾向がある。使わなくても、僕でなんとか出来るだろうという場面でも使ってしまう。今の場面もそうで、炎の蛇を出さずとも、胴体を仕留めることは出来たはず。

 一回、はっきり言った方がいいかもしれない。まだ慣れてないだけだと思って、しばらく様子を見ていたが、手を出すタイミングとそうでないタイミングを見極める術を身につけるべき頃合いだろう。

 悠長に評価をつけている場合じゃなかった。もう半分残っている。コアを壊すまでがウイルス退治だ。

 見れば、宝石のついた先端が勢いをつけて、地面に戻ろうとしている。逃げられて時間を稼がれると、【解放】をすでに切った以上、不利になるのはこちらだ。……ミミズを追うべく、駆け出す。

『追いかける必要はありません。放置しましょう』

 沢辺さんの声が短剣から聞こえてきた。僕は足を止めた。

「え、逃がすの? 何で?」

 地面の中に逃げられては、刃も炎も届くまい。短期戦で蹴りを付けなければならないことだって、もう重々承知しているはずである。

 横目で見ると、ミミズの先端はすでに地面の中へと潜り込んでしまった。炭化せずに残った身体も、次々と砂漠の地面の中へと逃れていく。無事な部分が残らず逃げ出すには、あと十秒もいらないだろう。

『逃がすんじゃないですよ。確実にしとめるためですって』

 沢辺さんの声は弾んでいた。まるで、新しいおもちゃを前にした子供みたいに。

 すると、剣の黒い刃がまるで熱された鉄のように赤い輝きを放つ。切っ先から白い煙が糸を引き、触れるもの全てを焼き尽くしてしまうように見えた。

『それを地面に刺してください。……新技のお披露目です』

 こみ上げる笑いを堪えているような声で、沢辺さんが言った。僕もこんな状態を見るのは初めてで、何がどうなるのか知らなかった。

 剣の届かない距離に逃げられた以上、言うとおりにするしかない。赤く発光する刃を掲げ、砂が覆う地面へと突き刺す。……剣に灯っていた赤い光が、刃を経由して地面の中へと流れ込んでいく。

 次の瞬間、地表で風が巻き起こる。肌を焦がすような熱を帯びた風が、嵐となって吹き荒れる。剥き出しの顔面の肌を、左手を掲げて守る。

 狭まった視界で、足下が赤く発光するのを捉えた。腕をどけると、見渡す限りの地面が、まるで熱された鉄のように赤く光輝いていた。

 嫌な予感が、した。これ、もしやこの精神世界全体を覆っているんじゃないのか? そして、この威力は……?

 しばらく、辺り一帯静まりかえっていた。物音一つせず、静寂に支配されていたのだけれども、地面が元の小麦色に戻り、剣が赤い光を失い、元の黒い刃へと変わったころ、ぐらりと地面が揺れた。砂塵が大量に巻き上げられ、振り返ると、信じられない光景が広がっていた。

 ミミズが地表に姿を晒して、鮮やかな赤い炎の中で踊り狂っていた。残った身体をばたつかせて、声なき悲鳴を上げていた。

『地面の中を灼熱地獄に変えてやりました。灼熱のサウナ風呂に放り込んでやったようなものですね。気持ちよくはないでしょうけど。……【煉獄】とでも、名付けましょうか』

 満足げに沢辺さんが言う。

 僕は呆然と燃え上がるミミズを眺めていた。炎の中でミミズはのたうち回っていたが、徐々に動かなくなっていった。

 上下まっぷたつに分断されたミミズの化け物の死体が、二つの炭くずの塊となるまでに時間はかからなかった。


 ミミズが燃え尽きるまでに多少の時間があったので、右腕の袖を破って左腕の止血をしていた。改めてコアを破壊したのは、完全に動かなくなったのを確認してからだった。

 コアを破壊すると、剣が白い光を放つ。剣の形が崩れて、沢辺さんの姿が現れる。

「どうです、この威力、それに範囲。私にかかれば、Aなんか雑魚ですよ」

 ミミズの死体を見ながら、得意げに沢辺さんが笑っていた。僕は冷ややかに、その横顔を眺めた。

「君がすごいのは、よく伝わった」

 ここまで広い範囲に、致命的な効果をばらまける能力を発揮できるトランスは早々いない。沢辺さんは優れたトランスの素質の持ち主だ、今の技を見て改めて認識させられた。

「でしょ?」

 上機嫌に沢辺さんが言った。テストの点を誉められた子供みたいに、屈託のない笑みだった。……僕は呆気にとられた。

 馬鹿か、と思った。彼女の笑みを、冷ややかに見つめた。

「どれだけ代償が必要だか、分かってる?」

 笑みが凍り付く。ほころんだ唇は引き結ばれる。沢辺さんはすっと、僕から目を逸らした。

「代償を恐れているようじゃ、適正者なんてやってられませんよ」

「確かに必要な場面で、【解放】や特殊能力を使えない適正者なんていらない。使い物にならないね」

「ほら、桜木さんも同じ考えじゃないですか」

 沢辺さんが、きっと眦をつり上げて僕を睨む。

「一緒じゃない」

 僕は疲れた声で言った。

「必要な場面で、と言ったでしょ。必要ないところで使うのは、必要な場面で使わないのと同じぐらい馬鹿げてる」

「あなたに文句を言う資格はありませんよ」

 沢辺さんは首を横に振った。

「【解放】をむやみに連発したなら、謝りますよ。その時は、あなたまで巻き込んでいるのですから。……でも、今回は関係ないでしょ? 特殊能力の代償を払うのは私であって、あなたじゃない」

 僕はがっくりと肩を落とした。呆れた。

「あのね、そういう問題じゃないの」

「じゃあ、どういう問題なんです?」

 わざとらしくため息をついて、沢辺さんが言う。

「むしろお礼を言う立場じゃないんですか? 私が特殊能力を切ったおかげで、あなたは危ない橋を渡らずにウイルスを退治できたんだから」

 僕は鼻で笑った。

「君が寝てても、あの場面は勝てたよ。そんなものを恩着せがましく言われてもね」

「喧嘩売ってます?」

 沢辺さんの握りしめた拳が、震えていた。僕はやれやれと肩をすくめた。

「金にならないものは売りません」

「ふざけないでください!」

 沢辺さんが金切り声で叫んだ。目には煌々と、怒りの炎が灯っている。どうやら本気で怒り出したみたいだった。

 逆に、僕はそれで溜飲が下がってしまった。それどころか、笑いさえこみあげてきた。

「あのさあ、沢辺さん。僕ね、アドバイスとか説教とか、するのもされるのも嫌いなんだけどね。もう一回、言っておくよ」

 喉までせり上がってきた笑い声を、かみ殺しながら言う。

「君は、焦りすぎ。……もう少し、肩の力抜いたらどう?」

 彼女の唇が、震えた。彼女の瞳は憎しみを込めて、僕を睨んでいた。

「じゃあ、あなたは大切な家族が死んでいくのを、大人しく見てろと言うのですか」

 声ははっきりと怒気を孕んでいた。

 続く言葉は、ない。ただ、彼女の据わった目つきが雄弁に心情を物語っていた。

 さて、どう言うか。沢辺さんをいたずらに刺激しても意味がない。僕は慎重に言葉を選んだ。

「気持ちは分かる。そりゃあ、大事な人を前に手をこまねいているのは苦しいよ。自分にできることがあるなら、なんでもやるって思うかもしれない。……でもさ、君が無茶したからって、大事な家族が救われるわけじゃないでしょ?」

 沢辺さんの剣呑な瞳を、まっすぐに見つめながら言う。

「確かに、ランクAまでは努力次第でダイブ許可は出るよ。でも、ランクSは前代未聞だ。まだ誰も許可を得たことのない、化け物なんだ。いくら並外れた力を示そうとも、機構の方針が変わらない限り、許可は出ない」

 適正者に犠牲が出れば、多くの患者の命が危険に晒される。……適正者の身の安全を最優先する機構の判断基準が変わらない限り、オペレーターの支援なくして精神世界にダイブすることが出来ない僕らにはどうしようもない。

「何やっても無駄だ、諦めろ、とは言わない。でも、自分がやろうとしていることがどれだけ難しいことで、望みが薄いものかは理解した方がいい」

 沢辺さんの妹の病状が進行しきるまでには、あと三ヶ月ぐらい。今は五月中旬で、小春さん曰く妹さんが倒れたのは二月頃。リミットは八月頃。たったの三か月で、機構の方針を一変させるなど、夢物語に等しい。

 沢辺さんは僕から顔を背けた。目線を足元に落とし、彼女は顎を引いて俯いた。

「どうして、あなたは私のことを認めてくれないんですか?」

 独り言をいうような、口調だった。彼女はかすかに、笑っていた。

「私、良かったと思ってたんです。あなたと組むことが出来て。……あなたみたいな強い人と組むことが出来れば、あの子を救うことぐらい、きっと簡単なんだって」

 自嘲の笑みだった。

「だって、私の時は、あなたは瞬く間にウイルスを退治したじゃないですか」

 唇を苦しげに歪めて、沢辺さんは胸を抑えた。

「だったら、透河のこと……妹のことだって、難なく助けてくれるって。あっさりとウイルスなんか倒してしまうんだって」

彼女の頬を涙の滴が滑り落ちていく。唇は静かにわなないて、目元を抑えた。

 わけが分からなかった。彼女が何を言っているのか、理解できなかった。

「待って。……私の時は、ってどういう意味?」

「甲冑の化け物を倒したときが、あったでしょう」

 目元を指で拭いながら、沢辺さんが言った。

「それは私の精神世界での出来事です。……私、妹と同じタイミングでフラメア病を発症したんです。そのとき、私はあなたを見ました。朧げにですが、その時のこと、覚えているんです。……あなたの強さははっきりと覚えています」

 そう言って、沢辺さんは涙に濡れた瞳を僕に向けた。

「受験中だって、適正者の戦いはたくさん見てきました。でも、あなたのようなガーディアンはいなかった。瞬く間に、ウイルスを葬り去ることなんて誰にもできなかった。……一体、どんな人だろうって思っていました」

 沢辺さんはぎゅっと拳を握る。

「けど……」

 握った拳が白く色を変える。

「見込み違いだったみたいですね。……確かに、あなたは強いかもしれない。けど、言ってしまえば、それだけ」

 沢辺さんが顔を上げる。

「あなたは、何のために適正者として戦っているのです?」

 肌が粟立つような、冷たい怒りを宿した目だった。強さを生かそうとしない僕に対する苛立ちと嘲りが、ぞくりと背筋に染み渡る。……僕はその怒りの意味を、ようやく理解した。

 ああ、そうだ。最初に出会ったときから、彼女は僕に問いかけていたじゃないか。何故、適正者として戦うのか、と。あれは純粋な疑問、あるいは好奇心の発露として訊ねていたのではない。もっと重要な……妹を救う希望さえ託して、あの問いを発したのだろう。

 唇がいつになく、重たかった。まるで枷をつけられたかのよう。それでも、難儀しながらも僕はゆっくりと口を開く。

 かすかな微笑をたたえて、沢辺さんの、涙の筋が光る顔を見つめる。

「やっぱり、思うよ。……君は適正者には向いてないんじゃないかな」

彼女の瞳が鋭く僕をとらえる。

「どういう意味です」

「余計なことを考えすぎるところさ」

 僕は間髪入れずに答えた。

「そういう奴は、長く生き残れないよ。……自分で自分を傷つけても、尚生きていられるような甘いところじゃないから」

 ぴくりと沢辺さんの肩が跳ねる。僕はそれをしっかりと確認してから、先を続ける。

「適正者なんて、止めた方がいい。君自身のためにね」

 沢辺さんがぐっと、唇をかみしめる。

「うるさい」

 握りしめた拳も白く染まり、ぶるぶると震えている。その様を横目で見ながら、畳みかけるように言う。

「それから、君と同じように君を大切に思う妹さんのためにも」

 かみしめられた唇が、小さく開いた。

「あなたにだけは、言われたくない」

 震える声で沢辺さんが呟いた。

 彼女は僕に背を向けた。砂を踏む乾いた音とともに、歩いていく。僕の顔も見たくない、という風に。

 僕は立ち尽くして、彼女の背中を見送っていた。追いかけるつもりはなかった。追いかけても、火に油を注ぐ行為に過ぎないから。

 不憫なものだ、と思った。……どうして、僕みたいな人間に憧れなど抱いてしまったのだろう。可哀想でならなかった。

「ままならないな……」

 ため息とともに、独り言がこぼれる。……砂地に腰を下ろす。太陽の熱を蓄えた砂の心地よいぬくもりが布越しに感じられる。ここが精神世界でさえなければ、寝転がって昼寝でもしたいぐらいだった。

 沢辺さんもまた、地面に腰を下ろしていた。膝を抱え、うなだれた後姿が見える。彼女の丸めた背が視界に入った。……あんなに彼女の背は小さかっただろうか? 少し距離があるからだろうか、それとも今の彼女の心細さが目についただけだろうか?

 彼女の背の小ささに気づいて、ようやく僕は彼女が求めていたものに思い至った。……きっと、妹を救うという目的を共有する理解者が欲しかったのだ。言葉を選ばなければ……彼女は自らの理想を実現する英雄のお迎えを待っていた。無論、物語に出てくる無能な姫君とは違うのは、彼女なりの努力もしていたところだけど、本質は多分違わない。

 しかし、残念ながら現実は違う。彼女の英雄は存在しなくて、妹さんを救うのは無理だろう、と最初からやる気のない輩が相棒となってしまった。……彼女の後押しをするどころか、とっととやめろとまでそいつは言う。

 繰り返すが、僕は沢辺さんのことを不憫に思う。彼女は夢を見る相手を決定的に、間違えてしまったのだから。けど、僕にだって彼女には言いたいことがあるのだ。

 もう少し考えてほしいのだ。彼女たち自身の身体や将来のことを案じている人がいる、ということを。沢辺さんが妹を救いたいと思っているのと同じように、妹さんだって沢辺さんのことを案じているだろうということを、考えてほしいのだ。

 傷つくぐらいなら、助けにきてほしくない。それぐらいなら、どうか頼むから見捨ててくれ。自分のせいで誰かが傷つくなら、助からなくたっていい。むしろ、助かりたくない。

 ちゃんと、彼女にはまっとうな将来があって、ごくごく普通の幸福が待っているのだから。たった一人のために、その全てを投げ捨てないでほしい。そんなことをされても、そのたった一人は嬉しくもなんともない。……ただ、悲しいだけだ。

 僕は沢辺さんを見ているのが少し怖い。

 だって、白鳥さんとだぶって見えるところがあるから。彼女と重ね合わせて考えてしまうから。僕が彼女を傷つけている事実を、どうしようもなく思い返してしまうから。

 ぼうっと、考えていた。うずくまる沢辺さんを見ながら、彼女の行為の虚しさについて思いをめぐらせていた。……考え事に集中しすぎていたのだ。

 だから、砂漠に一輪の花が咲いた瞬間を、僕は見ていなかった。

 沢辺さんの丸くなった背中のすぐ後ろに、何か棒状のものが現れた。距離があったので、目を凝らしてみてやっと分かった。タンポポの花に見えた。黄色い無数の花びらに、青々としたぎざぎざの葉っぱ。砂漠に唐突に現れた花に、僕は目を疑った。

 タンポポが咲いたのは、一輪だけではなかった。早送りを掛けたように、次々とタンポポが花をつける。あっと言う間に、沢辺さんは即席のタンポポ畑に囲まれる。

「後ろ!」

 叫び、地面を蹴る。沢辺さんの方へと、まっすぐに跳躍する。

沢辺さんがおもむろに振り返る。そして、自らを取り囲むタンポポの花の群れに目を剥き……彼女の足元の地面が消滅する。突如現れた、ぽっかりと空いた穴に沢辺さんの姿が飲み込まれていく。

開いた穴の淵に、降り立つ。僕は必死になって、穴の中へ手を伸ばす。

「沢辺さん!」

しかし、沢辺さんは手を伸ばさない。涙で濡れた目はどこも見ていなかった。曇った鏡のように虚ろで、何も映っていないように見えた。

 沢辺さんの姿が遠ざかる。彼女は身じろぎもしない。彼女の装いもあって、その様はまるで人形がゴミ箱に打ち捨てられたように思われた。……沢辺さんは、やがて暗闇に飲み込まれて見えなくなった。

 僕は茫然と、ぽっかりと空いた穴の暗闇を見つめていた。どれほど見つめても、決して見通せない闇を何とか見通そうと、目を見開いていた。

「沢辺さん……」

 自分の掠れた声が穴の中に響く。しかし、返事はなく、僕の声は虚空に吸い込まれるように消えた。

『沢辺は、まさかそのゲートの中へ?』

 小春さんの声がした。振り返ると、端末が手を伸ばせば届く距離にまで下りてきていた。

 僕は答えられなかった。頭がぼうっとしていて、ただただ縋るように端末を見つめることしか、出来なかった。

 沈黙が広がる。僕は口を利くこともできず、そして小春さんは何も言わない。……静寂がこの場を支配したのは、わずか数秒のことだった。

 リズムカルな、打鍵音が端末から聞こえてきた。

『ゲートを開くわ。設置終了しだい、飛び込みなさい』

 端末に赤いランプが点灯する。ゲート起動のエフェクトが走り、よどみなくキーボードが叩かれる音が連なる。僕は何度か瞬きをして、端末を見つめていた。……僕はふいに我に返った。小春さんの言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。

「沢辺さんを見捨てて、現実に帰れ、と?」

 聞き間違いであることを祈った。……返答は早かった。

『見捨てるとは言っていない。戦略的な撤退よ』

 打鍵音を伴奏にして、小春さんが無機質な声で言う。

「こんな時に、言葉遊びなんて不謹慎じゃないです?」

 僕は笑おうとした。しかし頬がひきつって、笑えなかった。

 小春さんが深々と息を吐く音が、端末から聞こえてきた。

『未知のゲートに飛び込むなんて、危険すぎる。安易な判断は出来ない……一度帰還してからよ』

「でも、その間に沢辺さんは……」

『あんたが考えることじゃない』

 小春さんがぴしゃりと僕の言葉を遮った。……僕は言葉を失って、案山子のように立ち尽くしていた。その間に、何も映さない虚ろな両目が、力なく垂れた腕が……沢辺さんが闇に溶けて見えなくなる寸前の姿が思い出される。

 僕が考えることではない? じゃあ、誰が考えることなんだ? 一体、僕以外の誰が?

 頭の中で、ばちりと音を立てて火花が飛ぶ。はじけた火花を言葉として吐き出そうとした瞬間に、先を越された。

『そういうことはあたし達の役目。いいこと、あんたたちの役割は目の前のウイルスを倒すこと。それだけよ。それ以外のことは、あたしたち大人の役割』

 小春さんの声は、背後からずっと聞こえてくる打鍵音のように淀みなく、そして淡泊だった。

 僕は、怯んだ。が、それは一瞬のこと。

「ウイルスとの戦いを一番理解しているのは僕たちだ。現場に立ったこともないあなたたちに、子供扱いされて貶められる謂れはありませんが」

 頭上に浮かぶ端末を、見据える。ゲート開閉中を告げる赤いランプの光が眩いが、僕は目を逸らさない。抜身の刃のような視線で、僕は端末を――その向こう側にいる現実世界の小春さんを睨む。

「あなたが慎重に事を進めたがるのは知っています、でもいつもいつもそうでは困る時だってあるんですよ。……沢辺さんを放置して、帰還不能にすればどうなります? ウイルスになるんですよ? 適性者のウイルスは、多くの被害を生み出す。だから、彼女を早いところ助けにいかなくちゃいけない。当然の結論でしょう」

 反応は沈黙だった。ランプが音もなく、明滅するばかりで小春さんの声は聞こえてこない。……端末から深く息を吐く音が聞こえるまでしばらく掛かった。

「ええ、そうね。沢辺を放っておけば、ウイルスになるかもしれない。だから、早く助けに行くべき。……その通りよ」

「だったら、なおさら……」

『今のあんたが行っても無意味だわ』

 小春さんはきっぱりと言い放つ。

『トランスはいない、しかも左腕を切って消耗している。……そんなガーディアンが一人で突撃したところで無意味よ。向こうにウイルスがいたら、共倒れするのがオチだわ』

 一瞬、言葉に詰まる。左腕の鈍い痛みが、小春さんの言葉を合図にしたようにうずき始める。手当をするタイミングを逸した左腕の傷口からは、未だに血が流れている。右手で圧迫しながら、僕は端末を見上げる。

「ゲートが開くまでの時間稼ぎぐらいなら出来ます」

『してどうするの?』

 小春さんの冷ややかな声が返ってくる。

『精神世界で死んでも、取り込まれるまでに連れ戻せば、現実に戻れる。……沢辺がウイルスに襲われて死んでいたとしても、取り込まれるまでに間に合えばいい。消耗しきったあんたを突撃させて、犠牲者を二人に増やすなんて愚の骨頂。……そうでしょう?』

 僕に確認を取るように小春さんが言う。――その瞬間、あ、と無意識のうちに声が出た。

慌てて、ぐっと唇をかみしめる。まさか指摘されるまで気づかなかったとは言えないから。泳ぎかけた視線を再び端末に戻す。

「けど、だからといってここで帰っていては――」

『確かに、ウイルスに取り込まれるまでの時間は個人差があるから、正確な予想は立てられない。……でも、いくらなんでも数時間で取り込まれることはない。消耗しきったあんたの交代要員を送るぐらいの猶予はある』

 小春さんに先回りされて、完全な答えを言われてしまった。まともな反論が浮かんでこなくて、僕は口をつぐまざるを得なかった。

 そうだ。適正者なら分かっていて、当然じゃないか。相方が精神世界内で死んだって構わない。最後の救出さえ間に合えば、問題はない。違和感を覚える沢辺さんにそう教えたのだって、僕自身ではないか。なのに、教えた僕自身が忘れている。……どうして、こんな簡単な答えにたどり着けずに、僕はつまらない拘りにしがみついていたのだろうか。

 痛みを発する左腕の傷口の熱が、意識の中ではっきりと輪郭を持って現れる。その代り他の体の部位は熱を奪われたかのように、寒気を催す。

 小春さんが呟く声が聞こえた。

『冷静になりなさい。……らしくないわ、今のあんた』

 僕は黙って、その声を聞いた。……全くその通りだ、と思った。

 暗闇の中に吸い込まれていく沢辺さんの姿が、再び脳内に描き出される。どこを見ているのかすら判然としない曇った瞳、そして助けを求める気配すらないだらりと下がった腕。……僕が伸ばした腕に彼女は何の反応も示さなかった。

 それがどういう意味か? 何故、彼女は無抵抗に謎のゲートに吸い込まれてしまったのだろうか? あまりにも唐突な出来事で、反応が遅れたから、か? ……いや、違うだろう。きっと、違うだろう。とっさの反応で、腕ぐらい伸ばすだろう。それに何より……彼女の瞳には、未知の現象に対する恐怖も驚きもなかった。

 つまり、こういうことなんだ。僕は落ちていく彼女に手を差し伸べたつもりでいたけど、実際にやったのはその逆。彼女を穴に蹴り落としたんだ。

 僕はその事実を認めたくなった。絶対に認めたくなかった。彼女をこの手で死に追いやったなんて――そんな恐ろしいことを認められるわけがない。

 だから、もみ消そうと躍起になった。柄にもなく取り乱した。理屈の通らない提案を通して、決してそんなことはなかったのだ、と僕は身を挺して彼女を救いに行ったじゃないかと言い訳をしたかった。

 左腕の傷口を、右手で締め上げる。傷口に爪が突き立って、痛みが染み込む。――歯を食いしばる。自分の醜さが、愚かさが、傷の痛みよりも何よりも耐え難い。

 どうして僕は、あれほどまでに頑なに彼女を拒絶したのだろう? 彼女が僕の態度に深く傷ついていることに、限界まで追い詰められていたことに、気づかなかったわけじゃないのに。

 何も、大層なことをする必要はない。協力するよとか、一緒に頑張ろうとか、そういう優しい嘘で励ませば良かっただけのこと。彼女ひとりで妹さんの死を背負い込んでほしくないのなら、ただ工夫もなく惨たらしい事実を突き付けるのではなくて、彼女を一人にしないことが重要だったのではないか?

 じっと砂地の上で、僕は立ち尽くしていた。足元に血だまりを作りながら、呆然と沢辺さんが消えた穴を見つめていた。

 その間も端末からは打鍵音が休むことなく漏れ聞こえ、他の誰かと通信している声も聞こえてきた。僕がぼんやりとしている間にも、小春さんは作業を進めているらしかった。……しばらくして、ゲート展開中のランプが消えた。現実に繋がるゲートが起動し、目の前に展開される。そちらに視線をやると、小春さんの声が降って来た。

『悪いけど、まだ入らないで。交代要員がもうじき来るから、それまで待ってちょうだい』

 僕は乾いた声で笑う。

「分かりますよ、それぐらい」

 他の適正者の救出にあたる際に、こういう場面には何度も遭遇している。僕は相当消耗していると見られているようだ。……ここで最後に残った適正者が精神世界で死ぬか出るかすれば、この精神世界との接続は絶たれる。そうなると、再びこのミミズが暴れまわっていた精神世界に繋ぎ直さねばならず、時間のロスが生じる。端末が戻って来たその時まで、沢辺さんが飲み込まれたゲートが開いている保証はない。絶対に、交代要員がダイブしてから僕は出なくちゃいけない。

いくら今の僕が頼りないからって、そこまでの失態を犯すつもりはない。だって、あの未知のゲートが閉じてしまえば、僕らの側から沢辺さんの元にたどり着く手段は失われる。ひいては、彼女の現実への帰還が不可能になるから――。

 その瞬間に、僕は気づいてしまった。多くの人々の命よりも、そして消えた沢辺さんよりも、ずっとずっと僕にとって重要なことを、思い出してしまった。

 ぼんやりしている場合じゃない。……助けを待っている場合じゃない。

 僕は歩き出す。柔らかい砂地に足を取られながら、それでも一歩ずつ着実に歩みを進めていく。滴り落ちる血の滴で道しるべを刻みながら、前だけを見つめて進む。

『桜木……?』

 小春さんの声が後ろから聞こえてくる。……僕は振り返らない。足を止めない。

 間もなく目的地にたどり着いて、足を止める。

 僕の足元には見通せない暗闇が広がっている。淵に足を揃えて立つ。目玉を落としそうなほどに目を見開いて、沢辺さんが消えた穴を見つめている。

 胸が、ずきりと痛んだ。まるで一拍ごとにきつく締め付けられているようで、息苦しかった。

 頭からさあっと血の気が引いていくのが分かった。……頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。目の前の光景が見えなくなって、今ここではない、どこかの景色が脳内を駆け巡る。

 沢辺さんの涙に濡れた瞳。それから、朝、僕を送り出してくれたおばさんの眠たげな目。最後には、生き続けてほしい、と言った白鳥さんの儚い笑みと、視線がかち合う。

 本当に、いいのか? 頭の中で声がする。……お前は恐れているのではなかったか? 彼女を傷つけることを。彼女が僕に生き続けてほしいと言ったように、僕だって彼女に生き続けてほしいということを、忘れたのか?

踏み出しかけた足が、竦んだ。胸が痛みに締め付けられて、息がうまく出来なくて……僕は再び、立ち尽くす。……僕は怖くなってきた。足元の穴の底知れぬ闇の深さに恐れおののき、動けなかった。

――無理だ。やっぱり、僕には……こんなこと、すぐには決められないよ。

 心の中で、悲鳴を上げたその時だった。

 穴が、命を持った生物のように脈打った。僕は靴底で感じた振動に驚いて、思わず後ずさりをする。すると、その穴が引いていく波のように縮んでいくのが、見えた。

 迷う時間はない。……行くか、残るか、決めるのは今しかない。

 僕は、決めた。覚悟を決めた。

 胸の痛みが、さっとひいた。竦んだ足に、力が戻る。……僕が悩むのを止めた瞬間だった。

 小春さんの声が聞こえる。雲一つない高い空に、彼女の怒鳴り声が響き渡る。

 でも、何を言っているかは分からない。現実から響いてくる声は、この精神世界からは遠すぎた。僕にはもう言葉に聞こえない、ただの無意味なノイズにしか聞こえない。

 僕は振り返らない。前だけを見据えて、地面を力いっぱい蹴る。

 絵具で塗りつぶしたような、漆黒の世界が視界いっぱいに広がる。下へ下へと落ちていく感覚を味わいながら、僕は眠るように目を閉じる。

 そうだ。――この時を、僕はずっと待っていたのだ。



 目を開けると、そこは庭園だった。足下は石できちんと舗装され、植え込みにはよく手入れされたバラが植わっていた。それも赤ではなく、青いバラだった。ぐるりと周囲を見渡しても、庭園に限りはない。地平線を縁どるのさえ、青いバラの群れであった。庭園の上空は夜の闇に包まれていて、三日月が浮かんでいる。青白い月の光に照らされ、庭園はまるで海の底のような青さに包まれている。

 美しい世界だった。現実では決してありえないほどに。

 精神世界を形成するのは、患者の深層心理だと言われている。この青いバラ庭園が映し出す心理とは一体何だろう? 絨毯のように庭園を覆うバラを眺めながら、少し考えてみる。……ぱっと見、ここは非常に美しく整った世界に見える。しかし、整いすぎていて、ここは決して安らげる場所ではありえない。こんな美しいばかりの世界に自分が存在するのは、完成しきった風景の調和を乱すような気がして間違っているように思われる。

 この深層世界が現すものは何か? それは美しい理想。そして、理想を叶えられない自分への憎悪、苛立ち。……そんな気がする。ただの想像だけど。

ひょっとしたら、これは沢辺さんの精神世界なのかもしれない。理想と現実の差に絶望した今の彼女なら、ありうる。でも、だとしたら、嫌だなと思う。事実だとすれば、彼女が再びウイルスに感染した、ということになるし……どうせならあの人に繋がる精神世界であってほしいから。

 ふいに、背後に人の気配を感じた。

「どうして、あなたまで来たんですか」

 月光に照らされて、普段から白い顔が一層青ざめて見えた。

 どう答えようか、迷った。だから、少し考えた。

「君を助けに来た」

僕はちょっと笑って言った。

軽い冗談のつもりだった。……でも、沢辺さんの薄い眉がぴくりと大仰に動いた。

彼女は力なく項垂れた。伏せた顔から、か細い声が聞こえてくる。

「そんな価値、私にはありませんよ」

冗談がまるで通じなかったことに、気付いた。

「あなたは来るべきじゃなかった。……あなたは私のためになど、命を掛けてはならなかった」

乾いた声が、頭に響く。

僕は言葉を失った。……端末も連れてこずに、丸腰で突っ立ている僕が助けに来たなんて、誰が思うだろう? 彼女の目は禄に僕の姿なんて見ていないし、下らない冗談さえ聞き分けられない。真に受けて、僕の心配などしている。

僕が助けに来たなんて、趣味の悪い冗談だ。だって、実際はその逆なんだから。僕がもといた精神世界を出たせいで、この世界に繋がるゲートは閉ざされた。……ここがどこの誰の精神世界か判別がつかない以上、助けはこない。その可能性を僕が絶ってしまったから。

「ごめん、嘘だよ」

いたたまれなくなって、黙ってられなかった。

「君は関係ない。……僕がここに来たのは、純粋に僕自身のためだ」

沢辺さんが顔を上げる。それから化粧が黒くにじんだ目元を指で拭う。

「あなた自身のため?」

腫れぼったい目で僕を見上げる。僕は小さく頷いた。

「そう」

「意味が分からないんですけど」

沢辺さんが困惑の表情で言う。

「あなた自身のためって、何ですか?」

無遠慮な視線が、頬に突き刺ささる。……僕は答えない。

ここに来た理由を隠し通すなら、僕は沢辺さんを助けるために矢も楯もたまらずに飛び出した愚か者を演じなければならなかった。適性者としてのプライドを守るため? それとも単なる好奇心? ……いいや、こんな幼稚なでたらめを誰が信じるだろう? 死地に赴く理由なんて、そうそうない。僕には他に取り繕う余裕がない。……喋りすぎた。後悔の念が湧き上がってきた。

沢辺さんはしばらく僕をじろじろと見ていたが、やがて目を逸らした。……彼女はふん、と大変不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「ええ、分かってきましたよ。やっと状況が飲み込めてきました。あなたが丸腰でここに来たことも今になって、ようやく気づきましたよ」

低くした声ははっきりと怒気を孕んでいる。三日月のように細められた瞳は、鋭い眼光を放っている。

意味のない足掻きだ。……そう思いながらも、僕はひょいと肩を竦めた。

「そうさ。……聞いて驚くがいい、なんとお金のためさ」

「往生際が悪いですね」

 沢辺さんは冷ややかな声で吐き捨てる。

「ごまかさないで下さい。あなたは碌でもない理由のために、誰にも言えないような理由でここに来た。……そうでしょう? 間違ってるなんて言わせませんから」

まるで踊り狂う炎のような瞳だった。そんな瞳と目が合って、頬に張り付けた薄い笑みがひきつるのを感じた。

ああ、もう無理だ。これ以上は隠し切れない。僕は敗北を悟った。

 僕は肩をゆすって、笑った。

「ご名答、その通りだよ。あんまりにも碌でもないから、ほとんど言えなかった。そうだ、誰かに言うのは君が初めて……いや、二人目か」

「光栄ですね」

唇を吊り上げて、沢辺さんが薄く笑う。

「私の身には余ります。出来ることなら、地を這う虫けらにでもお譲りしたかったのですが」

僕も喉を鳴らして笑う。

「しかし、ここには虫一匹いないようだよ? ……残念ながら、君自身が聞くしかないようだね」

「そのようですね。ああ、あなたの代償が、つまらないことしか言わないその喉であったならよかったものを」

 沢辺さんが舞台の俳優のセリフのような、わざとらしい声で言う。僕は笑いをこらえきれない。……彼女の歪んだ笑みが愉快でならなかった。

「そうだね、自分でもそう思うよ。それならきっと、墓に入るまでにこんな、肥溜めよりも汚い話をせずに済んだだろうから」

 笑ってくれるなら、悲しませるよりも、何倍も気が楽だった。

 それに、相手が沢辺さんで僕は嬉しかった。彼女でないことが、何より嬉しかった。

「話すよ――僕は、どうしても母さんに会いたかったんだ」



 フラメア病は一度掛かったら、眠り続ける病だが、一時的に目を覚ますことがある。ダイブで治療しきれなくても、ウイルスに深手を負わせることが出来れば、完全に治しきれなくても、まれにそういったことが起きる。

 母のフラメア病のランクはそれほど高くなかった。たしか、Dだったはず。意識を失った跡、すぐに病院に運ばれ、次の日にはダイブが始まる予定だった。

 その時、僕と妹は発症しなかったが、母と同じ病室で夜を過ごしていた。当時、僕らには行く宛てがなかった。祖母と祖父は既に他界していたし、母の唯一の姉妹であったおばさんはちょうど海外へ長い出張にでていた。

 一、二日あればすぐに治ると聞かされていた。それならもう家に帰さずに病室に置いておこう、と病院の人たちが相談しあって決めた結果だった。その気遣いが、あの最悪の日を生み出すとは誰にも予想できなかった。

 母のダイブは一度、失敗した。深手は負わせたが、適正者の安全のためにやむなく撤退した。翌日には手練れがきて、よくある一件として処理される。そのはずだったのだが、母がフラメア病から一時的に目覚めたことで永遠に予定のままになってしまった。

 深夜に物音がしていた。ぎしぎしと何かが軋む鈍い音で、目が覚めた。眠い目を擦りながら身を起こすと、母が病院のベッドから下り、もう一つの予備ベッドで眠っている妹の枕元にいた。

 僕から見えるのは、パジャマに包まれた彼女の背中だけだった。

「お母さん、何してるの?」

 そのとき、半ば寝ぼけていたのだと思う。まだ目は覚まさないであろうと言われていた母が起きあがっていたことと、それから妹は眠っているはずなのにまるでベッドの上で飛び跳ねているような騒音が病室に響いていたけれども、僕はぼうっと母親の背を見ていた。

「夏樹、お母さんの邪魔をしちゃだめだからね」

 母が僕に背を向けたまま、優しくたしなめる声で言う。それを聞いて、僕はまだぼんやりしていた。母親の背を見つめながら、ベッドが激しく軋む音を……いや、妹がベッドの上でのたうち回り、息が出来なくて苦しげに喘ぐのが、聞こえた。

 母が妹の首に腕を伸ばしていた。彼女の五指は紅葉の首を強く握り締めて離さない。紅葉は必死に抵抗していた。小さな両手で母の手を引きはがそうとしていて、身をよじって声にならない苦痛を叫ぶ。

 目も耳も、間違いなく母と紅葉を捉えている。でも、僕は身動きがとれなかった。何が起こっているか、まだ分かっていなかった。いや、分かるまいとしていたのだ。頭の中をペンキをぶちまけたみたいに真っ白に塗りつぶして、目と耳が伝えてくる惨劇を見えないようにしていた。……僕はその場にいながら、銀幕のスクリーンの前に座る観客も同然だった。

 妹の手が、ゆらりと虚空に差し伸べられる。力なく垂れ下がった指は僕を指していた。

「お……にい……ちゃ……」

 途切れ途切れの子供の声。――紅葉の声だ。そう認識した瞬間、背筋を冷たい手で触れられたような、衝撃が走る。

「たす……け……」

 紅葉の声が聞こえる。どんなおぞましい悲鳴よりも、紅葉の助けを求める声が何よりも恐ろしくて、耳をふさぎたかった。目元に涙が溢れてきて、喉から嗚咽がこみ上げてきて、僕はぶるぶると震えていた。

 助けにいかなきゃ。紅葉が、僕を呼んでる。行かなきゃ、紅葉が殺される……!

 僕は何もかも、分かっていた。やらなくちゃいけないことを、分かっていた。紅葉から母を引きはがさなければならないこと、そして助けを呼ばなければならないこと。全て全て分かっていた、そしてここで何もしないとどうなるかすら、分かっていたというのに。

 紅葉の手のひらが、ぶるりと一度だけ痙攣した。そして、打ち落とされた鳥のように落下した。力を失った腕はベッドに落ちて、そのまま動く気配はなかった。

 母が振り返った。病室をまるで散歩するような足取りで歩き、僕の前にたった。顔は見えなかった。見上げる勇気が、僕にはなかった。

 ふいに目の前が暗くなった。鼻の先には暖かくて柔らかい感触があって、なんだかいい匂いがする。背中には腕が回されていて、僕をしっかりと抱き寄せている。……ここ数年はなかったけれども、大好きだったこの懐かしい感覚。

「よくやったね。偉いね、夏樹は」

 母は穏やかな声で言った。

 その声が僕は怖かった。紅葉の手が力なくベッドに落ちた瞬間よりも、ずっと恐ろしい瞬間だった。唇がわなないた、声にならない悲鳴を叫び続けていた。

 背中に回った腕が外れて、母は立ち上がる。動けない僕をおいて、窓辺に立つ。……カーテンレールには輪っかを作ったひもがぶら下がっている。その下には椅子。

 母はスリッパを脱いで、椅子の上に立つ。ひもの輪っかを首に掛ける。ためらう様子はまるで、なかった。まるで階段を一つ下りるような気安い動作で、椅子から飛び降りた。



 少し長い話をした。立ち話をしているのに疲れて、僕は石畳に腰を下ろした。しかし、沢辺さんはまっすぐに立ったままだ。彼女の冷ややかな表情を見上げながら、僕は休まずにしゃべり続けた。 

「適正者になった理由、話したことあったよね。……本当は全部、母さんのためなんだ。母さんにどうしても会いたくって、僕は適正者になった。それだけなんだ。他に何か言っていたかもしれないけど、全部嘘だよ」

 他のフラメア病患者なんて、どうだっていい。お金だって、僕は必要としていない。だって、ウイルスになってしまえば、金なんてあったところで使えないのだから。僕がお金を貯めているのは、どうせ死ぬ僕のためなんかじゃなくて、今まで迷惑ばかりかけてきたおばさんに残しておきたかったから。

 周囲の人々は、お金のためだとか、それらしい理由で騙せればよかった。真実を話せば、きっとどこかから機構に漏れて、適正者から外されるかもしれなかったから。

「ただ、知りたいんだ。どうして、母さんは紅葉を殺したのか。紅葉を殺した後、自分も後を追って死んだのか。……何故、こんなことになったのか解き明かしたい」

 僕を見下ろす彼女に微笑みかける。

「何度も、考えたよ。色んなことを、考えたよ。……例えば、母さんは僕も殺したかったんだけど、一応小学六年生の男子だったし、返り討ちになることを恐れたんだ、とか。あるいは、紅葉と母さんの間に何かがあって、僕はただ蚊帳の外にいただけなんじゃないか、とか……」

 中学にあがってからは、来る日も来る日も考えていた。いつでも、どこでもそればかり考えていた。今、目の前の現実に興味を持たない僕は、自然と周囲から浮いてしまって、友人も作れず、当然のごとく勉強もついていけなかった。

 僕が考えるまでもなく、警察が出てきて原因を探っていたけど、分からずじまいで、結局よくある心中事件の一つとして片づけられた。

 時折、僕らの面倒を見てくれていたおばさんは、事件後まもなく出張を引き上げて、駆けつけてきてくれた。葬儀から遺品の整理まで全てやり、多忙な仕事を辞めて生き残った僕を引き取った。あの人はいつも将来のことしか言わない。過去のことを振り返ろうとは、決してしない。

 警察も親族も手を引いてしまったら、誰もあの日のことなんて調べない。あの日の真実を探しもとめているのは、この僕ただ一人だけだった。

 誰も教えてくれやしない。でも、自分でいくら考えたところで、全て仮説で真実は分からない。しかも、二人にまつわる記憶は時と共にどんどん薄れていく。……あの日に囚われることの虚しさが、頭の隅をちらついていた中学三年の夏頃に、一つだけ、真実を確かめる方法を思いついた。

 きっかけは卒業後の進路だった。高校に進学する気もなかったが、就職する気もなかった。将来のことなんて何も考えていなかったのだけれども、いつまでもおばさんに迷惑を掛けるのはごめんだと思った。嫌々ながらも、どこか働き口はないものかと探し始めた。

 そんな折りに、機構の説明会のチラシを見つけた。説明されるまでもなく、ぼんやりとは知っていた。適正者がどんな仕事か、五歳の子供だって分かっているぐらいなのだ。ゲームみたいな世界で武器を持って戦うこと、たった三年で卒業してしまうこと、そして身体機能が損なわれていくこと。適正者になる人間と言えば、訳ありぞろい。学校の先生も親も誰も勧めない、反対しかしない。

 正直、僕もあまり気は進まなかった。体の一部分が損なわれていく、というのは純粋に嫌だと思ったし、死ぬのもなんとなく怖かった。だが、金銭面では破格の条件だったし、それに人手が足りないから、素質さえ見いだされれば絶対に採用されるという噂もあった。……とりあえず、おばさんには内緒にしておいて説明を聞きにいくだけ行ってみよう。そう考えたのが、その後の僕の進路を決定づけた。

 フラメア病になって死ぬと、ウイルスに生まれ変わる。適正者は毎日毎日、ウイルスと精神世界で戦う。もしウイルスとの戦いに破れて救助が失敗すれば、適正者は強力なウイルスに生まれ変わる。説明会に行かなくても知っていたことだけど、これらが全て繋がって、一つの結論を導いたのはその最中だった。

 だったら、適正者になればウイルスと……母さんが生まれ変わったウイルスといつか出会うことが出来るのでは? あるいは……ウイルスになれば、母さんに直接会いにいけるのではないか?

 僕はその日のうちに進路を決め、他の選択肢を全て切り捨てた。

「くだらないですね」

 頭上から、乾いた声が降ってくる。

「あなたの目標が達成されたところで、誰も救えない。だって、死んだ人は戻らない。そして、あなたの悲しみが癒えることもない」

 顎の華奢な輪郭が見えるだけで、僕から彼女の表情はうかがえない。

「いいよ。僕は救いなんて求めてないから」

「では、何故です?」

 長い髪がさらりと揺れる。どうやら、横に首を振ったようだ。

「あなたがどうして、そこまで拘るのか。……偉そうに大事な人を悲しませるな、と言った口で、真実を知りたいから僕は死ぬ、としゃあしゃあというのやら。……私には理解しかねますね」

 声を低くして、沢辺さんが言う。

「それ、僕にお説教のつもり?」

「いえ。単なる感想です」

 沢辺さんが僕の方を振り返った。左目を閉じて、右目だけで僕を見ていた。

「別に、私、あなたの事情に踏み込みたいわけじゃないんで。……ただ、腹が立っただけです。そんな矛盾だらけの下らない理由で適正者になるなんて……あなたは馬鹿です」

 相変わらず口調は淡々としている。でも、声の端々から怒っていることははっきりと読み取れる。……僕は苦笑した。一応、憧れの人だったらしいから、こんな無様な姿を見せられては嫌だろう、と思った。

「そうかもね、きっと僕は馬鹿なんだろうね。……でも、どうしても知りたいんだ」

 沢辺さんの表情から、石畳へと視線を落とした。

「僕は死にたいんじゃないんだ。むしろ、この後、心安らかに生きていくために、知りたいんだ。……どうして、僕はあの事件で生き延びて、今ここに生きているのか。そうじゃないと、生きていることがまるで夢のようにしか思えない」

「知った時には、死んでますが」

 冷たい声で沢辺さんが言う。

「ああ。……でも、知りたいんだ」

 まったくもって、その通りだ。僕は自分があんまりにも馬鹿馬鹿しくなって、くすりと笑った。

「僕って、本当にここにいてもいいのかな? ……それを確かめなくちゃ、生きてたって息苦しいだけだからさ」

 返事はなかった。沢辺さんは何も言わなかった。……僕はわざわざ顔を上げようと思わなかった。きっとあきれ返っているのだろうと予想がついていて、それを確かめようとは思わなかった。

 だから、僕は大いに驚いた。

「それも、そうですね」

 柔らかな笑い声が、頭上から降ってきたことに。

 とっさに見上げた彼女の唇は薄くほころんでいた。

 この耳で聞いた声音が、この目で見た表情が信じられない。僕は目を見開いて、彼女を見上げている。……何故、先程まであれほど怒っていた彼女が、やさしく微笑んでいるのか。……僕には想像が及ばなかった。

 雷鳴が轟いた。暗い空が一瞬だけ、目を焼くような閃光に覆われた。まぶしさに目を細め、鳴り響く轟音に身を竦める。

 庭園の植え込みが、風も吹いていないのにざわめき始める。まるで忍び笑いのような葉がこすれる音が響く。茨はねぐらを這い出る蛇のごとく、地面を這いずり回る。夜空には暗雲がたれ込み、月の光も星の光も遮ってしまった。息を吐けば白く濁るのではないかと思うほどに、空気が冷たかった。

 沢辺さんから、姿を変えた庭園に視線をうつす。茨が生き物のようにうごめき、見渡す限りの花壇を占拠していた。石畳の上にもあふれ出た茨が這い回る。……ゆっくりと歩くような速度だが、僕と沢辺さんが立つ石畳を取り巻く。

 今、襲われれば為すすべもない。端末がない以上、トランスは出来ない。武器がなければ、ウイルスに太刀打ちなど出来やしない。

 助けはない。僕と沢辺さんが二人ともここで死ねば、僕らは揃って精神世界に取り込まれる。そして、人々に死をまき散らすウイルスへと成り果てる。……この光景は、僕らの人間としての生が終わる瞬間が近いことを告げている。

 僕は何も思わなかった。いや、何を思ったのか分からなかった、が正しいか。まるで異国の写真を眺めているような気分で、人間としての死がすぐ傍にやってきているという事実を受け止めきれていない。

 頭上から、くすくすと笑う声がする。

「ついに引導を渡しに、来ましたか」

「冷静だな」

 正直な感想を言うと、沢辺さんは肩を竦めた。

「分かっていたことです。……何をいまさら」

 そう言うと、沢辺さんは周囲に視線を向ける。

 庭園は、花壇と石畳の区別も失われ、茨が生い茂るばかりの森と化していた。茨が地面を擦る鈍い音の群は虫の羽音のように不気味で、辺り一帯を包み込んでいる。

 常人ならば、腰を抜かしてみっともなく逃げ回る光景だ。それを彼女は、まるで美しい山並みでも見下ろすかのように見回す。

「ねえ、桜木さん。あなたは今のこの瞬間を迎えられて、どんな気持ちです?」

 こちらを振り返りもしないで、沢辺さんは言った。

「どうって」

 僕は困惑した。答えあぐねている間に、沢辺さんが口を開く。

「私はね、すがすがしいですよ。……生きてたって、もうしょうがないんだなって、分かりましたから」

 彼女は声を弾ませる。

「あなたが言う通りです。何故、私は生きているのでしょう? どうして、生きることが許されているのでしょう? ……それらの問いに胸を張って答えられない限り、呼吸をすることさえ罪深い」

 彼女のトレードマークであるゴシックなドレス――喪服のような黒いドレスを揺らして、沢辺さんは笑う。一点の曇りもない、晴れやかな笑みを僕に向ける。

「あなたは、どうですか? 死ぬことが、怖いですか?」

 僕は、彼女の問いを頭の中で反芻した。……死ぬことが、怖いか? 僕は人としての死を、これから始まるウイルスとしての生を歓迎しているのだろうか? 母との再会を、これまでの人生の意味を知る喜びは――現実に置いてきた人たちへの……いいや、彼女に対する想いを、間違いなく上回っているのだろうか? 彼女を悲しませることを、僕は悲しんでいないのだろうか?

 口の中に、いつの間にか唾が溜まっていた。それを飲み下して、唇を持ち上げる。

「僕、は」

 声がつっかえた。空っぽの頭でその先を考えようとして……出来なかった。

 開いた右手に、するりと誰かのぬくもりがもぐりこんできた。

「迎えに来たよ、夏樹」

 背中で囁き声がした。沢辺さんの声じゃなかった。間違えようもない彼女の声。

 僕は、自分の頭がおかしくなったのだと思った。そうとしか思えなかった、だってここにいるはずのない人物だったから。

 茨の群れが覆いかぶさって来たのを、見た。空気を切り裂く鋭い音も、聞いた。そして、手のひらの温もりを、右手の指で感じた。

 彼女は――白鳥ちづるは、僕の手を強く握り締める。

「行くよ」

 僕の手にからみついた指が、風に吹かれた塵のように崩れ落ちていく。指に残った温もりは儚くも消え去り、白い光に姿を変える。

 光は液体になって、僕の右手の五指にからみつく。液体は指の付け根を包むと凝固し、指輪状の硬い金属へと変化する。

 指輪と指の隙間から、それぞれ一本ずつ純白の糸が生えてくる。蜘蛛の糸のように細くて弾力性に飛んでおり、指輪から飛び出した勢いでふわりと宙を舞う。ゆるやかな曲線を描いた糸は、その直後、突然何の前触れもなくぴんと張る。自立した生物であるかのように、五本の糸はそれぞれ別の方向へと散って、空中を疾走する。

 振り上げられた茨の鞭は、僕らが立っていた石畳を紙のように叩き壊し、破片を散らす。瓦礫の山となった石畳を、僕は高く飛び上がって、見下ろしていた。

 右手のひとさし指から飛び出した糸が、引っかけた茨の先端の方へと巻き尺をしまうように僕を引き寄せていた。ひんやりとした夜の空気が風となって、僕の頬を冷やしていく。

「白鳥さん、どうして君が……」

『後にして』

 五指にはまった指輪から、白鳥さんの声が聞こえる。

『今は集中して。生きて帰ることだけを、考えて』

 研いだ刃物のような、鋭く冷たい声だった。

 唐突に現れて、勝手なことを言う。……僕は言い返したかったけれども、その前に今の状況を知る方が先決だった。

 中指の糸の先を追う。先端は、ちかちかと点滅する球状の端末に巻き付いている。そして薬指の糸の先には、沢辺さんがいた。腹に糸を巻き付け、悲鳴とともに空中を飛翔している。

 僕が足を止めれば、必然的に糸で繋がった端末と沢辺さんにも被害が出る。端末が壊されれば、全員が精神世界に取り残される。沢辺さんも、むろん――突然この精神世界にやってきた白鳥さんも。

 地上を見下ろせば、上空を舞う僕らめがけて、地面を覆う茨が背丈を伸ばしているのがはっきりと見えた。足の踏み場すらない、落ちればどうなるかなんて考えるまでもない。

 僕らにとって安全な場所は、この精神世界の中にはどこにもない。逃げなければ、戦わなければ、茨に貫かれて全員死ぬ。……白鳥さんも、死ぬ。

 僕に選択の余地など、ありやしない。

「戦えば、いいんだろう」

 ぶっきらぼうにつぶやく。

『ありがとう』

 白鳥さんの抑えた声は静かに喜びをかみしめていた。

『大丈夫、夏樹と私なら――絶対に負けない』

 彼女の言葉とともに、人差し指の糸の先にあった感覚が消失。支えを手放し、空を飛んでいるような浮遊感が体を包み込む。糸に引っ張られた勢いに身を任せ、緩やかな放物線状の軌跡を描いて落下する。

 上空から降ってくる僕らを、まるで抱き留めるかのようにいくつもの茨の蔓が手を伸ばす。その鋭利な棘につま先が触れるか、触れないか、というところで、人差し指の糸が再び支えを探り当てる。一瞬、糸がぐっとたわみ、力強く引っ張られる。釣り糸にぶら下がった魚のように、僕は引かれるがままに身をゆだねる。

 茨の群れは追いすがるように、その背丈を伸ばす。小蠅をはたき落とすように、空中を飛び回る僕を打ち据えようと大きく身をしならせる。このままでは、潰される。……僕は右手を上空に向かって、突き出す。

 余っていた親指の糸が、頭上をカーテンのように遮る茨に向かって放たれる。ぐるりと巻き付いた感触が返ってくるのと同時に、今度は人差し指の糸が支えを失う。親指の、茨に取り付いた糸を支点に振り子の動きで落ちていく。茨が足元から手を伸ばすが、僕に掠りもしない。

 一つをかわしたところで、僕をつけねらう茨はつきない。頭上、足下、左右、角度を問わずに四方八方から同時に茨が突撃をしかけてくる。……親指の糸をたわめ、縮め、離す。次はひとさし指の糸を別の茨に巻き付け、雲梯の要領で振り子状に移動。

 人差し指の糸を放し、横なぎに僕を払い飛ばそうとした茨の上に着地。人差し指の糸は足場にした茨にぐるりと二周ほど巻き付き、その糸の先端を向かい側から突き出される茨へと飛ばす。そちらにも糸はからみつき、二本の茨の間に細い糸の橋が架かる。

 茨の上を跳ね回る蚤のように飛び、糸の橋を疾駆する。少しでもバランスを崩せば途端に空中に投げ出されるが、そんな事実に構っていられる時間はない。一ミリもない極細の足場を駆け抜け、突き出された茨の上に着地。

 めまぐるしく、空中を、茨の上を、飛び回る。無数の茨が僕の後を追い、先回りをするが、いずれも捉えるには至らない。当たる寸前に僕の姿はかき消え、その代わり人指し指と親指の糸が茨を締め付けている。

 僕と白鳥さんの間に、会話は一つとしてない。目配せだとか、合図の類もない。しなくても、僕らは互いに分かっていた。相手が何を望んでいるか、そのために自分がどう動くべきか、いちいち伝えあう必要もなく、把握していた。

 彼女と戦うのは大分、間が空いていた。パートナーを解消してから、半年以上は優に経過しているけれども、僕らの連携には全く衰えはなかった。いや、むしろ当時よりも磨きが掛かっているような気さえする。それは彼女が休まずに半年の間経験を積んできたからだろうか?

 中指と薬指の糸にからみつかれた端末と沢辺さんも、傷一つ負っていない。大量の茨に付け狙われているが、自ら意志を持ったように糸がうねり、済んでのところでことごとく回避していく。糸を動かしているのは全て白鳥さんの意志であり、七子と共に赤い車のウイルスを倒したのも頷ける実力。

 五本の糸を並行して自由自在に操れるようになったのは、やはり白鳥さんがトランスとしての実力を上げたからだと思うのだ。

『強くなったね、夏樹は』

 茨と茨の隙間を潜り抜けていく最中に、白鳥さんがぽつりとつぶやいた。

 感慨深げではあったが、決して嬉しそうではなかった。むしろ愁いを帯びているようにすら聞こえた。

 不思議には思わなかった。きっと僕と同じなのだ。彼女が適正者として捧げた時間と代償を思って、無邪気に喜んでなどいられないのだろう。

 分かっているから、僕だって「白鳥さんも強くなったね」なんて言いたくない。

「端末はゲートを開いているんだよね。あと、どれくらい?」

 質問を変える。糸で茨にぶら下がりながら、聞いてみる。

『あとちょっと。三十秒もねばれば、いける』

「分かった」

 突っ込んできた茨から、蜘蛛のように糸を長く垂らして逃れる。突進を仕掛けてきた茨に、余っていた糸を絡みつかせる。絡みついた糸を支点に体をふって茨の上に着地する。

『もう少し頑張れば、【解放】もいける。……やる?』

 ためらいがちに声を小さくして、白鳥さんが言った。

 彼女の【解放】の条件はウイルスに糸を一定の長さ以上巻き付けること。左腕の犠牲さえいとわなければいつでも【解放】が使える沢辺さんとは正反対で、白鳥さんの【解放】は条件が厳しい。そもそも糸が巻き付けられるかが問題であることが多く、せっかく巻き付けてもウイルスに途中で糸を切られることもままある。しかし、その条件を満たすことさえ出来れば、ほぼ確実にウイルスを葬り去ることができる。

 が、答えは決まっている。

「ゲートを優先する」

『了解』

 間を置かずに、白鳥さんが答えた。

 ひとさし指から伸びた糸がぴんと張り、頭上の茨へと絡みつく。足場としていた茨を蹴る。糸にひかれるがままに、体は宙を漂う。

『帰るよ、現実へ』



 目を開けると、ポッドの蓋を通して照明の明かりが目に入る。瞼が重たくて、目をしょぼしょぼさせている。すると、ポッドの上に人影が差す。

 ぽた、とポッドの蓋に水滴が一滴落ちる。しゃくりあげる声がポッドの中に響いて、目にいっぱいの涙を浮かべ、くしゃくしゃに顔をゆがめた白鳥さんの顔が見えた。

 僕はポッドの中から白鳥さんの泣き顔を見ていた。涙のしずくがきらきら光って、白鳥さんのきめの細かい肌を滑り落ちていくさまが、とてもきれいだなと思っていた。

 そうやって冬の寝起きのようにぐずぐずしていると、さっとポッドの蓋が取り払われた。直接目に入った照明の光がまぶしくて目を細めていると、黒いレースの手袋をした腕にふたを抱え込んだ沢辺さんが立っていることに気付いた。

「何、のんびり寝ているんですか。死んでないなら、とっとと起きてください」

 黒いラインに縁どられた瞳は、冷たく僕を見下ろしている。しょぼしょぼする目をこすりながら、身を起こす。

「ひどいことを言う。そんなことを言うなら、いっそ死んでることに……」

「夏樹!」

 白鳥さんの声が、した。彼女の涙に濡れた顔が視界に映って、それから真っ暗になって何も見えなくなった。背中に腕の感触があって、ぎゅっと僕を抱きしめる。顔全体が温かくて、柔らかなものに押し付けられている。

「ちょ、し、白鳥さん……」

息苦しい中、声を上げる。すると、背中に回った腕が、いっそうきつく僕を抱き寄せる。

きつく締め上げられていて、骨が軋むんじゃないかと思うぐらいに、痛い。逃れようと思って、身じろぎする。すると、

「良かった、本当に良かった。……生きていて、本当に良かった」

 うわごとのように、白鳥さんが呟く。僕はもがくのを、とめた。

 痛いのは、締め上げられた背だけではなかった。ちくりと胸が痛むのを感じて、僕はうなだれた。



 それから、五分もしない内にダイブルームに放送がかかる。僕と沢辺さん、それから白鳥さんへの至急の呼び出しだった。白鳥さんが名残惜しそうに僕を解放した後、三人でオペレータールームに向かう。ドアをくぐると、白鳥さんは彼女の担当オペレーターの元へと呼ばれ、僕と沢辺さんは当然、僕らの担当の元へ赴くことになる。

「廊下に出て。ここじゃ、話しづらいわ」

 僕ら二人の顔を一瞥するなり、小春さんは顎をしゃくって廊下を示す。……ここ数日寝ていないように見える、赤みを帯びた目に追い立てられて、僕と沢辺さんは黙って廊下に出る。小春さんが足を止め、僕らも立ち止まって彼女を振り返る。すると、ぱしんと軽い音が他に人のいない廊下に響いた。

 じん、と頬が痛んだ。……小春さんの右手は平手の形で振りぬかれている。

「なっ、何を突然」

 隣で沢辺さんが目を剥いている。小春さんはガラスのような瞳で、冷たく沢辺さんを見やる。……再び、ぱしんと軽い音が廊下に響く。沢辺さんの色味の薄い頬に、ほんのりと朱色がさす。

「自分たちがやったことがどんなことか、理解している?」

 抑揚のない声で小春さんが言う。僕も、沢辺さんも、答えない。目も彼女に合わせられない。小春さんのため息が聞こえる。

「あたしはね、オペレーターって仕事の中でも一番嫌いなのが、担当した適正者が帰還不能になった時の対応なのよ。どうしてだか分かる?」

 僕はちらと視線を上げる。小春さんは疲れ切った様子で肩を落としている。目も充血しているようだ。さっきの平手打ちで気力を使い果たしたのか、もう怒鳴る元気もないらしかった。

「長い始末書も書かなくちゃいけないし、それもなかなか堪えるんだけど……何よりも遺族への対応、これが一番ね」

 小春さんは力なく、首を横に振る。

「担当している適正者が死んだら、私たちオペレーターから遺族……というか家族に電話するのよ。お宅の息子さん、娘さんはウイルスとの戦いで死にました、ってね。……反応は様々ね。電話口で泣き叫ぶ人もいれば、やけにあっさりしている人もいるけど、お前らの不手際のせいで子供は死んだんだって詰られることが一番多いかな」

 実際に、見たことがある。オペレータールームで必死に電話の相手にお詫びの言葉を並べ立てているオペレーターを。死んだ適正者の遺族に電話を掛けているのは、会話の内容ですぐに察せられた。

 立っていることにも疲れたのだろうか。小春さんは壁に腕組みして、寄りかかる。

「ほんっと、そういうとき泣きたくなるわよ。……悲しいのは、あんたらだけじゃないのよ。毎日毎日、顔見て、話もして……命を守って来た子供たちに、目の前で死なれて、助けられなかったって歯噛みしなくちゃいけないあたしたちだって、悲しいのよ」

 小春さんはうなだれて、目を閉じる。

「お願いだから、無茶はやめて。……あたしに、余計な仕事をさせないで」

それきり小春さんは黙り込む。……誰もしゃべらなくなって、廊下が静まり返る。

 始末書を書くのが嫌だから、手塩に掛けてきた子供たちを失うのが嫌だから、適正者の運用を誰よりも慎重に行う。厳しく冷たい判断を下すこともあるが、じゃあ彼女は冷酷な人間なのかと言えば違う。規則を破ってまでも、沢辺さんの身を案じて、僕に彼女の事情を明かしたのだって小春さんじゃないか。……小春さんがどのような人間か、分かっていたことだったのに、僕は彼女の指示を無視してゲートに飛び込んだ。

「心配かけて、すみませんでした」

 深々と頭を下げる。……確かに、僕には目的があった。でも、小春さんに迷惑を掛けたことはまた別の問題。僕は彼女に謝らなければならなかった。

 小春さんが顔を上げる。

「全くよ」

 僕を見て、わずかに頬を緩めた。

「あんたのせいで無駄に働かされたわ。……ま、でも、一番あんたが謝るべき人物はあたしじゃあないけどね」

 そう言うと、オペレータールームの方を横目で見やった。



 僕と沢辺さんがこうして、現実に戻ってくるまでに何があったのか。小春さんが簡潔に用件をまとめて教えてくれた。

今は、ランクAウイルスにダイブしてから三日目の昼だった。……端末が消えると、精神世界における時間と現実の時間は乖離する。これでも、時間経過はまだましな方だった。

 僕らが帰還不能になってから、小春さんからの連絡で司令部はすぐに動き、幹部による対策会議が開かれた。しかし、どこの精神世界に行ったのかすら分からない現状、出来ることは何もない。調査を始めることだけが決まって、会議はすぐに打ち切られた。無用の混乱を招かないために、僕らの帰還不能と司令部の対応を知らされたのは、最低限度の人間だけだった。つまり、僕と沢辺さんの家族だけ。しかも絶対に周囲に漏らしてはならない、という条件付きで。

 だから、白鳥さんは聞かされていなかったし、知らなかった。三日間僕の姿を見ていないので、おばさんに聞いても少し遅いインフルエンザで寝込んでいるから、と言われては会いに行くことも出来ない。おばさんの嘘をきな臭く思いつつも、確かめる術はない。……普通の友人ならそこで諦めるところだろうが、彼女は諦めなかった。沢辺さんも同時に姿を消していることを掴み、確信を抱く。僕が沢辺さんと共に、ウイルスに囚われているのであろうと。

 そこまでは、まあよしとしよう。白鳥さんはずば抜けた行動力と勘とで真実を探り当てた。僕の個人的な感情や想いはさておき、どこにも不思議な点はない。

 奇跡と呼ぶべきことが起こったのは、ここからだ。……僕の身に何が起こったかを知るだけでは、白鳥さんにはどうしようもなかった。僕が沢辺さんの後を追ったせいで、小春さんの端末の接続が切れて、もう一度あの精神世界に繋ぎ直すのに随分と時間がかかった。僕らが飛び込んだゲートは当の昔に消えていて、僕と沢辺さんがどこにいるのか、分からなかったのだから。

白鳥さんはどうすることもできず、通常通りランクAウイルスを相手に、ダイブをしているときだった。

 見知らぬゲートが、突如開いた。どこに繋がっているかも分からないゲートに、オペレーターが警戒心を抱かないわけがない。事実、白鳥さんの担当オペレーターは上司と協議をするから待つようにと言った。が、白鳥さんはその声に従わなかった。パートナーの七子を捨てて、端末を抱いてゲートを潜った。後は僕も知っている通り、僕らが閉じ込められていた精神世界にやってきて、現実世界への帰還を果たした。

「もう何がなんだか、さっぱりよ。司令部も今、大混乱」

 小春さんが熱でも測るみたいに、額に手をやる。

「やっぱり、あの謎のゲートの出所は不明なんですね?」

「そうよ。ランクSは立て続けに出るし、こんな状態じゃ適正者の安全が確保出来ない。しばらく全面的にダイブは取りやめになるかもしれない」

「無責任な判断ですね」

 沢辺さんが唇を吊り上げて言った。

 小春さんと僕の視線が、沢辺さんに集中する。……今まで、沢辺さんはほとんど会話に参加していなかった。

「その間、患者はどうなるんです? 放置するんですか? どうせ調査したって、何にも分からないって結果が出るって分かってるくせに?」

 沢辺さんが淀みなく言葉を並べる。すると、小春さんはぐっと唇を引き結んで、沢辺さんの前に立つ。

 何をするのだろうと思って見守っていると、グーの形にこぶしを作った。止める間もなく、容赦なく沢辺さんの頭に落とす。いい音がして、沢辺さんが頭を押さえてうずくまる。小春さんが鼻息を荒くする。

「黙りなさい! あんたはまずは他人の話を聞きなさい! オペレーターのあたしに噛みつく、桜木の再三のアドバイスも無視する! そんなこと繰り返してるようじゃ、また帰還不能に陥るわよ」

 沢辺さんは唇を尖らす。

「ちゃんと生きて帰ってきたじゃないですか!」

「助かったのは、白鳥が助けに行ったからでしょ、あんたの手柄じゃない! ……大体ねえ」

 小春さんはぎろりと沢辺さんを睨む。

「患者のためがどうこう、なんて一丁前なことを言うけどね、適正者に犠牲が出れば余計に大きな被害が出るのよ。患者の治療が数日遅れるのと、新しい患者が大量に出るのと……どちらがいいか、分かってる? 理解できる?」

「分かり、ますよ」

 睨まれた沢辺さんの視線が、わずかに宙を泳いだのは気のせいだろか。

「あ、そう。じゃあ、これも分かるわね。……あんたが実際に守りたいのは、患者の命じゃない。そうじゃないの?」

 沢辺さんの唇がわなわなと震える。音が聞こえてきそうなほどに、強く歯を噛みしめ、俯いている。

 きっと、叫び出したいのをこらえている。違う、と大声で言いたいのだ。けど、実際は違わない。その通りだから、言い返せない。だから、黙って俯いている。

 しばらく無言の時間が流れて、やがて低く掠れたささやき声が聞こえてきた。

「そんな短気だから、嫁きおくれの売れ残りになるのよババア」

 小さな声だったが、確かにそう言っていた。

 小春さんはぱちぱちと瞬きをした。聞こえてきた言葉の意味を測りかねて、もう一度よく考え直している顔だった。……その意味をようやく理解したのだろう、彼女の目がくわっと見開かれる。

「おいこら、てめえ今なんつったよ小娘!」

 沢辺さんは顔を上げる。そこには弱った表情はない。唇を捻じ曲げて、にやりと不敵に笑っていた。

「売れ残りのババアよ、ババア! あーら、もう老いの波がもろに来てるんじゃないの、そんな耳も遠いようじゃあね! 補聴器と老眼鏡を買いに行く時期じゃない? まだ孫どころかお相手もいないのに可哀想~!」

「よく言うわ!」

 今度は小春さんがにやりと笑う。びしりと沢辺さんのひらひらのドレスを指さす。

「ロリータだかなんだか知らないけど、お人形さんごっこも卒業できていない洟垂れ娘に言われる筋合いはないわね!」

 すると、沢辺さんが思いきり小ばかにした様子で、右手で口元を抑えて笑う。

「あらあ、小春さんってゴシックとロリータの違いも分からないんですか? タートルネックをとっくりって呼ぶおじいちゃんみたい、マジ年寄り。超ウケるー」

「タートルネックぐらい分かるわよ、失礼な!」

「本当ですかあ? 清河、信じられなーい」

 窮鼠猫を噛む、とはまさにこのことか。仁義なき戦いが始まってしまった。

 僕が出る幕はない。というか、もう帰っていいですかね? ……醜い争いを遠い目で眺めていると、後ろから足音がする。振り返ると、白鳥さんがいた。

「あれ、何?」

 白鳥さんは指でレベルの低い争いを展開している約二名をさした。僕はさっと空いた右手で彼女の目の前についたてを作る。

「見ないでいいからね」

「んん?」

 白鳥さんが首をかしげる。首を傾げたまま固まっていたけど、しばらくしてこちらを向いた。

「なんか、よく分からないけど楽しそうだね」

 屈託なくにこにこしている。

「えっと、白鳥さん、耳掃除は大丈夫?」

 僕、彼女の耳まで塞いでいないんで、「もう化粧で若さ誤魔化すの限界来てますよ~、エイジングケア始めた方がいいんじゃないんです~?」「その年から元の顔も分からないパンダメイクしてるあんたこそ、老化早いんじゃないの~? もうお肌ボロボロなんじゃないの~?」という全く楽しくなさそうな会話は聞こえているはずですが。

「ほら、喧嘩するほど仲がいいっていうじゃない?」

「当てはまらないケースも世の中にはあるよ。筆頭そこのアレ」

 というか、当てはまるケースの方が稀だと思うよ。

 白鳥さんが首をかくんと横に倒す。

「そうかな? 喧嘩できるって、やっぱり仲良しの証拠だって思うな」

「え? 何で?」

「だって、喧嘩になるってことは、思っていること、素直に言い合えるってことじゃない?」

 僕は言葉を失って、白鳥さんをじっと見つめた。彼女はにこっと笑って、見つめ返した。

「ねえ、夏樹。私たち、喧嘩らしい喧嘩なんてしたことないよね?」

 どきっと心臓が跳ねた。白鳥さんの目は笑みの形をしているが、形だけに見えた。

 僕はそっと白鳥さんから目を背ける。

「する理由がなかったからだよ。喧嘩なんて、理由もなくするものじゃないから」

 今、手を握られたらどうしようと思った。不自然な脂汗が滲んでいそうで、僕がひやひやしながら嘘を吐いていることがばれそうで、心配していた。

 白鳥さんから、なかなか返答がなかった。やかましい言い争いの声がすぐそこでしているのに、はるか遠くから聞こえてくるように思われた。

 白鳥さんが僕の肩に頭をもたげる。それから僕の耳元に唇を寄せて、ささやいた。

「じゃあ、する? 一回、してみる?」

 氷の息吹が吹き付けてきたみたいだった。首筋が寒くなって、全身がぞくりとした。僕は小さく頭を振って、全身の寒気を追い払う。

「やめようよ」

 笑ってみようとしたが、うまくできたか分からなかった。

「白鳥さんの圧勝に決まってるじゃん。僕なんて、きっと小指の先っぽでやられちゃうから」

 全然、白鳥さんの言葉の意味を分かっていないふりをして答える。

 沈黙が続く。白鳥さんは身じろぎもしない。僕は彼女の顔を見ることすら、出来ない。一生、彼女とは喧嘩をしたくないのだ、と強く強く念じている。

「帰ろっか」

 ふいに、白鳥さんが言った。ため息のような、疲れた声だった。

「うん。帰ろう」

 僕はほっとした。左手をポケットに突っこもうとすると、手首を掴まれた。驚いて振り返ると、白鳥さんはそっぽを向いている。

「今日はちょっと寒いらしいよ。日が落ちる前に帰ろう」

 言いながら、捕まえた僕の左手に指を絡める。

 まるで獲物を逃がすまいとする、蜘蛛の糸のように。



 白鳥さんとの帰路は、他愛のない話ばかりをした。この三日間の天気、見たテレビ番組などなど。話していることはいつも通りなのだけど、今日に限って白鳥さんは僕の左手をがっちりと掴んで離さない。

「ねえ、白鳥さん。……ちょっと、歩きづらいんだけど」

 彼女はぴったりと僕に寄り添って歩いている。身動きがとりづらいのは、本当のこと。

「何か言った?」

 白鳥さんは微笑んで、僕に答える。左手の戒めは緩まない。それどころか、一層強く僕の指を握りしめる。

 僕は視線を逸らした。

「ううん、なんでもない」

 全然、笑ってないな。……彼女の機嫌が最悪なのを感じ取って、これ以上刺激しないことにした。

左手を包むぬくもりと締め付けに、僕は憂鬱な気分になる。多分、どこの誰が見ても僕らは恋人同士に映るだろう。それが嫌で嫌で、たまらない。

 違うのだ、と声を大にして言いたい。絶対に違う、何があってもそれだけは違う。

 そんなの、彼女に失礼だ。白鳥さんにはきっと、もっとふさわしい人がいて、僕なんかを選んじゃいけない。……絶対に、僕らは単なる友人以上の関係に踏み込んではならない。

 白鳥さんとは少し家が離れている。分かれ道のところで、足を止める。

「帰るの?」

 白鳥さんは僕を上目づかいで見上げる。僕は頷いた。

「うん」

「寄り道しない?」

 小首を傾げて、白鳥さんが言う。

「私、もっと夏樹とお話ししたい。……今日はもう少し、一緒にいてほしい」

白鳥さんは消え入るような声で、つぶやく。……僕は小さく首を横に振る。

「おばさんを、安心させなくちゃいけない。だから、早く帰らなきゃ」

「いやだ」

絡めた左腕を、彼女はぎゅっと引き寄せる。

腕に触れた白鳥さんの体温に、甘えるような声の響きに、体がぴくりと強張る。

「し、白鳥さん……?」

 激しく心臓が鼓動を刻むのを聞きながら、恐る恐る声を掛ける。見下ろした彼女のつむじが、小さな子供のような動作で首を横に振る。……白鳥さんだとは思えなくて、目を白黒させていると、突如左腕の拘束が緩んだ。戸惑う間もなく、今度は背中に戒めが回るのを感じた。

「行かないで。ここにいて……行っちゃ、やだ」

 僕の胸板に押し付けた頭から、舌っ足らずの声が聞こえる。

 何もかもが近かった。彼女の体のぬくもりと柔らかさと、甘ったるい声は腕を伸ばすまでもなくあった。

 脳みそから、煙を吹いて溶けていきそうな気がした。心臓は過労で今にも壊れそう。……一体、何がどうしてこうなった?

 息をひそめて、僕は立ち尽くしていた。どうしていいか分からなくて、嵐をやり過ごそうとするみたいにじっとしていた。

 間もなく、すすり泣く声が聞こえてくる。僕はますますわけが分からなくなって、おろおろする。すると、彼女の嗚咽は一層酷くなって、肩を震わせて泣き始めた。……どうしろというのだ。

「お、落ち着いて……と、とにかく泣き止んで……」

 僕もちょっと泣きたい気分を抑えながら、泣きじゃくる彼女に呼びかけた。

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