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第二章 流れゆく日々

 ランクS出没騒ぎの翌日、本当なら僕は機構に行く必要はなかった。僕個人に対して行われる調査は昨日のうちに全て済んでいる。今日は喫茶店の手伝いで一日を過ごしていても、良かったはずなのだが。

「ダイブが出来なくたって、シュミレーターがあります。のんびりしていていい理由はありません」

 沢辺さんに呼び出しを喰らって、シュミレーターの前にいる。今日もゴスロリ姿。頭は帽子ではなく黒いベールで飾られた髪飾りに、昨日とはまた別のドレス。足は編み上げのブーツ、これもやっぱり黒。そして頭髪の色が白から、赤になってるんですが、やっぱ染めたんだろうか。

 シュミレーターは、過去の患者たちからデータを収集して作成した疑似的な精神世界を生み出す装置だ。僕ら適正者、ガーディアンとトランスの能力も忠実に再現するから、ダイブせずともほぼ実戦と変わらぬ模擬戦を行うことができる。

「どれがいいと思います?」

 彼女が開いているのは、相手となるウイルスを選択する画面だ。いずれもランクAウイルスである。

「えっと、ランクFにまからない?」

「そんな雑魚相手にしてどうするんです」

 沢辺さんが冷ややかに言う。

「じゃあE」

「却下」

「C」

「嫌です」

「せめてB」

「Aです」

断固たる口調で沢辺さんが言った。……押してもだめなら、引いてみるまで。僕はにっこり笑いかけてみた。

「それは君の胸囲の話?」

「ウイルスの前に、あなたを駆除する必要がありそうですね、この世から」

 沢辺さんの両目が殺意で爛々と光る。……僕は肩を竦めた。

「どれでもいい」

 どれがいい、と聞きながら選択権はないらしい。僕は抵抗を諦めた。

 ウイルスごとに個体差はあるが、ランクが変わらなければ、飛び抜けて強いものは少ない。それにどのウイルスが強いとか弱いとかいちいち覚えていないから、わざわざ選ぶ理由に乏しい。

「じゃ、これで」

 沢辺さんが無造作に画面をタッチする。ウイルスの映像がズームされる。それは車の映像。新品同然の、赤い小型車だ。

 ん? その映像に、なんとなく見覚えがあった。戦ったことはない。でも、なんだか記憶に残ってるぞ……? 非常に、嫌な予感がした。

「あ、沢辺さん。ちょっと待った、それは……」

 沢辺さんの手が画面を叩く。

「何か言いました?」

 沢辺さんが首を傾げる。ウイルスの画像が消え、カウントダウンの映像に切り替わる。……あちゃー。もう間に合わないぞ。僕は頭を抱えた。赤い車の正体を思い出した。

「それ、この間ランクA適正者コンビを殺したやつ」

 僕は直接戦っていないけど、そのとき大騒動になったので噂には聞いている。

「え?」

 沢辺さんの目がすうっと丸くなった。

 画面のカウントダウンがゼロになった。



 瞼を開けると、眼前に道路が広がっている。交差点はなく、一本道が延々と続いている。未知幅は広く、片側四車線はある。高速道路と言ったほうが、説明に言葉を費やさずに済むか。ただ、車は一台も走っていない。道路の外側は青い空が広がり、それを背景にして、空中にも道路が走っている。テーマパークにあるようなやたらと長い滑り台みたいに、道路が螺旋を描いて下界を目指している。

 話には聞いていたけど、実際目にするとやはり馬鹿げた世界だ。毎度のことながら、患者の心理状態が気になるところだ。

「ランクA適正者を殺したウイルスなんですね? でも、ここにちゃんと登録されてるんですね」

 沢辺さんがきょろきょろと周囲を見渡しながら言った。

「救出に行ったコンビがいてね、助け出すことは出来なかったけど、ウイルスは倒したから」

「へえ。すごいですね。それ、誰です」

「えっと、それは……」

 言い掛けて、なんとなく上空を見上げる。すると、オペレーター端末が律儀に再現されて浮いているのが見えた。

「君、端末再現まで設定したの?」

「そりゃ、しますよ。模擬戦ですもの」

 僕は天を仰いだ。

「あーあ……」

 難易度が倍以上に跳ね上がってしまった。呆れかえっていると、沢辺さんがむっとした様子で眉を跳ね上げた。

「なんですか、その思わせぶりな態度は。言いたいことがあるなら、はっきりと言ってくだ……ひゃっ!」

 沢辺さんの長話につきあっている場合ではない。彼女の腰に右腕を回して、地面を蹴る。向かい風を突っ切りながら、上空へと舞い上がる。

「ちょっと! だからあなたは毎回唐突なんです!」

 耳元で沢辺さんがぎゃあぎゃあ騒ぐ。毎回毎回、彼女はやかましい。僕は顔をしかめた。

「トランス! さっさとして!」

「まったく、説明ちゃんとしてくださいよ!」

 沢辺さんが怒鳴る。同時に彼女の姿が白い光に包まれ、黒い短剣へと姿を変える。

 頭上に端末が迫る。端末を、左腕を伸ばして掴む。端末は待避行動を取らない。僕は端末を抱えて、落下。

『どうして端末を抱えるんです? だって邪魔ですよ。自動操縦プログラムで勝手に動くのに?』

 短剣から沢辺さんの疑問の声が聞こえる。が、答えるのは後回し。

「【解放】! 話は後!」

 落下しながら、短剣を振りかざす。「ええ?」と沢辺さんの怪訝な声が聞こえてくるが、短剣は黒い炎を帯びる。左腕を短剣の刃が貫き、引き抜く。電撃が走ったような痛みが体を貫き、口から堪えきれない呻き声が漏れる。痛みを堪える僕を後目に、黒い炎が飛び散った鮮血に舌を伸ばす。

『【解放】切るの、早すぎません?』

「ああ、そうだよ。普通の相手なら、こんな早くに切ったりしないけどね」

 沢辺さんの【解放】の条件は、ガーディアンの腕か足の血を刃に捧げること。それも浅手では意味がなく、肉まで達するような深い傷をつけなければならない。他のトランスと比較の上で見ると、彼女の【解放】の長所は、武器の性能向上だけでなく、炎を操る能力が付いてくるので、攻防における汎用性が高いこと、それから好きなタイミングで【解放】できること。短所は見ての通り、刃に捧げる傷による負傷。【解放】を切った状態での長期戦は出来るだけ避けたい。

 条件が厳しいトランスは、【解放】を切ることを目的に戦闘を組み立てることが求められるが、沢辺さんは逆だ。いかに【解放】を切らずに、ウイルスを追い込むかが重要になる。あくまで最後の手段、切り札なのだ。だから、最初から【解放】を切るなんてありえない。ましてや、姿形すら把握していない敵に使うわけがない、リスキー過ぎる。

「こいつ相手に温存はない。倒すか帰還不能のどっちかだ。……ほら、【炎刃】!」

 半ば怒鳴りながら、右手の剣を振り抜く。刃に纏った黒い炎が扇状に広がり、車道に向かって降り注いでいく。

 地面に着弾する前に、炎が弾ける。炎の段幕を破って飛び出してきたのは、赤い車だ。エンジンのうなり声が響く。アクセル全開で、矢のように飛来。

 端末を胸に抱えたまま、身を捻って回避、すれ違いざまに剣を一閃。沢辺さんの甲高い悲鳴と共に、掠めた刃が後部座席のドアを切り裂き、根本から千切れ飛ぶ。ドアが吹っ飛び、内装を晒した車が、ブレーキも利かずに空中を走り去っていく。

 一度すれ違えば、次の遭遇までしばらく時間がかかるようだ。車が遠ざかった隙に、端末を左腕で抱いたまま、車道に着地。

『な、何なんですかあれは! 車が空飛んでますけど?』

「見ての通り、空飛ぶ車だよ。現実に持って帰れたら、いいのに。バカ売れするだろうなあ」

『あんな物騒な車、持って帰ちたがらないでください!』

 沢辺さんが力一杯叫んだ。僕はからから笑った。必死だ。まあ、あんな車あったら事故が洒落にならないかな。

 エンジンの音が上空から響いてくる。ゆるんだ緊張と共に、右手の剣を握り直す。――頭上に影が差す。車のフロントガラスごしに、誰もいない運転席でハンドルがくるりと回る。

「来たっ!」

 端末を抱えて、横っ飛び。アスファルトの粉塵がもうもうと舞い、もがくようにエンジン音が空回りする音が響く。

 足のつまさきが地面につくと同時に、バネのように再度地面を蹴る。まっすぐに車へ突っ込み、上段に構えた剣を振り下ろす。紙のように車体が切り裂かれる。助手席側のドアが吹き飛び、内部の席までえぐり取る。覗いた車内に深紅の輝きを発見する。運転席のハンドル中央、あそこを壊せば終了。踏み込むか、否か。一瞬の決断を迫られ――ハンドルが一回転。

 急なハンドルの切り返しに、車体がその場でスピン。待避に動くが、間に合わないと僕の思考が告げていた。かわし切るのは、無理だ。

 後方へと飛びながら、左腕に抱えた端末を投擲。僕の血の滴と共に、投げ捨てられた端末が自力で飛翔。のろのろとした動きで、ウイルスから距離をとる。

 振られた車体に接触、鉄の塊に殴られて後方に吹き飛ばされる。……視界に星が飛ぶ。全身には鈍い痛み。胸のあたりは焼けるような痛みがある……絶対、これ骨折れてるって。

 ああ、今日はダイブ休みなのに、何でこうボロボロになってまで戦わなきゃならないんだよ。

 苦痛と理不尽さに顔をしかめつつ、空中で一回転。受け身を取って立ち上がる。……全身が悲鳴を上げるが、膝を突くわけには行かない。だって、まだ戦いは終わっていないから。

 そう、気を張っていたのだけれども。……妙に静かだった。車のエンジン音が沈黙していた。違和感を覚えて、もうもうと立ち上る土煙を睨む。目を懲らすが、煙の向こうで蠢く影はない。……まさか、と思って背後を振り返る。

 オペレーター端末が車道に落ちていた。中央に抉られたような奇妙な大穴を空けて、ぴくりとも動かなかった。

 けたたましいアラーム音が鳴り響く。空中にLOSEと赤文字が踊る。

『な、何で……?』

 沢辺さんの声が聞こえた。僕は深々とため息をつく。どっと疲れが肩にのしかかってきた。だらりと下げた剣を気だるげに持ち上げて、振り下ろす。炎が刃から放たれ、土煙を焼き付くす。視界が晴れ、無惨にドアと助手席が切り裂かれた赤い車が姿を現す。動き出す気配はない。つかつかと近寄って、ヘッドライトを剣で指し示す。

「こういうことらしいね」

 さっきまでついていなかったヘッドライトは、壊れた端末を照らしている。

 剣が粒子に分解され、沢辺さんが姿を現す。屈み込んでヘッドライトに顔を寄せ、不可解そうに睨む。

「えっと、つまり?」

「これ、レーザー光線。端末は避けられなかった、で、撃墜」

 レーザーの真正面に立たない限り、まともに食らうことはない。素早く動き回る適正者にあたることは考えにくいが、蝶々並の速度でしか動けない端末を狙うのは容易いだろう。

 沢辺さんが立ち上がる。

「卑怯な……」

 険しい表情で赤い車を見下ろす。僕は彼女の言葉に頷く。

「その通り。このウイルスは、飛び抜けて強かった訳じゃない。とにかく姑息なんだ。執拗に端末を狙ってくる」

 車道に座り込みながら、手を振ってシュミレーター操作画面を呼び出す。空中にメニューウィンドウが浮かび上がる。シャットダウンの前に、痛覚の設定を切ると、全身を苛む激痛が消える。

「普通、ウイルスは襲いかかってきた適正者を優先的に狙うから、ここまで露骨な奴はなかなかいないよ。端末をかばいながら戦うことを強いられるのは、かなり不利だ」

 シャットダウン処理を開始する。十秒後にシャットダウン処理が始まる、と書かれた画面から顔を上げる。動かない赤い車を睨む沢辺さんの後ろ姿が見えた。

 がん、と車から鈍い音がした。沢辺さんの分厚いブーツが、車を蹴り飛ばした音だった。驚いて目を見開くと、沢辺さんがこちらを向いた。

「次は何が何でも、絶対に勝ちますので」

 まるで修羅のような瞳だ、と思った。



「あららー? なっぴーったら、負けちゃったのお?」

 耳元で声がする。わざとらしく語尾を伸ばすのがうっとおしい。頭を振って、声の主を遠ざける。

「あのさ、模擬戦中に背後に回らないでくれる?」

 振り返るのも嫌だった。が、相手は僕の意志などお構いなしに僕の首に腕を回し、しなだれかかる。

「えー? だって、七子なっぴーの背中好きだし。ちょっと抱きついてみたっていいじゃん?」

「僕は迷惑してるけど?」

 すると背中で、七子が屈託のない声で笑う。

「あっそー。でも、仕方ないじゃん? だって、私もなっぴーの正面嫌いだもん、だってその辛気くさい顔見えるから。だから、ね?」

 だから、なんだというのやら。こいつと会話すると、頭が痛くなる。

 手を振って、七子の手を払う。七子はあっさりと離れた。背後を振り返ると、とても同い年とは思えないやつの姿が見えた。

 中学生でもなかなかやらないツインテールに、ウサギの耳が生えたふわふわ素材のリュック。身長は小さいし、顔だちは幼い。いいところ、小学三年生ぐらいだ。

 隣をちらっと見ると、沢辺さんが「誰ですか、この不愉快なチビは?」と視線で尋ねてきた。そうか、沢辺さんは幸いなことにまだ七子のことを知らないでいられたのか。

「これ、京極七子。ガーディアンだよ、これでも学年的には僕と同じ」

 人差し指で七子を指さす。

「で、さっきの車をブチ壊した犯人」

 沢辺さんが目を見張る。……現在は三組しかいないランクA相当の適正者と分かれば、そりゃ見る目も変わるか。

「てへへ。尊敬してくれたっていいんだよ」

 七子があるんだかないんだか分からない胸を張る。

「あと、あんまり関わらない方がいいと思う。このうえなく、うざいから」

「むー! なっぴー、その一言はいらない!」

 わざとらしく頬を膨らませる。同い年、というか僕より何日分か年上のくせに、この仕草はない。

 沢辺さんは僕と七子を横目でじろじろ見ながら、小さく会釈した。

「……沢辺清河です。よろしくお願いします」

 実力者と分かっても、声はあんまりよろしくしたくなさそうだった。さすがに、彼女も一見して分かる七子の面倒くささには辟易している模様。

 七子が僕から、沢辺さんへ視線を移動させる。頭のてっぺんのヘッドドレスから、ブーツのつま先まで一瞥。数秒間、何やら考えているらしい不気味な真顔を作った後、形だけは無邪気な笑みを浮かべる。

「なるほど、きよぴーか。んー、いやいや、きよよ? ま、それはどっちでもいっか。とりあえず、よろしくね?」

「ええ」

 沢辺さんは再度会釈。目には露骨なぐらいの警戒の色で、決して七子と目を合わせようとはしない。唇も縫いつけたみたいに、固く閉ざされている。

 が、七子の目線はがっちりと沢辺さんに固定されたまま。

「清河ちゃんのお噂はかねがね聞いてるよ。えっとぉ、確か今年度の新入生のトランスの中で一番優秀だったんだってね? すっごーい」

「……恐縮です」

 目を逸らしながら、沢辺さんがつぶやく。七子は張り付けたような笑みを絶やさない。

「ねえ、知ってる? なっぴーってこう見えても、現役のガーディアンの中で一番強いって言われてるんだよ? 現実じゃあ、むしろ機構内最弱に見えるんだけどねえ」

 厭な噂をされたが、黙っておく。この不穏な空気の中心に巻き込まれるのはごめんだ。

「ええ、そうですね」

 棒読み口調で沢辺さんが相づちを打つ。そうですね、って君も否定しろよ後半、と思ったけど、まだ口をつぐんでおく。

「清河ちゃんも大変だよねえ、最初からなっぴーと組まされるなんて。すっごい重責でしょ? 早々高ランクダイブさせられ、しかも早くランクAダイブしろ、ってまで言われてるんだっけ? この四月に入ったばっかりだってのに、本当ご苦労様だよ」

 七子はそれこそ子供に絵本を読み聞かせているみたいに、一言一言ゆっくりと言う。……一見当たり障りのないことばかり言っているように聞こえるけど、嫌な予感しか、しない。

 顎をしゃくって、出口を示す。沢辺さんはわずかに顔をしかめる。負けん気の強さか、好奇心か知らないが、逃げるか迷っているらしかった。

 馬鹿か。僕は心の中で、つぶやく。七子相手に会話なんかするもんじゃない。もういっそ、強引に引きずって出ていった方がいいか? ……悩んでいる内に、ポケットの携帯が震えた。こんな時に誰だよ、と悪態をつきたいのを抑えて、画面を開く。メールが一通来ていた。

『夏樹、今どこにいる? 用事があるんだけど』

差出人は白鳥ちづるだった。

「でも、清河ちゃんえらいよね。まじめにシュミレーターで訓練して、無理難題に応えようとしているんだもの。七子、尊敬しちゃうなあ。絶対そんなことしようと思わないもんね?」

 七子が声を弾ませて、笑う。

 僕は返信メールの作成画面を開けて、打ち込む。『後で返事する』とだけ書いて返信。それ以上は教える気がしなかった。……この場にあの人まで呼び寄せたくなかった。

 ぴたり、と七子の笑い声が止んだ。

「だって、訓練なんて無能のやることだもの。したって、どうにもならないような奴が訓練訓練なんて言うの。……かっわいそー」

 そう言って、七子はまた一人で笑い出す。何が楽しいのかさっぱり分からないけど、

 隣で、がた、と椅子を引く音がする。……衣擦れの音がした。目線だけで様子を伺うと、沢辺さんが立ち上がっていた。彼女は、七子の襟首を引っ掴んで、鼻先にまで顔を近づけた。

「出て行け」

 静かな声だった。ぞわりと肌が泡立つ。冷たい怒りをたたえた声だった。

 しかし、七子はまだ笑っている。

「強気だね? 今さっきだって、負けたくせに?」

 道化師のような、底の見えない薄っぺらい笑みを崩さずに、沢辺さんを見上げている。

 沢辺さんは掴んだ襟首を前後に揺らす。七子は人形みたいに、無抵抗に体を揺らされ、うなだれる。

「相手が悪すぎただけ。……たかが一回の負けでぐだぐだ言うんじゃない」

「一回? 二回目でしょう?」

 七子は顔を上げた。やはり顔には、道化師の笑みがある。

「今日はまだいい、単なる練習。でも、昨日は違う。あなたが逃げたせいで、哀れな患者さんは死ぬ。誰からも、見捨てられて、さあ」

「違うわ……! あれは……」

 沢辺さんは力なく、首を横に振った。まるで凍えているみたいに、唇がわなないていた。

 七子は襟元を掴む沢辺さんの手を掴み、下ろさせる。背伸びして、沢辺さんの耳元に唇を寄せる。

「そんなんじゃ、誰も救えないよ? あなたの大切な人も、ね?」

 七子の言葉を耳にした途端、沢辺さんの瞳がかっと見開かれる。震える唇が、苦しげに喘いだ。彼女の両手が、七子の細い肩をどん、と突き飛ばした。

 七子がシュミレータールームの床に尻餅をつく。「いったあい」とわざとらしくつぶやいて、沢辺さんを上目遣いで見上げる。

「黙れ!」

 沢辺さんが叫んだ。耳に響く、金切り声だった。

 ゴシックな黒いドレスが翻り、分厚いブーツのヒールが床を叩く音がする。沢辺さんの小さな背が、シュミレータールームの自動ドアへと駆け出す。

 沢辺さんが到達する前に、ドアが開く。俯いて走っていた沢辺さんは、入ってきた人物と肩をぶつける。ぶつかった瞬間よろけるが、彼女は足を止めずにそのまま走り去っていく。

 七子が立ち上がって、ほこりを払う仕草をする。

「ああ、ちょっろいわ」

 笑いをかみ殺して、七子がつぶやく。

 僕は腹にたまっていた息を吐き出す。やっぱり、こいつは最低だ。他人の不幸を何よりも好む、ゴミみたいな奴。前から知っていたけど、この目で見るのは久しぶりだった。

 七子が振り返った。僕の渋い表情を見て、奴はさも楽しそうに微笑む。

「見ていてどうだった、なっぴー?」

「ああ、そうだね。見ていて胸糞悪かったよ、実にね」

「へえ。黙ってたから分からなかった。てっきりおもしろがってるのかと」

「一緒にするなよ」

「ええっ。残念だなあ、せっかくなっぴーと共通の趣味が見つかると思ったのに」

 ちっとも残念じゃなさそうに、七子が言う。……お前と共通の趣味なんかもってたまるもんか。苛立ちと共に、椅子から立ち上がり、歩きだす。

 僕が歩き出すのと同時に、沢辺さんとぶつかってから、ずっと立ち尽くしていた人物がこちらに歩み寄ってきた。

「何が、あったの?」

 携帯片手に、白鳥さんが僕を見上げて言った。

 僕は首を横に振った。

「知らないでいい。……行くよ」



 白鳥さんにシュミレーションルームでの出来事を話すつもりはなかった。でも、彼女は僕がいくら話を逸らそうとしても、粘り強く尋ねてくるので、諦めた。一時間後にはもう根を上げていて、七子と沢辺さんのやりとりを最初から最後まで話していた。

「その子の連絡先とか、聞いてる?」

 自宅の喫茶店のカウンター越しに、彼女と対面している。端麗な眉をつり上げて、白鳥さんが言う。

「知らない」

 実は知ってる。でも、知らないふりをしておく。今から連絡しろって言うのは目に見えているから。

「じゃ、明日でいいよ。話、聞いてあげること。……分かった?」

「はい、はい」

 うん、分かったことにしておこう。白鳥さんの手元にある、空っぽになったお冷やに手を伸ばす。……すると、無防備に伸ばした手首が、動かない。白鳥さんの手に捕まって、まるで自動ドアに手を挟んだみたいに動けない。って言うか、痛いです、非常に痛いです、女の子の力違うこれ。

「分かった、ね?」

 白鳥さんは僕の目をまっすぐに見つめて、唇を薄くほころばせている。紛れもなく微笑しているのだけれども、目だけは笑っていない。……僕の手首がぎゅうぎゅう悲鳴を上げている気がする、やめてください、死ぬ!

「分かった、すごく分かった! だから手を離して!」

 必死で叫ぶと、手首が解放された。慌てて手を引っ込めると、皮膚が赤くなり、鈍い痛みが残っている。

白鳥さんはいくつか武道をおさめているとかなんとかで、戦闘力が一般女子高校生の範疇にない。精神世界ならともかく、現実世界で彼女と殴り合っても殺される気しかしない。どれくらい無謀かというと、熊に素手で挑むぐらいのような気がする。

「やっぱりちゃんと話は聞いてあげないとね」

 今度はしっかり目も笑っていて、さもご満悦の様子。沢辺さんの話より、まず僕の悲鳴を聞いてくれ。

 しかし、正直言えば僕は気が進まない。

「沢辺さんって、妹いるらしいんだよね」

 痛みを紛らわすために手を振る僕を後目に、白鳥さんは自分で水をつぎ始めた。

「んで、その妹さんがフラメア病患者らしい。発症したのがこの二月。それで……ランクはS」

 白鳥さんは水の入ったポットを置いた

「なるほど。その沢辺さんって子が逃げ出したのは、そういう理由」

 沢辺さんは妹の病気を救うために、機構に入った。運良く持っていたたぐいまれなトランスの才能を生かし、妹のランクSのウイルスを退治することを目標に掲げて。

 フラメア病の患者には時間制限がある。これはランクには関係なく、半年だ。発症から半年が過ぎれば、心臓が止まって死ぬ。それまでに治療を施さなければ、助からない。……沢辺さんが焦るのも、無理はない。

 白鳥さんが首を傾ける。

「それにしても、夏樹が他人の事情を知っているなんて、珍しい。向こうから喋ったの?」

「いや」

「だよね。……じゃあ、何、聞きだしたの? 弱みを握って、一番高いメニューを売りつけるつもり?」

 白鳥さんはメニュー表のランチプレートの欄を示す。お値段千円也。

「あの、僕は確かにケチかもしれないけど、そこまでじゃないかなあ」

「え、そうなの」

 本気で驚いた様子で、白鳥さんは目を丸くする。

「ほら、おとといさ、お客さんが千五百円のつもりで二千五百円出して気づかずに帰ちゃった時、すごい嬉しそうだったよね」

 ぎくっ。

「よ、よろこぶわけないじゃん? おつり返す時、どうして気づかなかったんだって忸怩たる思いで……」

「お客さんがドア閉めた直後に、ぎゅっと拳を握ってるの見えたけど、あれガッツポーズだよね」

 確かにあの場に白鳥さんはいたけど、ふつう見えないよそんなところ。レジカウンターの裏に、この人監視カメラでも仕掛けてたのだろうか。……冷や汗たらたらで立ち尽くしていると、白鳥さんがにっこりと笑う。

「それ以外にも、いっぱいあるよね。ほら、確かひと月前のことだったかな、確か……」

「OKOK、そうだ僕はケチですとも! 認めますから、お願いそれ以上エピソードを開示しないで!」

 今はお客さんいないけど、いつ入ってくるか分からないから、小春さんにばれまいと思って定価×2倍でコーヒー豆を売りつけた話をしないで!

 白鳥さん、今度は満足そうににっこり。

「じゃあ、何で沢辺さんのこと知っているのかな?」

「小春さんが全部話してくれたんだよ」

 心の中で白旗を上げながら、項垂れる。

「そんな理由を背負って来ている子だからさ、他のパートナー以上に気を配ってやれ、ってね。だから、知りたかったわけじゃないけど、事情はだいたい聞いている」

 普通、パートナー同士と言えども、やはり他人は他人だ。それぞれが抱える事情をオペレーターが漏らすことは厳密に言えば、よろしくない。小春さんがばらしたことがばれれば、彼女の責任問題にもなりかねないから、僕が沢辺さんの秘密を知っていることそれ自体も秘密だ。だから、沢辺さんと直接話す機会を持たない限り、僕も知らない体を貫くしかない。

「そう、じゃあとにかく夏樹は、聞かずともその沢辺さんの秘密を知っているんだね」

「そういうこと」

「うん、分かった」

 白鳥さんがこくりと頷く。

「つまり、夏樹はここで手打ちにしたいんだね。沢辺さんと身の上話はしたくない」

 白鳥さんが柔らかい口調で言った。

 僕は答えない。否定もしないが、肯定もしない。……白鳥さんはじっと僕の顔を見ていた。しかし、やがて僕の左手の方へと移った。

「もっと、互いに話をした方がいい。境遇だけじゃない。その子が、何に苦しみながら戦っているか、もね」

 白鳥さんの視線は僕の小指に注がれている。まとわりつく視線から逃れたくて、左手ごとエプロンのポケットにつっこんだ。

「僕は聞きたくないし、話したくもない」

「でも、話すべきだと思うよ」

 頬杖をついて、白鳥さんが言う。

「パートナーってさ、戦闘能力とかさ、そんなことだけ知っているのじゃ不十分だよ。相手のこと、深く知ることは大事だと思うの」

「どうしてだよ?」

 白鳥さんは微笑を浮かべる。

「友情というか、愛着というかなんというか、分からないけど。……大事でしょ、そういう気持ち。戦いの役にも立つと思うんだよね」

 僕は言葉に詰まった。

 彼女の言い分は分かるのだ。パートナーに対して、何らか思い入れがある方が単純な心理的な面からだけではなくて、戦闘においても意味があるということに。

 絶対に守り抜かなければならない相手が側にいると、否が応でも人は死力を尽くす。それがいかに強力か、既に知っている。

 話は分かるけど、肯定はしたくない。

「別に、そこまでして強くなりたいわけじゃないから」

 下手くそな言い訳だ。声にした途端、自分で思った。

 白鳥さんは、音楽に聴き入るみたいに、僕の声にじっと耳を澄ませている。

 きっと彼女を欺けていないだろう。確信があった。僕には到底、彼女をだましきることはできない。

「じゃあ、約束」

 白鳥さんが頬杖をやめて、顔をあげた。

「私が夏樹に本当にしてほしいことは一つだけ。……絶対に死なないでほしい。ただ、それだけなの」

 そう言って、彼女は左手をカウンターの上に置いた。人差し指から薬指まで曲げ、小指だけを立てて僕に差し出す。

 僕は彼女のほっそりとした小指を見つめる。……きっと、彼女は僕が左手を差し出すことを望んでいる。分かっている、それぐらい僕にだって分かる。

 エプロンの中でぎゅっと握り拳を作る。あまり、気が進まない。適当に右手を差し出しておけばいい、とちらっと考えもした。

「分かったよ」

 僕は左手をポケットから出す。白鳥さんと同じように、人差し指から薬指までを折り曲げ小指を立てる。

 立てた小指で、白鳥さんの小指に触れる。

「とりあえず約束すれば、いいんでしょ?」

 全神経を集中させて、小指を折り曲げる。強ばった指の第一関節はなかなか折れない。蝸牛が這うよりも、遅いかもしれない。それでも白鳥さんは黙って、僕がぎこちなく小指を折るのを待っている。

 指の腹が彼女の指に触れるまでに、一分は掛かっただろう。

 僕の指が触れた瞬間、彼女は僕の指を抱き留めるように小指を折った。

「前より、動かしづらい?」

 白鳥さんがぽつりとつぶやいた。僕は小さく頷いた。

「仕方ないよ。続けているんだもの」

 返事はなかった。白鳥さんは唇をつぐんで、俯いた。

「……うん」

 彼女がどんな顔をしていたのか、僕には分からなかった。



 白鳥さんが右手をどけると、絡めた指を放してくれた。それと同時に彼女は立ち上がる。

「そろそろ帰るね。お邪魔しちゃって、ごめんね」

 言いながら、白鳥さんは鞄から財布を取り出す。

「お会計。ぴったりだよね?」

 四百円取り出して、僕に差し出す。……コーヒー一杯の値段だ。

 差し出された小銭を眺めて、それから思い出したように笑ってみせる。

「ぴったりだよ。助かるね」

 彼女の手から小銭を受け取って、レジに入れる。

 他のお客にはどうだか知らないけど、彼女にとってこの四百円に意味はない。……詐欺みたいなものだ、とつくづく思う。本当はそれが嫌で、彼女からお金なんて取りたくないけど、いらないと言った時の反応はもう知っている。無理矢理置いて帰るのだ。それで、わだかまりが残るというのなら、僕の気持ちなんて考慮に値しない。

 僕がレジを整理している間に、白鳥さんは鞄を開けて、中を漁っていた。

 もう帰っただろうと思っていた。だからレジから顔を上げたとき、まだ彼女が僕の前に立っていたのには軽く驚いた。

「夏樹を探してた用事を忘れるところだった。……これ、渡そうと思って」

 白鳥さんは、小さな手提げ袋を手に持っていた。ちょうどお菓子とかが入りそうなサイズで、袋の表面にはブランド名らしきロゴが入っている。中を覗くと綺麗に包装された長方形の包みがあって、その傍らにはメッセージカードが添えられていた。

「お誕生日おめでとう」

 そう言って、彼女は袋を僕に差し出した。

「ちょっと早いけど、壊したって言ってたから。だから、もう渡しておこうと思って」

 僕は差し出された袋をじろじろと見ている。……袋のブランド名をどこかで見た気がして、僕ははっとした。

「これ、いくらしたんだよ! 受け取れないよ!」

 ブランド詳しくないけど、これは絶対高い! 諭吉は確実に飛んでる、下手したら複数枚飛んでる!

 白鳥さんはにこにこ微笑んでいる。

「気にしないの。ほら、中身ぐらい見てよ」

「何言ってんだよ、中開けちゃったら返品できないかもしれないじゃないか」

「返品? 何で?」

「何でって、そりゃ受け取れないからだって」

「どうして?」

 白鳥さんが首を傾げる。

「だから、それは高いから……」

「高いとどうしてだめなの?」

 まっすぐに僕を見据え、心底不思議そうに白鳥さんが言う。

「えっと……それは……」

 目が泳ぐ。どうして高いとだめか? 直球で聞かれると、そんなの、だめなものはだめとしか言いようがないじゃないか。僕が言葉に詰まっていると、白鳥さんは唇をほころばせて、笑った。

「細かいことはいいじゃない。貰っておいてよ」

 白鳥さんはそう言って、紙袋をカウンターに置く。

「いや、だからさ。だめだって、そういうのは。もったいないって」

 僕は紙袋を拾い上げて、白鳥さんに差し出す。が、彼女は手を伸ばそうとはしない。

「いらなかったら、捨ててくれていいから」

 にこにこ笑ったまま、踵を返す。「待ってよ、持って帰ってよ!」と彼女の背中に呼びかけるが、そのまま歩いていってしまう。扉を半ばまで開けてから、ようやく振り返った。

「じゃ、またね」

 小さく手を振って、扉の鐘の音と共に去っていった。



 翌日、当然のように沢辺さんに呼び出された。無論、場所はシュミレーター室で、今日も懲りずに訓練するつもりなのだ。

「あの……どうしました?」

 一昨日、昨日とはやはり別のゴスロリ衣装に身を包んだ沢辺さんが、おそるおそるといった風に口を開いた。僕は気だるげに首を振った。

「別に、どうもしないけど」

「ええっと……お腹でも壊しました?」

「壊してない」

「財布を落とした?」

「落としてない」

「今日はスーパーの特売やってない、とか?」

「今日は卵が安いよ」

「そ、そうですか」

 沢辺さんが頬をひきつらせる。それ以上言うことがなくなったらしく、会話が途切れる。……僕はため息をつく。すると、沢辺さんがぎこちなくこちらを見やった。

「桜木さん、今日はため息が非常に多いですね」

「そう?」

「ええ、その分減らず口がいつもの五十パーセント減ですね」

 声のトーンを落として、沢辺さんが言った。なんだか声から察するに遠慮しているつもりらしいが、

「そうか」

 発言内容のうっとおしさは一パーセントも減ってないので、あんまりありがたみがない。

 またまた、沈黙。……あー、早く帰してくれないかな。無意味に天井を見上げていると、沢辺さんがささやき声で話しかけてきた。

「あの、昨日何かあったんですか?」

 僕は目を閉じた。

「何も」

 頭の中では、白鳥さんが置いていった紙袋がくるくる回っている。……何も考えたくない。

 もう一度、沈黙。

「ひょっとして、白鳥さんと何かありました?」

 ぱちっと瞼が開く。ぎょっとして、沢辺さんを見ると、彼女は上目遣いで僕を見た。かくりと首を傾げる。

「えっと、当たりですか?」

 どきり。心臓を素手で鷲掴みにされた気分。

「ち、ちが」

「ああ」

 沢辺さんがにたりと笑う。

「どうぞお話ください。特別恋愛相談員・沢辺清河が誠心誠意聞いてあげますよ……おもしろいネ……いや、桜木さんの心の平穏のために」

「君、今、おもしろいネタって言い掛けなかったか?」

「気のせいですよ」

 一流のホテルマンみたく、胸に手を当ててさわやかな笑みを浮かべる。そんなことすると、まな板ぶりが際だつというのに自重しない。

「さ、ゲロってください。全部吐いてすっきりしてから、訓練といきましょう」

「はい、提案。帰りたい」

「だめです。訓練してからです」

「じゃあしよう、今すぐ」

「今の状態じゃあ、やっても意味がないです。健全な精神状態じゃないとね」

「僕は健全だよ」

「だめです」

 沢辺さんはきっぱりと言う。

「場所を変えましょう。あ、そうだ、休憩室にでも行きましょうか」

 沢辺さんがまともに笑うときって、大概ろくでもないときだということが薄々分かってきた。



 で、休憩室に移動した、もとい、させられた。キヨスクみたいな売店と自販機が並んでいて、ベンチがぽつぽつとある。僕らはその内の一角を占拠していた。

 沢辺さんに口を挟まれる謂われなどない。「何もない」を連発したが、「むむ? いつもスカスカの桜木さんの鞄が妙に膨らんでますねえ?」と妙な勘の鋭さを発揮して、強制荷物検査をされてしまった。

「ブツがあがりましたね」

 決定的証拠を押さえた刑事みたいな、渋い台詞とニヒルな笑みと共に、メッセージカード入りの袋をつまみ出す。ああ、返そうと思って持ってきたのが仇になるとは。

 当然のごとく、中身を漁ってメッセージカードを点検。袋と包装された箱を見やって、「ふむふむ」と頷く。

「これ腕時計ですね。しかも、ここの奴かー。……桜木さんにしてはいいもの貰ってますねえ」

 彼女はこの謎袋の正体が分かるらしい。

「あのー……いいやつって、どのくらい?」

 おそるおそる聞いてみると、「ピンからキリまでありますけど」と前置きした上で、値段を教えてくれた。血の気を引くのを感じた、諭吉が乱舞しているじゃないか……!

 僕が茫然としているのを見て、沢辺さんは不思議そうに首を傾げる。

「腕時計で諭吉が飛んでいくのは当たり前でしょ?」

「千円で買える腕時計しか僕、買ったことないんですけど」

 味噌汁に落として壊した先代は九百八十円だったぞ。

「え、千円で腕時計って買えるんですか?」

 沢辺さんは困り顔。わあ、僕の常識が通用しなかった。

 しかし、彼女のコストパフォーマンスゼロの私服を見ていると、この反応も頷けるような気がする。良く知らないけど、ゴスロリの服って一着良い値段するらしいし、それを靴から髪飾りまで毎日とっかえひっかえできるぐらいなんだから、経済観念がかけ離れていても仕方ないのかもしれない。

「で、これを白鳥さんから貰って頭抱えてるってことですね、今の桜木さんは」

 真相をずばり言い当てられる。……証拠まで挙がってるのだから、言い逃れはもはや不可能。僕は観念した。

「そうだよ。そんな高いもの、もらうわけには」

 びり、びりびりばりばり。沢辺さんの手元から嫌な音が聞こえた。

「……って、君何してるのさ!」

「あ、良いじゃないですか。桜木さんには非常にもったいないです」

 包装破いて、中身を取り出し、顔をほころばす沢辺さんの姿がありましたとさ。僕は血相変えて、彼女の手から時計と開いた箱をひったくった。

「開けるなよ!」

「何言ってるんですか、貰ったんでしょ」

「返そうと思ってたんだよ!」

「何で?」

「高いからだよ!」

「別に良いじゃないですか」

 沢辺さんはけろりと言う。

「あげるって言ってるものをいらないって突っ返す方が、よっぽど失礼だと思うんですけど?」

 ぐう。沢辺さんのくせに正論を言う。

「いや、それはそうだけどさ……」

「普通にありがとうって言って、受け取ったらいいじゃないですか。それの何が問題なんです?」

 面倒くさそうに沢辺さんが言った。いかん、このままじゃ言い負かされる。

「それにしても限度があるって。そりゃさ、百円二百円……まあ千円ぐらいなら僕だってガタガタ言わないよ。でも何万もするようなものは貰えない」

「千円って、あんた中学生のお小遣いじゃないんですから」

 沢辺さんがあきれ返って、ため息交じりに言う。僕はむっとした。

「あのね、千円を馬鹿にするなよ。それだけあれば、一体何食分まかなえるかと……」

「気にしてるなら、桜木さんも白鳥さんに何かあげたらいいんじゃないですか」

 僕の話を遮って、沢辺さんが言う。

「どうせ、あなたお金いっぱい稼いでるんでしょ? まさか出来ないとか言いませんよね?」

「う……買えないことは、ないけど……」

「はい、論破。まだ何か反論は?」

「……」

 言いたいけど、言えない。ジト目で沢辺さんを見るが、「言いたいことがあるなら口で言え」とでも言いたげな、冷めた視線を向けられるばかりである。

 しばらく、無言でにらみ合っていた。先に視線を外したのは沢辺さんだった。僕から目をそらして、肩をがっくりと落とす。

「もう、一体何がそんなに不満なんですか?」

「いや、だってさ……」

「あー、もう! 面倒くさい!」

 沢辺さんは投げやりに言って、テーブルをバンと大きく音を立てて、叩く。周りの人が驚いてこちらを見るが、沢辺さんは気にもとめない。

「言いたいことがあるならはっきり言う! ないなら、うじうじしない! どっちかにしてください!」

 僕は力なくうなだれる。

「そういう簡単な話じゃないんだってば……」

「じゃあ、どういう難しい話なんですって! ちゃっちゃっと話したらどうです!」

 再び沢辺さんがテーブルを叩く。周りの人がちらりとこちらを伺う。話せと言うが、話しづらい雰囲気を作っているのは沢辺さん自身である。

 今日、何度目か分からないため息をつく。

「あのね……誤解してるみたいだから、言っておくけど……」

 声を落として、話を始める。

「はっきり言えばね……僕はもう、彼女と関わり合いになりたくないんだよ」

 白鳥さんのことを――彼女が僕にとって、どんな存在であるか、を。



 白鳥さんと初めて会ったときがいつか、定かではない。同じクラスになったのが、小学校二年だったか、三年だったか思い出せないが、とにかく小学校低学年で互いの顔を認識したのは間違いない。でも、会話を交わした記憶はほとんどない。口もきいたことのないクラスメイト、それ以上の関係は何もなかった。

 変化があったのは、中学校に上がってから――僕の母と妹が死んでから。

「ちょっと……その頃、僕、学校休みがちでさ。家のことでごたごたしててさ、なんていうか……心の整理がつかなくて」

 もう昔のこととはいえ、笑って他人に話せるものではない。沢辺さんの顔を見ながら話せなくて、テーブルに視線を落としている。

「たまに学校に出ると全然馴染めなくって……タチの悪い奴らもいたしね。だから、学校大嫌いだったんだよ、出来る限り行きたくなかった。それでもなんとか行けたのは、間違いなく白鳥さんのおかげだね。あの人、頭良いし、あと滅茶苦茶喧嘩強いし……とにかく助けて貰ってばっかりだったから」

 僕が学校に馴染めないのを知るやいなや、積極的に彼女は僕の学校生活に救いの手を差し伸べてくれた。勉強でついていけないと知れば付きっきりで教えてくれたり、嫌な奴らに絡まれたら颯爽と現れて助けてくれたり……感謝してもしれきない、というか……もはや一生、頭が上がらないと言うべきか。

 白鳥さんとの仲を茶化されるのは、今に始まったことじゃない。中学校の頃からだ。学校中の誰もが、僕と白鳥さんを付き合っているものだと、あるいは僕の片思いがあるものだと思っていた。端から見ればそう見えるのも、分からないわけではない。

 しかし、断じて違うのだ。

「でもね、僕らの関係は中学校で終わるはずだったんだよ。だって、あの人は普通に市内の進学校に行く予定だったし、僕には進学の予定はなかった。もう接点はなくなる予定だった。……僕が機構に行くって知ってから、白鳥さんが進路を変更したりしなければね」

 僕は深々と、息を吐いた。

「追いかけてきたんだ。適正者になる理由なんて、他に何にも無いのに」

 白鳥さんの実家は平均的な家庭で、娘をわざわざ機構に出さなくても十分やっていける。それにフラメア病にゆかりもない。彼女には理由がないのだ。

「追いかけて、きた?」

 沢辺さんの声が上ずっていた。

「まさか……だって」

「そう、代償だってあるっていうのにさ」

 僕は早口で言った。

「ねえ、君、気づいたかな? 彼女は口を開けて笑わないんだ。絶対に大きく口を開けることはない。どうしてだか、分かる?」

「え? えっと……」

 沢辺さんの目が泳ぐ。彼女は気づいていないらしい。僕に、彼女が気付くまで待つつもりはなかった。

「見せたくないからだ。……代償の黒い文様に覆われた舌を、誰にも見せたくないから」

「舌……つまり、白鳥さんの代償は……」

「味覚だよ」

 僕は忌々しげに言った。

「何を食べても、味がしなくなる。……噂で聞く限りだけど、それってすごく辛いらしいね。そうだろうね、毎日人間ご飯食べなきゃやっていけないからね……想像してごらんよ、何を食べても砂を噛んでるような感触しかしない食事って」

 沢辺さんはあっけにとられたように、目を白黒させるばかり。僕は構わない。ブレーキが壊れた車みたいに、話を続ける。

「あのね、彼女、ケーキが好物だったんだ。中でもチョコレートのケーキが好きでさ、一ホール用意しても一人で食べちゃうぐらいで……よく作ってあげていたんだ。幸せそうに食べてくれるの、僕も嬉しかったから」

 テーブルの上に置いた手が、痙攣を起こしたように震えだす。

「去年の夏頃だったかな、最後に作ったのは。……その日、天候が酷くて持って帰るのは大変でしょって言って、店で食べていけばって話になって……食べてる途中で手が止まって。どうしたの、って聞いたら、食べれないって言って……ぽろぽろ涙こぼし始めて。それで、初めて打ち明けてくれたんだ。代償で、味覚がおかしくなった。もう食事が苦痛でたまらなくて、サプリメントとかで毎日誤魔化しているんだって」

 震える手で、目頭を抑える。

「それまで、代償はまだ感じられないから、って言ってたんだ。そんなの、嘘だったんだよ。……真っ赤な嘘だったんだよ」

 ガーディアンに比べ、トランスの代償は大きい。僕は小指の一本で済んでいるが、トランスならばこの程度では済まない。【解放】だけでなく、【炎刃】のような特殊能力を扱うだけでも代償が必要になる。日常生活にも支障が出るような部位が、ガーディアンとは比較にならない速度で失われていく。

 分かってはいた。でも、彼女が明かしてくれるまで、僕は不安に思いながらも彼女の言葉を信用していた。代償の進行は個人差が大きいらしい、という小さな希望に縋り付いていた。

「一緒にご飯食べることが突然無くなったし、前より顔色悪いし、なんだか痩せてきたし……もっと早くに気づくべきだったんだ」

 乾いた笑いが唇から洩れる。

「好きとか、嫌いとかそういう話じゃない。きついんだよ。一方的に、与えられてばっかりいるのが。……逃げたいよ、正直なところ」

 でも、逃げたら、避けたら、白鳥さんは悲しむ。だから、逃げないし、避けない。約束だって、する。約束のふりぐらいは、する。

 けど、僕にだって平気な顔をしていられる限度がある。

「彼女の代償に気づいてからもしばらく、彼女とパートナーを組んでいたんだ。……でも、半年で解消した。僕の方から頼んだ。耐えられなかったんだ。……今の【解放】で、一つの技で、どれだけ彼女の代償が進んだのだろう……ってそればかり考えて、まともに戦えなくなっていって……」

 機構の職員からは、猛反対を受けた。たったの半年で日本で最強に育った、僕と白鳥さんのコンビ解消は望まなかった。しかし、本人の意志を汲むべき、と援護してくれた小春さんと、何よりも僕の意見を尊重してくれた白鳥さんのおかげで実現した。

 震える腕をどけて、ゆっくりと顔を上げる。

 沢辺さんはへの字に眉を曲げて、困っているような、どう反応を取ればいいのか迷っているように見えた。しばらくの間、その微妙な表情で頬杖をついていたが、やがて迷いを振り切るようにして、僕をまっすぐに見つめた。

「桜木さんが白鳥さんをどう思っているのかは、よく分かりました」

 よく通る声で、沢辺さんが言った。

「あなたが贈り物をいらない、放って置いて欲しいと言うのも分からない話ではないです。ええ、そうでしょうね。……私があなたの立場であっても、きっと同じことを思うでしょう」

 ……でも、と彼女は言った。揺るぎのない瞳で僕を見つめながら、続ける。

「私があなたに言うことは同じです。もらった贈り物は大事にすればいいし、負担に思うなら、ちゃんとお返しをすればいいじゃありませんか。あの人の恩義が重いと思うのなら尚更、報いてあげればいいではありませんか」

 正論だ。実にまっとうで、ケチのつけようのない模範解答だ。

 その通りだ。認める。沢辺さんの言うとおりで、僕はただうじうじと文句を言っているに過ぎない。分かっている。間違っているのは自分、それぐらいはもう気づいている。

 ただ、所詮正論は正論でしかない。

「それが出来るなら、初めから悩んだりしてないよ」

 ため息混じりにつぶやく。

 すると、沢辺さんも見せつけるようにしてため息を返す。

「あー言えば、こう言う。……本当、面倒くさい人ですね」

「悪かったね、それは」

「ええ、悪いです。反省してください」

「ああ、はいはい」

 ふてくされて、そっぽを向く。沢辺さんには分かりっこない感情だろう。構わない。分からない人に分からせようとまで、思わない。

 もう訓練なんか、知ったことじゃない。どうせダイブは出来ないんだから、家に帰ろう。席から立ち上がる。

「……似てます」

 沢辺さんがぽつりと言った。目を細めて、笑っていた。

「似てる? 何と何が?」

「あなたと、私の妹です」

 懐かしむような、愛おしむような優しい表情だった。

「あの子も面倒な子なんです。頭でっかちで、理屈臭くて。細かいことをああだこうだ言う。……繊細と言えば、聞こえがいいんでしょう。けど、実感としては面倒くさい、と言った方がしっくりきます」

 沢辺さんの妹と言えば、適正者を志す理由となった、例の妹だろうか? 疑問に思ったが、知っていることを打ち明けていない以上、沢辺さん本人に聞けない質問である。

「それ、褒めてないよね?」

 可愛い妹に対する言葉じゃないような気がする。それを確かめたくて、わざとあいまいに聞いてみる。……沢辺さんはこくりと頷いた。

「褒めてはないですよ。でも、悪口のつもりはありませんから」

 僕はぽかんとした。……めんどくさい、ってどう考えても悪口なんですけど。彼女の頭の中の辞書はおかしいのだろうか、と思った。

 しばらくして、沢辺さんが口を開いた。

「ねえ、桜木さん。私、前言撤回します。別にお返しなんかいりません。ただただ、ありがたく受け取っておけばいいんです。ありがとう、大事にするよって言っておけば、それでいいんです。それ以上のことは、きっと白鳥さんも望んでいませんから」

 彼女はそう言って、軽く肩をすくめた。

「見返りなんて、求めていませんよ。ましてや、それで気に病まれることなんて」

 沢辺さんも席を立つ。黒いドレスを翻して、彼女は歩き出した。

「今日の訓練はなしにしておきますよ。その代わり、明日はみっちりやりますからね」

 後には、開いた包装の箱と腕時計、呆然と立ち尽くす僕が残された。沢辺さんの姿を見送って、僕は再び席に腰を下ろした。

 つまり、どういうことなんだ? わけが分からなかった。お返しをしろと言ったり、言わなかったり。妹と似てるとか、面倒だとか、言われたり。

 相談相手を間違えた気がする。結局、彼女が何を言いたかったのか、いまいち分からない。

 とにかく、沢辺さんのせいで腕時計を返すという選択肢は失われた。捨てるわけにもいかないし、ありがたく貰っておくしかないようだ。

 腕時計は右手につける。測っていないはずなのに、ぴったりとサイズは合っていた。……どこで調べたんだろう? 首を傾げながら、乱暴に破られた包装用紙と箱を拾って、紙袋に入れた。

 沢辺さんから解放されたことだし、帰ろう。休憩室を出て、機構の職員や適正者の少年少女とすれ違いながら、玄関を目指す。

 その途中で、会ってしまった。

「あ、夏樹。今日も訓練?」

 僕を見つけるなり、白鳥さんが駆け寄ってきた。普段通りの、屈託のない表情だった。

「まあ、そんなところ」

 こっちも普段通り応じた……つもり。とりあえず、今のところ白鳥さんの表情は変わっていない。

「今から帰るの?」

「うん」

「そっか。お疲れさま。私は今からなの」

「ダイブ?」

「そう」

「えーっと……お大事に?」

 あ、違うそれ病院だ。やっぱり、僕は緊張しているみたいだ。怪訝な顔をされないか不安だったが、

「そうするね」

 白鳥さんは柔らかい微笑を浮かべる。ほっとして、肩の力が抜ける。

 それから、彼女はくるりと踵を返す。ひらりと手を振って、「それじゃあ」と遠ざかろうとした。……僕は慌てた。

「あ、ご、ごめん。ちょっと待って」

 白鳥さんが振り返る。

「何?」

 小首を傾げて、僕を見ている。……彼女の視線を意識して、緊張してきた。僕は右腕の袖をめくって、腕時計を彼女に見せた。

「これ、貰っておくから。……ありがとう」

 白鳥さんは目を丸くして、僕の腕を見ている。驚いたような表情であったが、やがてそれは笑みに変わる。

「うん。分かった」

 ちょっと照れくさそうに、はにかむように笑っている。子供みたいな、あどけない表情だった。

 白鳥さんはよく笑うけど、こんな風に笑うところは記憶になかった。

「えと……その、大事に、するので」

 凛とした美人という印象が強いけれど、こんな無邪気な顔も出来るとは知らなかった。……なんだか、直視できなかった。熱でも出たみたいに、急に頬が熱くなって、目を逸らす。ああやっぱり、逃げたくなってきた。

「ありがと」

 白鳥さんの弾んだ声が聞こえる。目を逸らしているのに、彼女の恥ずかしそうな笑顔が勝手に目の前に合成されていて、意味が分からない。僕、第三の目が後頭部に目覚めたんだろうか? そんな能力、高値をつけて売り飛ばしたい。

 とにかく、早く逃げよう。

「ごめん、引き留めて。じゃ、僕帰るから」

 背を向けて、歩き出す。まさにその瞬間、「あ、待ってよ」という声がして、服の裾を掴まれた。そのまま一歩進んだが、それ以上進めない。

「沢辺さんには会った?」

 振り返ると、白鳥さんが僕を見上げていた。

「会ったよ」

 あれ、何でそんなこと聞くんだ? 変だなと思った。が、すぐに思い出す。

「どう、お話はちゃんと出来た?」

「ごめん、すっかり綺麗に忘れていました」

 そうだ、確かにそんな話をしていたのだった。

 白鳥さんのほころんでいた唇が、きっと引き締まる。目から笑みが抜け落ち、物騒な光がともる。

「なーつーきー? 分かっている、って昨日あれほど確認したよね?」

 これはやばい、お怒りの様子である。握った拳をぷるぷる震わせないで!

「違うんだ、わざとじゃないから! うっかりしてたんだ、あんまりにも普段と変わりなかったからつい……分かっていたのは本当、ちゃんと明日聞くから!」

 両手をあげて、降参のポーズ。荒ぶる獅子に逆らっては、命がない。刺すような視線から目を全力で逸らしたいが、そうした瞬間、首が飛ぶ!

「本当?」

 白鳥さんが声を低くして、言った。

「本当本当、超本当!」

「超?」

 いかん、軽薄な響きに聞こえたらしい。僕は慌てて叫んだ。

「非常に!」

 白鳥さんはじいっと、食い入るように僕を見つめている。僕は一生懸命、口元に笑みを張り付ける。腹筋背筋よりも、口角の筋肉トレーニングの方が世の中渡り歩くには重要だね!

 しばらくの間、我慢比べが続いた。……勝ったのは、僕の方だった。

 白鳥さんはファイティングポーズを解除すると、不服そうに唇をとがらせた。

「じゃあ、明日ね。明日はちゃんと聞いてあげるようにね?」

「も、もちろん」

 最後の気力を振り絞って、笑顔続行で頷く。白鳥さんが胡散臭そうに目を細めたが、踵を返した。

「それじゃあ、ね」

 白鳥さんの姿が遠ざかっていく。角を曲がって姿が見えなくなると、僕は安心して肩の力を抜いた。

 自分のことで手一杯で、沢辺さんのことなど言われるまで忘れていた。そういえば、昨日大変だったのは僕だけじゃなくて、七子に手ひどい挑発を受けた沢辺さんもだった。

 にしても、あまりへこんでいるような様子はなかったように思う。もう少しわかりやすい素振りがあれば、思い出せたのだろうけど、他人のおもしろネタを探すほど元気そうなので、そこまで頭が回らなかった。まあ、単に僕の様子がおかしかったから、沢辺さんは落ち込んでいるところを見せる暇がなかったのかもしれないのかもしれないけどさ。

 今から沢辺さんを呼び戻す理由はないし、白鳥さんに言った通り、考えるのは明日でいい。晩ご飯の献立を考えながら、家路につくことにした。



 次の日、ちゃんと僕は沢辺さんに探りをいれたのだ。「そう言えば、一昨日、シュミレーションルームから帰っちゃったけど……その後大丈夫だったの?」と。しかし沢辺さんはけんもほろろに、「あなたに話すことはありません」の一点張り。

「とりあえず、あのロリババアの鼻をあかしてやろうというのがしばらくの目標ですね。……桜木さんも当然、協力してもらいますので」

 協力を断る、という選択肢は僕にはなかったらしく、調査が開けるまでの三日間、みっちりと訓練に費やされてしまったのだった。



 調査が終わった翌日、小春さんに呼び出された。場所は先日、沢辺さんに尋問を受けた休憩室。

「ふーん。がんばるわねえ」

 僕から沢辺さんの様子を聞き出しながら、小春さんはサンドイッチを頬張っている。少し早い昼食なのか、あるいは遅い朝食なのか、彼女の普段の生活サイクルを思うと微妙なところ。

 今日からもうダイブを始めるから、沢辺さんも呼び出されている。だが、僕より集合時間を遅らせて伝えてある。彼女の様子を報告するには、今この時間しかないのである。

「付き合わされる方はたまったものじゃないんですが」

 昨日はまる一日、訓練づけだったのだ。休憩時間は昼食時間だけ、という今までにない過密スケジュールだった。白鳥さんにも沢辺さんの近況報告はしたが、彼女の心配より振り回される僕の心配をして欲しいぐらいだった。

「いい機会じゃない、みっちり働きなさいよ」

 小春さんが茶化すように笑う。

「何言ってるんですか、僕は十分働いてきましたよ」

 学業の掛け持ちもしてないし、ほぼ毎日出勤してるのだから、適正者の中では働いている方なのだけど。

「は? 午前十時にノコノコ出てきて、三時にはおやつばりばり食べて、五時半には仕事あがって帰ることを十分働くと? 笑止! そんなもの十六時間労働二ヶ月休みなしを経験してから言え!」

 唾を飛ばさんばかりの勢いで、小春さんが怒鳴る。

「人事のクソが! 適正者増やすなら、もっとオペレーターの採用人数増やせ! 一人でいーっぱい、めんどくさいガキどものお守りして、山のような事務仕事なんてできるか! 休みをよこせ、私らは家畜じゃねー!」

 ぐびぐびコーヒーを飲みながら、大声でどなり散らす小春さん。えっと、眉ひそめてこっち見てる職員さんらしき人とかいるけど、人事の人じゃないよね? ……とは言えずに、生ぬるい笑みをたたえて黙っておく。

 思い切り罵詈雑言を吐き出した後、小春さんはふうと一息ついた。乱れた髪をかきあげ、顔を上げた。

「桜木、就職先は安易に決めちゃだめよ。……よおおおく考えてから、選ぶんだよ」

 厳かな口調で小春さんが言った。

「いや、僕、就職の予定ないんで」

 苦笑混じりに答える。すると、小春さんの瞳がすうっと丸みを帯びる。

「ハ? 何、言ってんの? あんた、適正者終えたら一生プー太郎のつもり? それで生きていけるとか思ってんの? 人生なめてんのかコラ」

 お手本みたいな、ヤンキー風の巻き舌の発音で小春さんが凄む。ああ、これは怒気というよりも、嫉妬ですな。

「おばさんの喫茶店、手伝いますよ。人手足りてないんで」

 小春さんの瞳から、物騒な光が消える。

「あ、そうか。……そりゃ、そーよね、働かざる者食うべからずよね。でも、のんびりお家のお店手伝いながらスローライフ……いいなあ……あたしも何年働いたらそうなれるかなあ……」

 小春さんはそうつぶやくと、僕から視線を外す。将来の自分の姿を思い描いているのか、物憂げに窓の外を見上げる。とにかく、僕の将来から関心はそれたようだ。

 就職予定なし、ってそういう意味じゃないんだけど。お金を貯めているのだって、自分のためにではないのだけど。

 余計なことは言わないでおこう。薄々感づいている人はいるみたいだけど、隠しきれるのならば隠しておきたいから。

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