第一章 戦う理由
スーツ姿の大人たちが行き交う廊下を、たった一人うろうろしていると、学校の職員室を思い出す。窓から、中庭に植わっている桜が見える。そういえば、中学を卒業してからもう二年になるんだっけ? ここから、あの桜を眺めるのは確か二回目だから。
ここはフラメア症候群医療機構淡野支部。オペレーターが詰めている部屋のドアの前にいる。
普段、オペレータールームに用事はない。が、今日は待ち合わせがあってここに来た。
その相手と言うのが、聞いたところによると、僕より一つ年下の女の子らしい。確か、名前がさわ……澤田さんか澤村さんか忘れたけど、確かさわなんとかさんだった。他にも色々話だけは聞いたけど、とりあえず思い出しておくべきことはそれぐらいかな。
外見情報は聞いていないけど、やっぱり可愛い子がいいな、トラブルがなければ、一年以上の付き合いになるだろうし。個人的には清楚な美人系希望。
淡い期待と共に、オペレータールームに足を踏み入れた瞬間――彼女と目が合ってしまった。ドアを開けた姿勢のまま、僕はぽかんとして彼女を見つめていた。
その奇抜な格好に、度肝を抜かれていた。頭にはレースがついた小さな帽子、服も同じくレースを重ねたようなドレスで、帽子もドレスも傍らに置いたバッグも日傘も全部黒い。でも髪の色はまだそこまでのお年には見えないけど真っ白。まだ若そうに見えるので、いくら苦労してたってサンタのおじさんのような見事な白にはならないと思う。
目元は隈取りをしたみたいに黒く縁取られていて、まつげも一本一本がくっきりはっきり見えるようにこれでもかと言うほどに強調されている。頬には健康的な赤みが全くと言っていいほどなくて、まるで蝋を塗り固めたよう。そして唇は血を塗りつけたような、深い紅の色。
ざっくりまとめると、なんだか人間辞めてる雰囲気がある。……えっと、どこの妖怪さんですかね? こんな真昼間に人の多いところに出てこないで下さいよ?
「あの」
遠慮がちな、少女の声が聞こえる。……はっとして顔を上げる。ゴスロリさんはちょっと困っているような雰囲気を醸し出しながら、僕を見つめていた。
「あなたが、桜木夏樹さん?」
ゆっくりと、確かめるような口調で言った。……ん? いかにも僕は桜木夏樹でその通りなのだが、はておかしいな。なんか、ひっかかるぞ。嫌な予感。
「あ、桜木。ちょうど、いいところに来たわね」
聞きなれた女性の声がした。靴音と共に、職員の仕事机が犇めく狭い通路を抜けながら近寄ってくる。女性――担当オペレーターの小春さんは、ゴスロリ衣装の少女の横に立つ。少女にちらっと視線をやると、小春さんはにこりと微笑む。
「えっと……この人って、さわ……」
「沢辺清河。……あんたの今年のパートナーよ」
嫌な予感的中。……さよなら、僕の淡い期待さん。かわいい女の子もとい、頭のかわいそうなゴスロリ女の子とか所望してないってのに。清楚さの欠片もねえじゃねーか。
一瞬、遠い目をして世の無常を噛みしめる。その間に、ゴスロリさんが一歩、歩み出す。視線を戻すと、彼女は帽子を取って僕の方へと向き直っていた。
「初めまして。右も左も分からない未熟者ですが、足を引っ張らないように頑張ります。……よろしくお願いします」
そう言って、深々と頭を下げる。落ち着いた丁寧な言葉遣いに、教科書に載っていそうなきっちりとしたお辞儀に、僕は驚きを禁じ得ない。……衣装とのミスマッチ感はなはだしい。
「あー……その、よろしく」
なんだか、青い目の外国人に箸の使い方で勝負して負けた気分。
オペレータールームの一角にある、小さなソファーに僕とゴスロリさんは案内された。僕ら二人に小春さんは機構名物・泥水よりまずいコーヒーを淹れて(ゴスロリさんは知らずに一回口をつけて、それ以来見向きもしない、視界にも入れようとしない)、「じゃあ、あとはお若いお二人で」と言って、姿を消した。ダイブの準備に行ったってことは理解しているが、もう少しまともな言葉を選べよ小春さん。
案の定と言うべきか、二人残された僕らはお互いだんまりだ。ゴスロリさんは顎を引いて軽く俯き、ドレスの上に揃えて置いた手の甲ばかり見ている。そして、僕は黙って彼女の様子をちらちらと横目で窺いながら、不味いとはいえ残すのはもったいなくて、コーヒーを舐めるようにして飲んでいる。僕らの間には、会話のきっかけすらない。
もうどれほど時間が経っただろう、と思って腕時計に目をやる。が、何もつけていない手首が見えて、思い出した。そうだ、昨日壊したんだった。味噌汁の中に落として、腕時計で取った出汁ってありかなあ、だめかなあ、捨てるのもったいないなあ、なんてちょっと考えた。結論、アウトだったけど。
しかたなく、壁掛け時計を見上げて、全然時間が進んでいないことを確認する。やはりもうしばらく、時間をつぶす必要があった。
普通なら、ここで簡単な自己紹介とか仕事の話とかするんだろうな、とぼんやりと思った。例えば、どこに住んでるんですか? ご趣味は? あるいは先輩風を吹かせて、ここの仕事はね……なんて講釈垂れたり。だが、生憎とゴスロリさんの住所に興味はないし、趣味は聞くまでもないし、何よりもここの仕事について話すことなどない。
……のだけれども
「一つ、聞かせて欲しいんです。……どうして、あなたは適正者を志したんですか」
おいおい、開口一番その質問かよ。
「何でそんなこと、聞くの?」
苦笑交じりに尋ね返す。ゴスロリさん――確か沢辺さんとか言ったか――は、すっと僕から視線を逸らした。
「聞いたら、悪いですか?」
紅い唇を少しばかり尖らせて言う。どこか気まずそうなその表情に、悪意は感じられない。
「いや……まあ、いいけどさ」
ため息交じりに、減った気がしないコーヒーのカップを、ポケットの中に突っ込んだ左手の代わりに右手で取る。
「あんまり、そういう話、他のやつらの前でしない方がいいよ」
僕ら――適正者には、一番聞いてはならない質問だからだ。
フラメア症候群という病がある。ここフラメア症候群医療機構はフラメア症候群を専門とする唯一の医療機関である。
フラメア症候群大きな特徴は以下の三つ。一つ、発症した患者は意識を失い、植物人間状態となる。二つ、適切な治療が無ければ半年程度で患者は死亡する。三つ、投薬や外科的な手術など、現代まで育まれてきた医療技術は一切通用しない。
僕ら適性者の仕事は、フラメア症候群の患者の治療だ。特殊な機器によって、フラメア病に冒され意識を失った患者の深層心理の世界、通称精神世界にダイブし、そこに巣食うウイルスを退治する。精神世界内で超人的な能力を発揮するガーディアンと、武器に変身して特殊な力を用いるトランスでパートナーを組んで戦う。簡単に言えば、僕らはフラメア病患者の医者というわけだ。
適性者の仕事には命の危険が付きまとう。実際に、死者は少なくない。昨日まで顔を合わせていた同僚が姿を消すことも、何度か経験した。
適正者の素質は、僕や沢辺さんの年頃の少年少女に限られる。そのうえ、適正者として戦いを重ねる日々は心身の消耗が著しく、三年の制限がある。そのため、ほとんどが高校生の年齢以下で二十を超えるものは誰もいない。
短い期間とはいえ、ごくごく平凡な少年少女が手にする当たり前の平和な生活は、その間僕らの手の内にはない。大人たちが人生で最も貴重な時間と呼ぶ今この時を消費し、心身を削りながら戦いに明け暮れる日々を送る。
多くの人々が適正者は存在すべきではない、と考えている。だが、一日に百人を超える患者が発症し、治療を行うまで昏睡状態に陥る。およそ半年間治療が行われなければ、患者は死を迎える。この現状を放置するわけにはいかないから、やはり誰かが――それなりの理由がある者が適正者として治療を行うしかない。
まともな少年少女ならば、一生縁もゆかりもない仕事。それが適正者なのだ。
「僕はお金の為だよ。この年齢でこれだけ稼ごうと思ったら、ここしかないからね」
苦笑交じりながらも、答える。多くの適正者が気分を害しそうな質問だったが、まあ怒るほどのことじゃない。
フラメア症候群に対抗するには適正者の存在が必要不可欠で、とにかく数を集めなければならない。機構は高い報酬を餌にして、適正者を集めているのだ。というか、そうでもしなければ集まらない。
そういう事情があって、バイトなんて小学生のお小遣いにしか思えない金額を毎月手にしている。一応、僕は叔母と二人暮らしをしているのだけれども、独立して仕送りをしても十分すぎるぐらいの金は稼いでいる。
だから、金目当てというのは別段珍しい理由ではないだろう……と思ったのだが。
「お金?」
沢辺さんは目を丸くした。
「そんなにお金欲しいですか?」
理解が出来ないとばかりに、彼女は額に眉を寄せる。
「欲しいよ」
「普通のバイトじゃだめなんですか?」
「足りないね」
「どうして?」
「え、言わなきゃ分からない?」
金が欲しいのは全人類共通の欲望だと思うのだけれど。
話が通じていないことを、沢辺さんも悟ったらしい。少し考え直すような素振りを見せてから、口を開いた。
「そもそもお金で、釣り合いますか? 私たちが払う犠牲の代償として」
まっすぐに僕を見据える彼女の瞳は、素朴な疑問に満ちていた。
「精神世界で能力を扱うごとに、私たちは身体の一部が使えなくなっていくのでしょう」
彼女は膝の上に置いていた手を持ち上げ、自身の左目を指さす。
「私は左目の視力が徐々に失われていくと告げられています。三年勤め上げれば確実に失明し、そして適正者を辞めても一生治らない、ということも」
沢辺さんは手を下して、再び膝の上に置く。入れ替わりに、ちらりと視線を動かす。
「あなたはそこですか?」
彼女の視線は、ポケットに突っ込んだ左手に向けられている。……僕は嘆息してから、ポケットから左手を引き抜いた。
「だからね、そういうことはあんまり言わない方がいいんだって」
抜いた手の甲を彼女に見せつける。
小指の付け根から第一関節を細かな綾模様が覆っている。よくよく見ると、黒い線で絡み合う蔦がぎっしりと描かれている。一見すると、刺青のように見えるかもしれない。
だが、実態は無論違う。
「知ってる? 小指って全然なくても支障なさそうに見えるかもしれないけど、動かないと結構不便だよ。重い荷物も全然持てないし、ああ、あと球技は絶対に出来ないね。まあ、やらないけどさ」
この黒い蔦の覆いが意味するのは、能力を使用した代償として小指の機能が失われていること。代償の進行の程度によって、網模様が緻密になり、模様が現れる範囲が広がる。
確かに命がけではあるけれども、金払いが良く学歴も問われない。決して悪くはない条件だと思うのだけれども、それでも少年少女の進路先に適正者が選択肢としてなかなか上がってこないのは、代償の影響が大きい。沢辺さんの言う通り、代償で失った機能は生涯戻らない。命の危機があるだけでは済まず、運よく生き延びることが出来ても、能力の代償を免れることは出来ない。大概の人間が躊躇するのは当然のこと。
沢辺さんは僕の黒い小指を見つめて、ぽつりとつぶやく。
「でも、それ以上にお金が欲しいと言うのでしょう?」
僕は左手をポケットにしまう。……これまた、面倒なことを聞いてきた。内心でため息をつく。
ああもう、うっとおしい。放っておいてくれよ、と叫び出したい。
「ああ、欲しいよ。あれだけの報酬が出るなら、代償なんて安いものさ」
沢辺さんは新月のように目を細めた。
「ふーん……そうですか」
そうつぶやくと、僕の頭のてっぺんからつま先まで視線を走らせた。もしかすると、服から靴まで全部足しあわせても、沢辺さんの帽子の金額にも釣り合わないんじゃないだろうか? ……彼女の視線は、お前に金をかける趣味があるようには見えない、と仰せの模様。
「もしかして、家には大量のBDと美少女フィギアが溢れかえっている、とか?」
思わず苦笑、いや失笑。
「一度も買ったことないけど?」
というか、僕よりもよっぽど彼女の方がその手のモノに金掛けてそうなんですけど。コスプレ衣装ってクソ高いらしいじゃないですか?
「確かにさ、僕に金のかかる趣味はないよ。でも、お金はいくらあったって困りはしないからさ……ほら、老後の蓄えとか不安じゃん? 将来、年金なんてなさそうだし、若いうちに貯めておいておかないとさ。老人ホームにはいるかもしれないし、それにお墓は絶対用意しておかなきゃいけないし? そうなると何千万と貯金しておかないといけないわけで……」
「はあ」
最先端の科学理論の話を聞かされた素人みたいな反応が返ってきた。しまった、経済とは無縁そうなゴスロリ少女には難しすぎる内容だったか。
沢辺さんは不服そうに唇を尖らせる。
「もう、いいです」
そう言いながら、ぷいとそっぽを向いてしまった。
『こちらオペレーター。桜木、沢辺、聞こえてる?』
小春さんの声が、聞こえた。それは頭上の機械からだ。大きさは大体サッカーボールぐらい。いかにも近未来チックな銀色の球体だ。仰々しい名前がついているらしいが、僕らは面倒くさがって単に端末と呼ぶ。
「聞こえています」
「……ええ、聞こえます」
沢辺さんのうめき声が聞こえた。現実世界と同じく、ゴスロリ姿で額を抑えている。そうだ、彼女は初体験だから、この世界の感覚に慣れていないのだ。
『音声、画像共に良好。桜木、状況は?』
「気配なし」
短く報告する。
端末には様々な機能があるが、一言で役割を要約するなら、現実世界と精神世界をつなぐ門のようなものだ。オペレーターは端末の操作を担い、同時に現実世界から端末を通して精神世界を観測する。僕らが現場の兵士とすれば、オペレーターは指揮官に近い。
「ウイルス具現化はまだです。少なくとも、捉えられる範囲にはいません」
『了解。……奴らが現れるまで、警戒体勢で待機』
「はい」
端末から小春さんの声が止む。
全員が黙って、静寂が広がる。風の音とか、衣擦れの音だとか、ほんのささやかな音すらしなかった。音のない世界を意識に刻んでいくと、針の落ちる音でさえもはっきりと聞こえそうなぐらい、音の存在に敏感になっていくのが分かる。
視界もいやにクリアだった。真夜中の空を背景にして、色鮮やかな木々の群が広がっている。それは青い森だった。枝先の葉から、地面に延びる根まで綺麗な海の中のように青い。色味さえのぞけば、ありふれた樫の木だとかに見える木々の脇を熱帯に住んでいそうな鮮やかな色合いの小魚が群れていく。……現実感のない、文字通り夢のような空間だった。
「これが精神世界、ですか……」
頭上の青い木々の群を見上げて、沢辺さんがつぶやいた。夢見るように目を細めている。綺麗とか素敵とか、いかにも頭の悪い感想を言い出すのかな、なんて思っていたら、
「諸々、気持ち悪いです。頭がおかしくなりそう」
不快感を露わにした声がした。
「そうか」
既におかしいんじゃないかな、その二次元に近いコスチュームを見る限り。……うん、本音を言ったら、後が面倒くさそうだ。黙っておこう。
精神世界はフラメア病患者の深層心理を映し出した世界だと言われているが、より正確に言えば、感染したウイルスが具現化させたものなのだという。現実にはあり得ないこの光景のみならず、ウイルス自身の姿も患者の心理に影響を受けるのだとか。ウイルスについて分かっていることは決して多くないのだが、患者の精神を読み解く力があることは疑いようもない。……沢辺さんの精神世界なんて、きっとおどろおどろしいだろうなあ。髑髏とか十字架とかがやたらめったら、置いてありそう、大した意味もなく。あ、これは心理じゃなくて趣味だから別問題? どうだろう?
馬鹿な考え事をしていると、風がひゅうと鳴るのを聞いた。沢辺さんの背後の空間に、白い切れ込みが走る。切れ込みの隙間から爛々と光る瞳が覗いていた。……そろそろ、来るか。僕は素早く沢辺さんの腰に腕を回す。
「ひゃっ!?」
沢辺さんが声を上げる。構わず、地面を蹴る。見る見る地面が遠ざかって、木々を見下ろせる高さに舞い上がる。跳躍が最高地点にまで達すると、落下運動に切り替わる。丈夫そうな太めの枝に目星をつけて、着地。盛大に枝が揺れて、葉っぱが頭上から振ってくる。
ふう、間一髪。一息つこうとしたところで、胸に衝撃。突き飛ばされた、と理解したときには、後ろによろけた右足が空を切る。体が傾いで、頭上に広がる枝葉のカーテンと背景に広がる夜空を仰いでいた。……あ、落ちる。
先ほどまで踏みしめていた枝を掴む。右腕一本でぶら下がりながら、上を見上げると、
「何するんですか!」
沢辺さんが僕を見下ろしながら、叫んでいた。
「この変態! 突然抱きついてくるなんて!」
頬を朱色に染め、自分の胸をかき抱いている。まるで変質者に襲われたようである。
いやあ、別に君に抱きついた訳じゃないんだけどなあ、だって誰得って感じじゃないですか見たところ、君ってまっ平らだし? そんなおいしくも何ともない状況の上に、死にかけているんですがこっちは? ……ちょっとカチンと来た。
「あー、ごめんごめん。すみませんねえ、さーせんさーせん」
「誠意が足りない!」
沢辺さんが地団駄を踏み、枝が大きく揺れる。……よし、もっとやれ。僕はわざとらしく悲鳴を上げた。
「やめて、君の体重で枝が折れる! 死ぬ!」
「死ね!」
足を振り下ろして、枝にもう一発。枝が上下にゆーらゆら、「あーれー」なんて(嫌がらせに)棒読みで悲鳴をあげて遊んでいると、
『お前ら、真面目にやれ!』
小春さんの怒鳴り声が振ってきた。
声がした方向を見上げると、いつの間にかオペレーター端末が頭上にあった。追いついてきたらしい。
『あのね、ピクニックに来てるんじゃないの!これは命掛かってんのよ! あんたらの命も、それに患者の命も!』
珍しく、小春さんがまともに怒っている。沢辺さんがはっと目を見開いて、それから力なくうなだれた。
「……すみません」
弱々しい声が沢辺さんの唇からこぼれる。
へえ、結構素直だね、意外に……という感想と共に、枝にぶら下がったまま沢辺さんを見上げた。あっ、白。しかもカボチャだ初めて見た。
『というか、桜木!』
空から、小春さんの怒鳴り声がふってきた。
『あんたね、ウイルスのランクが低いからって遊んでんじゃないわよ。沢辺と組むの初めてなんだからね、どんな不測の事態が発生してもおかしくないのよ!』
「ああ、はい、はい」
あくびをかみ殺しながら答える。すると、
『桜木!』
怒られた。そんなに怒ると小皺が増えるぞ。ただでさえ、不健康な生活してるのに。
と、その時。夜空に、赤い帯がたなびいたのが視界の隅に映る。いや、あれは単なる赤い帯ではない。あれは小さな炎……ウイルス具現化の合図だった。
青い木々の群がたちまち、炎に包まれる。小さな炎がたなびいたあたり、ちょうど僕らが先ほどまでいた地点は炎と煙が充満している。悲鳴じみた木々が焼け落ちる音と共に、宙にゆらりと巨大な生物が姿を現す。――それは一見すると、宙を泳ぐ鯨のように見える。
振り子の要領で体を動かす。ひょいと枝の上に着地、沢辺さんの隣に立つ。彼女は目を見張って、立ち上る炎を見つめていた。そちらに意識が向いているらしく、彼女の手はがら空きだった。
沢辺さんの手の平に、自分の手を滑り込ませる。沢辺さんがぴくりと反応して、目だけ動かして僕を見た。何事、と問いかけている。
「トランス。……早く」
反応の遅さにいらいらしながら、言った。沢辺さんはまたも、話が分からないという風に二、三回瞬きをした。ゆっくりと頷いたのはその後。
沢辺さんの姿が、光に包まれる。淡い白の光に照らされ、彼女の姿は薄くなっていく。やがて沢辺さんの姿は消えてなくなり、代わりに僕の手の中には黒光りする短剣が握られている。
『今度は真面目にやってくださいよ』
短剣から、沢辺さんの声が聞こえる。
「へいへい」
『手抜きしたら、また木から突き落としますよ。無論現実で』
「それは勘弁」
ここではともかく、現実ではただの一般人。突き落とされれば、あっさり死ぬ。
無駄なおしゃべりはここまで。足場の枝を蹴る。隣の木から木へ、跳躍を繰り返し、炎が燃えさかる一帯へと接近。
僕の接近にあわせて、宙に浮かぶ鯨が動く。まるで水中のように、鰭と尾を使って空中を泳ぎ、こちらに向かってくる。巨大な洞穴のような口を開き、赤い炎が揺らめくのが見えた。……僕は放たれた矢のように、まっすぐ鯨に向かって突き進む。
『来ますよ!』
沢辺さんが慌てた様子で叫んだ。
「分かってるってば」
放たれた炎の吐息は、扇のように広がり、青い森を焼き尽くしながら目前に迫る。炎の熱気を鼻先に感じると同時に、木の幹の堅さを足の裏で感じていた。膝をたわめて、衝撃を吸収する。木の幹を蹴り飛ばして、大きく飛ぶ。炎の吐息を振り切り、木々の群を飛び越え、飛空船のように浮かぶ鯨の背に降り立つ。
背中に異物を感じとった鯨が激しく身を震わせる。その動きに逆らわず、僕は空中に投げ出される。重力に従って大人しく森に向かって落下。すれ違った鰭に、短剣を振るう。……肉厚の刃が鯨の皮膚と肉を抉る手応え。青い体液が飛び散り、切り裂かれた鰭が根本から落ちる。夜空に鯨の悲鳴が轟く。
鰭を切り落とした短剣を振り抜き、杭のように鯨の胴体に打ち付ける。落下が止まる。
鰭を落とされ、体に短剣の杭を打ち込まれた鯨は一層、激しく身をよじらせる。片腕一本で短剣にぶら下がっている僕は為すすべもなく、子供にもてあそばれる人形みたいに上に下に体を揺さぶられる。……沢辺さんの悲鳴があがる。足下に視線を落とせば、炎に蹂躙される森が広がっている。わりと冗談ではなく、落ちたらまずい。
『このままじゃ死にますよ!』
「あー、そうだね」
『そうだね、じゃないです!』
沢辺さんが興奮して叫ぶ。
『遊んでる場合じゃないんですから! いい加減、本気出しなさい!』
僕は顔をしかめた。至近距離からの沢辺さんの声がきんきん響いた。
「分かった分かった」
やれやれ、そう急くこともないだろうに。
木から突き落とされた時と同様に、体を振り子のように振る。高さを稼いだところで短剣を引き抜き、空中に投げ出される。身を捻って、再び鯨の背に着地。青い森は無惨にも真っ赤な炎に焼かれて、白い煙をあげ、焼け焦げた黒い残骸の墓場へと姿をつつある。住処から逃げまどう魚の群の鱗が、あちこちできらきらと光って見える。……鯨の背中を蹴る。残った鰭の付け根へと飛ぶ。
最後の鰭はあっけなく切断。鯨が身を捩って、苦鳴を発する。
鰭の生々しい切断面を蹴って、僕は跳躍。次は尾鰭。付け根のあたりに刃を走らせ、尾を切り落とす。鯨の長い咆哮が一層、夜空の冷たく澄んだ空気に響く。鰭をもがれた鯨は泳ぐ力を失い、燃えさかる森へ向かってゆるやかに落下を始める。
鯨と一緒に炎に巻き込まれる義理はない。……僕は鯨の尾から頭へと飛んだ。
着地して、足下を見ると宝石が鯨の頭部に埋まっている。大きさは僕の頭ほど。色は血のような深紅で、透明度が極めて高い。
持って帰ることができるなら、さぞかし高く売れるだろうが、あいにくとそんな手段はないし、そもそも僕らがどこの誰とも知らぬ精神世界に危険を冒してダイブしたのは、ウイルスの核であるこの宝石を砕く為なのだ。こいつを壊さねば、患者の治療は完了しない。
さあて、とどめだ。振り落とされないように踏ん張りながら、右手で短剣を逆手で握り直し、振り上げる。宝石に刃をたてるが、甲高い音が返ってくるだけで弾かれてしまう。表面には傷一つついていない。
『出来ませんか?』
おそるおそる、といった風に沢辺さんがを開いた。僕は首を横に振る。
「無理だね、やっぱランクC相手じゃあね」
「そう、ですか」
歯切れの悪い返事だった。ひどく気落ちした様子だった。
その気持ちは分からないでも、なかった。だが、やることは決まっている。
「残念だけど、【解放】使うしかない」
黒い短剣に向かって、不機嫌さを隠さずに呼びかける。返事が戻ってくるまでに、若干の間が空いた。
『ええ』
声には静かな覚悟があった。
短剣の刃から、周囲の夜の闇を煮詰めたような漆黒の炎が迸る。炎の揺らめきに併せて、肌が泡立つような冷気が手の甲を撫でる。
これで止めをさせる。準備は整った。後は短剣を振り下ろすだけ。……しかし、僕は短剣をもう一度、握り直した。
考えることなんて、何にもない。ただやらなければならないことをやる、ただそれだけのこと。……自分に言い聞かせて、短剣を意識させる。炎がちらちらと揺れる短剣を振り下ろす――僕の空いた左腕に向けて。
激痛が腕を貫く。自分の抑えきれなかった呻き声がこぼれる。腕の肉を貫く金属の固さを腕の肉で感じ、黒い炎が氷のように冷たく僕の皮膚を撫でていく――余計な感覚、邪魔な思考を振り払う。
腕に突き刺さった刃を引き抜く。血の筋をいくつも引き連れて、黒い短剣を夜空に掲げる。黒い炎が刃に残った血を舐め取るように、蠢く。一瞬で僕の血は炎に取り込まれ、元のくすみ一つない艶やかな黒い刀身が現れ――まるで草花のように丈を伸ばしていく。刃の成長と連動して、姿を変えていく。もはや短剣と呼ぶのは相応しくない、剣と呼ぶべきだ。分厚い刃を備え、現実世界では両手でも持てそうにない大振りの一振りだった。
血を吐き出す腕を添えて、剣をウイルスのコアたる宝石に突き立てる。刃は澄んだ音と共に、宝石を砕く。血のような宝石の破片が、夜空を背景に煌めく。
体内の空気を残らず絞り尽くすような、鯨の断末魔が響きわたる。森を喰らう炎の熱気が既に近い。まるで海底に消えていく沈没船のように炎の中へと誘われていく鯨の背を蹴り、まだ炎の影響のない木々を選んで着地。
木から飛び降り、地面に降り立つと剣が光の粒子へと分解される。粒子は人の形を作り、ゴスロリ姿の沢辺さんが現れる。沢辺さんは炎が踊り狂う森にちらっと目をやってから、振り向いた。
「えっと……大丈夫ですか?」
「全然大丈夫じゃないですけど」
きっぱり答える。短剣をぐっさりやった左手からは、絶え間なく血が溢れている。傷はずきずき痛むし、なんだか指先が冷たい。精神世界の負傷は現実世界で感じる痛みと変わりない。
沢辺さんの顔には、困惑の表情。
「止血、しましょうか?」
沢辺さんはゴスロリ衣装の裾に手を掛ける。着用している服以外は精神世界には持ち込めないから、ハンカチが彼女の手元にあるわけがない。じゃあ代わりに服を破いて止血しようかという発想にいたったのだろうが、
『今、ゲートを開けているわよ』
小春さんの声が降ってきた。空を見上げると、ちかちかと点滅しているオペレーター端末が浮いている。
「でもゲート出るまでに多少時間掛かるんですよね? その間に、血が流れすぎたら……」
「まあ下手すると死ぬかもね。でも、大した問題じゃないでしょ」
一応、気休めでしかないだろうが、手で傷口を押さえる。ううむ、すごい量だ、全然止まらない。……ダイブ前に一度シュミレーションはやったけど、実践では初めてだ。少々加減を誤ったか。
「精神世界で例え心臓を抉られようが、首を飛ばされようが、現実に戻りさえすれば目覚める。もうウイルスはいないし、ゲートは開こうとしている。僕が精神世界で生きていようが、死んでいようがどっちだっていいでしょ。死んでたって、沢辺さんがゲートに叩き込んでくれたらそれで帰れるし」
端末による精神世界への接続は、適正者の精神を仲立ちに成立しているのだ。端末を門とするならば、適正者は開いた門を固定する楔のようなもの。精神世界内で適正者が死亡すれば、当然意識はそこで失われ、楔としての役割を果たせなくなる。二人の内一人でも残っていれば、精神世界への接続は保たれるが、両方が死ねば強制的に接続は絶たれる。無論、その場合は患者の精神世界に適正者は置き去りにされるという最悪の状況を指しているわけだけど。
つらつらと喋りながら、あれ、そういえば僕こんな解説まともにする人間だったかな、あ、そうか頭に血が回ってないんだね、あははまじでこれはゲート開く前に死ぬかもなー、そのうち綺麗なお花畑の向こうで顔も知らないおじいちゃんとかおばあちゃんとかが手を振りはじめるかもなー、なんて考えていたら。
びり、と布地を裂く音がした。何の音? と首を傾げたところで、左腕を掴まれる。おや? と目をぱちぱちさせていると、腕に黒い布地を巻かれる。
沢辺さんのドレスが乱暴に裾が引きちぎられたせいで、ニーソックスに包まれた膝が見える。僕がぽかんとしているうちに、沢辺さんは手際よく布を巻いて、
「これでよし」
満足げに頷く。
僕はうさんくさそうに眉をよせて、腕の布に目をやる。……本当にちゃんと結んでるのか? いぶかってみたが、確かに傷口は圧迫されている。
どうやら、ちゃんと止血してくれたみたいだ。
「わざわざ、どうも」
一応、小さく会釈しておく。でも、釈然としない。別にいい、って言ったのに。目を逸らして黙っていると、沢辺さんはふんと鼻を鳴らしてそっぽをむいた。
「目の前で死なれたら、目覚め悪いです。精神世界であろうが、なんだろうが」
彼女の黒いドレスは無惨にも引き裂かれていて、とても胸を張れる状態には見えないのだけれど、沢辺さんの後ろ姿は偉そうに腕を組んでいる。
いや、精神世界でドレスを破ったところで現実には何の影響もないのは、分かるけどさ。
「そう?」
それは精神世界における命だって同じ。どうせ現実に戻れば生き返るんだし、こちらで死のうが生きようがどうでもいいんじゃないだろうか。
「嫌いですから、私。命を粗末に扱う人は」
きっぱりと沢辺さんが言う。
「ふうん」
考え方の違いというやつなのだろう。そういうことに関しては、いくら考えても無駄。……沢辺さんは新入りだから、精神世界での死の軽さの認識がまだ出来てないのだろう。
無駄なことはしないのは僕の主義。沢辺さんから視線を外して、空中に漂うオペレーター端末をまだかと見上げる。
頭がふらふらするので、地面に座り込む。力の入らない首を逸らして、空を見上げる。黒い夜空に、白い煙がたなびいている。森の延焼が止まらないのだ。森を泳ぐ魚たちが逃げ惑う姿が散見される。
ぼんやりと眺めていると、沢辺さんが声を掛けてきた。
「精神世界の風景って、どんな意味があるんですか?」
沢辺さんは立ったままで、夜空を見上げている。
「患者の心理を現している、というのは聞きましたが……この夜空とか、森とか、鯨とか魚とか……無茶苦茶です。……一体、どんな心理を現せばこんな風景になるのやら?」
地面から見上げて、かすかに彼女の表情がうかがえた。筆で書いたような細い眉をしかめていた。
また、難しい質問をしてきた。彼女につられたわけじゃあないけど、僕も眉間に皺が寄るのを感じる。……無視を決め込む前に、僕は真面目に回答を探し出していた。
「人間は誰しも、致死量を超えた不安と絶望を抱えている。人々の間で違いがあるとすれば、それを表に出すか出さないかの違いでしかない。……他人事ではない、ということだよ」
諳んじると、夜空を背景に沢辺さんが肩を竦めた。
「へえ。……あなたらしい、陰気くさい言葉ですね」
「言っておくけど、僕の言葉じゃないからね」
苦笑交じりに言う。
「フリードリヒ・ベルトンだよ。言葉は知らなくても、名前は知っているでしょ?」
「ああ、誰の言葉かと思えば奴ですか。――フラメア症候群を発見者にして、治療方法を確立させた最も著名な研究者様ですね」
「敬意の示し方が雑だよ」
たしなめるように言う。沢辺さんは僕に背を向けたまま、振り返る気配すら見せない。
「すみませんね、雑で」
声に反省の色は全く見えない。
「仕方ないですよ。二十年間、隠し通してきたフラメア病の研究資料もろとも焼身自殺、ですよ? その資料があれば、フラメア病はもう根絶されていたかもしれない。……無用な犠牲を出さずにすんだかもしれない」
沢辺さんの視線に圧力を感じる。僕はベルトン博士じゃないってのに、ぎらぎらとした目を向けてくる。
困ったものだな、と思う。ベルトン博士が身近にいるなら代わってほしいが、生憎と死んでるし、そもそも彼が天寿を全うしたところで、現代に彼は恐らくいなかっただろう。
フラメア症候群が発見されたのは、およそ百年前のこと。世界で最初の患者の名前、つまり発見者のベルトン博士の妻の名前を取って名付けられた。妻をフラメア病で亡くしてから、ベルトン博士は人目をはばかり、小さなあばら家で研究の日々を送った。
初めての患者の死から、たったの二十年で治療用ダイブマシンが完成にこぎつけたのは奇跡と言うほかない。これまで、誰も存在を知らなかった精神世界を暴き出すのみならず、そこに行って治療まで行う機器を生み出したベルトン博士の功績は計り知れない。
彼がいなければ、フラメア症候群で人類が滅んでいた。そして、彼が天寿を全うしていれば、人類はフラメア症候群を滅ぼしていた、そんな風に言われるのも無理はない。
妻の死の二十年後、ベルトン博士は自ら命を断っている。彼は死の間際まで、自宅に籠って孤独に研究を進めていた。その最期は壮絶で、自宅に火を放ち、多くの貴重な研究資料諸共、彼は炎の中に消えた。ダイブマシンの原型の設計図だけが辛うじて難を逃れたのは幸運と言うほかないだろう。
「君は図分、ベルトン博士のことを恨んでいるようだね?」
「恨むも何も、人間として、最低だって思っているだけですよ」
当然のように沢辺さんが言う。声は冷ややかで、歴史上の偉人に対する敬意はかけらもない。この恨みようだと、彼女の教科書に載っているベルトン博士の写真はひどい落書きで埋まっていそうだ。
「さようですか」
僕はふいとそっぽを向く。興味なんてないよ、という風に聞き流す。
沢辺さんも僕の興味が逸れたことを理解したのか、僕に背を向ける。彼女の後姿は、高い空を見上げている。飽きもせずに、彼女自身の言葉を借りれば、『無茶苦茶な』風景を眺めている。
何を思って、空を見上げているのだろう? 僕に問いかけたように、この風景が現す心理とはいかなるものか、ということを考えているのだろうか?
多分、違うだろうな、と思う。彼女は目の前のこの精神世界について、思案しているわけじゃない。恐らく――ここではない、別の精神世界について考えている。きっと、いや、ほぼ確実にそうだろうと僕は思う。
彼女がベルトン博士を憎むのも、彼女の事情を考えれば、理解は出来る。何故死んでしまったのだと、何故生きてフラメア病を根絶してくれなかったのだと恨んでいるのだ。……しかし、恨むばかりでは何もならないのを理解しているからこそ、こうして適性者をやっている。当たり前だが、彼女だって好き好んで適性者を選んだわけじゃないのだ。
僕は目を、閉じる。眠気が襲ってきたからではない。ただ、目の前の光景から逃げ出したかっただけに過ぎない。――精神世界の意味を問い続ける彼女の後姿を視界に入れたくなかっただけなのだ。
これは他人事なのだから。僕にはまるで、関係のないこと。だから、彼女の葛藤も苦しみも、僕の目に映したくない。耳に入れたくない。一切の関わりを持ちたくない。
小春さんの合図が出るまで、眠ろうかと思った。ウイルス退治は終わった。あとはゲートが開くのをを待つばかり。……この状況下なら、何をしたって構わないのだから。生きていたって、死んでいたって大差はない。だから、すっかり瞼を閉じきって、意識も睡魔に手渡そうとした。……その瞬間に、耳朶を打つささやかな音を聞いた。葉が触れ合うような音だった。それは地面の高さから聞こえてきた。
沢辺さんの背後、僕の目の前に、花が咲いていた。鮮やかな赤い花びらをつけ、美しく咲いていた。見間違えるまでもなく、あれはチューリップの花だった。……背の低い雑草に覆われた地面から、何の前触れもなく姿を現した、その一点を除けばただの綺麗なチューリップの花だ。
激痛に悲鳴をあげる左手で、沢辺さんの腕を引っ張って引き寄せる。倒れ込んできた彼女の体を、無事な右手で抱き留める。立ち上がって地面を蹴り、空中に舞い上がる。
「トランス!」
僕は怒鳴りつけるようにして、叫んだ。腕の中で沢辺さんが驚いたように、びくりと身を震わせる。
「え、ええ」
沢辺さんの姿が白い光に飲み込まれる。僕の左手に黒い短剣が現れる。それと同時に、背の高い樹木の上に着地。短剣を右手に持ち替えて、幹を蹴る。
『何が……』
沢辺さんの声を遮って、鋭い風切り音が耳をかすめていく。
「ウイルスだよ!」
緑色のチューリップの葉がすれ違いざまに見えた。飛来する矢よりも速く、切っ先は鋭い。もしあれをまともに喰らったならば、運が悪ければ即死だ。
『ど、どういうことですか? さっきの奴のとどめが……刺せてなかった?』
「違う! 新手だ!」
ウイルスは宿主の深層心理に刻み込まれた象徴に化けるのだ、そうそう別物に変わることはない。
頭部を狙って、恐るべき鋭利な葉が飛来、下げた頭上に葉っぱが突き刺さる。髪を数本切り裂かれつつも、そのままの姿勢で、隣の木々に飛び移る。
「しかも、こっちの方が遙かに大物だ! この強さなら、ランクAはくだらないね!」
ついさっきまで立っていた樹木が幹の真ん中で上下に分かれ、斜めにずれる。盛大な音と土埃を巻き上げて、枝葉を広げる上部が地面に落ちる。
飛ばしてくる葉の威力が尋常じゃない。加えて、連射性も高い。何もかもが遅かったさっきの鯨とは訳が違う。
おまけに、こっちは本調子じゃない。左腕に巻いた黒いドレスの端切れはもう真っ赤に染まっていて、血の筋が流れている。足下も少しふらつくし、着地点も思った通りにはいかない。――今の僕では、相手が難しい。
「小春さん、どこにいる?」
声を張り上げ、首を巡らせて、オペレーター端末を探す。すると、木々の間から端末がふわりと姿を現す。
『ここよ!』
緩やかな移動しか出来ないため、離脱することも出来ずに、隠れていたわけだ。幸い、まだ葉っぱはそちらの方に飛んでいない様子だった。
端末とチューリップの化け物の間は、おおよそ十メートル。僕とチューリップよりもずっと、近い。
僕は迷うことなく、そちらに向かって飛翔する。距離を取って小さくなった化け物の姿が、再び大きくなってくる。
『ちょ、待って下さい、どういうことですか?』
沢辺さんの悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
「逃げるんだよ! だからこそ、小春さんの方へ行くんだ!」
『でも、化け物には近づいています! 何言ってるんですか!』
完全に取り乱している。ああもう、これだから新米は。僕は舌打ちをした。
「端末がなくなったら、ゲートが開けない。壊されたらおしまいなんだ、現実に帰れなくなる!」
次々に足場を変えながら、小春さんとの距離を詰めていく。端末の移動速度は、蝶々並だ。僕が囮となって引きつけるか、盾になるかしないと狙われる。狙われれば、撃ち落とされる。
例え、死んでも端末を守り抜かなければならない。僕が死んでも、沢辺さんが残ればまだ現実へ帰れる可能性はある。――迷っている時間はどこにもない。右手の短剣を逆手に持ち、その切っ先を血で染まった左腕に向けた。
「【解放】! 早く!」
『は、はい!』
沢辺さんの返事と共に、短剣の刃に黒い炎が灯る。左腕に向けて、刃を振り抜く。腕の肉に金属の冷たさ、じわりと浮かび上がるもう一つの血の水源……刃を引き抜く。黒い炎は刃に付着した僕の血を舐めとり、剣へとその姿を変える。炎が刀身に吸い込まれていく。
そこで剣の変化が終わる。……って、おい、終わっちゃだめだってば! 何のために【解放】切ったと思ってるんだよ! がくりと全身から力が抜ける。……ああ、そうか、いちいち指示出さなきゃ、分からないのか。
「次、【炎刃】!」
『わ、分かってます!』
ムキになって沢辺さんが叫んで、剣に炎が灯る。それを確認してから、頭上に掲げた剣をそのまま振り下ろす。
剣の射線上に、端末があった。そして、その目前に恐るべき葉が迫っていた。緩慢な動きの端末に触れようとした瞬間、葉は黒い炎に包まれ、落下。燃え残った繊維を炭にしながら、地面に転がる。続けざまに、葉が端末を狙って放たれるが、剣から放たれた炎が残らず消し炭に変える。
『よし……!』
沢辺さんの安堵の声が聞こえた。
【解放】を始め、武器の特殊能力を使うのはトランスの仕事だ。ガーディアンの動きを読んで、こちらから指示せずとも力を発揮しなければならないのだ。技が発動したぐらい喜ぶな、と言いたい。
幹を蹴って飛翔。風を切り裂いて進むと、左腕を流れた血が這う。着地すると、その衝撃で気が遠くなるような激痛が走る。葉が僕と端末を狙って、まっすぐに飛んでくる。「【炎刃】!」と指示を出してから、端末の方へ剣を振るい、炎をとばす。
「僕、本当、いつ倒れてもおかしくないからね? もう本当は死んでるかもって思うぐらい、まじで死にかけてるからね? それと、あと……」
返した刃で、目の前にきた葉は斬って捨てる。二つに分かたれた葉がゆっくりと地面に落ちていく。……そろそろ意識が怪しいのか、視界が霞んできた。
いや、この現状を認識したくない、が正解か。
「あいつはまだ、本気出してないみたいだよ」
ぼやけた視界に赤い花びらが、がくから離れて一枚ひらめく。人間の上半身ぐらいはありそうな花びらが、その場で駒のように回転を始める。目で追ってもついていけないし、万が一巻きこまれたら間違いなく挽き肉になる速度。でもあれはどう見ても準備運動、ずっとあそこで無意味にくるくる回っていてくれそうにはない。
花びらが、動いた。フリスビーが放たれたみたいに、その軌道は弧円を描く。花びらがかすめた木々は、カッターを当てられた紙のように切れていく。予想される軌道上に、幸い端末はなかったが、僕と沢辺さんはしっかり含まれていた。
沢辺さんがぎゃあぎゃあ騒ぐ声が遠く聞こえた。うるさいな、頭に響くだろう、と言おうとして、一瞬頭が真っ白になった。あれ? 疑問に思う間もない。足下の感覚が消失、うるさいはずの沢辺さんの声も聞こえなくなった。にじんだ視界に、ぼんやりと鮮やかな赤い花びらが浮かんでいる――意図せぬ浮遊感が全身を包み込んでいた。
『ゲートを開けた! 早く帰還しなさい!』
小春さんのがなり声が聞こえた。はっと、僕は我に返った。足を滑らせて空中に投げ出された体を一回転、体を貫く激痛に顔をしかめながら着地を決める。背後を振り返れば、青い森を背景にして、現実世界へ繋がるゲートが開いている。
ここをくぐれば、現実に帰れる。もういいよ、とばかりに右手を振ると、握った剣が粒子へと姿を変える。沢辺さんが代わりに姿を現す。
トランスを解いたら、後は帰るだけ。ゲートに向かって駆け出す。
もう後一歩踏み出せば、現実へと戻れる。その時になっても、背後から追いかけてくる足音がしない。振り返ると、沢辺さんは未だ立ち尽くしたままで、青い森を……いや、あのチューリップの化け物の方を見やっていた。
「帰るよ」
ぼやぼやしていたら、次の花が来る。開いたゲートを目前にして帰還不能だなんて、ばかばかしいったらありゃしない。
声をかけると、ようやく沢辺さんが振り返った。
「今、行きます」
目を覚ますと、ポッドのガラス越しに小春さんの顔が見えた。急に差し込んできた光がまぶしくて瞬きをすると、彼女の顔に笑顔が綻ぶ。
「よく、生きて帰ったね」
ポッドのガラスを開けると、小春さんが口を開いた。
「まあ、なんとか」
まだ眠気が残ってぼんやりしながら答えると、唐突にぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。あんまりにも突然のことだったから、驚いて小春さんを見上げると、小春さんが歯をのぞかせて笑った。
「よかった、よかった。死んだりしたら、始末書を書かなきゃいけないところだった」
「あの、気にすべきはそこですか?」
「当たり前じゃない。あたしの仕事を無駄に増やしたら死刑ね」
そのとき、僕らは死んでるけど、どうやって死刑にするつもりなんだろう。……素朴な疑問を抱きつつ、ポッドから身を起こす。
「それで、あのウイルス。……一体、何なのです?」
問いかけると同時に、小春さんの表情が引き締まる。
鯨を倒したとき、止血を進んでしなかったのは、ゲートが開くまでの間に邪魔が入るとは露とも思わなかったからだ。ウイルスは倒した。もう一匹潜んでいるとは、考えなかった。一人のフラメア病患者にウイルスは一匹。それは長らく信じられてき
「まだ何も分からない」
小春さんが首を横に振る。
「司令部にはもう伝えたわ。これから調査を開始する予定。……悪いけど、あんたたち二人は調査が一段落するまでダイブは禁止よ。可能性は低いと思うけど、あんたたちが原因かもしれないから。その可能性をつぶすまでは、ダイブ許可は出せない」
「妥当なところですね」
機構は早急に手を打たなければならない。今まで、適合者のダイブはウイルスを一匹相手取ることを想定して行われてきた。原因を速やかに突き止め手を打たなければ、適正者に死者が出る。
「残念ですが、仕方ないですね」
沢辺さんの声がした。
「あの討ち漏らしたウイルスを、私の手で倒せないのは悔しいですが……患者さんを治してもらう方が大事です、仕方ないです」
思わず、僕は振り返った。……耳を疑った。小春さんも目を丸くして、沢辺さんを見つめ、
「何、言っているの?」
と、僕が思ったことと同じことを言った。沢辺さんは不思議そうに目をぱちくりさせた。
「いえ、しばらくダイブ出来ないなら、私の手では倒せないなって……ほかの誰かに倒されるんだろうなって」
自分の発言のどこがおかしいのか、まるで理解していないらしい。僕はようやく、沢辺さんの勘違いに気づいた。
「あれを倒しにいく奴はいないよ」
「え?」
沢辺さんが目を見開く。
「ランクAぐらいかな、って思ってたけど、戦っているうちに考えが変わった。……小春さん、あれランクSでしょ?」
「ええ」
小春さんが頷く。
「あんたたちが戦っている間に、ウイルスの強さの指標となる感染強度数値計ったけど……桜木の言うとおり。ランクS水準を満たしていたわ」
「やっぱりね。じゃあ、誰もダイブなんてしませんね」
「ま、待って下さい!」
沢辺さんが声を上げた。
「じゃあ、あのウイルスはどうなるんです?」
「放置するしかない」
小春さんはすばやく答えた。沢辺さんが、ポッドからずいと身を乗り出す。
「なら、患者さんは? ランクSウイルスが精神世界に残ったままの、患者さんはどうなるんですか?」
「眠り続けることになるでしょうね。……最終的には、死ぬことになるだろうけど」
「つまり、見殺しにするということですか?」
声を低くして、沢辺さんが言った。
「仕方ないわ。見殺しにするも何も、これは機構の方針だから」
歯切れの良い口調で小春さんが言う。
「知っているでしょ? ランクSウイルスへのダイブは禁じられている。そして、それがどうしてだか、分かっているでしょ?」
沢辺さんの表情が、歪む。赤い唇は噛みしめられ、目頭にしわを寄せる。……小春さんの問いに、彼女は答えない。
それが、彼女の答えだ。僕は彼女の険しい表情から目を逸らした。
実戦配備の前に、何度も講習は受けているはずだ。座学しかり、シュミレータを使った模擬戦しかり、講師から何度も聞かされた鉄の掟があるはずだ。
必ず現実世界に帰って来ること。何があっても、どんな手段があっても、精神世界から戻れなくなるような事態に陥らないこと。
この掟を守るためなら、撤退もやむなし。適正者に危機が迫るなら、ウイルス退治は後回しでもしかたがない。だから、どのオペレーターであっても絶対に適正者の身の安全を最優先した指示を出さねばならないし、適正者はオペレーターに従う義務がある。
これは適正者個人の命と患者一人の命を天秤にかけた結論ではない。僕ら適正者一人の命に対して、多数のフラメア病患者の命をかけた結果だ。
沢辺さんはそっと目を伏せた。
「分かって、います」
血を吐くような、苦しげな声で言った。
その後、技術担当の人たちに囲まれて夕方まで時間を過ごした。検査用ポッドに寝かされたり、普通の病院みたいに診察を受けたり、事細かに精神世界での出来事から現実での生活を聞かれたり。
全て終わって、帰途につく。自転車を回収して漕ぎ出そうとしたところで、沢辺さんが玄関から出てきた。僕の姿を見つけると、こちらの方へと歩いてきた。
「お疲れさまです。検査どうでした? こちらは特に何もありませんでしたが」
「異常なしだって、今のところ」
「そうですか。長期戦になるかもしれませんね」
沢辺さんが憂いを含んだ声で言った。
「あなたにの性格に異常なしの判定を出すなんて、あの人たち、ちゃんと調査できているのか不安ですね」
僕は声を弾ませて笑った。
「そうだね、僕も心配だよ。君の服装のセンスをひっかけないなんて、目が節穴なんだろうね。調査はちゃんと終わるかな」
互いに悪口を言い合って、会話終了。けだるげな目で沢辺さんが僕を一瞥して、僕も彼女に同様の視線を返す。
さて、帰ろう。僕は自転車にまたがって、漕ぎ出す。頭の中では、この後の予定を考える。とりあえず、スーパーに寄って買い物。家に帰って晩ご飯の支度、それから……。
「桜木さんは、辛くないんですか。……適正者でいることが」
沢辺さんの声が、背後からした。自転車を止めて、振り返る。沢辺さんがゆったりとした歩みで僕との距離を詰めてくる。
「別に?」
僕は自転車を押して、歩き出した。
「よっぽど大きなへまさえしなけりゃ、死にはしない。代償だって、覚悟していたこと。……悩むなんて馬鹿馬鹿しいよ」
「患者を救うどころか、殺すことさえあるというのに?」
沢辺さんが自転車の隣に並ぶ。
「ウイルスに負けて、精神世界に囚われれば……私たちはウイルスになる。それも、並のウイルスじゃなくて……一つの災害に匹敵するほどの犠牲者を生み出すランクSウイルスに」
沢辺さんの声は周囲の耳をはばかるように密やかで、自転車の車輪が回る音ばかりが耳についた。
精神世界へのダイブ中に、オペレーター端末が壊されれば、現実世界へのゲートは失われる。同時に端末とリンクしているトランスの変身能力も失われる。精神世界に閉じこめられた適正者は、助けを待つしかない。別のコンビが端末を伴って精神世界へダイブし、ゲートを開いて連れ出してくれるのを期待するしかない。
しかし、救出にはタイムリミットが存在する。どれほどの猶予があるかはウイルスによって異なるため、一概には言えないが、ある一定時間を過ぎると、囚われた適正者はダイブを行った精神世界から消える。同時に、現実に残されていた肉体は死を迎える。
消えた適正者の精神は一体どこへ行ってしまったのか? その答えが――ウイルスに変化する、だ。
適正者のウイルスが他のウイルスと異なるのは、その誕生の際に、膨大な数の分体をまき散らすことだ。数千にも及ぶウイルスを生み出した後は、通常のウイルスと同じように、誰かの精神世界に憑りつき、宿主が死を迎えるその時までウイルスとしての生を全うすることになる。
「私はウイルスを駆逐するために適性者になったんです。ウイルスになろうと思ったわけじゃない、かといって見殺しにするつもりもなかった……」
沢辺さんの声が途切れる。彼女の赤い唇は震えており、この先を言葉にするのも耐えられないらしい。……片目を犠牲にすることを彼女は軽々しく受け入れていたけれど、それ以上に受け入れられないことがあるのだ。
分かっていたことだろうに。でも、話として聞くのと実際に適性者として現場で見聞きすることに、大きな隔たりがあるのは事実で、今更気づいたのかと毒づくのも違うと思う。
「嫌なら、辞めるしかないよ」
僕なりに誠意をこめて言った。
「絶対ウイルスにならない、という保証はない。ウイルスになるのが嫌なら、見殺しにするのが嫌なら、適性者は諦めろ。……ましてや、僕らはウイルスになっても、誰も殺してくれやしないんだから」
ランクSウイルスはランクAとは段違いの強さを誇る。だから、二次被害を避けるために機構はダイブを行わない。宿主諸共、寿命が尽きて死ぬまで待つ。患者を殺す自分がいくら憎くとも、ウイルスとなった自分を殺してくれる者は誰もいない。
沈黙が続いた。ほんの十数メートルを歩くだけの時間が、ひどく長く感じられた。
「じゃあ、あなたはどうなんですか」
ぽつりと沢辺さんが言った。
「ウイルスになる可能性があるのは、あなただって同じです。……あなたはどうお考えで?」
首を動かさず、視線だけで僕を見上げていた。沢辺さんの黒目がちの瞳は、まっすぐに僕をとらえていた。
「何も考えていないよ」
僕は微笑して答えた。
「考えることなんて、いかに効率よくウイルスを狩って、報奨金をより多く手に入れるか、だけだよ。……それ以上のことは、他人任せだ」
「できますか、そんなこと? ……考えずに、いられるのですか?」
沢辺さんは訝るように眉をひそめる。
「出来るよ。……出来るからこそ、僕はランクAガーディアンとしていられるのかもしれないね」
眉をひそめたまま、沢辺さんは口を閉ざした。ややあって、唇を尖らせながら言った。
「そんな無責任なことが出来るのは、あなただけだと信じたいですね」
「残念だったね、こんな無責任な奴と組む羽目になって。恨むなら、君の入学時期を恨め」
来年入ってきていたなら、おそらく無関係でいられたのだろうに。いかんせん、時期が悪すぎた。
一つは、僕の事情。この半年間組んだトランスのパートナーは僕の一つ上の学年で、今年の三月に卒業してしまった。ランクA指定を持つガーディアンの僕には、相応のトランスがパートナーとして選ばれる。そこで、機構の編入試験でトップの成績を叩き出した沢辺さんにお鉢が回って来た。
平常時なら、どれだけ優秀でも初戦はランクFだ。いくらガーディアンのランクが高かろうが、トランスが強力な力を持っているにしても、コンビ結成してすぐにランクCというのは前例がない。
もう一つの事情は、最近出た適正者の犠牲だ。とある一組のトランスとガーディアンが帰還不能に陥り、ダイブ中に死んだのだが……彼らのランクがAだったのである。
膨大な数のウイルスが精神世界の海に解き放たれた。その中には当然のように、ランクA相当のウイルスも多く混ざっているし、ランクB以下にも感染強度的には大したことがなくても、強力なウイルスは存在する。ランクA適正者は今、皆手が回らないほどに忙しい。当初五人いたランクA適正者は、一組が死に、もう一組が卒業によってコンビ解消してしまったためだ。一刻も早くランクA適正者を補充したい、という機構の思惑は理解できる。
とはいえ、初戦からランクCなんて無茶ぶりだ。普通なら、ありえないこと。一体、どれだけ彼女に期待を寄せているのやら。
「ま、僕の方から言えるのは、あんまり考えすぎない方がいいと思うってことさ。それで、戦う前から身も心もずたぼろになられちゃ、邪魔でしかない。……迷惑かけられるのだけは、勘弁だよ」
沢辺さんの耳に届いたかは定かではない。彼女は眉一つ動かさずに、前を向いて歩いている。
「努力しますよ」
心ここにあらず、といった感じ。……聞いてないかな、こりゃ。
それでもいいんだけどね、僕は。沢辺さんが気に病もうが、軽蔑されようが、どうでもいい。邪魔にさえ、ならなければいい。だから、これ以上は何も言わないことにしよう。
僕らは並んで歩いていたけど、会話はなかった。僕は今日の晩ご飯のおかずで頭がいっぱいだったし、沢辺さんは沢辺さんで別のことを考えているみたいだった。互いに別々のことを考えていたせいで、後ろから近づいてくる足音になかなか気づかなかった。
「夏樹!」
走り寄る足音と藻に、聞き慣れた少女の声がした。僕が自転車を止めると、隣の沢辺さんも止まった。背後を振り返ると、軽く息を弾ませて、私服姿の少女が立っていた。
女性にしてはやや長身。すらりと伸びた手足は日本人離れした長さをしている。鼻も高く、肌は白磁のよう。雑誌から抜け出してきたような美貌を誇る彼女は、背中まで伸ばした金色の髪を手で払う。
「今は帰り?」
少女――白鳥ちづるは、小さく首を傾げて言う。僕は頷いた。
「白鳥さんは、これから?」
「そう。これから」
白鳥さんが目元をゆるめて、微笑む。彼女の無邪気な微笑をつくづくと眺めて、背を向けた。……彼女は、これから、か。僕は気が重くなるのを感じた。
「気をつけて」
早口で言った。
「そうする」
白鳥さんが素直に返事する声が聞こえた。
早く帰ろう。余計なことは、考えたくない。僕は自転車にまたがって、ペダルに足をかけた。すると、そのときになって、
「あ、夏樹。ねえ、この子は?」
白鳥さんはぽかんとしている沢辺さんの存在に気づいたらしかった。渋々、僕は自転車から降りた。
「新入生。パートナーだよ」
「ああ」
白鳥さんの顔に納得の表情。彼女は沢辺さんに向き直って、にこりと微笑む。
「初めまして。私は白鳥ちづる。あなたは?」
沢辺さんはしきりとまばたきをしながら、白鳥さんを見上げている。わずかに間をおいて、彼女は小さな帽子が載った頭をぺこりと下げた。
「沢辺清河です」
「よろしくね」
「よろしくお願いします」
沢辺さんが礼儀正しく応じると、白鳥さんはにっこりと笑った。
「それじゃあ、またね」
手をひらりと振ると、白鳥さんは身を翻して歩き出す。彼女の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。
白鳥さんの姿が視界から消えると同時に、沢辺さんが振り返った。
「あの人なんですか?」
うさん臭そうに言った。ごもっともな質問だ。
「知り合いだよ。トランスで、君の一個上。……大分前に、一緒に組んでた時期がある」
端的に沢辺さんの質問に答える。沢辺さんはにやりと笑った。
「彼女?」
ご丁寧に小指を立てて、僕に聞いてきた。
「違う」
「ああ、それはそうですね。失礼しました。……あんな美人、桜木さんにはもったいないです」
沢辺さんは立てた小指を下ろした。
「ああそう」
別段、腹は立たなかった。沢辺さんはしたり顔で頷く。
「だって、あんな美人が桜木さんの彼女なんて、結婚してからの遺産狙いしかいないでしょうからねえ。籍入れた途端にめいっぱい生命保険をかけられ、事故に見せかけて殺されるのが見えています」
なんか喧嘩売られた。
「帰っていいかな」
自転車にまたがる。ペダルに足をかけると、
「ちょっと待ってください。すみません、今のは冗談です。だから、そう怒らないでくださいよ」
珍しく沢辺さんが謝った。……なんだかきな臭いな。それでも一応、走り去るのは一旦中止で、ペダルから足を下ろす。僕と目が合うと、沢辺さんはにっこりと笑った。
「じゃ、片思いですね」
口元は意地の悪いにやつきを隠しきれていない、いいや隠す気はさらさらない。僕はがっくりと肩を落とす。
「だからどうして、そんな結論になるのさ。普通の話をちょっとしただけだろ」
「……気をつけて」
沢辺さんが低い声で、ぼそりとつぶやく。びくりとして顔を上げると、沢辺さんはさも愉快そうに目を細めた。
「聞こえましたよ? 桜木さん、あんな優しい声、出るんですね」
実に不愉快な笑顔だった。
「うるさい」
沢辺さんの顔を見たくないので、そっぽを向く。すると、やはり隠す気のない忍び笑いが聞こえてくる。
「ああ、おもしろい。桜木さんもたまには楽しい話題を提供してくれますね」
「黙れよ」
声を低くして言うが、忍び笑いは全く止まない。
「告白はしたんですか? ああ、でも桜木さんって奥手っぽいですよね。何も言わずに、想いだけを胸に秘めてそのままさようならさらば僕の初恋の人! みたいなことをやりそうです。虚しい自己満足に耽っていて、実に気持ち悪いです」
「他人のありもしない妄想を膨らませたあげく、結論気持ち悪いとか君、失礼にも程があると思うんだけど?」
怒りで頬がぴくぴくする。沢辺さんは急に真顔に戻った。
「え、あってるでしょ?」
僕は額を抑えた。
「何を根拠にそこまでの自信を持てるのか、むしろ聞きたい」
「女の勘」
沢辺さんは、けろりとのたまった。まともに相手してられない。
「帰る。じゃあね」
会話を打ち切って、自転車のペダルに足をかける。全速力でこぎ始めると、
「あ、逃げた」
沢辺さんの 腹立たしい声が風に乗って聞こえてきた。
近所のスーパーで晩御飯の材料を揃えて、帰宅する。店の駐車場の片隅に自転車を置いてた。自宅の一階部分を改装して、喫茶店をやっているのだ。『CLOSE』の札がかかったドアを開ける。
「ただいま」
ドアに取り付けた鐘の音に、カウンターの奥にいたおばさんが振り返る。
「あ、夏樹。お帰りなさい」
戸棚にカップやソーサーを戻しているところだった。店仕舞いの最中だったらしい。
「手伝おうか?」
手身近なテーブルに鞄とスーパーの袋を置く。おばさんは首を横に振った。
「いーえ、結構」
「時間かかるでしょ?」
テーブルはさすがに片付いているが、カウンターの中はまだ食器や鍋が散乱している。
「だからこそだって。ほら……私を置いて、先に行け! ってやつ」
おばさんが、無駄にもったいをつけて言った。うん、自宅はカウンターの奥抜けたところの階段上がるから、間違ってはいませんけど。
「最近、読んだ少年漫画の真似?」
週刊少年ナントカのなにかかなあ、とか思っていると、おばさんはじろりと僕を睨んだ。
「ノリが悪い!」
「はあ。……無視しないだけ、いいと思わない?」
おばさんはきっ、と目を吊り上げた。
「いいからご飯さっさと作って!」
ああ、納得。
今日の晩御飯はカレーだ。ルウが安かったのと、あとはおばさんはカレーが好きだから。
僕が仕込みを終わらせた頃に、片付けを終わらせたおばさんが上がって来た。今はご飯が炊けるのを待っている。
「夏樹が作るカレーっておいしいのよねえ」
テレビを見ながら、おばさんが言った。
「おばさんが作るのよりはね」
番組はちょうど料理番組で、肉じゃがをやっている。野菜は買い込んだし、明日は肉じゃがにしようかな。カレーより肉じゃがを食べたくなってきた。
おばさんがからからと明るい声で笑う。
「もうおばさん、一人暮らしできないわ。夏樹のご飯、食べられなくなるなんて考えられない」
炊飯器のアラームが鳴る。僕は立ち上がる。
「掃除洗濯も全然だもんね」
「あ、馬鹿にしてる?」
おばさんが唇をとがらせた。
「してる」
「こら」
怒られたが、迫力なし。おばさんの視線はテレビの中の肉じゃがに釘付けだ。
ご飯は炊けたが、カレーをよそうのは後だ。一つ、先にやらなければならないことがある。
リビングの隅に仏壇がある。晩ご飯の前に、古くなったご飯と水を取り替える。ろうそくに火をともして、線香をたく。りんをならすと、澄んだ音が部屋に響く。正座して、仏前に手を合わせる。
顔をあげると、仏壇の隣の戸棚に置いた写真が目に入る。……遊園地を背景にして、写真の人物は皆楽しそうに笑っている。写っているのは、三人。母親と妹と僕。僕をのぞく二人は、もう死んでいる。その写真の隣には、母の親である祖母と祖父の写真もあるのだけれど、ほとんど記憶にない。僕は母と妹が微笑む写真から目を離せない。
もう五年になる。あのときは小学校六年生だったけれど、もう十七になろうとしている。……時間の流れは思っている以上に早い。
写真の中の三人を置いて、僕は確実に年齢を重ねている。少しずつ母の年齢に近づいていて、幼かった妹と僕から遠ざかっていく。
二人が生きていたときの記憶も随分、抜け落ちてしまった気がする。この写真では遊園地で遊んでいるが、そのときのことも覚えていない。遊園地に行ったということを情報としては知っているが、何に乗ったとか、話をしたとか、思い出らしい思い出は残っていない。たった一度きりの遊園地の記憶だというのに、僕はいつの間にやらその記憶を手放してしまった。
写真を見る度に、時の経過を思い知らされる。その度に、僕は悲しくなる。写真の中の二人との距離がますます広がっていくことに気づかされて、焦燥が募るばかり。
じっと写真を見つめていた。ふいに、おばさんの声がした。
「夏樹、お腹空いた。早くカレー持ってきてよ」
弱った顔でおばさんが訴える。僕は苦笑と共に立ち上がる。
「はいはい」
カレーぐらいは、自分で準備してほしいんだけどな。
結局、僕が全部準備して、おばさんはテレビの前に座っていた。お気に入りのドラマが始まったので、食事の準備どころではないと言う。こうなったら、おばさんはてこでも動かない。
ドラマが終わる頃には、皿も空いている。エンディングと共に片づけを初めて、皿を洗う。本当ならもっと早くにすませたかったのだけれども、ドラマをやっている最中に水音を立てるとブーイングが飛んでくるから控えていた。
「あー、おばさんもこんなイケメンと熱々の恋愛したかったなー」
おばさんの声がキッチンのカウンター越しに聞こえる。
「携帯ゲームでやってるから、もう満足でしょ」
既に結構な金額を課金していることも知っているぞ。
「ゲームじゃ満足できるわけないでしょ。そりゃ、やっぱ現実でしたいですよお」
「ホストに金貢いだりしないでよ、お金と時間の無駄だから」
「しないって! 失礼な!」
おばさんが声を上げた。僕は肩を竦めた。……どうだか。ああいうのは、一回嵌ると抜けられないって聞いたことがあるぞ。
「別に火遊びがしたいってわけじゃないんだって」
拗ねたような声が聞こえてきた。ちらっと後ろを振り返ると、おばさんがむくれ顔でテーブルに突っ伏している。
「ごくごく平凡にさ、結婚して、そんでもって子供作ってさ。年食っていって、今度は孫の顔見るの。それで子供と孫に看取られて、ご臨終! ……そーいう、珍しくも何ともない普通の人生を所望してるだけです!」
おばさんが顔を上げて、僕を威嚇してきた。「ああ、そうですか」と言いながら、逃げるように顔を背けて、洗い物を再開。
結婚して、子供、か。母とは大分年の離れた姉妹だから、おばさんはまだ三十前半。彼女が語る夢を叶えるには、不可能な年齢ではない。
二十代は大手の商社で働きづめの毎日だったという。五年前に僕を引き取ったときに商社は辞めたけど、やっぱりあちこちパートに出ていて遊ぶ暇もなかった。彼女が長年の夢だった喫茶店を始めて、のんびり息抜きできるようになったのは、本当にこの一年のことに過ぎない。
「じゃあ合コンでも、婚活でもさっさとすれば? 手遅れにならないうちにさ」
ぱっと見、今ならまだ二十代後半ぐらいには見えると思う。
「夏樹、最後の一言、結構傷つくんだけど」
「事実でしょ」
最後の皿の一枚の泡を落とす。水気を軽く切って、水切り台へ置く。……おばさんは黙っていた。はねた水滴を布巾で拭いていると、おばさんの声が聞こえてきた。
「ううん、違うんだって。別にさ、私は結婚したいとか子供ほしいとかそんな風に思っているわけじゃないんだって」
「ええ?」
さっき思いっきり、結婚したい子供ほしいって言ったじゃん。思わず振り返って、目を丸くしてしまう。手のひら返しにも程がある。
おばさんは僕に微笑を向ける。
「うん、私の子供はいいわ。夏樹の子供が見たいわ」
「……僕?」
人差し指で、自分を指す。おばさんはこくりと頷いた。
「夏樹の子供は私の孫。ほら、私の夢叶ってる」
「いやいや、甥の子供は孫じゃないって」
「あ、どうせなら女の子希望! 女の子の方がかわいい! 大きくなっても一緒に遊べるし」
おばさんが目を輝かせる。
「あのさ、だからね」
「男の子でも、まあいいけどね! 心配しなくても、お小遣いはちゃんとあげるからね。武者飾りも買ってあげる!」
「いや、だからね」
「で! 気になる女の子とかいないのかな、夏樹君?」
おばさんがにやにや笑って、僕を見ている。夕方の沢辺さんと同じ顔をしていた。
女性は何がなんでも、恋愛話に持っていこうとする。みんな頭の中が花畑なのか?
「いない、いない。興味ない」
「ふうん。……ねえ、ちづるちゃんは? 仲いいじゃん?」
またか。僕は脱力して、首を横に振る。
「知り合い。それ以上の関係はない」
「えー?」
おばさんは不満そうに唇をとがらせる。
「だってさ、あの子、よく見るじゃん? お店にもよく来るし、それにつき合いも長いし。気もきくし、美人」
「はあ」
「あとボイン」
「ああうん」
それは確かに。自信を持って頷ける。あれは目に毒。
「おばさん的には、ちづるちゃんみたいな子にお嫁さんに来てほしいけど……夏樹的にはどうよ?」
「どうよ、って……」
言葉に詰まる。どう、って言われても。
簡単に答えられる質問じゃなかった。彼女に関しては、好きとか、嫌いとかそういう単純な領域の話だけでは済まないから。
彼女について、正確な気持ちを語ろうと思ったらいくつも言葉を費やさなければならないし、時間も必要だった。
僕はおばさんに背を向けて、台所の水仕事に戻る。
「あの人にだって、他に好きな人ぐらいいるでしょ」
とりあえず、今は誤魔化しておくことに決めた。