とあるヤドリギへの嘆願
「ある少年を殺して欲しい」
その男の頼みは、とても私には承服できるものではなかった。
それはある日のこと。
私の下に一人の神が訪ねてきた。
彼、というのだろうか、老婆の姿をしたその男は、私を見て呟いた。
「なんともまあ、立派になって。こんな姿になろうとは、あの女は思いも寄らなかったようだね」
その声は嬉しさからか、それとも安堵からか、とにかく弾んだ明るい声だった。
「この弱々しい私に、何の用がある」
そう私が尋ねると、彼は喜色満面の笑みを浮かべて答えた。
「弱々しい、なんてそんなことは言うもんじゃない」
目を細めて言うその顔は、確かに私の姿を見て喜んでいる。
「君が、必要なんだ。君こそが、必要なんだ。弱々しい? とんでもない! 君はとても強いよ。とても、とてもね」
呟くように男は繰り返した。
「そう、君に頼み事があってきたんだ。聞いてくれるかい? 僕は、そのために来たんだ」
ニコリと微笑む彼に、私は素っ気なく返答する。
「勝手に話せば良い。どうせ私は、ここから動くことが出来ないのだから」
私は自力で立つことは出来ない。滋養も、すぐ傍らにある樹木から取るしかない弱々しい存在だ。
そんな私に頼み事? 何をさせようというのだろうか。犬のように玄関に座らせ、留守番でもさせようというのだろうか。それとも、野鳥でも捕ろうというのだろうか。私を使って。
そんなばかな。私は自嘲する。どうせ自分では何も出来ない存在だ。私を使って何か出来るのならば、すればいい。やらせることが出来るのならば、やらせればいい。どうせ何も出来はしないのだ。
私の考えを読んでいるのかそれとも意に介していないのか。その男はニイと笑うと、ローブのフードをめくって素顔を晒した。
素顔を晒した途端、老婆の姿がポン、と膨らむ。変化した姿は、筋肉質な男性の身体だった。
短く刈られた金髪に、燃えるような赤い瞳、その整った顔はとても美しかった。
「君に、して欲しいことがあるんだ」
「何をすればいい」
「ある少年を殺して欲しい」
男はそう言うと、苦々しそうな顔をして地面を見つめた。
「物騒な話だな」
「まあ、話を聞いてくれ。別に、僕は自分の楽しみのために彼を殺そうとしているわけじゃないんだ」
慌てるように彼は弁解する。爽やかに笑う顔は、そんなときでも美しい。
「別に、そんなことを責めてはいない。ただ、どうしてそんなことを言ったのかは気になっている」
「関心を持ってくれて、ありがとう。これは、君にしか頼めないことなんだ」
「それがわからない。私の何が必要なのか」
「君のその存在自体が、必要なんだよ」
「説明するために、君を違う場所へ連れ出したい。付いてきてくれるかい?」
私は溜め息を吐く。
「連れ出したければ、そうするがいい。私には、抵抗など出来ない」
「ハハッ、それもそうだね」
彼は満面の笑みを浮かべると、私の身体を宙に浮かべた。そして呪文を唱えると、私の身体の一部は彼の身体に巻き付いた。
「さ、いこうか。といっても、すぐそこだけどね」
この木を離れるのは、初めてのことだ。
「あれが、その少年さ」
彼が指し示す先には、光り輝く少年がいた。
「美しいな」
「そう言ってくれると嬉しいね。自慢の甥だよ」
彼は本当に嬉しそうにそう言うと、「義理のだけどね」と付け足した。
白銀の髪の毛に、白く長い睫、細く締まったその肉体は、芸術品のようだった。実際には光など発してはいない。光り輝いていたのは、彼のその雰囲気だ。物憂げなその表情も、絵になっていた。
「自慢の甥? ならばなおさらわからないな。どうして、彼を殺すのだ」
その質問を投げかけた所、彼の表情は先程と打って変わって曇ってしまった。泣きそうなようにも見える。
「それは、そろそろ始まるそれを、見てから説明するよ。それも含めて、全部、全部ね」
彼は、今にも泣きそうだった。
遠くから、しばらく少年をじっと観察する。
どうして彼を殺さなければいけないのか、未だにわからない。石に座り、佇む少年は、とても殺されなければならないような存在ではない。
そこに、神族がぞくぞくと歩いてきた。
私の卑しいこの身体は、彼らの視界に入ってもいいものだろうか。そっと隠れようとしても、この身体はままならない。
「ああ、いいっていいって」
彼は苦笑し、私を宥める。私の考えを読んだのだろうか。
「しかし」
「あのね、君が今話しているのも神の一柱だよ? この僕が連れているんだから、堂々としていなよ」
そういうものだろうか。そうなのかもしれない、
「それよりも、ほら、始まるよ」
鋭い目つきに変わった彼は、苦々しくそう吐き捨てた。
彼の言葉を聞いて少年に目を向けると、そこには目を疑う光景があった。
「アハハハハッ! やっぱすげえな、お前!」
「胴体は10点だろ? よっしゃ、次は頭だ50点目指してやる!」
若い神族が、少年に石を投げて遊んでいるのだ。
少年は、困った顔をしても、止めようとはしない。
「何だ、あれは」
目の前の光景が理解できない。
あの若者達は、何をしているのだ。
「見てわかるだろう? 的当て遊びさ」
歯を食いしばり、若者達を睨みながら、彼はそう言った。
「的当て遊び? あの少年を使って、か?」
「そうさ、見ての通り。胴体は10点、手足は5点、頭に当たれば50点! ……だとさ」
冷たいその言葉は、意図的に無感情に発しているようだった。
「あの遊びはずっと続いている」
「親や友達は? 止めないのか?」
彼は、天を見上げて呟く。
「その親が、原因なんだ」
ようやく、用件が聞けそうだ。
「ある日から一時期、あいつは悪夢を見ていたそうなんだ」
悪夢。夢、私には縁遠いものだ。
「そして、それを母親に相談した。『母さん、最近怖い夢を見るんだ』ってさ」
「その夢が何か」
「その夢は毎回、あいつが殺されるという夢だったらしい」
手刀を首に当て、明るく笑う。きっと無理をしている。
「僕ら神は、予知夢を見れるからさ。その母親は、それが確定した未来だと思ったんだ。息子はいつか殺されるんだ、ってね」
「親ならば、心配になって当然だと思うぞ」
私にはそんな親などいないからわからないが、多分そうなのだろう。
「ああ、我が子を心配する。それは当たり前のことだ。しかし、義姉さんは極端すぎた」
「ふむ?」
「世界中の生き物や、石や水、風に至るまで、全ての存在に、『息子を傷つけないでくれ』と頼んだんだ。その溢れる魔術の力を使って、さ」
忌々しそうに、彼の顔が歪む。
「全てを見通す玉座に座り、全てにそう約束させて、微笑んだんだ。過保護にも程がある」
「ああ、それで」
私の疑問が一つ解けた。
「それで、的となったあの少年は、傷一つ付いていないのだな」
「そうだ。痛みも感じず、身体に当たろうが当たった感触もしないだろうよ」
「親としては安心じゃないか」
「親としては、ね。仲間達にとってはそうじゃない」
ザッザッと地面に靴で穴を掘りながら彼は言葉を続ける。私にも、その「仲間達」の行動が読めてきた。
「考えてもみてよ。仲間内で、羨望を集める見目麗しい少年。その子は非の打ち所もない完璧な存在で、いつでも光り輝いている」
「続きがよくわかる話だな」
「うん。そんな完璧な存在を疎ましく思う、醜い連中が出てくるのさ。その連中の前に、その嫉妬の対象が「虐めても大丈夫」という免罪符を持って現れる。することは一つだよね」
「鬱憤晴らしか」
「そうだよ。いじめの対象としてはぴったりだろう。偉い奴の息子なのに、虐めれば虐めるほど、その親が喜ぶんだ」
「自分でも、虐められている事実に気付いてきているんだろうよ。日に日に、口数が少なくなっていくんだ。そんなところすら、あの親どもは気にしやしない。ただ、息子が傷つかずに平然としている姿を見て喜んでいるだけなんだ」
俯き、何かを吐き出すように彼は言った。唇が震えている。
「それで、彼が今おかれている事情はわかった。では、何故彼を殺そうと?」
わからないことが一つ一つ消えていく。少しづつ、彼に乗せられていっている気がした。
「あいつを、死者の国へ逃がしてやりたいんだ」
「死者の国、か」
あまり良い印象はないが。
「死者の国は、僕の娘が統治している。あいつなら、きっと上手く守ってくれる」
一転して笑顔になった彼は、未来への明るい展望を語る。
「こんな世界じゃなくてさ、きっとあの世界なら、あいつも楽しくやれると思うんだよ。監視している親もなく、自由に生きられる。死者の国には戦死者は行かない。病や老衰で死んだ、戦えないほど優しい奴らに囲まれて生きていける」
楽しそうに、明るい未来を信じて疑わないように。
「だからさ、優しいあいつを、この世界から解放してやるんだ。そのためには、あいつを殺さなくちゃいけない」
「大体わかった。しかし、最後にひとつ。」
「なんだい?」
「どうして私なのだ?」
「ああ、そうだ。君に依頼していた訳を、まだ話していなかったね」
「さっき言ったよね。『この世界の物全ては、あいつに傷をつけることが出来ない』って」
「たしかにそう言っていた」
「君は、例外なんだ」
「どういうことだ?」
私に、そのような力は無いはずだ。
「義姉さんから聞き出すのに苦労したよ、『誰か、誓いを立てていないものはいないか』ってさ」
彼は溜め息を吐いて虚空を見上げた。
「世界の物全てに誓いを立てさせたそのとき、君はまだ若かった。いや、若いってもんじゃない。とても小さくて、か弱い、誓いを立てることすら困難なくらい、ちっぽけな存在だったんだ」
「それはつまり」
私がその誓いを知らないのは。
「そう、この世界で君だけが、誓いを立てていない。あいつに、傷をつけることが出来るんだ」
疑問が全て解けた。
それで、私にしか出来ないというわけか。
「それをついさっき、ようやく聞き出すことが出来たんだ。それで、探し出したのが君というわけさ」
彼は、私を掴んでまっすぐにこちらを見つめた。その目には、確かに真実の光が宿って見えた。
「僕の話は全部話した。あとは、君の番だ。お願いだ。どうか、この僕に力を貸してくれ。大事な甥へのいじめをやめさせることすら出来ない、このか弱い僕に、力を貸してくれ。どうか、どうか」
彼は深々と頭を下げる。プライドの高い巨人族出身の彼が、素顔を晒してここまでするのだ。よっぽど、彼にとって大事なことなのだろう。
ここまで聞いて、私が力を貸さない、などという選択肢はない。
あの少年は、何の咎もなく暴力に晒されているのだ。正義はこの男にある。
「わかった」
顔を上げた彼の顔が、パアアと明るくなった。
「ありがとう。ありがとう! どうか九つの世界の幸せが、君に降り注ぎますように!」
足取り軽くくるくると回る。それを見て、私も嬉しくなった。是非ともこの男の力になりたい。素直にそう思えた。
「しかし、力を貸すといってもどうすれば良い? 私は自力で動くことが出来ない。誰かに寄りかかってないと、立つことすら出来ないんだ」
「それなら、僕に考えがある」
楽しいイタズラを思いついた子供のように、彼は笑った。
「どうして、坊やは側に行かないんだい? 君もみんなと遊べば良いのに」
次の日も、少年の的当て遊びは行われていた。そこに、老婆に扮した彼と、彼に連れられた私が歩み寄っていく。
彼が話しかけたのは、輪に加われず遠巻きに見ている、少年の弟だった。
「僕は、目が見えないから。みんなとは一緒に遊べないんだ」
弟君は、白杖で地面をいじりながら悲しそうにそう言った。
悲しむところが違う。そう、私の中に怒りが沸いた。弟君は、自分の兄が晒されている現状を理解していないのか。それとも、わかった上で参加できないことを悔しがっているのか。どちらにせよ、私はこの弟君が嫌いだ。
「なんだ、そんなことくらいで」
「くらいってなんだよ! 僕だって、みんなと一緒に遊びたいんだ。笑い声の中に入りたいんだ!」
弟君は、憤慨する。たしかに、盲は辛いだろう。だがそれは、目に見える辛さだ。
「ああ、すまないねぇ。私は、どうも昔から、他人の気持ちがわからなくてねぇ」
くつくつと小さな笑い声を響かせる。彼の、老婆の演技は続く。「そうだ!」と、何かに気付いたかのように両手を叩いて音を鳴らした。
「これを坊やにあげよう。投げると、当てたいところに飛んでいく槍さぁ」
そうして、私は弟君に手渡された。弟君は、感触を確かめるように私を撫で回す。
「いいの? きっと、良い物なんでしょう?」
「いいんだよ。お詫びの印さぁ。さ、それでみんなと一緒に遊んできな」
にこやかな声で老婆は、参加を促す。
弟君は、盲だからわからないのだ。老婆の声は、声はとても優しいから。
しかしその顔は、隠しきれない怒りを堪えて歪んでいるのに。
「ありがとう、おばあさん! これで僕もみんなと遊べる!」
杖で地面をひっかきながら、弟君は笑い声へと向かう。私を連れて。楽しそうに。
老婆は、それを見送った。
「ねえ、僕も混ぜてよ!」
元気に弟君は叫ぶ。今日は、いつもと違うのだ。そう言外に発していた。
「おう、今日はヘズもやんのか。いいぞいいぞ!」
すんなりと、弟君は輪の中に入っていく。得意そうに、兄の方を向いた。
「あん? 投げんのはなんだ、そりゃ? 槍か?」
「そうだよ! さっきそこにいたお婆さんから貰ったんだ!」
自慢するように、ヘズは私を掲げた。皆の視線が私に集まる。
私は昨日のうちに、槍へと加工されていた。鋭く尖ったその先は、何を貫くかもう決めている。
「よっしゃ。やってみろよ! 当てるまでやっていいぞ」
「へへ、大丈夫だよ。この槍は、当てたいところに当たるんだってさ!」
「ははは! そりゃいい。目の見えないヘズにそんなことが出来るならスゲえや」
囃し立てる、周囲の声が耳障りだ。
そっと少年を窺うと、彼は泣きそうな顔だった。弟にまで、的にされているのだ。それは惨めなものだろう。
彼の胸中を察すると、同情を禁じ得ない。私は今から、彼を助けるため、彼に突き刺さるのだ。
「行くよー!」
ヘズの手が、力強く振りかぶられる。もうすぐ、彼を殺してあげられる。
「それ!」
勢いよく私が投げられる。突き刺さるところは決めている。苦しまぬように、その心臓に。一息で、突き破る。
私の槍頭が、彼の、バルドルの胸に食い込む。肉を裂き、その中心で拍動する肉の塊に突き刺さる。
バルドルの体が倒れ伏す。私の体はその勢いで、地面に彼を縫い止めた。
心臓の、ドクンドクンというその動きが、すぐに止まった。私の体を、鮮血が濡らしてゆく。
しようと思えば、この血を吸い、彼を栄養とし、私は育つことが出来る。
しかし、そんなことなどするものか。彼は、充分に耐えてきたのだ。これ以上、食い物にされることなどあってはならない。
心臓の音が静まると同時に、周囲の声も静まった。
静まりかえったその声も、かえって私を苛つかせた。
何故笑わない。いつも、お前達がしていることではないか。刺さるか刺さらないかは問題ではない。いや、いつも投げられていたその石は、確かにバルドルに傷をつけていたのだ。ただその傷が、目に見える形になっただけだ。
笑え、笑え、そう叫ぼうとしても、槍へと加工された私はもうものが言えなかった。
シンと静まりかえったその場で、一人喜ぶものがいた。
彼は、ロキは集団の後方で、たしかにその頬を綻ばせ、計画の成就を喜んでいた。
ロキの顔を見て、私も嬉しくなる。これで、バルドルは助かるのだ。親に弟に友人に、酷い仕打ちを受けることももはやないのだ。
そうして私は神を殺し、神を救済した。
もはや我が身はただのヤドリギではない。
我が名はミストルテイン。ロキに鍛え上げられた、一振りの槍である。