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勉強

「……ここか」


 学校の最寄り駅から二十分ほど歩いたところに水谷さんの家はあった。昨日書いてもらった地図をポケットにしまう。この辺りは似たような家が並んでいる所為せいでとても分かりにくい。ここに至るまで軽く迷ってしまった。

 外観はごく一般的な一戸建て住宅といった雰囲気だ。でも私の家よりもひと回りほど大きく見える。羨ましく思いながらインターホンを鳴らした。


 しばらくそのまま待機する。右手に提げたケーキの箱が重く感じた。クリームが溶けてないかちょっとだけ心配だけど、まぁ、大丈夫かな。

 手土産は散々迷った結果、ケーキを持って行くことにした。もちろんホールケーキではなく、イチゴのショートケーキを二つ。何となく水谷さんのイメージから選んでみた。家でおやつに食べていそうだし。知らないけど。

 そんなことを考えながら待っていると、ふいに玄関のドアが開いて水谷さんが顔を覗かせた。


「おはよう水谷さん」

 もう午後なのにおはようはおかしいと挨拶してから気が付く。しかし水谷さんも戸惑った後に可笑しそうに笑うと「おはよう」と返してくれた。

「入っても大丈夫よ。家に誰もいないから」

「そうなんだ」

 土曜日だから家族はいると思っていた。数段の階段を上って玄関の前まで移動する。ドアを押さえてくれている水谷さんは当然ながら私服姿だった。

 大きめのトップスに、ボトムスは意外にもショートパンツにタイツという装いだ。足が細くてすらっと長いからとても良く似合っている。

「な、何か変かしら?」

 思わずジッと眺めていたら不安にさせてしまったようだ。昨日もこんなことを言われた気がするなと思いながら、「全然変じゃないよ」と否定する。


 玄関に入ると何か良い匂いがした。ふと横を見ると色とりどりの綺麗な花が花瓶に飾られているのを発見する。芳香剤が置いてあるだけの我が家とは大違いだ。

「おじゃましまーす」

 靴を揃えて脱ぎ、先を歩く水谷さんの後に続く。廊下に無駄なものは一切置かれておらず、水谷家の几帳面さを感じ取る。うちの母親にも見習って欲しい。そうしている間に階段を登って二階までやって来た。手前側のドアで立ち止まった水谷さんが振り返って、申し訳なさそうに断りを入れてくる。

「狭い部屋だけどごめんね?」

「全然気にしないよ」

 水谷さんがドアを開いて先に部屋に入る。私も「失礼します」と職員室に入るかのような態度で続いた。


「……おお」

 ここが水谷さんの部屋か。狭い部屋だと言ってたけど全然そんなことはない。正面に大きな窓があって、その先にはベランダが見える。右手側の奥にはベッド、手前にモダン調の机が置かれ、左手側には本棚とクローゼットが並んでいた。中央には背の低いテーブルが置かれている。

 全てのものがキチッと在るべき場所に配置されていて、そこに一寸の乱れも感じない。まさに水谷さんの性格を現しているようだった。


「いま飲み物取ってくるから、そこに座っててね」

「あ、水谷さん。これ持ってきたんだけど」

 すっかり存在を忘れていたケーキの箱を差し出す。水谷さんは受け取りながら「そんなに気を遣わないでいいのに」と少しあわあわした後。

「でもありがとう、嬉しい」

 そっと花が咲くように微笑んだ。

 その眩しさにまたクラスの男子たちの心を理解しそうになってしまう。いけない。


 テーブル横の座布団に座って水谷さんを待つ。この部屋にも玄関とは違う良い匂いが満ちていた。何の匂いだろう。良く分からないけどアロマっぽい。……変態っぽいのでこれ以上詮索するのは止めておこう。

 大人しく待っていると、お盆にティーカップとケーキを乗せた水谷さんが戻ってきた。いきなり食べるのかと驚きながらも、まぁ、それも良いかと納得する。勉強には糖分が必要ってよく聞くし。


「はい、天沢さん」

「ありがとう」

 紅茶とケーキを私の前に置いてくれる。食器も私の家にあるような安っぽいものではなく、高級感に溢れているような気がした。紅茶の良い香りに心が静まる。取り敢えず何も入れずに一口だけ飲んでみる。

「……美味しい」

 普段なら砂糖とミルクは欠かさないのだけど、この紅茶は何も入れてないのに美味しい。水谷さんは私の反応を見て安堵したように肩の力を抜くと、「お口に合って良かった」と顔をほころばせた。



 その後はしばらく黙々とケーキを食べ進める時間が続く。何かを食べている時、私たちの間に毎回会話はほぼ無いと言っても良い。でもお互いに口数が少ないことは承知の上なので、その沈黙に気まずさは存在しない。だから私は、嬉しそうに食べている水谷さんの顔を眺めていることにした。

 この二週間で分かったことがある。食事をしている時の水谷さんは、他の何をしている時よりも幸せそうだということだ。ケーキをひと口食べるたび、溶けるように緩む頬がちょっと面白い。普段から弁当の量は女子にしてはかなり多いし、きっと食べることが心から好きなんだろうなぁと思う。……でもそれでこのスタイルを維持してるってどういうことなんだろう。

 水谷さんのこんな一面をクラスの人たちは知らないのだろうと考えると、私だけが知っていることにむず痒さを感じる。


 数分後、食べ終えた水谷さんは口元をハンカチで拭って、いつも通りに「ごちそうさまでした」と短く手を合わせた後に柔らかい笑みを浮かべた。

「ごちそうさま。すごく美味しかったわ」

「喜んでもらえて良かったよ」

 これだけ喜んでもらえれば私も買ってきた甲斐があるというものだ。



 水谷さんがケーキの皿を片付けに行ったので、私も満を持して勉強道具を取り出す。

 今回の目的を忘れてはいけない。追試まで不合格になった奴という烙印は絶対に押されたくないし。

 そうしている間に水谷さんも戻ってきて、私の正面に正座し直した。遠慮がちに首を傾げて尋ねてくる。

「えっと、じゃあ……勉強始める?」

「……よろしくお願いします」

 するとさっきまでとは一変して、水谷さんの表情に真剣さが生まれる。

 それはクラスで授業中に見る表情、美術室で絵を描いている時の表情と同じものだった。その空気に当てられてか私の背筋も自然と伸びる。

 

「えっと、これがこうなって……そう」

「なるほど、じゃあ次はここに代入するってこと?」

「そうよ……あ、そうじゃなくてそれはこっちに……」

 水谷さんに教えてもらいながら試験範囲の参考書を解いていく。一人では記号の羅列にしか見えなかった設問も、みるみるうちに答えを導き出されていく。はっきり言って水谷さんの説明は先生よりも簡潔で、圧倒的に理解しやすい気がする。でも、ひとつ気になることがあった。


「……水谷さん、見づらくない? 隣に来なよ」

 反対側から私のノートと参考書を覗き込むのは相当やりづらそうだ。

「え、だ、大丈夫よ」

 しかしなぜか不意を突かれたように動揺する水谷さん。

「どうして?」

「そ、それはその……」

 モジモジしていてはっきりしない。もしかして隣に座るのが恥ずかしいとかそういうことかな。確かにテーブルの大きさを考えると距離が近くなるのは確かだと思うけど、そこまで気にすることだろうか。でもまぁ、水谷さんが嫌なら無理に強制することはできないし。

 

「……分かったわ」 

 でもややあってから、決意を固めたような面持ちでこちら側に回ってきた。私は右側に避けて水谷さんの座るスペースを空ける。ちょこんと正座した水谷さんと私との間には拳一個ほどの距離もない。

「じゃ、じゃあ次の問題ね」

 心なしかその横顔には最初ほどの締まりがなく、中庭にいる時の表情に近付いている。


 ……こうして間近で見ると、やっぱり綺麗だなぁと改めて思う。全てのパーツが整っていて、美人と年相応の可愛さが上手い具合に共存しているというか。こういう子のことを世間では美少女と呼ぶのかな。肌なんてひとつの荒れもなく、どこまでも白く滑らかそうだ。羨ましい。それに何か甘い良い香りがする。さっき食べたケーキの匂いとはまた違う、なんだろう。この部屋の匂いに近いような。


「……天沢さん? 聞いてる?」

「……あ、ごめん。ちょっと気取られてた」

 水谷さんの怪訝そうな声で正気に戻る。……私はまた何を考えていたんだか。

「えっとじゃあ……次はこれ解いてみて」

「分かった」

 指定された練習問題に取り込む。ついこの間まで意味不明だった問題なのに、設問を見ただけで解くまでの道筋が立てられることが嬉しい。これならできる気がすると解き進めていると、ふいに視線を感じたので横目に確認する。

 ……なぜか水谷さんが私を見つめていた。それも全く顔を動かすことなく、じいっと食い入るように。私も今さっき見つめていたのであまり人のことは言えないのだけど、あまりに逸らす気配が無いので流石に指摘することにした。


「そんなに見られてるとやりづらいんだけど……」

「……え? あ! ご、ごめんなさい! なんでもないの!」

 ぺこぺこ頭を下げる水谷さん。顔を真っ赤に染めてしおれるように俯いてしまった。

 私は多少の疑問を残しながらも数学に向き直る。


 

 水谷さんとの勉強は順調に続き、日が沈む頃には範囲の勉強を全て終わらせることができた。

「……うん、大丈夫そうね」

 採点の結果を見た水谷さんが確信を得たように呟き、私もほっと安堵の息を吐いた。これなら余裕で追試を突破できるくらいの自信が私の中にも生まれている。

「今日は本当にありがとう。おかげで何とかなりそうだよ」

「いえ……そんな……お役に立てて良かったわ」

 水谷さんは恥ずかしそうに優しく微笑んだ。




 その時、知らない声がドアの向こうから聞こえてきた。

鈴愛すずめちゃん? 誰か来てるの?」

 表情の硬直した水谷さんと顔を見合わせる。誰? と目線で尋ねると同時、ドアが開いたのでそっちを向く。入って来たのは三十代くらいの女性だった。多分、水谷さんのお母さん……かな。私の顔を見ると「あら、もしかして」と何かに思い至ったように声をかけてくる。


「貴女、もしかして天沢さん?」

「……はい、そうです。お邪魔してます」

 何で分かったんだろう。すると「まあまあ」と嬉しそうに目尻を緩めて両手を合わせた。

「お話はよく鈴愛ちゃんから聞いてるわ。お家に来るなら教えてくれればいいのにー」

「……えっと」

 鈴愛ちゃんというのは……水谷さんだよね。そんなに頻繁に私のことを話しているのかな。当の本人は「ち、ちがうの」と必死で何かを否定しようとしている。

「お友達ができたのよって、毎日とっても嬉しそうでね。そうそうこの間なんか……」

「や、やめて!」

 立ち上がって涙目になっている水谷さん。私は今の状況に思考が付いていかずにただ困惑するばかり。そんなに私が水谷さんの家庭で話題にされているだなんて思いもしなかった。びっくりだ。


「で、出て行って!」

「あらあら、恥ずかしがっちゃて」

 水谷さんに背中を押されて退場する水谷さんのお母さん。学校ではあんなに大人っぽい水谷さんも、母親の前だとやっぱり子供なんだなぁと思う。水谷さんのお母さんは去り際に「これからも仲良くしてあげてね」と唇に指を当てて微笑んだ。


 部屋には再び静寂が戻り、水谷さんはふらふらしながらその場に腰が抜けたように座る。

「……大丈夫?」

 そっと私が声をかけると振り返って、羞恥に染まった顔を見せた。

「ご、ごめんなさい」

「いや謝ることじゃないよ……」

 別に家で私のことを話されていても不愉快じゃない。悪口を言われているわけでもあるまいし。

 ただ、水谷さんのお母さんは随分イメージと懸け離れた人だったなぁ。水谷さんみたいに落ち着いていて大人っぽい人かと想像していたけど、実際は活発でおしゃべりな人みたいだ。

 それに若くて……どう見ても三十代前半くらいか、もっと若いくらいだけど本当はもっと上なのかな。じゃないとかなり若くして水谷さんを産んだことになるけど。

 それに母娘揃ってかなりの美人だけど、あまり似ているわけではなかった。きっと父親似なのだろうと勝手に推測しておく。



 その後は夕食時になったので帰宅することにした。階段を降りた時にまた会った水谷さんのお母さんに「夕食も食べていけばいいのに」と誘われたけど、これ以上の迷惑をかけることには気が引けたので丁重にお断りした。それに外で食べる時はあらかじめ家に連絡しておかないと母親が煩い。


「今日はありがとう。お邪魔しました」

「ううん……とても楽しかったわ」

 整然と並ぶ街灯だけが陽の落ちた道を頼りなく照らしている玄関前の道路。駅の方向に身体を向けて、水谷さんに軽く手を振る。

「じゃ、明後日また学校で」

「うん……またね?」

 


 歩き出して数秒、ふとあることを思い出して踵を返した。まだ玄関前に立っていた水谷さんが不思議そうに首を傾げる。

「どうしたの? 忘れ物?」

「あ、いやそういうわけではないんだけど」

 ポケットからストラップの付いたスマホを取り出して見せる。

「あのさ、連絡先交換しない?」

「えっ!?」

 やけに驚かれてしまう。そんなに衝撃的なことを提案したつもりは無いんだけど。

 この二週間、未だに連絡先を交換していないのは気になっていた。お互いにスマホを持っているのにも関わらず言い出さなかったのだ。今まで困らなかったということもあるけど、知っていると便利なこともあるだろうし。今日だってもし家が見つけられなかったら路頭に迷っていたかもしれない。

「いい?」

「も、もちろんよ」

 慌ただしくスマホを取り出す水谷さん。ピンク色のカバーを着た最新型のスマホだった。私が持っているのと同じものだ。このスマホは赤外線通信ができないので、メールアドレスを表示して手で打ち込むことになる。


「……これでよし、と」

 数分の時間を要して登録することができた。水谷さんはスマホを両手で握りしめて画面を凝視している。その唇が小刻みに震えていた。

「じゃあ、今度こそ帰るね」

「う、うん!」

 スマホを大事そうに胸元に抱えて、嬉しさが堪え切れないといった様子で水谷さんは微笑む。そんな連絡先を交換したくらいで大袈裟なと思いながら「じゃ」と短く言って歩き出す。


「あの! メール、送るから!」

 角のところまで来た時、そんな声が背中にかけられたので振り返ると、街灯の明かりに立った水谷さんが真剣な面持ちで私を見据えていた。

「……うん、待ってる」

 私も軽く笑って返し、今度こそ帰路に就いた。



 歩きながらスマホを再び取り出してみる。

 考えてみると誰かと連絡先を交換したのっていつ振りだっけ。家族を除くと中学生の頃になってしまうかもしれない。普通なら高校に入学した時に同級生や部活の仲間と交換するのだろうけど、私の場合はそれもなかったし。

「……ん」

 嬉しいのかな。うん……嬉しい。

 これで少しは普通の女子高生に近付いただろうか。


 薄暗い道は駅前の明るい空間に続いている。

 変わり始めた日常の先には何が続いているのだろう、と何となく思った。

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