中庭
「天沢さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、僅かに緊張の混じる笑顔を浮かべた水谷さんが私を見下ろしていた。今日は背中ほどまで伸びた黒髪を下ろしていて、その左手には見慣れた花柄の折りたたみ傘が握られている。
「これ、ありがとう。本当に助かったわ」
「ん、どういたしまして」
受け取った時に指先が一瞬触れて、その冷たさに少しだけ驚く。まるで氷のような冷たさだ。体温が低いのだろうか。
水谷さんは戸惑うように目線を揺らして、頬を少し赤らめる。そして私を再び見据えると「じゃあ、後でね」と手を振って自分の席へと向かって行った。
取り残されたようにその背中を見つめながら、昨日のは夢じゃなかったんだなぁと改めて実感。水谷さんは教壇の前に位置する席に着いて、ちらりと私に振り返った。目が合うと、慌てた様子で背筋をピンと正して黒板に向き直る。
どうしたんだろう、水谷さん。何だかさっきから妙に落ち着きがない。
暫く考えてから、あぁ、と察する。
水谷さんは普段、近寄り難い空気を放ちながら誰とも話さずに座っている。そんな彼女が教室に入ってすぐに私に話しかけ、その上『後でね』とまで言ったのだ。人との関わりが怖い水谷さんにとって、それは私が思う以上に大きな一歩なのだろう。
何だか申し訳なくなってくる。私にそこまでしてもらう価値があるのだろうか。
水谷さんの「秘密」を知ってから一夜明けて、まだ人も疎らな朝の教室。私はいつも通りに窓際の席に座り、ただ何をするのでもなく始業時間を待っていた。
「……うーん」
教室の窓に映る退屈そうな自分の姿を眺めながらあれこれと考える。
肩のあたりまで伸びた、茶色の髪。というと染めていると疑われてしまうがこれはれっきとした地毛だ。それと物珍しいのかやけに人の目を引く、琥珀色の瞳。光の当たり具合によっては黄色や金色にも見える。
私は全体的に色素が薄いと評価されることが多い。母親も同じなので、きっとそういう遺伝子なのだろう。顔は……まぁ、普通ということにしておく。少しつり目の所為か、そんなつもりないのに睨まれたと勘違いされることはある。
そんな私が水谷さんと並んでいるところを想像してみる。
……びっくりするくらいに釣り合わなかった。主に水谷さんが他の人たちから心配されそうだ。
昨日、水谷さんが言った言葉。『明日も話していい?』というのはつまり、今日も私と話したいということだろう。いや、それ以外に何があるんだって感じだけど。
問題なのは、教室でも普通に話すような関係になりたいという意味でそれを言ったのなら、それはつまり友達になりたいということ。
流石に深読みしすぎだろうか。
「……あー」
こういう時、自分の社交性の無さが嫌になる。
人間関係というものは難しい。
そうしている間に教室には人が増え、騒がしさが増していく。
とりあえず、『後でね』という言葉を信じて待ってみることに決めた。時間だけならいくらでもある。
「…………」
それで待っていたのだけど、水谷さんが声をかけてくることは、一限目が過ぎても二限目が過ぎても無かった。
時折こちらに振り向いてはすぐに前を向いているところを見ると、忘れられているというわけではないらしい。
水谷さんの気持ちを察すると、まぁ仕方ないかなぁとも思う。そんなに緊張しなくてもいいような気もするけど。
こちらから声をかけることも何となく憚られ、落ち着かない時間を過ごしている間に、チャイムは四時限目の終了を告げた。
大きく伸びをして、脱力。
さてどうしようか。
普段なら教室を出ていつもの場所へ向かうのだけど、今日はどうにも水谷さんが気にかかる。そういえば水谷さんは普段どこで昼食を食べているのだろう。誰かと一緒––––は、ないと思う。多分。
周りの人たちはグループで机を寄せ合ったり、教室を出ていったりしている。そんな中で席に座ったまま動かない私と水谷さん。
このまま座っていても仕方ないかと腰を上げた時、同時に水谷さんも立ち上がって鞄を掴み、クルリとこちらに向いた。
その表情は妙に固い。私が水谷さんを見据えたまま中途半端な体勢で鞄を取ろうとしていると、意を決したように近付いて来た。そして口を開き、
「天沢さん!!」
その声に教室中の注目が集中する。
ぽかん、とするクラスメイト達。私もまさか大声で呼ばれるは思わなかったのでぽかん。
一瞬にして重い沈黙が落ちた。
あ、と硬直する水谷さん。その顔からみるみる血の気が引いていって––––。
これは、マズい。
「あー、じゃあ行こっか」
咄嗟の判断で適当なことを言いながら水谷さんの細い手首を掴み、引っ張るように廊下へと向かう。何の抵抗もなくなすがまま、という様子で水谷さんは歩いた。
歩きながら、どうしようかなぁと頭を捻る。目立つことには慣れてないのだ。
何も考えずに教室を出てきてしまったが、行く場所といえば私は一箇所しか知らない。下手に食堂なんて行くと、さっき以上に注目されてしまいそうだ。
青い顔の水谷さんを連れて来たのは、私が決まって昼休みを過ごしている中庭。
以前は生物の授業で使われていたというこの中庭は、今や大量の雑草と落ち葉に地面を覆われ、わざわざ訪れる人もほとんどいない状態となっていた。一部の人を除いては。
緑の葉をたっぷり茂らせた木々が、いい具合の影をベンチの上に落としている。吹き抜ける涼しい風が、梅雨特有のジメジメした空気を散らす。
水谷さんはそこでようやく意識を取り戻したように、ハッとして周囲を見渡した。その後戸惑いの表情を浮かべながら私を見下ろすと、『ここどこ?』と目で尋ねてきたので答える。
「中庭。来たことない?」
「え、ええ」
まぁ、普通は無いよなぁ。校舎の裏に位置していることもあってか、一年生にはここの存在を知らない人も多いだろう。
因みにここに訪れる一部の人というのは、私のようなぼっちのことだ。ここで昼食を食べていると、時々先輩らしき人を見かけることがある。遠くのベンチに座っているので言葉を交わしたことはないが、あれはきっと私と同類だろう。じゃなきゃ、わざわざ昼休みにこんな場所へ一人で来ることなど無い。
「とりあえず、座ろっか」
近くのベンチを指差して提案してみる。すると水谷さんはまだ困惑した様子ながら、こくりと頷いた。
「あの、さっきはごめんなさい。私、なんだか緊張しちゃって……」
二人で少し距離を置いてベンチに座り、私が鞄から昼食を取り出そうとしていると水谷さんは突然頭を下げた。手を止めて、どうしようかなと頬を掻く。
「いや、私は大丈夫だから。それに元々ここに来るつもりだったし」
「でも……」
膝の上に視線を落としてギュッと拳を握る水谷さん。私は本当に何の問題もないのだけど、水谷さんは私まで注目を浴びてしまったことが申し訳ないみたいだ。
私はできる限りの柔らかな声を出す。
「ほんとに、大丈夫だから。早く食べないと時間なくなるよ?」
「……そうね」
すると水谷さんはようやく口元に微笑みを浮かべて、横に置いた鞄から小包を取り出した。私もふぅ、と息を吐いてコンビニの袋を取り出す。今日の昼食は学校に来る途中に買った菓子パンだ。
ちらり、と水谷さんの小包に視線を向けてみる。バンダナを解いて出てきたのは、私が使っているものよりも一回り大きい弁当箱だった。
……少し意外だ。勝手なイメージだけど、小食な気がしていた。
「そ、そんなにジッと見られると……」
視線を感じたのか、水谷さんはそう言って腕で開きかけの弁当箱を隠した。その顔が恥ずかしそうに赤みを増す。前から思っていたのだけど、意外と赤くなりやすいタイプのようだ。肌が白いから一層目立つのかもしれない。
ごめんごめんと謝りながら、まずはクリームパンを袋から出す。水谷さんもこちらを気にしながら蓋を開く。
それでも気になって一瞬だけ弁当の中身を確認してみる。
色とりどりの野菜やおかずに彩られた、まさに理想的な弁当といった感じだ。うちの母親が時々作る何の華もない弁当とは大違いだ。ハンバークなんて絶対に入れてくれないし。
虚しさを感じながらクリームパンを齧る。
教室の喧騒とはかけ離れた静けさ。時々、草木が風に吹かれて騒めくだけだ。やっぱりこの場所が一番だな、とパンを咀嚼しながら頷く。
さて、成り行きで水谷さんと昼食を共にすることになったわけだけど、会話の糸口が見つからない。水谷さんは黙々と弁当を口に運んでいる。
別に無理して喋ることもないか。半ば諦めてクリームパンを千切る。
「……あの」
そんな風に思っていたら、ふいに水谷さんが沈黙を破った。ん? と顔を向けると水谷さんはしきりに目線を宙に泳がせている。
「天沢さんはその、趣味とかあるの?」
「…………」
一瞬、お見合いという単語が頭に浮かぶ。
いや、これは必死に話題を探してくれた結果だろう。空を仰ぎながら返答を考える。
「……絵、かな」
考えてみればそれ以外に趣味と呼べるものが見つからない。家にいる時にしていることといえば、大抵ぼうっとテレビを見ているか、気が向いた時にスケッチブックを開くことくらいだ。
「水谷さんは?」
興味があるので尋ねてみた。水谷さんは箸を置いて、少し俯きがちに答える。
「私は絵と……ピアノ、かしら」
割とイメージ通りな答えが返ってきた。ピアノまでできるなんて、本当に完璧だなぁと感心してしまう。芸術全般の才能に恵まれているのかもしれない。
ピアノを弾いている水谷さんか。想像するだけでも絵になっている。
そして再び会話が途切れる。お互いにあまり喋らないタイプだから、こうなるのは仕方のないことかもしれない。
クリームパンを食べ終え、メロンパンを取り出す。水谷さんは既に半分以上を食べ終えていた。弁当をベンチに置いて、鞄から水筒を取り出そうとしている。
そういえば今は何時だろうか、と腕時計を確認しようと視線を落とした時、視界の端に何か動くものを見つけた。
「あ」
カナヘビだ。
水谷さん側のベンチの足付近をちょろちょろと歩き回っている。水谷さんはまだ気がついていないみたいだ。涼しい顔で水筒の蓋を開けようとしている。
そうしている間に座面まで上がって来たので、ちょんちょんと水谷さんの肩を突く。
「どうしたの?」
「いや、あれ」
すぐ隣まで迫っていたカナヘビを指さすと、水谷さんの視線がその先を追う。
「きゃ!!」
その瞬間、弾かれたように水筒を地面に落として私に抱きついてきた。
軽く息が詰まって咳込みそうになる。背中に回された水谷さんの両腕。おまけに柔らかい感触が思いっきり押し付けられている。
ふわっと花のようないい匂いまでする。高いシャンプーを使っていそうだ。
カナヘビは突然動いた水谷さんに驚いたのか、慌てたようにベンチから下りて草むらへと消えていった。
「あのー、水谷さん?」
カナヘビが去ってもなお私のお腹に顔を埋めるようにして、ぷるぷる震える水谷さん。
やっぱりカナヘビも怖いのか。もっと早く教えてあげるべきだったかもしれない。
ぽんぽんと背中を叩いてあやすような仕草をしてみる。するとようやく落ち着いたのか、ゆっくりと腕を解いて私から離れた。
「ご、ごめんなさい」
真っ赤な顔で謝られてしまう。
「いや、うん。全然大丈夫」
まさか抱きつかれるとは思ってなかったけど。
誰かに抱きつかれるなんて何年ぶりだろうか。むしろ今までにあっただろうか。
どうやったらあんなに柔らかくなるのだろう。やっぱりご飯をいっぱい食べるのが良いのか、とベンチの上の弁当を見据えながら首を傾げる。今夜はちゃんとご飯を食べてみようか。
水谷さんの感触がまだ残っている気がした。言いようのない落ち着かなさを感じながらも食事を再開する。水谷さんも転がっていた水筒を拾い上げて箸を持つ。
特に会話もないまま時間だけが過ぎていく。
でも何故だか、いつも食べてるメロンパンがいつもよりも美味しい気がした。
基本的に二話一組で続いていきます。