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彼女

「あ……」

「……えっと」

 誰も居ないはずの美術室の扉を開けたら、筆を持ったその人と目が合ってしまった。

 扉に手をかけたまま、中に入る事が出来ずに入口で立ち止まる。お互いに目が合っているのに視線を外す事が出来ない。長い睫毛を携えた真っ直ぐな瞳が、私をしっかりと捉えていた。



 今日の部活動は、顧問の先生が出張の為に休みの筈だった。けれども私はまだ部員で唯一コンクールに出品する作品を完成させていないという事で取り組むように言われていたのだ。だから美術室には部員は誰もおらず、今日は一人で無駄に凝ってしまって時間の掛かっている絵と向き合う予定だった。

 だから美術室にまさかこの人、水谷さんが居るとは全く思わなかった。



「…………」

 気まずい。職員室に美術室の鍵が無かった時点で何か変だなとは思っていたのだ。顧問の言葉を無視して帰ろうかなという発想まで浮かぶ。

 勿論水谷さんの事が嫌いとかそういう事では無い。ただ、この数ヶ月間同じ部活にいるけど必要最小限の事しか話した事は無いし、談笑するだなんて以ての外だ。元より私はそれほど口数が多いタイプじゃないし、水谷さんは更に口数の少ないタイプのようだ。よって私達の間には会話が続かず気まずい空気ばかりが流れるわけで。



 心の中で溜息をつき、美術室に入って後ろ手に扉を閉める。そうは言ってもさすがに今日も絵を完成させられないとなると顧問にまたぐちぐちと言われてしまう。それにここで帰ってしまうと明日教室で会った時に更に気まずい事になってしまいそうだった。



「……あの」

 作業台の一つに鞄を置き、ブレザーを脱いで準備していると水谷さんが怪訝そうに声を掛けてくる。

「……今日、部活は休みよね?」

「私、まだコンクールの絵終わってないから」

 ブレザーを椅子に掛けながら、つい簡潔で眈々とした返し方になってしまった。水谷さんは「……そうなの」と興味なさげに視線を再び絵に戻す。私としてはコンクールの作品も終わっている水谷さんがここに居ることが不思議なのだけど、あえて訊き返さないでおく。



 イーゼルを立て、美術室の後方に乾かしてある描きかけの作品を準備する。

 蛇口で水を準備している間にチラリと水谷さんに振り返ってみる。彼女は私の荷物が置いてある作業台に同じく荷物を置き、四角い木造の椅子に座ってじっとカンバスに向き合っていた。その絵を確認して、相変わらずの上手さに自信を消失しそうになる。

 いや、流石に上手過ぎるでしょう。私は中学生の頃から始めたばかりだけど、まぁ最低限人前に出せる程度には描ける自信はある。勿論他の部員には私よりも上手い人なんていくらでもいるけど、水谷さんは何というかその中でも住む世界が違うというか。

 天才とはやはりこういう人の事を言うのだろう。私のような凡人では絶対に辿り着けない、そういう境地に彼女はいる。その才能に嫉妬することすら無く、ただ別世界の住人を見ている。そんな感覚だった。

 別世界の住人なのはその才能だけではない。その見栄えの良さも私には到底手の届かないものだった。スラリと伸びた手足に、出る所はしっかりと出たスタイル。そして何よりもその大人びた整いすぎている顔立ち。

 さらりとしたいつもは下ろしている黒髪が、今は絵を描くために後ろで一つに縛られている。

 なんというか、ズルい。私より身長は高いし顔はいいし横に立つだけで比べられてしまう気がする。

 余談だが水谷さんは前回のテストの成績が学年一位だ。その点でも万年中の中の私とは住む世界が違う。神は人に三物をも与えるようだ。うむむ。

 結局、私は何であっても水谷さんに勝てそうにはないのであった。



 なんか色々落ち込みながらも絵の具を準備し、「よし」と気合を入れてから筆を持つ。絵の中では巨大な交差点で何台もの車が接触事故を起こしていた。顧問の先生がこれを見たところ『あなた……最近疲れてるの?』と心配そうに言われたが、適当に誤魔化して描き始めた。ただ今は少し後悔している。無駄に車を描き込み過ぎて時間が掛かって仕方が無い。結果的にこうして放課後に残されているのだから先生の言う事を聞いておくべきだったかなと思う。



 沈黙の中に筆の音と時折水の跳ねる音だけが聞こえる。

 先程の二人だけだと気まずいかなという心配は杞憂に終わったようだ。考えてもみるとお互いに絵に向き合っていればわざわざ話す必要などないわけで、私も適当にトラックを塗っている間には水谷さんの事はもう少し忘れていた。

 私と水谷さんは背中合わせになるようにイーゼルを立て、黙々と作業に取り組んでいる。

 外が薄暗くなってきたのを感じ、視線を右側の窓に移して外を確認してみる。反対側の校舎との間にある狭い空が鼠色の雲に覆われていた。そういえば今日も天気予報は夕方からの雨を告げていた。季節は梅雨に入り、雨が多いのは仕方ない事なのだけど、こうも続くとさすがに嫌気が差してくる。

 鞄の中には折り畳み傘が常備してあるけど、あんまり強いと濡れてしまうから嫌だなあ。そういえば雷もあるかもとも予報していたし、大きな傘を持って来れば良かったと少し後悔。



 無駄に多い車にイラつきながら三十分程経った時、窓ガラスに水滴の当たる音がして来たので確認してみると案の定雨が降り始めていた。同時に水谷さんも窓に目を向けて、しまったというように少しだけ目を見開いていた。反応を見るに雨が降る事を知らなかったのだろうか。



「……どうしよう」

 ようやく聞こえる位の小さな声で水谷さんが呟く。思わず口を突いただけだろうけど、いつも落ち着いている水谷さんにしては不安そうな声だったので少し気になってしまう。



「……もしかして、傘ないの?」

 私が話しかけてみると、水谷さんは弾かれたように私を見た。ここまで驚かれてしまうと謎の罪悪感まで湧いてくる。まぁ、私はいつも愛想が無いし仕方が無いか。

「え、ええ。実は……」

 俯きがちに水谷さんが答える。やはり思った通りだった。

 ところで何も考えずに話し掛けてしまったけど、この後は何を話せばいいんだろう。大変だねーって言って自分の作業に戻ったら私がただの嫌な奴になってしまう。私はちゃっかり傘持ってるし。

 やはり口数が少ない者同士が話すとこうなってしまう。あれこれ思考を巡らせているうちに返事を待っている水谷さんが心配そうに私を見つめてくる。このまま放置していると謝られそうだったのでとりあえず提案してみる。

「傘、貸そうか?」



 別に水谷さんとは仲が良いわけじゃないけれど、クラスは一緒だし、なんだかんだ言って同じ部員なので貸してもいいかなぁと思った。それに私はただ五分程駅まで走ればいいけど、水谷さんは確か歩きで通っている筈だ。ずっと傘が無いのも辛いだろう。まぁ私も濡れるのは嫌だけど。

「……そんなの悪いわ」

 けれども困ったような笑顔でやんわり断られてしまった。まぁ、確かにいきなり貸すよなんて言われても気を遣うだけか。



「それに、そのうちきっと止むだろうし」

「……そうだね」

 本当は夜まで降り続く予定なのだけど、気を遣ってくれてるんだなあと思うと言う事が出来なかった。最悪帰るまでに止まなかったら実は傘二本あるからとか誤魔化して渡して帰ろうかなとか思う。

 自分でもサービス精神に溢れてすぎていると思う。でも私は自覚している位に愛想が無いが、ちゃんと人なりの心は持っているつもりだ。困っている人を前に見過ごすのはなんというか、嫌な感じがする。これは昔からの癖のようなもので損な性格だなぁと思っているが、わざわざ直すものでもないのでそのままにしている。

 会話が終わったのでお互いに絵に向き直り、作業を再開する。再び沈黙が美術室に落ちた。



 刹那、閃光が視界を満たした。

 同時に地面を震わせるような凄まじい轟音が響き渡る。

「おっと」

「ひゃあああ!!」

 雷だ。それもかなり近くに落ちたらしい。

 更に追い打ちをかけるかのように、美術室がパチリという音と共に一瞬にして闇に包まれた。

 停電か。窓の外では先程よりも何段階も強い雨が窓に強く打ち付けていた。



「はぁ……勘弁してよ」

 いくらなんでもこんなに強くなるなんて聞いていない。天気予報士に文句を呟きながら筆とパレットを作業台に置いて立ち上がる。こんな暗闇じゃとても絵は続けられそうになかった。振り返り、水谷さんの姿を探す。

 だが水谷さんの姿はイーゼルの前には無かった。「あれ?」と暗闇の中を目を凝らして探してみると、作業台の下に何やら動く影がある。

「まさかね……」

 あの完璧超人な水谷さんに限ってそんな事ある筈ないと思いつつも、確かめる為に近寄ってみる。

 確かに、作業台の下でまさに頭隠して尻隠さずの状態で水谷さんが震えていた。



「えっと……大丈夫?」

 内心驚きつつもさすがに無視は出来ないのでとりあえず声をかけてみる。すると水谷さんはびくりと一回身体を震わせ、その後恐る恐ると作業台の下から顔を見せた。普段の落ち着いた大人っぽい表情は、子供のように怯えた表情に塗り替えられている。

「え、ええ問題ないわ……」

 言いかけた時、またカメラのフラッシュのような閃光が瞬き、遅れて窓を震わす爆音が響いた。また水谷さんは「ひいいいい!」と叫んで作業台の下に隠れてしまう。

 ひいいいって。本当にこんな悲鳴を上げる人がいるのか。そんなどうでもいいことを考えながら、ポリポリと頬を掻いてどうしようかと思索する。

 どうやら水谷さんは雷が怖いようだ。まぁ確かに今日のは近いし音も大きいからびっくりするけど……完璧超人な水谷さんの意外な一面を知ってしまった。ちなみに私はというと雷は愚か他の色んなものにも恐怖を感じるという事がない。そんなところで張り合っても虚しくなるだけだが。

 ぷるぷると作業台の下に頭を隠して丸まりながら震える水谷さん。なんだか動物みたいで可愛い。クラスの人達はとてもこんな水谷さんの姿なんて想像しないだろう。

「えーっと……どうしよ」

 雷を怖がる人にはどう接するのが正解なのだろうか。こんな経験ないのでどうにも判断できない。うーんうーんと唸りながら考えて、震える水谷さんを見下ろす。また光が一瞬闇を照らして、直後に響いた轟音に更に小さく丸まってしまった。



 沈黙が続く。いやどうしろと。繰り返すようだが私と水谷さんはそれほど仲が良いわけではない。仲の良い友人同士だったら側に寄って励ましたりするのだろうが、私達はそういう間柄ではない。怖がっている人を前に何も出来ないのは嫌だけど、出来る事が無いのだ。



「……大丈夫?」

 二回目だが、確認してみる。先程と同じように水谷さんは恐る恐る作業台から身体を引いて顔を見せる。……うお、泣いてる。潤んでいる瞳。怯えた表情。いつもの大人っぽさの面影はそこには無い。そんなに苦手なのか。

「大丈夫……大丈夫だから……」

 ごしごしと袖で涙を拭いながら、水谷さんが答える。いやどう見ても大丈夫じゃないでしょう。そう思いながらも「ならいいけど……」と答えておく。涙を拭い終わった水谷さんが顔を上げて、同時にその表情がまたひっと強張った。

「な、なんでく、暗い……の」

「え? なんでって停電だけど……」

 今まで目を閉じていたから気がつかなかったのだろう。蛍光灯が切れれば外の暗さもあって美術室はかなり暗くなる。それがどうしたのだろうか。

 暗闇の中でも水谷さんの顔からさーっと血の気が引くのが分かる。ある種の予感が私の中を駆け抜けた。

 まさか、暗闇も怖いとか言い出さないよな。



「あぁ……あぁ……」

 ブラウスの胸元を掴んで正座したまま水谷さんの目が虚ろになってくる。これ本当にやばいんじゃないか。流石に見逃しておけない。



「大丈夫? 保健室行く?」

 歩み寄って隣にしゃがみ、声をかける。水谷さんは生気の無い目で私を見つめ、ふるふると黙って首を振った。手に更に力が込められ、なんというか、その、色々と強調される。

 それは置いておくとして、なんとか対処法を考える。

 そういえば学校には緊急時の為に懐中電灯がどの教室にも常備されているはずだ。立ち上がって暗闇の中を探してみると、美術室前方、黒板前の作業台の上にそれが立てられていた。素早くそれを取りに行き、水谷さんの隣にしゃがんで点灯させる。 

 家にあるのよりも大きいその懐中電灯は力強い輝きを放った。



「明るい……」

 焚き火を得た遭難者のように水谷さんの瞳に生気が宿ってきた。これでなんとか大丈夫そうだ。雷の他にも暗所恐怖症とは、なかなかに大変そうである。

 水谷さんは私が懐中電灯を持っている事に気がつくと申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめんなさい……こんなみっともない所を見せてしまって」

「……まったく問題ないよ」

 びっくりはしてるけど。



 あの容姿端麗成績優秀、絵の天才でもあり孤高の存在とも呼べる水谷さんにこんな弱点があったとは驚きだ。なんというか、この姿を見ていると普段の大人っぽさが嘘のように思えてくる。



 雷はとりあえず過ぎ去ったようで、遠くで少しゴロゴロ鳴っている程度になっていた。水谷さんも落ち着いてきたのかようやくふらふらしながらも立ち上がる事ができた。私も懐中電灯を持って立ち上がる。水谷さんは椅子に腰掛けて、頭を垂れた。

「……驚いてる?」

 突然、そんな事を訊かれた。自分でもこんなに怖がりなのが意外に捉えられてしまう事に気がついているのだろう。

「……うん」

 いくらなんでも雷で泣き、暗闇に怯え動けなくなるなんて幼い子供のようだ。大人びた水谷さんにはとても似合わない。正直に答えると、「そうよね……」と更に落ち込んでしまった。しまったと思い、言葉を繋ぐ。

「でもなんか、ギャップ? って感じで良いと思う」

 自分でも言ってて意味が分からないが、水谷さんは顔を上げて私をじっと見つめる。

「ギャップ?」

「う、うん」

 水谷さんが困惑した表情で口元に手を当てる。やがて手を離し、悲しげな表情を見せた。

「やっぱり……」

 思わず漏れた呟きなのか、雨音に消されてしまいそうな程とても小さな声だった。やっぱりとはどういう事だろうか。私が考えていると、水谷さんは私が理解していない事に気がついたのか躊躇いがちに口を開いた。

「あの……私、昔からいつも落ち着きがあるって言われるんだけど……違うのよ」

 え、違うの。思わず心の中で呟く。

「……落ち着きがあるんじゃなくて、怖くて何も出来ないだけなの。人と話すのも、目立つのも、雷や暗闇だけじゃなくて」

 水谷さんがそこで口をつぐむ。いったいどういう事だろうか。頭の中に疑問符を浮かべていると、水谷さんはもう一度私をじっと見つめ直し、決心したようにゆっくりと口を開いた。

「私、極度の怖がりなの」

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