プロローグ
ハクチ? ハクチとはなんじゃ?
わしには名がある。親からもらった名が。
なぜ笑う? 笑えばゆるされると、そう思うておるのか?
『常世物語』パッケージ版惹句
【問題】
あるダンジョンの奥に、三つの扉があらわれた。ひとつは下の階層へ、ひとつは上の階層へ、ひとつはワープホールへ続いている。冒険者Aは、下の階層に降りたかったのだが、正解がわからないので、とりあえず左の扉を開けようとした。すると、いっしょにいた冒険者Bは、「俺は一回ギルドに帰るよ。右がワープホールなのは、知ってるんだ」と言って、右の扉を開け、奥へ消えた。Aはどうするのがよいか。
とある世界線に、エルフたちの住む世界があった。名をヒストリアと言った。その世界に住むエルフたちは、さまざまな物語を監督する使命を背負っていた。物語が脱線したとき、それをもとの軌道にもどしたり、登場人物がおかしくなったとき、彼らを治療してやったり──その手法が治療と呼べるかどうかについては、疑義があるけれども──そのような仕事を、彼らは引き受けていた。
だれから? それはだれも知らない。エルフの女王だけが、それを知っているといううわさがあった。けれども、現場で働く者たちは、じぶんたちがなんのためにそんなことをしているのか、だれも知らなかった。
そして、警史庁第八課、通称ホラー課に務めるサダコにも、それはわからなかった。
「サダコ捜査官」
膨大な書類の山から、瓶底メガネのエルフが顔をあげた。
人間の世界でいうところの、東アジア系の外見をしていた。
背は小柄で、長く黒い髪はろくな手入れをされていないのか、ぼさぼさだった。
ただ耳のとがり具合から、彼女は人間──という言い方は、太陽系第三惑星の知的生命体が勝手に自称しているだけだが──とは異なることを示していた。
衣装は白い開襟シャツに、黒いズボンだった。アクセサリーはいっさいしておらず、右手はインクでところどころ黒ずんでいた。
「はい、課長、なんでしょうか?」
課長と呼ばれた人物、顔の右半分を前髪で隠した女エルフは、もういちど彼女の名前を呼んだ。これはデスクのまえまで来い、という意味だった。
サダコは椅子からちょこんととびおりて、同僚のあいだを縫った。
そして、課長のまえで姿勢をただした。一応、という感じで。
「ホウセン課長、なんでしょうか?」
ホウセンは、その美しくもあやしげなひとみで、サダコを見つめかえした。
「たった今、本部より緊急指令が出ました。この小説の世界へ行ってください」
ホウセンはそう言って、一枚の書類をわたした。
印刷されたばかりらしく、まだ温かかった。
「『常世物語』……ん? 発売日が二〇一三年三月八日ですか?」
「はい、そうです」
「地球時間で二〇一三年三月八日といえば、今日だと思うのですが……」
「そうです」
課長の返答は、それだけだった。
サダコは頭をかいた。
「つまり、発売直後にバグった、と?」
「本部の解析によれば、物語全体が異常な波長を帯びている、とのことです」
「登場人物で、消えた者は?」
「まだわかっていません。とにかく急な事件なのです」
サダコはメガネをなおし、それからまた頭をかいた。
そして、じぶんのデスクへ目をやった。
書きかけの書類のうえに、ほかのエルフがまた書類を重ねて去った。
サダコは嘆息しつつ、報告書をもういちど確認した。
「ジャンルはホラーノベル……私が担当しないといけない感じですかね?」
ホウセンはうっすらと笑った。
首をやや右にかたむけたので、前髪がずれた。
真っ赤にやけただれた右半分の顔が、ちらりとのぞいた。
「期待していますよ」
「……善処します」
きびすを返しかけたサダコの背中に、ホウセンは、
「恋愛要素もあるので、恋愛課からもひと出すそうです。現地で合流してください」
と付け足した。
「どなたですか?」
「まだ聞いていません」
サダコは形式的に敬礼して、デスクへもどった。
椅子にかけてあった黒のコートをまとった。
金ボタンが三つついていたが、ひとつもとめずに、その場を去ろうとした。
すると、となりのデスクの男エルフが、
「事件ですか?」
とたずねてきた。
「ええ、まあ……あ、そうだ」
サダコは、テーブルのうえの紙切れを手にして、同僚にみせた。
同僚は目をほそめて、内容に目をとおした。
「……なにかのテストですか?」
「ええ、私が入庁したときの過去問です。答えは、なんだと思いますか?」
男エルフは笑って、
「真ん中のとびらを選びなおす、です」
と答えた。
「ほほお、理由は?」
「条件つき確率です。真ん中のとびらが正解である確率が、一番高いですから」
サダコは感心したようにうなずいて、紙を折りたたんだ。ポケットに入れて、事務所を出る──ひとりの女エルフが、ろうかに立っていた。サダコよりもとがった耳を持つ、すらりとした背の高いエルフだった。長いブロンドの髪を腰まで垂らして、両手を腰のまえで合わせていた。おどおどとした表情で、その青い瞳をきょろきょろさせていた。色白で、どこかしら頼りないオーラを出していた。おっとりしているというよりも、そそっかしい印象を与えた。そしてその印象が、彼女のもつ美しさを上書きしてしまっていた。つまるところ、サダコが彼女に対していだいた第一印象は、できが悪そうだ、というものだった。
ブロンドの女エルフは、サダコを見たとたん、
「あ、サダコさんですか?」
とたずねてきた。
「そうですが……どなたですか?」
サダコは、あいての襟章に目をとめた。
それはエルフの言葉で【九】を意味した。
それは所属する課の番号で、ブロンドの女エルフは、第九課であることを示した。
第九課は恋愛ものをあつかう部署であり、通称、恋愛課と呼ばれていた。
「もしかして、第九課の助っ人ですか?」
「はい、トト・イブミナーブルです……お話は、もう聞いてますか?」
「ええ、ええ、うかがってますよ。今回のパートナーはあなた、ということですね、ここに立っていらっしゃったのを見ると」
サダコはメガネをなおして、握手を求めた。
トトもほっそりとした手を出し、それに応じた。
なんともぎこちないハンドシェイキングがおこなわれた。
サダコは、
「最近、難事件をふたつも解決されたかたでしょう。報告書を読みました」
とほめた。
トトは照れくさそうに笑った。
「アハハ、あれはたまたまです。運がよかったです」
「運はなによりもだいじです。でないと生き残れませんから……人間のアドバイザーは、もう決めてありますか?」
エルフたちがいくら博識とはいえ、彼らの調査対象は、人間が作り出した物語だった。だから、人間の助手をつけることが、一般的におこなわれていた。もちろん、調査には危険がともなう。無報酬でそんなことをしたがる人間など、ほとんど見つからなかった。そこでエルフたちは、不慮の事故で死んだ人間の魂に目をつけた。生き返らせてあげるかわりに、調査を手伝え、と誘った。
トトは、
「はい、いつものひとにします。キリヤさんという高校生です」
と答えた。
「では、転送課へ行きましょう」
サダコはそう言って、ろうかを右手のほうへ折れようとした。
ふと立ちどまり、ポケットから紙切れを取り出した。トトにそれをみせた。
トトは文章を読みあげて、
「クイズですか?」
とたずねた。
「トトさんなら、どう答えますか?」
トトは腕組みをして、うーんと悩んだ。
「……Bさんといっしょにギルドへ帰ります。一人旅は危ないですからね」
サダコはそれを聞いて、メガネの奥を光らせた。
(なるほど、そういうタイプですか……先入観がなく、警戒心もない。さすがはイブミナーブル族、と言ったところです)
エルフの世界には、さまざまな種族が住んでいた。
そのなかでも、イブミナーブル族は希少種だった。
希少種というのは、単にその種族の人口が少ないという意味でしかない。
地球の人類と同様に、すくないから貴重だとか、そういうあつかいはなかった。
ある種族が希少になる理由も、さまざまだった。エステル族は、生殖のサイクルが長いからだったし、クゥエリ族は、特定の疫病に弱く、多大な死者を出した時期があったからだった。しかし、イブミナーブル族は、そのような自然な理由からではなかった。彼らはお人好し過ぎる──それが、他の種族からの暗黙の評価だった。歴史のなかのいろいろな節目に騙されて、森の奥へ奥へと追いやられ、種族として増えることがとてもむずかしくなってしまったのだ。
サダコはそのことを思い出しながら、このエルフが死ななければよいな、と、そんなことを思った。