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第14話 愛はわが魂に再び

 トトは中庭で、霧矢を待っていた。三毛猫とたわむれながら、ときどき松の間を盗み見た。霧矢が松川老人とそこへ入ってから、すでに三〇分以上が経過していた。

 秋恵の通訳をことわり、筆談で話を進める。それが霧矢の提案だった。松川老人もそれを承諾し、秋恵は渋々どこかへと姿を消した。トトは、秋恵の監視と霧矢の護衛で迷った。そして、後者を選択した。じつは松川老人が犯人で、霧矢がいつ襲われるともかぎらないのだ。

「それにしても遅いですね……」

 ひざのうえに乗った三毛猫をなでながら、トトはそうつぶやいた。

 様子を見たい気持ちと闘いながら、彼女はじっと障子をながめていた。

 さらに五分ほど待ったところで、障子が音もなくひらいた。

「あ、キリヤさん」

 トトが腰をあげると、猫はぴょんと地面のうえに飛びおりた。

 ニャーという鳴き声が、静まり返った中庭に広がった。

「どうでしたか?」

「うん、それがね……」

 トトの問い掛けに、霧矢は歩み寄って答えた。

「あんまり収穫はなかったよ。やっぱり、ぼくひとりじゃ無理だね」

「そうですか……」

 トトはがっかりした。三〇分待って収穫無しというのは、厳しいものがあった。

 サダコになんと言い訳したものかと、彼女はそんなことを考え始めていた。

「とりあえず、集合場所へ移動しない?」

「はい、そうしましょう」

 集合場所。それは、例の森の空き地だった。犬神タエと松川清から情報を入手し、そこで落ち合うことになっていた。サダコと公子は、神社のほうを見に行っていた。

 トトはふと、

「神社からあそこまでは、どのくらい距離があるんですかね?」

 とたずねた。

「さあ……歩いて一時間くらいじゃない? けっこう遠いらしいよ」

「だったら、まだここにいていいんじゃないですか? わたしたちのほうが、先に着いちゃいますよ?」

 トトはそう言って、ポケットに手を突っ込もうとした。

 そのまえに、霧矢がじぶんのHISTORICAをとりだした。

「でも、もう一〇時二〇分だよ?」

 霧矢はトトに、液晶画面の時計をしめした。

「お昼前になると、また出かけにくくなると思うんだけど」

「……そうですね。じゃあ先に行きましょうか」

 トトは三毛猫にさよならを言うと、玄関へと向かった。

 途中で何人かのお手伝いとすれ違ったが、その中に秋恵の姿はなかった。

「……キリヤさん、秋恵さんはどうするんですか?」

「秋恵さんは逃げないよ。それこそ、じぶんが犯人ですと言ってるようなものだろう? 彼女の目的は達成されたんだ。あとは知恵比べさ」

 霧矢の理由づけに、トトはなんとも言えない気持ちになった。彼女はアカデミーの実習で、犯人役を逃がしてしまうことがちょくちょくあった。だから、秋恵を放置しておくということに、心理的な抵抗があるのだった。

 しかし、ここで捕まえても、決定的な証拠を示せそうになかった。

「そ、そうですね」

 トトは靴をはいて、玄関を出た。

 秋風に身をゆだねながら、ふたりは森へ向かう道をたどって行った。

 コスモスの奇麗な畦道を抜けたところで、霧矢がトトを引き止めた。

「ねえ、大江駿の家に寄って行かない?」

「え?」

 トトはぽかんと口を開け、しどろもどろに返事をした。

「な、なんでですか?」

「大江春香の障害がなんなのか、まだわかってないだろう? それを調べにさ」

 トトは少年のアイデアに賛成した。彼女もいつか、そんなことを考えた気がする。

 松川清からは、情報を引き出せなかったのだ。大江春香に関することくらい手土産にしないと、トトはもうしわけない気持ちになってしまう。

「ナイスアイデアですよ。早速行きましょう」

 トトはグッと拳に力を込め、森へ続く小道を通りすぎた。

 人気のない畦道を進んでいく。しばらくして、大江駿の平屋が地平線にあらわれた。

 建物が近づいてくるにつれ、トトの脳裏に大江春香のミイラが蘇ってくる。彼女は勇気を振り絞り、敷居をまたいだ。大江駿が殺されてからわずか2日のことだと言うのに、平屋はすでに廃墟の観を呈し始めていた。

「うぅ……怖いです……」

「……とりあえず中へ入ろう。鍵は掛かってないはずだからね」

 霧矢は、玄関の戸をゆっくりと横にひらいた。

 トトの記憶通り、鍵は掛かっていなかった。

 うっすらとした線香の残り香が、トトの鼻孔をついた。

「お邪魔しまーす……」

 トトは霧矢を先に立て、恐る恐る家の中へと足を踏み入れた。

 一方、霧矢はなにも言わず、春香の即身仏が収められている部屋へと向かった。

 トトはキョロキョロしながら座敷に入り、怖々と襖をまなざした。

「キ、キリヤさん、お願いします……」

「うん、いいよ」

 霧矢は襖に手を掛け、躊躇い無くそれを左右に押しひらいた。

 荼毘に付されたミイラが、あのときと同じように鎮座していた。

「こ、こんにちは……」

 トトは思わず、あいさつをしてしまった。

 霧矢は仏間に入り、正座をすると、いきなりそのミイラに手を合わせた。

 トトは最初びっくりしたが、すぐそれを真似た。よくよく考えてみれば、大江春香は故人なのだ。弔いくらいしてやらないと、バチが当たる。そんな気がした。

「ちょっとだけお体を調べさせてもらいますよ……ナンマンダナンマンダ……」

 ホラー映画で見た光景を思い出し、トトはその日本語をくりかえした。

 三回ほどくりかえしたあと、トトはまぶたをあげた。

 となりを見ると、霧矢はまだ手を合わせていた。

 敬意が足りなかったかと思いつつ、トトは彼の動きを待った。

 すると、遠くでけたたましい鐘の音が鳴り始めた。

 寺のゆったりとしたそれではない。金切り声のような素早い打ち方だった。

「お祭りですか?」

 トトは、霧矢が拝み続けていることも忘れて、ろうかに出た。

 縁がわから遠く村をみわたした。

 鐘の音は鳴りやまず、それはだんだんと大きくなっているかのようだ。

「あれれ……?」

 トトはひたいに手をかざして、松川邸の方角を見やった。

 黒い煙が、天へと昇っていた。

「か、火事です!」

 トトは縁側をすべるようにもどり、仏間へとかけこんだ。

 霧矢がふりかえった。

「どうしたの?」

「か、火事です! 松川さんの家が火事ですよ!」

「……そう」

 霧矢の反応に、トトは驚愕した。

「そう、じゃないですよ! サダコさんたちに連絡しないと!」

 トトは上着のポケットに手を突っ込み、中をまさぐった。

 ところが、指先にはなにも当たらなかった。

 反対側のポケットを調べ、さらに内ポケットへと移った。

 すべてを調べ終えたところで、トトの顔が青ざめた。

「な、ないです! HISTORICAがないです!」

「ああ、きみのなら、屋敷のなかに置きっぱなしだよ」

 霧矢の助言に、トトはいきり立った。

「ど、どうして教えてくれなかったんですか?」

蝋燭ろうそくを倒すのに必要だったからね」

 トトは動きを止め、その場に立ちすくんだ。

「蝋燭……? なんの話ですか……?」

「簡単な話さ。ぼくの端末からきみの端末に、連絡を入れるだろう。マナーモードになってるから、震動するよね。すると、そのうえに立ててある蝋燭が、倒れるって寸法さ」

 トトは呆然とし、少年の静かな瞳を見つめ返した。

 じぶんのほほをつねり、痛みを感じたあと、その震えるくちびるを動かした。

「これは夢じゃない……んですよね?」

「夢じゃないよ……まあ、そこに座りなよ。立ち話もなんだからね」

 催眠術にでも掛かったかのように、トトは素直に腰を下ろした。

 人間は、自分の理解力を超えるなにかが起こったとき、思考停止に陥ってしまう。真っ白な頭のまま、トトの前に正座する。隣にいる春香のミイラが、まるで立会人のようにふたりをまなざしていた。

「トトさんは、今回の事件について、なにかわかったのかい?」

 少年が静かにそうたずねた。

 トトは思考停止したまま、首を左右にふった。

「ねえ、トトさん、この物語の最大のバグはなにかな?」

 障害──その二文字が、トトの脳裏をかすめた。

 だが彼女は黙ったまま、少年の話に耳をかたむけた。

「『この村の人々は皆、奇怪な障害を送っていた』……これがすべての発端なんだよ。この物語は、作者に見捨てられているんだ……ひとり残らずね……」

「あなたは……だれなんですか?」

 トトは、もうひとりの自分が喋っているような錯覚におちいった。

 少年は表情を変えず、彼女の質問にそっと答えた。

「ぼくはこの『常世物語』の主人公で……そしてこの村の人間なんだ……わかるだろう?」

 わかりたくなかった。しかし、トトにはそれがわかってしまった。

「じゃあ、あなたの障害は……」

 霧矢は、いや霧矢の姿をした主人公は、軽く口元をゆがめた。

「そう……二重人格だよ」

 縁側から射し込む光が、うっすらと暗くなり始めた。

 太陽が天頂へと向かっているのだ。トトはそんなことを思った。

「いつから入れ替わってたんですか……?」

「きみが離れへ来て、ぼくを起こすまえさ。つまり、彼が居眠りしてるあいだだね」

 トトは、霧矢を起こしに、離れへ向かったときのことを振り返った。あのとき、少年には不審なところがあっただろうか。彼女は思い出すことができなかった。

 トトが黙っていると、霧矢は──この物語の主人公は、先を続けた。

「ぼくには主人公の記憶と、そしてもうひとつ、霧矢十六夢の記憶がある……まさかぼくたちが、小説のなかの登場人物だなんてね……まあそれはいいんだ。神様に造られようが、人間に造られようが、大した違いはないのかもしれないからね……問題なのは、霧矢十六夢の体を手に入れたぼくが、なにをするのか、ってこと」

「なぜなんです……なぜ人殺しを……?」

 トトの素朴な疑問に、主人公は笑って答えた。

「復讐さ」

「復讐……?」

 トトの復誦に、少年は笑うのを止めた。

「そう。大江駿、霜野冬美、繁山夏子……彼らは皆、春香を殺した張本人なんだよ」

 トトは眼を見張る。だんだんと意識がはっきりしてきた。

 朦朧としていた思考の流れが、彼女の中でひとつの渦を形作っていく。

「殺した……? 春香さんは殺されたんですか……?」

「自殺へ誘うのだって、立派な殺人だろう? ……法律の話を抜きにすればね」

「で、でもなんで春香さんが……?」

 犯人が自首したにもかかわらず、トトの思考は混迷を極めた。

 それを解きほぐすように、主人公は説明を始めた。

「松川清は、兄の遺産を独り占めにしたかったんだよ……だから、ぼくを孫娘の誰かと結婚させようとし……それに、彼女たちも春香のことが嫌いだったしね」

「春香さんは……なぜ嫌われてたんですか……?」

「彼女たちよりも、いい女だったからさ」

 主人公はそう吐き捨てて、春香のミイラを見た。

 トトもその視線を追った。

 春香が美しい娘だったのかどうか、今となっては知りようもなかった。

「とびっきりの美人だったわけじゃない……ただ、だれよりも優しかったんだよ……」

 主人公の声はふるえていた。

 そのふるえの中に、トトはある感情を見出した。

「もしかしてあなたは……春香さんのことを……?」

 主人公は、過去を透き通すような穏やかな目で、トトの質問を無視した。

 トトはその沈黙を、静かな肯定とうけとった。

「なぜ……なぜ人殺しに手を染めたんですか……? わたしたちは……そうですよ、あなたはキリヤさんの記憶で知っているはずです……わたしたちは、大江春香さんを殺した人物を探しに来たんです。だから、私たちにそのことを話してくれれば……それで……」

 ふるえるトトの声。涙がうっすらと、ほほを流れた。

 なにが悲しいのか、それは彼女にもわからなかった。

 トトが言葉を区切ると、主人公はそっと答えをかえした。

「それがなんになるんだい? ……ぼくは知ってるよ。きみたちはバグを治療したあと、殺された人物をクローンで置き換えるんだろう? それでなにが解決するんだい? ぼくが愛した春香だけがいなくなって、彼女を殺した松川清たちは生き残る……それでなにが解決するんだい?」

 トトは答えられなかった。

 そんな問いは、教科書で読んだことも、講義で聴いたこともなかった。

 だれも教えてはくれなかったし、彼女自身、考えたこともなかった。

 ただひとつだけ、ただひとつだけの疑問が、彼女のなかに芽生えてきた。

「あなたは……なぜ私にこの話をするんですか……?」

 主人公は、しばらく答えを返さなかった。

 少しばかり俯き、ぼそりとこうつぶやいた。

「終わったから……かな……」

「終わった……? なにが終わったんですか……?」

「なにもかも、だよ……ぼくの計画は成就したんだ。春香を殺した連中は、もうこの物語の中にはいないのさ」

 トトの背中に衝撃が走った。

「そ、それじゃあ……秋恵さんと松川さんも……」

 主人公は静かに頷き返す。

「屋敷を出る直前に、ちょっとした細工をしてね……ふたりは、今しがた焼死したよ。ぼくのHISTORICAに通知があった。催眠弾で眠らせて、仏間の押し入れに、放置しておいた」

「だ、だったら、サダコさんたちも気づきます!」

 トトは声を張り上げ、遠くで聞こえる鐘の音をかき消した。

「そうだろうね。だから彼らは、今頃こちらへ向かっているかもしれない。だけど、神社からここまでは、走っても三〇分はかかる。女の足ならなおさらだよ」

 三〇分。トトはなんとかして、今の時刻をさぐろうとした。

 答えの見つからぬまま、会話は進んでいった。

「さっきも言ったけど、ぼくの目的は果たされたんだ。だから、これで終わりなのさ」

「終わりじゃありません!」

 トトは正座を止め、その場に立ち上がった。

「わたしは検史官です! たとえ落ちこぼれでも構いません! あなたを逮捕します!」

 トトの宣言に、主人公は悲しそうな顔をした。

「そうか……それがきみの仕事だからね……」

「仕事だけじゃありません! あなたはバグに浸蝕されてるんです。だからわたしたちには、あなたを治療して、物語をもとにもどす義務があります!」

「もとにもどす義務……?」

 主人公は、せせら笑うように言葉をついだ。

「物語をもとにもどすなら、まずは春香を生き返らせてくれないとね」

「そ、それは……」

 トトは、返答に窮した。

 それができないことは、検史官である彼女にはわかっていた。

 死者を蘇らせることはできないのだ。たとえそれが、物語の中であっても。

 警史庁にできることは、クローンを作り、それと置き換えることだけだった。

「トトさん、この物語は作者から……神様から見捨てられているんだよ……始めからこうなる運命だったんだ……物語が矛盾を許さない以上ね……世界のほころびをなおすには、だれかが犠牲にならざるを得ないんだよ……」

 急な話の展開に、トトはついていくことができなかった。

「犠牲ってなんですか?」

「世界を再生するための犠牲さ……具体的にいえば、ぼくたち登場人物のことだよ……」

「なぜあなたたちが犠牲になる必要があるんです……?」

 主人公は、物わかりの悪いトトをさとすように、大人びた笑顔を見せた。

「なぜって、そりゃそうだろう? バグはぼくだけじゃないんだ。大江春香を殺した松川たちもそうなんだよ……つまりね、この世界の登場人物でバグに乗っ取られていないのは、事件とはなんの関わりもない犬神タエさんだけってこと……彼女だけが正常なんだ。なぜなら、彼女だけは原作通り、白痴なんだからね。だったら彼女以外を、全員入れ替えちゃったほうが早いじゃないか。きみたち検史官にとっても」

 ますます強く打つ鐘の音が、心理的に遠ざかっていった。

 トトは、主人公の意図を理解した。

「全員を入れ替えるって……まさか……」

 主人公は、そっとうなずきかえした。

「ぼくの役目はここまでだ。だから、舞台から去らせてもらうね」

 その言葉に、トトは血相を変えた。

「ダメです! 自殺なんかしちゃ!」

 主人公は笑った。心からの笑顔だった。

 なにがおかしいのか、トトにはわからなかった。

「大丈夫。霧矢くんを傷づけたりはしないよ」

「そういう意味じゃないです!」

 トトは叫んだ。涙がほほを伝った。

 ひとつ、またひとつと、しずくがたたみに落ちては消えて行った。

「死なずに、罪をつぐなえと言うのかい……?」

 トトは、かぶりをふった。

 そうではない。トトが言いたいのは、そういうことではなかった。

「わたしたちの……わたしたちのお仕事は……登場人物を罰することじゃないんです……あなたは病気なんです……わたしたちは……その病気を治して……物語をもっともっと面白くするために……そのために働いているんです……」

 トトは言葉に詰まった。彼女は、森のなかで一番最初に聞いた、お姫さまのお話を思い出していた。ひとりのエルフの少女が、ひとりの少年と出会い、恋に落ちるという、ただそれだけのお話だった。トトはそのお話が、今でも好きだった。なぜならそこでは、だれかが傷つくことの興奮、だれかが虐げられることの愉悦、だれかが死ぬことの感動など、なかったからだ。トトは、犬神タエのことを思い出した。村人から嘲笑され、自己の存在に不安をいだく、おはじきの好きな少女を。いくら物語を修復してみても、タエはタエだろう。それが原作という、ゆるぎのない設定おきてだからだ。この物語は、最初から、すでに作者の手によって、読者のために、悪意のあるものなのだった。作られた見世物小屋。

 トトはそのことを、頭で理解したわけではなかった。だが、「物語をもっともっと面白くする」という彼女の願いが、どこか空虚であることを、彼女は察していた。だから、そでぐちで涙をぬぐうこともせず、ただ嗚咽おえつを漏らした。

 主人公は音もなく居住まいをただし、そんなトトの顔を見つめ返した。

「もし治療を受けたら、ぼくは春香のことを忘れてしまうんだよ……きみたちが用意した偽物を愛するようになってしまう……それは嫌なんだ……春香は死んだんだ……彼女が帰って来ることはない……そのことを忘れずにいたいんだよ……」

 鐘の音は消えていた。

 それがなにを意味するのか、トトには分からなかった。

 火事が収まったのか、それとも燃えるに任せているのか。

 目の前の少年に返す言葉もまた、トトには分からなかった。

「……わかってくれたようだね」

 トトは首を左右にふった。

「わかりません……わたしにはわかりません……」

 泣きじゃくるトトは、もはや主人公の顔を見ることすらできなかった。

 視界がかすみ、春香のミイラも、主人公の姿も、涙の向こうがわでかすんでいた。

 時間の感覚が消失した瞬間、たたみのうえで、なにかが倒れる音がした。

 トトはようやく目元をぬぐい、その音の正体を見定めた。

 霧矢の体が横たわっていた。

「キリヤさん!?」

 トトは少年の体を抱き起こし、その肩をゆさぶった。

 反応がない。トトは心臓に耳を当てた。

「……い、生きてます!」

 呼吸もあった。

 ただその吐息とはべつに、なにかが震動する音が聞こえた。

 トトは少年のポケットをさぐる──HISTORICAがゆれていた。

 トトは着信ボタンを押そうとした。

 しかし、発信者の名前は見当たらなかった。

 それが電話でもなければメールでもないことに、トトはようやく気がついた。

「そんな……ウソです……」

 トトの否定もむなしく、端末は震動をやめた。

 物語のなかで登場人物が死んだときに鳴る、緊急用のアラームであった。

 トトは少年の顔をまなざした。

 おだやかな、本当におだやかな表情で、少年は眠っていた。

 数分後、玄関から足音が聞こえるまで、トトはその寝顔をみつめていた。

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