第9話 水死
「いただきます」
トトは両手を合わせ、お膳のまえで頭をさげた。
日本式の礼儀作法を済ませたあと、トトは器用に箸を使って、ご飯を口にはこんだ。
「おいしいですね」
となりに座っている霧矢も、これに同意した。
「そうだね」
「キリヤさん、タエさんとは、なにを話してたんですか?」
霧矢は、口に食べ物をほおばっているからか、すぐには答えなかった。
飲み込んだあと、お茶を手にして、ようやくこう言った。
「それが、よくわからなかったんだよね。一方的にごちゃごちゃ言われて……」
「ああ、そうだったんですか。大変でしたね」
「タエさんが言うには、大江駿の死は、妹の春香さんの呪いらしいけど……どうして妹が兄を呪い殺さないといけないんだろ? 説明がなんにもなかったな」
霧矢のひとりごとに、トトはうんうんとうなずいた。
「そうですよね、ミイラもだいじにしてましたし」
そう口にした瞬間、トトは、大江春香のミイラを思い出してしまった。
食事中にする話ではなかったと、トトは後悔した。
気分が回復するまで、トトはしばらく、箸をやすめた。
すると、ポケットのなかで、軽い震動を感じた。
それは、となりの霧矢のポケットからも聞こえてきた。
サダコは急に席を立った。
「すみません、冬美さんと夏子さんは、どちらに?」
サダコの問いに、一同は顔を見合わせた──だれも知らないようだ。
霧矢は顔面蒼白になって、
「しまったッ!」
と言い、席を立った。
トトも事情を察し、箸をおいた。
今のはHISTORICAのバイブレーションだ。被害者が出たのだ。
障子を開けた霧矢は、中庭のまえで、左右を見回した。
「だれか、冬美さんか夏子さんを知りませんかッ!?」
霧矢の大声に、左手のろうかから、数人の使用人が顔をのぞかせた。
片目のない老女は、
「どうかなさいましたか?」
と、霧矢に声をかけた。
「冬美さんと夏子さんは、どこにいますか?」
「繁山さまは、梅の間でお食事中です。霜野さまは、離れへ行かれました」
霧矢は礼も言わず、猛スピードで、離れへと向かった。
トトたちもそれを追い、橋のうえへたどりついた。
そこで、霧矢は急ブレーキをかけた。
トトはその背中にぶつかった。
「キリヤさん、いきなり止まっちゃダメですッ!」
「トトさんッ! あれッ!」
霧矢は、橋のうえをゆびさした。一本の杖が落ちていた。
それがだれのものかを、トトは即座に判別した。
「冬美さんのですよッ!」
トトのうしろに、サダコたちも追いついて来た。
「キリヤさん、どうしました?」
「冬美さんの杖があそこにッ! なにかあったんですよッ!」
サダコは杖の存在を認め、公子へふりむいた。
「手分けしてさがしましょう。私と公子さんは、川の周辺を、霧矢さんたちは、離れをさがしてください」
四人は一斉に散った。トトは霧矢を追って、橋を渡りきった。
ろうかを右折したふたりは、左右の障子を見比べた。
霧矢は、そのひとつを開け放った。大江駿が泊まっていた部屋だった。
もぬけの空であった。
今度は反対がわの、秋恵の部屋に移った。そこにも人影はなかった。
トトの部屋、霧矢の部屋と次々障子を開けたが、冬美の姿は見当たらなかった。
「離れじゃないッ! ほかをさがそうッ!」
トトは、
「ま、まだトイレがありますよッ! あと開かずの間ッ!」
と指摘した。
霧矢は、トイレの木戸へ駆けよった。
打ちやぶるように、とびらをひらく──だれもいない。床にこびりついた血痕が、窓から射しこむ朝日に、にぶく光っていた。しかしそれは冬美のものではなく、昨晩の大江駿のものであった。乾ききっていた。
「開かずの間かッ!?」
霧矢は体当たりするように、反対がわの開かずの間へ飛び込んだ。
「ど、どうですか?」
トトは、霧矢の肩ごしにのぞきこんだ。
そこには、ガランとした空間が広がっていた。
ほこりとクモの巣以外にはなにもない、ただの空き部屋だった。
あいかわらず窓もなく、そとへつながるとびらもなかった。
やはり離れではないのか。トトがそう言おうとしたとき、叫び声が聞こえた。
声の主は、秋恵だった。
「霧矢さんッ! 大変ですッ!」
秋恵は駆け足で、離れにあらわれた。息を切らしていた。
「た、たいへんです……今、村のひとたちが来て……」
そうとう急いだのか、秋恵はそこで、ひと呼吸おいた。
トトは、じれったくなる気持ちを押さえて、秋恵の言葉を待った。
「な、夏子さんの家のそばで……冬美さんの死体が見つかったそうですッ!」
トトたちは屋敷を飛び出し、秋恵に先導されて、夏子の家へと向かった。門を出て左に曲がり、橋を渡ってすこし進むと、ちいさな脇道があらわれた。それを右折すると、雑木林を背にした平屋にたどりついた。それが夏子の家だった。
道の右手には、例の小川が流れていた。雑木林の手前で、池をかたちづくっていた。水はそこでいったんとどこおったあと、ふたたび雑木林へと流れ込んでいるのだった。
平屋と池とのあいだには、生け垣がもうけてあった。三人が池へ近づくためには、敷地から出なければならなかった。そのための小道も、秋恵は心得ていた。トトたちは、池のほとりへと連れ出された。周囲にははやくも、村人たちが集まっていた。彼らは雑木林の近くで、なにやら話をしていた。
霧矢は、野次馬たちに向かって、駆け足になった。
のこりのメンバーも、そのあとを追った。
霧矢は、
「ちょっと通してくださいッ!」
と大声を出し、村人たちをかきわけ、ひとだかりの中央に出た。
その瞬間、霧矢の足が止まった。
ぴたりとうしろにつけていたトトは、その背中にぶつかりそうになった。ギリギリの距離で衝突を回避したトトは、霧矢の背中ごしに、水面を盗み見た。
「あッ!」
トトは悲鳴をあげた。池のふちに、白い着物がぷかりと浮かんでいた。
長い髪も水面に広がっていた。
霜野冬美の溺死体であることに、トトはすぐさま気がついた。
野次馬のひとりは、
「かわいそうに……目が見えなくて、川へ落ちたんだな」
と、肩を落とした。
何人かが首をたてにふった。
そのなかでも、盲目の男性がひとり、
「この村じゃあ、目の見えんもんも多いのに、晴眼者にあわせて家を作りよって、わしらはとんと迷惑しとる。歩けんもんのために、平屋ばっかり作っとるのとはちごうて、わしらのことは考えとらんのじゃ」
と、だれに聞かせるでもなく、愚痴をこぼした。
場は、急に騒がしくなり始めた。
一方、霧矢は小声で、
「川へ落ちた? ってことは……」
とつぶやいた。
よく聞き取れなかったトトは、背後から声をかけた。
「ってことは、なんですか?」
「離れの橋から、落ちたんじゃないかな」
少年はそう言うと、すっかり押し黙ってしまった。
トトは、離れの橋で見つけた杖を思い出し、霧矢の推理に納得した。
「足をすべらせたんですかね?」
トトはまず、事故死の線を考えた。
すると、背後で公子の声がした。
「それはなんとも言いかねます」
びっくりしたトトは、うしろをふりむいた。
「自殺ってことですか?」
「……」
公子は返事をしなかった。霜野冬美の死体を、じっと見つめていた。
「おーい、仏さんがかわいそうだ。引き上げようや」
年配の男がそう叫び、野次馬のなかから、志願者が出た。
彼らは水のなかに入り、冬美の遺体を岸へと引きあげた。
遺体の顔をのぞきこんだ霧矢は、
「やっぱり冬美さんだ……」
と、声を落として言った。
トトもそれを目で追ったものの、すぐに気分が悪くなってしまった。ぬれた髪が、顔にはりつく、目が半びらきで、虚空をみつめていた。くちびるからは、血の気がうせていた。死んでいることは、だれの目にも明らかだ。あえて蘇生作業を引き受ける者もいなかった。
「まだ若いのにねえ……」
「だれが見つけたんだ? おまえか?」
「俺が来たときは、もう大勢いたよ」
おたがいにたずね合っていると、若い女の声が聞こえた。
「わ、ワシじゃ」
その声音に、トトは聞きおぼえがあった。
霧矢も、その名前をさけんだ。
「タエさん!」
周囲でも、ひそひそ話がわきおこった。
タエは死体のそばまで来て、霧矢と対峙した。
「タエさん、こんなところでなにを?」
「は、林にある祠へ……お参りに行っていたのじゃ……」
ここで、
タエのようすは、どこか妙だった。
まるで尋問されているかのように、びくびくして、発声が弱かった。
手には、ふくろのようなものを持っていた。
「タエさん、それはなんですか?」
タエは手のふくろを、背中のうしろにかくした。
もちろん無意味な行動だったが、タエはそれでやりすごせると思ったらしかった。
霧矢はもういちど、おなじ質問をした。
「それはなんですか? ……あ、取ったりはしませんよ」
「こ、これは、おはじきじゃ」
「おはじき? ……おはじきを、どうしてここに?」
「た、たまたま持っていたのじゃ」
そばにいたトトは、なんだかウソっぽいな、と感じた。
それに、おはじきというものがなんなのか、トトは知らなかった。
霧矢はそれ以上、追及しようとしなかった。
取調べをやめた霧矢に代わり、サダコがひとごみのなかから出て来た。
「犬神タエさんですね。うわさはうかがっています」
「……おぬし何者じゃ?」
サダコは自己紹介をした。
それから、さりげなく質問を切り出した。
「冬美さんの死体を発見したのは、あなたなのですか?」
「そ、そうじゃ……な、流れて来たのじゃ……」
「流れて来た……? 川上からですか?」
タエはなんどかうなずいて、また視線をそらした。
野次馬の何人かは、うたがわしげなまなざしで、タエを見ていた。
タエが突き落としたのではないか、と思っているようだった。
サダコは、淡々と質問をかさねた。
「なぜ、林の祠にお参りしていたのですか?」
「じ、神社から近うて、つ、ついでじゃ」
「川上から流れて来た冬美さんは、助けを求めていましたか?」
「た、助けられんかった」
「それは、どういう意味ですか? 冬美さんは、助けを呼んでいたのですか?」
「わ、ワシが見たときは……し、死んでおった……」
「息を確認したのですか?」
「う、うつ伏せになって、流れておった……」
タエは、自信なさげにそう答えた。
嫌疑は濃くなりかけていたが、しばらくして、タエに有利な証言が出た。
タエが大声で助けを呼んでいるのを聞いた、という男がいたのだ。
その男の話によると、タエのほかには、だれも叫んでいなかったらしかった。
けれども、その男も、どこかタエをあやしんでいるようなそぶりがあった。
「わ、ワシはなにもしておらんぞッ! ほんとうじゃッ!」
タエはいきなり大声を出して、まわりをおどろかせた。
が、何人かは失笑していた。
「わ、ワシは帰るぞッ! 帰るんじゃッ!」
タエは野次馬を追い払いながら、夏子の家の敷地へと消えて行った。
残されたひとびとは、口々に彼女をののしった。
「あんなのが巫女じゃ、村も長くねえな」
「松川さんが、替えを認めないからねえ……どうにも……」
「このまえの人身御供はうまく行ったんだし、いいんじゃないか?」
そんな恐ろしことを口にしながら、ひとりまたひとりと、この場を去って行った。
これでようやく話ができる。そう思ったトトは、霧矢に近づこうとした。
ところが、先に秋恵が声をかけた。
「霧矢、松川さんが呼んでるわ」
「松川さんが……? なんの用?」
「知らない。とにかく早く来てくれだって」
霧矢は困ったような顔をして、トトのほうを見た。
トトは、どうしていいのかわからなかった。
トトがまごついていると、サダコがアドバイスをしてくれた。
「キリヤさん、ここは私たちに任せて、先に帰ってください」
「わ、わかりました……あとはお願いします」
そう言って霧矢は、夏子の家の敷地へと向かった。
トトも、あとを追おうとした。
けれども、秋恵はそれを制止した。
「トトさんは、ここに残ってください。内密な話と、うかがっておりますので」
「はあ……そうですか……」
トトはがっかりしつつも、すなおにしたがった。
霧矢のすがたは、生け垣の向こうへ消えた。
それを見計らったかのように、公子の声がした。
「奇妙ですわ」
トトがふりかえると、公子は池のそばにたたずんでいた。
トトは、そちらのほうへ足をはこんだ。
「なにがですか?」
「すべてです。話のつじつまが、まったく合っていません」
「話のつじつま……?」
トトは首をかしげた。
「どのあたりがですか?」
「例えば、犬神タエの存在です。村人の話では、彼女が大江春香を即身仏にしようと、そう言い出したのでしょう? それを聞いてわたくし、タエさんはよほど村人から畏怖されている存在なのだと思いました。自殺を強要できるのですから……ところが見ての通り、彼女は村中から軽んじられている。ただの狂人と思われているのです」
トトは、公子の説明に、黙って聞き入った。
「もうひとつ奇妙なのは、タエさんの証言です。川上から流れて来た冬美さんは、その時点で死んでいました。しかし、離れからこの池までは、直線距離で、およそ一〇〇メートルほどしかありません。遠いと感じるのは、わたくしたちが離れから母屋へ、母屋から玄関へ、玄関から橋を渡って夏子さんの家へ、そして生け垣を抜けてここへ……という風に、Sの字で移動しているからです」
公子の冷静な観察に、トトは賛美のまなざしを送った。
けれども、それとタエの証言がどう関係するのか、トトにはいまいちピンとこなかった。
すこし考えて、
「一〇〇メートルじゃ溺死しない、ってことですか?」
とたずねた。
「五〇メートルプールでも溺死するのですから、一〇〇メートルの川で溺死しないとは、言えないように思います。わたくしが不思議に感じるのは、だれも悲鳴を聞いていないことです。離れの橋から落ちれば、ふつうは大声を出すと思うのですが。その声は、一〇〇メートル程度ならば、届くはずです」
トトにもようやく、公子の疑問が理解できてきた。
そして恐る恐る、冬美の溺死体を見やった。
サダコが念入りに検死をしている最中だった。
「ってことは、タエさんのカンちがいなんでしょうか?」
「……それはまだ、なんとも言えません。ただ、ほんとうに溺死だとすれば、冬美さんは離れで川に落ちてから、黙って水につかり、そのまま死んでしまったことになります」
黙って水につかる。
その言葉を聞いて、トトにあるアイデアが思い浮かんだ。
「自殺なんじゃないでしょうか?」
「自殺……ですか。それはまだ、考えていませんでしたわ」
公子はスカートのまえで手を合わせ、冬美の死体へと視線を伸ばした。
トトとはちがい、いっさいの恐れをふくんでいない目だった。
「……なるほど、目の見えない冬美さんですから、自殺するなら、首を吊るよりも水に飛び込んだほうが、手っ取り早いのかもしれません。しかし、動機が……」
そこで、サダコが右手をあげた。
「トトさん、公子さん、ちょっと来てください」
サダコの呼びかけに、ふたりは推理を中断した。
公子は間をおかず、トトはしばし躊躇して、冬美の死体に歩み寄った。
冬美の死体はひっくり返され、うつ伏せに寝かされていた。
公子は、
「どうかしましたか?」
とたずねた。サダコは黙って、後頭部をゆびさした。
水をふくんで、べったりと重くなった髪を、サダコはかきわけた。
トトは髪の毛のあいだに、大きな傷あとを認めた。
「殴られたんですか?」
「ふたつ考えられます。だれかに殴られ、それから水に落ちた。あるいは、水に落ちた拍子に後頭部を打った……いずれにせよ、意識不明だった可能性がありますね」
意識不明。その診断に、公子はうなずいた。
「先ほどトトさんと話していたのですが、これで謎のひとつは解決しそうですね」
公子はそう言い、トトを盗み見た。
トトも、今度ばかりは、公子の言いたいことが理解できた。冬美の悲鳴をだれも聞いていないのは、彼女が意識不明だったからにちがいなかった。
公子は、
「意識がなければ、この短距離で静かに溺死したことも、うなずけます」
と言って、屋敷のほうを見た。
雑草の生いしげった川の向こうに、松川邸の外壁が続いていた。
サダコは傷口を、たんねんに調べた。
そして、ぼそぼそと、くちびるを動かした。
「こうなると、事故死かどうかが問題になりますね……そもそも、なぜ冬美さんは、離れにいたのか……殺人現場なのに……トトさん、あのとき広間には、だれがいましたか?」
トトは目を閉じて、念入りに食事の風景を思い起こした。
「松川さん、霧矢さん、サダコさん、公子さん、それに私ですね」
その組み合わせに、トトはハッとなった。
「変ですね……花嫁候補の三人が、だれもいないです」
トトの疑問は、サダコと公子にも、最初から共有されていたらしい。
というより、その疑念を第三者に確認させるため、トトに質問をしたようだった。
公子は、
「秋恵さんは使用人です。使用人は同席しない習慣があるようなので、彼女がいなかったことは、特段不思議ではありません。しかし、冬美さんと夏子さんは妙です。サダコさん、全員のアリバイを調べる必要があるのでは?」
と指摘した。
サダコは、一瞬了承しかけたが、べつの提案をした。
「あ、その前に、雑木林を調べてみましょう」
公子は、けげんそうな顔をした。
「雑木林ですか?」
「ええ、タエさんがお参りした、祠へ行ってみましょう。ほんとうに行ったのなら、なにか痕跡があるかもしれません……彼女の場合、証言から真偽を判断するのが、むずかしいのですよ」
公子は異議をさしはさまず、三人で、雑木林の奥へと向かった。
鬱蒼とした木々が、昼間だというのに、あたりを暗くしていた。
入口付近でうろうろしていると、獣道らしきものをトトが見つけた。
サダコは、
「これが祠への道でしょうね……入ってみましょう」
と言って、先頭を切った。公子、トトの順でそれに続いた。林のなかは思った以上に暗く、トトはびくびくしながら、公子の背中を追った。
時折カラスが鳴き、トトはそのたびに身をすくめた。
しばらく歩いたところで、小さな空き地があらわれた。
その中央に、手入れのいきとどいた祠が鎮座していた。
サダコの身長よりもすこし高く、トトよりも低かった。
サダコが人間界で一四〇センチ台後半、トトは一七〇センチ台前半だ。
だいたい一五〇センチ半ばだろう。屋根は小さなかわらぶきだった。
石垣のうえに賽銭箱がおかれていた。鈴のようなものはなかった。
サダコは祠を、念入りに観察した。
「お供え物がしてありますね……ん、これは」
サダコは、祠の縁についた染みに目を留めた。
しばらくそれを眺めたあと、鼻先を近づけ、その匂いを嗅いだ。
「日本酒ですね。お神酒ということですか……この地方がどういう信仰なのかわかりませんが、乾いていないところを見ると、タエさんは本当にここへ……おや?」
サダコはかがみこむと、地面から小さなガラスを持ち上げた。
それは、うすみどり色のおはじきだった。
サダコはそれを、木漏れ日にかざした。きらきらと光ってみえた。
泥はついていなかった。落としてから、時間が経過していない証拠だった。
サダコは、それを紙でくるみ、ポケットにしまった。
「ここにいた物証はアリ……と。しかし、なぜおはじきを持っていたのでしょう?」
トトは、遊んでたんじゃないですか、と言いかけた。
それよりも早く、公子が声をあげた。
「サダコさん、なにか妙な臭いがしませんか?」
サダコは顔をあげた。
「……おそなえものの匂いでは?」
「いえ、そういう香しいものではなく、なにか腐ったような……」
サダコは鼻を鳴らして、空気を嗅いだ。
トトもそれを真似してみた。そして、顔をしかめた。
「ほんとです。なんかくさいですよ」
体の位置を動かしてみると、公子のそばで、そのにおいは増した。
サダコとトトがなかなか気づかなかったのは、風向きの関係だったようだ。
トトは鼻をつまみ、辺りを見回した。動物でも死んでいるのだろうか。
それに、排泄物のにおいも、入り交じっているような気がして来た。
サダコは祠の右手奥をゆびさした。そこから風が吹き込んでいた。
「風向きからして、あっちですね」
不快なにおいに胸をやかれながら、トトたちはしげみの奥へと進んだ。
すると、すぐに水音が聞こえ始めた。
川が近いようだった。
先頭のサダコが茂みをかきわけ、においのもとをさぐった。
においが強烈になるにつれ、水音もまた大きくなり始めた。
視界がひらけたとき、トトは吃驚した。
「あれれ? あんなところに舟が……」
三人のまえに、例の川が現れた。
そしてその川岸に、小型の木舟が打ちあげられていた。
蠅がブンブンと飛び回り、においはそこから発せられているようだった。
サダコはハンカチで鼻と口をおおい、小舟に近づいた。
トトと公子もハンカチを取り出し、おなじようににおいを絶とうとした。公子は、香水を貸してくれた。それをハンカチにすこしだけ沁み込ませて、においをごまかそうとした。けれども、においが強烈で、なかなかごかましきれなかった。
トトは涙目になりながら、サダコの作業を見守った。小舟には、青いビニールシートがかけてあった。そのすきまから、蠅がせわしなく出入りしていた。
トトの脳裏に、イヤな予感が走った。
サダコは、ビニールの端に手をかけた。
「開けますよ……一……二……」
トトと公子は、固唾をのんだ。
「三!」
ビニールをのけた瞬間、トトの悲鳴が雑木林に木霊し、そして消えた。




