9話 麻子の心の空洞
吐き出した煙を目で追う。
その先に功の姿が再び垣間見えないかと、ほんのわずかな期待を胸にして。
(今日も無理か。)
足元にマルボロを落とし、つま先で踏み潰す。そして、その堤防の土をつま先で蹴る。
革靴の先についた湿気を帯びた川岸の土を、振り落とすようにして乱暴に歩を進める。
営業用のスプリンターの運転席に戻りエンジンをかけ、ハンドルにもたれかかるようにして深い息を吐く。
社に戻らなければと思いながらも、車を発進させることが出来ない。
もう一度ルームミラーで、あの高架に続く道を確認する。
だけど、あれから功は姿を見せない。
あれっきりか。
夢でも見ていたか。
俺は時々時間の都合がつくと、あの川岸の道へと向かった。
もう少し功と話がしたかった。
功はどうして俺の前に姿を現したのだろう。
何か意味があったに違いない。
それが知りたかった。と、同時に功のことが懐かしくてたまらなかった。
20年前、18歳で死んだ功。
3年程の付き合いだった。その間数知れずいろんな山へとあいつと2人で登った。1000M位の低山から3000M級の山。いろんな尾根を縦走したり、テントを担いで山に入り、無数の星が瞬く様を眺めながら眠りについたこともあった。
楽しかった日々。
自然と一体化することが、人間にとってこれほど大事なことはないだろうと実感できた日々。
その場所、その空間、そこに息づいている人知を超えた何かと共存するあの感覚。長いことそれらを忘れていた。功が死んでからは、一度も山へ入ったことがなかった。それ程ショックだった。山へ入れば、功のことを思い出す。それがつらくて足が遠のいた。時間が過ぎ、功が死んだショックが波のように徐々に引いていっても、俺は山から遠ざかったままだった。だけど、今、功に会えて、功に対する懐かしさがどうしようもなく胸を支配し、それと共に、あの自然の中に身を置き、自分もこの自然の一部なのだと、宇宙とつながるあの不思議な感覚が懐かしくて、懐かしくてたまらなかった。あそこへ行けば何かが得られる。答えがそこにはきっと待っているような気がした。
そう。
あの感覚が今の俺にとっては必要なのかもしれない。
だけど、俺はアクセルを踏んだ。
こうやって時間が流れるまま、いつまでも功を待っていたかった。
だけど、現実の世界は時を刻み続ける。
俺はそこに戻っていかなければならない。
民家がまばらに点在する県道。
助手席に麻子を乗せて実家へ向かう。
麻子はさっぱりとした白の綿のブラウスに、ベージュ地に黒の細かいストライプが入ったスカートを着て、ぼんやり車窓の景色に目をやっていた。
「麻子。大丈夫?」
元気のない妻の様子に声をかける。
「大丈夫よ。」
麻子はぎこちない笑顔を向ける。
「お義母さんに甘いものでも買って行きましょうよ。」
自分ではそうでもないと、本人はあまり気がついていない様子だが、麻子は人に対してとても気を使う。週に一度実家へ顔を出し、食事を共にするときも、母の好物の甘味はかかさず持っていく。しかも俺なんか覚えてもいないのに、麻子は先週と同じものでないように気を使い、母の好みを熟知して品を選んだ。実家でもかいがいしく母を手伝い、父の話し相手になった。それが麻子の神経をよけいに疲れさせないかと心配で、実家へ顔を出すのはそんなに頻繁でなくてもよいと言うと、お義母さんたち待っているから、と麻子は週に一度の実家への訪問を拒んだことはなかった。
父とは母は兄を亡くしてから、以前とは違って俺に執着するようになった。本当は一緒に住みたいと思っていることは目に見えているが、俺は麻子にこれ以上気を使わせたくなかった。元気なうちは近くに居を構え、時折様子を見に行けばいいと思っていた。
暗い土間の続きにある引き戸を開け、声をかけると中から母が出てきた。
「ああ、宗司。」
母は嬉しそうに笑顔を見せた。
「こんにちは。」
麻子が一歩遅れて入り、母に声をかけると、
「麻子さん。待っていたのよ。」
と麻子の手をとり、中へと誘う。
会話する2人の女の後について中へ入ると、仏間に続く居間の畳の上に父が背中を丸めて座り、細い目をしょぼしょぼと瞬きするのが見えた。
「おお、よう来たな。」
元気一杯活力に溢れた母とは対照的に、父はどんどん年老いていくような気がする。
麻子は持ってきた葛饅頭の箱を母に渡すと、母は仏間に供えに行った。
父が、
「麻子さん、いつもすまんな。」
と声をかける。
「お義父さん、相変わらずですか。」
「おお、変わらんよ。」
麻子は義父の隣に座り、話し相手になる。
昨年、勤めていた会社を退職した父は、これといってすることもなく所在無げに家にいることも多かった。その頃からだんだん弱くなったような気がする。母は相変わらずパートに出かけ、近所の友人と連れ立ってカラオケに行き、詩吟やヨガなど趣味の会に顔を出して生活を楽しんでいるようだった。
実家に行くと、母はいつも食べきれないほどの料理を作り、俺に酒を勧めた。麻子はそんな母親を手伝って台所に立ち、母の料理を褒め、父の話し相手になった。
その日も、いつもと同じように居間のテーブル一杯に並んだ料理を肴に父と2人焼酎のグラスを傾け、飲めない母と麻子は料理を食べ、会話を楽しんでいた。
玄関先の電話が鳴った。
すぐに席を立ち母が受話器を取った。
母の声色からして親しい人間からだとすぐにわかった。砕けた口調でしばらく会話を続けた後、受話器を置いて居間に入ってきた。
「誰?」
俺が尋ねると、
「美千子ちゃん」
「へえ、何って?」
美千子は俺の3歳年下の従姉妹だ。子供の頃はよく遊んだ。俺と同時期くらいに結婚して、今は岡山に住んでいる。
麻子も結婚式のときに一度顔を合わせて面識があるので、興味を惹かれたらしく、
「美千子さんお元気なんですか?」
と母に尋ねた。
「そう、相変わらずみたいよ。先日お祝いを送ったからそのお礼の電話なの。」
「お祝いって?」
麻子は俺に疑問を投げかけた。
「美千子ちゃん3人目が産まれたのよ。初めての女の子ですごく喜んでいたわ。」
母が俺の代わりに麻子に答えた。
その時、ほんの一瞬、麻子の顔色が変わった。だけど、すぐ隣にいて空気が張り詰めたように感じたのは俺だけだったかもしれない。
「あら、もう3人目なんですか。」
麻子は甲高い声を上げた。それを驚きとも、冷やかしとも受け取れたのは、麻子が笑みを作っていたからだ。
母は、
「そうなのよ。あれよあれよという間に。あそこは3人とも年子なのよね。美千子ちゃんもいつもおなかが大きい状態で大変だったみたいね。」
と答えた。
女2人の会話を聞きながら、俺は自分がミスをしたことに気がついていた。
麻子に言っておけば良かった。
美千子が3人目を出産したことは母から聞いていた。母がお祝いを贈るのに便乗して俺もお祝いを出しておいた。だが、そのことは取り立てて麻子に報告しなくてもいいと思っていた。子供を流産してから、彼女は赤ん坊や子供の話題には神経質になっていたし、同時期に結婚した従姉妹がすでにもう3人の子の母になったことは、麻子の神経をさかなでるには十分な話題だと思ったからだ。
麻子は笑顔で母と話を続け、美千子や美千子の婚家の家族のことなどを聞いていた。
俺は麻子がまた気分を悪くして、早く家に帰りたいというのではないかと、彼女の顔色を伺っていたが、彼女は普段と変わらず、父と母の相手を務め、良い嫁を演じきっていた。
家に帰ると、案の定。
「どうして黙っていたの?」
と俺に詰め寄った。
「別に黙っていたわけじゃない。話すタイミングがなかっただけだよ。」
苦し紛れに嘘をついた。
母も、麻子が流産した直後は、赤ん坊や子供の話題を避け、彼女にひどく気を使って、話をするにもかなり慎重に言葉を選んでいたが、あれから月日もたち、実家を訪ねる際には、麻子は以前のように明るく両親に接していたので、母も安心して、今日のことも隠さず話題にあげたのだろうと思った。だけど、麻子のほんのわずかな表情の動きはたぶん俺にしかわからなかっただろう。
「美千子さんに3人も子供が出来て、うちにはいないから、そのことで私が気を悪くすると思って隠していたんでしょう。」
俺は黙っていた。
「だけど、そうやって変に気を使われるのが嫌なの。余計にいらいらするの。そうやって哀れまれるのは嫌なの。」
「そんなつもりじゃないよ。」
「普通に話してくれればいいじゃない。」
「普通になんか話せるわけないだろ。」
「何で」
俺は思い切って言った。
「麻子は時々ひどく感情的になって泣いたりわめいたりする。そんなお前に言えるわけないだろう。」
「子供の話題は?」
「そうだよ。」
麻子は力なくソファに座った。ゆるく結い上げた髪の毛が解けて白い綿のブラウスの背中に落ちた。麻子は背中を丸めて力なく息を吐いた。
「私、自分がどうしてここにいるのかわからないの。」
「どういうこと。」
なるべく優しく聞いた。ソファに座った麻子の足元に膝をついて、彼女の手を取った。麻子は顔を上げずに続けた。
「宗司はまだ私を愛している?」
黙って頷いた。
「何故そんなことを聞く?」
「子供の頃から、何かをしないと人に愛されないと思っていた。」
「どうしてそんなことを思う?」
「どうしてかはわからないわ。何かをして、何かを与えることによって、見返りとして人は愛されるのだと思って、ずっとそう思っていたの。そのために何かをしなくちゃって、いつもあせっていたわ。どうしてそう思うのか、どうしてかはわからないわ。」
「何かをしないと人に愛されない。」
麻子は繰り返した。
「結婚して、子供が出来て。そうね、男の子と女の子とふたり。それから犬を飼って、小さな一戸建てを買って。子供の誕生日には近所の子供らを呼んでパーティをしたり、夏休みには海に行って、冬にはあなたの車にスキーの板を積んで、スキーに出かけるわ。
手取り足取りで子供にスキーを教えて。」
「そういうのを夢見てたの。ううん、夢じゃないわ。現実として計画していたのよ。そうなるはずだったの。」
「これからだって出来るよ。何も遅すぎることなんてないし、もう希望がないなんてことないだろう。」
俺はこの先も子供が出来ないとは思っていなかった。医師も言った。奥様もご主人の方も、何も異常ありません。まだまだお若いのだから気を落とさずに、って。その後、2人で検査に通った病院でそう言われたのだ。麻子も気を取り直して、頑張ろうねって笑っていたのに。
何が彼女の心を蝕み、空洞にしていくのだろう。
麻子はどこか遠いところを見ていた。その距離は俺が手を伸ばしても届かない。
彼女はそれ以上、話しをしようとしなかった
俺は彼女が口を開くのを待ちながら、冷たくなった彼女の指先を自分の手で包んで暖めた。
会話の途中で、ふと彼女が口をつぐむと不安になった。ここ最近、いつもそうだ。いつも麻子は俺のそばにいた。ふたりでいる間は、彼女の意識はいつも近くにいた。それは現実のものとして体温があった。ほのかに暖かい生命体のように彼女の意識は俺の体の周りを取り囲み、やわらかい羽毛のように軽やかに俺の心を癒した。近くにいるのだという安心感で満たされた。
でも、ここ最近は2人でいても、彼女の意識が時折ここにいないことを感じた。薄い膜のような壁が俺たちの間にはあった。もどかしくてたまらない。だけどその壁をどうしていいかもわからなかった。