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7話 この気持は恋じゃなくなる

「いつかは恋じゃなくなるんだよね。」

麻子は言った。

マウンテンバイクを引きながら、一歩後ろを遅れて歩く麻子を振り返った。

「何のこと?」

〝ふたりのことよ。〟

桜の花びらが舞い降りて、彼女の肩まで伸びた髪の毛に降りた。

その花びらをそっとつまんで風に乗せた、彼女の細い指先に胸の鼓動が高鳴った。


あの頃、俺たちは友人の紹介で出会い、付き合い始めたばかりだった。

4月。満開の桜の下を、マウンテンバイクを引きながらゆっくり彼女の歩調に合わせて歩いていた。

桜並木の続く川沿いの道。そこから歩いてすぐのところに大きな公園があり、広い芝生の広場と、ニレ、樫の木、ムクなどの多くの樹木が植えられた緑豊かな公園はニューヨークのセントラルパークを彷彿させた。勤務先までマウンテンバイクで通っていた俺は、急いで公園まで走り、同じく勤務を終えた彼女と待ち合わせした。

緩やかな灯りが幻想のように灯る夜の桜並木を麻子と歩いた。風に乗って桜の花びらが舞い、それに伴い隣を歩く麻子の首筋からほのかに香る甘い香りが鼻をくすぐる。

ほのかな灯りに透ける薄桃色の花の群れと、白いワンピースに桜と同じ色の薄いピンクのカーディガンを羽織った彼女の華奢な肩がすぐ側を歩いているのが、夢の中にいるようで。


だから、唐突にそんなことを言われて戸惑った。

だって、今ふたりは恋の真っ只中にいるのに。

そうじゃないのか?

いぶかしげに思って、

「何でそんなこと言うんだ。」

と聞くと、

「宗司と一緒にいるのすごく楽しいわ。少しでも一緒にいたい。話をしたい。今日でも本当に待ち遠しかったのよ。仕事が終わるのが。宗司と一緒にいる時間ってあっという間に過ぎるの。ずっと一緒にいられたらなって思うわ。」

「これからはずっと一緒にいられるよ。」

俺はそう言った。

少しでも一緒にいたい。

話をしたい。

それは俺も同じだった。

そして、その小さな肩に、その柔らかな頬に触れたい。そしてその先も。

体の中心から熱のように湧き上がってくる感情に翻弄されていた。

ひとりの女性に翻弄されている自分が滑稽で、でもそんな状態に漂っている毎日が楽しくて仕方なかった。

先日、プロポーズしたばかりだった。つきあって3ヶ月も経っていなかったが、麻子しか考えられなかった。

何故って?理屈なんかじゃない。麻子がいない生活なんて考えられなかった。

川が上から下へ流れるように、太陽が東から上って西に沈むように、ごく自然の流れのように俺は彼女を欲していた。

麻子のちょっとした言葉のひとつ、ひとつ。

何でもない仕草や表情。

一緒にいる時間。

そんなものが自分にとっては今一番必要なものだった。

麻子はちょっと考えるようにして、自分のヒールの足元を見ながら歩調をゆっくりと下げた。

「どうした?」

バイクを止め、麻子を振り返る。


〝これ。〟

麻子は頭上の桜の花を指差す。

彼女の指先の上を、白い花びらがちらほらと風に舞った。

麻子は対岸の川の方へ頭を垂れた桜並木に目をやった。

そして堤防の道にしゃがみこんだ。

それにあわせて俺もマウンテンバイクを脇に止め、彼女の隣に腰を下ろした。

「桜って綺麗ね。どうしてこんなに綺麗なのかな。」

俺は何も言わず麻子の横顔を見つめた。

「桜が、こんなに綺麗な花を咲かせる時間って本当に短いのよね。あっという間に咲いて、潔く散る。儚いわ。」

〝でも、儚いって美しいことなのよね。〟

麻子はぽつんとつぶやいた。

俺はなんと言っていいのかわからず、そのまま黙って彼女が話を続けるのを待った。

彼女が何を言おうとしているのか、何を望んでいるのかわからず不安になった。

「寂しくなったの。桜を見ていたら。今、宗司は私に恋している。だけど、結婚したら宗司が私に抱いている気持ちって、なくなっちゃうんじゃないのかなって。気持ちが変わっちゃうんじゃないのかなって思ったら急に不安になったの。」

「気持ちは変わらないよ。麻子を大事に思っている。」


それは本音だった。気持ちが変わるなんて想像もつかなかった。これからだって、何年経ったって、結婚して子供が出来て彼女がおばさんになっていったって、麻子に対する気持ちが変化していくなんて考えられなかった。

「信じられないのか。麻子はどうなんだ。」

その言葉を口にした途端、真っ黒な墨が広がるように急に不安な気持ちが胸をいっぱいにした。

「信じている。だけど結婚したら恋じゃなくなるんだよね。こういう気持ちってお互い消えてなくなるんだよね。」

麻子の視線は川の水面をじっと眺めていた。

真っ黒な水面に、灯りに照らされた桜の姿が影絵のように揺らめいていた。


女の子の気持ちってよくわからない。

正直な気持ちだった。

俺は麻子に惚れているし、結婚の約束もした。来年には、市内に出来たばかりの広いヨーロッパ調の美しい庭がついた結婚式場で式も挙げる予定だった。

なのに、何故麻子がそんなことを言い出すのかわからなかった。

「結婚したら、生活していかなきゃならないし、今までみたいにそんなに遊びや旅行に行ったりして贅沢は出来ないかもしれないけど、麻子との時間を大事にするし、今までどおり気持ちは変わらない。それだけじゃ駄目なのか。」

彼女が求めているものって何だろう?

御伽噺のようなお城であげるチャペルウェディング。長いとレーンを引いた真っ白なドレス。大勢の友人や親戚、親兄弟に祝福される幸せな結婚。

その先?

その先に何があるのか、それは俺だってわからない。

わからないから一緒にやっていくんじゃないのか。

麻子は寒そうに夜風に肩を震わせた。彼女の白いワンピースの裾が風に揺れた。

「行こう。暖かい物でも飲もう。」

俺は彼女の肩を抱いた。

その時、暗い水面に何かが跳ねるような音がした。


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