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5話 ちっぽけだけど大事なこと

「宗司さん、聞こえないの。」

「何?」

「携帯、鳴ってるわよ。」

ベッドに横たわっている彼女を横目で見、スーツのポケットから携帯電話を取り出す。

(麻子。)

麻子の携帯番号。

コール音をしばらく聞いていたが、出るのを躊躇う。

留守電のスイッチを押す。

「別に出ても構わないわよ。」

彼女がベッドから起きだしシャワーを浴びに消えていく。

冷や汗なのか、シャワーを浴びたばかりで体が火照っているのかわからない。

汗が噴出す。

彼女は手馴れているみたいだ。情事の後に、妻から電話が入った男の様子を、いつも見慣れているような顔つきで見ていた。自分が動物園の檻に入れられた猿のように思えた。滑稽だ。

遊びだと割り切っている、割り切れる彼女。

妻を家に残し、俺は何をやっているのだろう。何を求めているのだろう。


彼女は取引先の受付嬢。

何度か顔をあわせているうちに親しくなり、今度ランチにでも。

ランチがディナーになり、ディナーがお酒になり、そしてお決まりのコース。

麻子の顔が浮かんだ。

ソファにひざを抱えて座り、CDケースの角を爪でいつまでもひっかいていた。

麻子と向き合うのが苦しくなると、彼女に電話した。

それが何かの解決になるのかと、誰かに問われてみたかった。

何の解決にもならない。問題と向き合うことを避け、時間稼ぎしているだけだ。

わかっている。


彼女がシャワーを浴びる音が聞こえてきた。

数分後、このドレッサーの前で彼女は髪の毛を乾かし、化粧を直す。

そして、何事もなかったかのように俺は彼女を駅前のロータリーで下ろし、そして、何食わぬ顔で麻子の待つ家に帰る。

鏡の中に自分の顔が映っていた。

少したるんだ頬。今朝剃ったばかりの顎にはもう薄っすらと髭が伸びかけている。そのざらざらとした髭の生え際を手でなでてみる。

人は、実際の年齢より若く見えるねと言う。

だけど、もう若くはないことは自分にははっきりとわかっている。

いろんなものに期待をした。いろんなことを夢見た。

先にはもっと今よりも、いろんなものやいろんなことが待ち受けていて、自分の生活に彩りを与えてくれたり、その中には無から何かを起こし、形作っていく可能性があり、それが自分の人生に大きな意味を成してくれるものだと思っていた。

そう漠然に。

時間が無常にも過ぎていき、これはといった確信に満ちたものを得ることもなく、日々の生活に追われるだけの自分がいた。

鏡の中には、生活と自分の所在無さに疲れ始めた中年の男がいた。



誰かに繋ぎ止められたかった。

鏡に映る顔、この手、腕、肩。

本当に自分のものなのだろうか。ふと、そんなことを思う。

違う次元にもう一人の自分がいる。

もしかしたらそれが本当の自分なのではないかという思いに囚われる。

ここにいる自分が、こうして遊びだと割り切れる女と過ごしている時間が、本当に実在するものなのか。

そんな感覚に戸惑う。

さっきの電話のことを考える。

夕食はどうするのか、家で食べるのか、麻子はそれを聞いてきたのだと思う。

麻子はひとりで食事を取ることが嫌いだ。昔からそうだ。

ひとりで食事をしても食べた気がしないと言って、仕事で遅くなっても必ず俺を待って一緒に食事をした。

今も待っているのだろうか。

それは麻子にとっては小さなことだけど大事なことなんだろうな。

小さなこと、ちっぽけなこと。だけど大事なこと。

俺にとっては、それは何なんだろう。



結婚して間もない頃のことを思った。

あの頃は小さなこと、ちっぽけなことに喜びがあったような気がした。

休日の過ごし方。

麻子は計画を立てていろんな場所へ遊びに行くことを好んだが、俺は計画することが苦手で、特に休みの日は計画に縛られることが嫌だった。

毎日会社に行くと、会社に時間を束縛される。上司の命令には従わなければならない。計画立てて仕事をし、良い営業成績を収めなければならない。

接待や付き合いで就業時間後もしばしば拘束される。

飲みたくもない酒を飲み、言いたくもないお世辞を言い、神経をすり減らす。


〝休みの日くらい自由にさせてくれよ。〟

そう言うと、麻子はちょっと不満そうに口を尖らせたが、

〝いいわよ。あなたの好きなようで。私は合わせるから。〟

と言った。


その日も、どこへ行くともあてもなく車を走らせた。

目的もなく気が向く方向へとハンドルを握る。

そんなドライブが俺は好きだ。

混雑する町並みを出て郊外へ抜けると、緑の山や通りに植えられた樹木たちが、目を楽しませてくれる

麻子は車窓から景色を眺め、あれこれといろんな話をし、あてもないドライブを楽しんでくれた。


〝おなかがすいたわね。〟

昼を過ぎていた。

〝じゃあ、蕎麦を食べよう。おいしい蕎麦。〟

麻子が蕎麦好きなのを知っていた。

〝蕎麦?〟

〝この辺でおいしい蕎麦屋さんを知っているの?〟

麻子が聞いた。

おいしい蕎麦屋を調べていたわけじゃない。思い付きだ。

〝いつもあなたはそうよね。フィーリングで動く人だから。〟

麻子は笑った。

俺たちはナビで検索しながら、通りにある蕎麦屋を一軒、一軒丁寧に見て回った。


あの門構えはいかにも高そうよ。

そうだな。給料日前だし、やめておこう。

あれは?

車が一台も止まってないよ。きっとまずいんだよ。

そうね。

この店はどうかしら?

うん、何かぱっとしないな。


結局、土産も買いがてら、道の駅に隣接する蕎麦屋に入った。

その土地は蕎麦作りが盛んな土地で、自治体が運営する道の駅も、手打ちの麺を看板に蕎麦を出すレストランを隣接し、お土産や地元の特産品にも蕎麦を使った商品が豊富に並んでいた。

レストランに入り、かけそばを2杯頼む。

蕎麦が来るのを待ちながら、道の駅の広場に面したガラス窓の外を人が行き交うのを眺めていた。

小さな子供を連れた家族連れ。年老いた両親を連れた初老の夫婦。若いカップル。いろんな人たちがいた。俺たちと同じような夫婦らしき2人連れも多い。

普通の人々。

笑ったり、しゃべったり、むすっとして歩いている人もいる。

アイスクリームを食べたり、土産物が入ったビニール袋をぶら下げて歩いてる。

普通の人々の、普通のなんでもない休日。

俺と同じような、普通の生活をする普通の人たち。

この中には、いろんな悩みや生活の大変さを抱えて、生きている人も多いのだろう。仕事で悩み、家族間の問題を抱え、中には金銭のことや、人間関係でトラブルを抱えている人たちもいるだろう。

そんな人たちの営みを見て、ほっとして安心している自分がいた。


その頃の自分は、東京での仕事をやめ、両親を安心させる為に地元へと戻っていた。事務機器メーカーの仕事は特にやりたくてしょうがないようなものでもなかった。

田舎での就職には糸目をつけてもいられない。

生活できるそこそこの収入と安定を得ようとしたら、職種などはそんなに選んでもいられなかった。都会とは違う。働ける場が限りなく少ない。

地元にいたくても仕事がなく、都会へと出て行く若者も多い。

両親から乞われなければ、俺も東京に出たまま戻るつもりもなかった。そこで伴侶を見つけ、結婚し、住まいを買うつもりだった。


それでも、麻子というすばらしい伴侶を得、仕事も安定しそこそこの収入も得ていた。両親の安心する顔を見ることもできた。何も問題もなく、何も不満はなかった。

だけど、時折これでいいのかという思いに駆られた。結婚してまもなく麻子は妊娠した。来年には父親になる予定だった。こうやって人の親になり、マイホームのローンを払い、毎日ネクタイを締めて会社に行き、何年、何十年という月日が過ぎるのだ。それを思うと、果てしない長い道をいつまでも同じ歩調で歩いていく自分を想像して、とてつもない不安と脱力感に襲われる。


だけど、こういう場に来ると、皆同じなんだよな、たぶん俺と同じようなことを考えているやつらもきっと多いんだろうな、なんて思うと、この行きかう人々に変な繋がりを感じ、知りもしない人たちに不思議な親近感を覚えた。

そこにそばがやってくる。

これまた普通のねぎとかまぼこと鰹節が乗っかった普通のかけそば。

それを麻子がおいしそうに食べる。

「ただの蕎麦でごめんな。来週はもっとおいしいものを食べに行こう。」

と俺は言った。

ちょうど給料日前の休日だったからだ。

来週末にはもう少し高価なおいしいものを麻子に食べさせに行きたかった。

すると麻子は、

「宗司と食べたら、何でも美味しいよ。」

と笑った。

どんな美味しいご馳走を食べても、ひとりだったら美味しく感じない。ふたりでこうやっておしゃべりしながら、笑いながら食べるから美味しい。ただのかけ蕎麦でも、すごいご馳走だよ。

そう付け加えた。

麻子は蕎麦を食べながら、ガラス窓の向こうを通り過ぎる人たちを興味深そうに眺めていた。本当に楽しそうな様子だった。

あのときの麻子の表情は本当に幸せそうだった。そしてそれを見るのが嬉しかった。

胸の中が暖かい何かで満ち溢れた。

それが幸福というものの正体なんだろうか。


あの時の蕎麦は美味しかった。

本当小さなこと。ちっぽけなこと。

だけど大事なこと。

麻子がいて、麻子と過ごす時間。

何の変哲もない休日。

そう、大事なことってそんなことなんだ。

ちっぽけな、日常的な、どうでもいい明日になれば忘れ去られるようなそんな出来事の積み重ねが。


麻子が俺を繋ぎ止めてくれる。


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