3話 無機質な音
「あなたは私のこと何もわかってないのよ。わかるわけないわ。」
麻子が頭を掻き毟る。部屋の隅にうずくまって小さく震えながら、いつまでも頭を掻き毟る。長いストレートの髪がくしゃくしゃになって彼女の指から零れ落ちる。
「麻子。」
妻の肩を両手でつかみ顔を覗き込む。麻子は顔を見られまいとして下を向き、俺の手を解こうとしてやっきになる。俺は麻子の手をつかみ、頭を掻き毟るのを止めさせようとする。彼女はそれに反発してますますヒステリックに頭を掻き毟る。それを止めようとさせる俺の手を振りほどく。俺は麻子を落ち着けようと必死になって声をかけ、かき抱こうとするのだが、彼女の気持ちは静まらない。そうこうしているうちに、また彼女の神経が炎を上げるように高ぶり、甲高い泣き声とともに彼女の体は床に崩れ落ちた。
まるで小さな子供が地面に突っ伏して泣くように、震えるような小さなか細い泣き声をあげ、妻は体をぶるぶると震わせた。
「麻子。」
もう一度声をかける。
反応はない。
彼女が泣き止むまで、じっとリビングの冷たいフローリングの床に一緒になって座り時を待つ。
こんなことがもう何度繰り返されるのだろう。
俺はため息をついた。そう、麻子にわからないようにひっそりと。
時を見て麻子が落ちついた頃、ゆっくりと彼女の体に手を回し、そっと抱き寄せる。妻は何も言わず泣きはらした顔を俺の胸にうずめた。彼女の長いストレートヘアをゆっくりと何度も何度も繰り返しなでる。
そうしているうちに麻子は昔の麻子に戻る。
それが俺にはわかっているが、もう何度こんな夜が過ぎたのだろう。長い出口のないトンネルの中をふたりしてさまよっているようだ。
時計が12時の針を指し、ボーン、ボーンと鈍い曇ったような音を立てた。それを合図に妻に声をかける。
「何か飲むか?」
麻子は暖かいものが飲みたいと答えた。
妻をソファに座らせキッチンに立つ。
戸棚からカモミールがブレンドされたハーブティのパックを取り出し、透明のガラスポットに入れお湯を注ぐ。ガラスポットの中で、まるで何かの生き物が息を吐き出すように茶色いハーブティの成分がお湯に溶け込んでいく様を見ながら、2年前のことを思い出す。
妻が流産した。これで2度目だ。しかももう5ヶ月に入っていた。
大学を卒業して東京で2年ほど商社に勤めた。その後、突然5歳上の兄が病気で他界し、心細くなった田舎の両親に呼び寄せられ、地元へ戻った。その時、友人の紹介で妻の麻子と知り合った。麻子はインテリア関連の会社でデザイナーとして熱心に仕事に打ち込んでいたが、俺と付き合いだしすぐに妊娠。急いで籍を入れ、両親の住む実家のすぐそばのアパートを借りた。
両親は初孫の顔を見ることをひどく喜んでいたが、染色体の異常が原因で6週目に入った頃に自然流産してしまった。妻も両親もひどくがっかりしていたが、その時はまだ20代で二人とも若く、すぐにまた妊娠するだろうと半ば楽観的に考え、妻も時折アルバイトのようなことをし、近所の友人とテニスに出かけた。
俺は地元に戻ると同時に、今の事務機器のメーカーに勤めだし、休日は妻とドライブに出かけ、週末には両親が住む実家に顔を出し、4人で食事をした。
そんな生活が8年ほど過ぎ、俺たちは30代の半ばに差し掛かっていた。
麻子はいつかまた子供が出来るだろうと考え、パートやアルバイトの仕事をし、あんなに熱心に打ち込んでいたインテリアの仕事に戻ることを口にすることはなかった。
そんな頃、またふいに子供が出来た。
今度ばかりはと、妻も俺も両親も期待をし、大事をとりすぎるほど大事をとった。家事も積極的に手伝った。やっと4ヶ月に入り、一安心かと安堵した頃、また流産してしまった。お腹の中で子供はおたまじゃくしのような形のまま、成長を止めてしまった。原因は何かわからなかった。それが2年ほど前のことだ。
それから麻子は人が変わったようになってしまった。
明るく、快活で人付き合いもよく、周りに気遣いが出来る優しさを持ち、いつも穏やかだった彼女が、ちょっとしたことで神経質になり、俺の言うことに過敏に反応するようになった。そして、テレビで子供や赤ちゃんの映像が出ると、顔をしかめ、泣きそう表情をした。
それを俺は見過ごした。触れないほうがいいと思った。
友人が子供を連れて遊びに来ると、麻子は嬉しそうに子供に接し、優しく声をかけ、あれこれと世話を焼いた。だけど、友人が子供を連れて家を後にすると、急に発作を起こすように、金切り声を上げ部屋に閉じこもって泣いた。
そんな時、さっきのように彼女が落ち着くまで一緒に時を待った。
麻子は言った。
「私、ここに何故いるの?どうして私は存在しているの?どんな意味があるの?」
と、繰り返し俺に問うた。
原因は流産したことだ。それはわかる。
だが最近は何故か理由はそれだけじゃないような気がする。
もっと深い何か。彼女の心の底にあるもっと深い何か。
それが麻子を苦しめている。
カリ、カリ、カリ・・・
リビングから音が聞こえる。
カリ、カリ、カリ・・・
麻子がぼんやりと床のダウンライトを眺め、近くにあったCDケースの角を指で引っかいている。
カリ、カリ、カリ。
妻をひどく遠くに感じた。
そして、また自分の無力さを感じる。
音は途切れない。
カリ、カリ、カリ、カリ。