2話 川岸の道
自然のものっていうのは、見ていて飽きない。
何故、人口の物は見飽きるのだろう。
どんなに趣向を凝らし、どんなに工夫をつくした美しい物でも、人口の物にはここまで心を奪われることはない。
心を奪われるというのは、あまり的を射た表現ではないかもしれない。
そう、馴染めないと言ったほうがしっくりくるのかもしれない。
そんなことを思いながら、川面を渡る風に吹かれていた。
川の色は何色?
子供に絵を描かせると、水色だったり、青色だったりする。絵画を見ると、濃い緑だったり、黒だったり、茶色だったり。人の視覚に移る川の色はさまざまだ。だけど、本当は川の色は透明だ。川の色なんてない。
大雨が出て荒れた天気の後は濁った濁流に姿を変えるが、いつもは穏やかな川の流れは透き通って透明で、川底の石までが透けて見えるくらいの清流だ。
俺は、川岸に立ちマルボロに火をつける。
少し離れた下流では、蓑笠をかぶった釣り師の姿が見える。
川の流れの中に身を置き、微動だせず釣り糸をたれている腰の曲がった老人の姿を目の端で観察する。
ここではのんびりと、本当にごく自然に時が流れているような気がする。そんな時、自分が身を置いている社会、世間の流れは、どことなくぎこちなく不自然なもののように感じる。川の流れを一心に眺めていると、自分がその流れの一部になっていくような不思議な感触に身を包まれるのを感じる。
だけどそれは決して不快で嫌なものではない。その感触に浸りたいがために、時折ここを訪れるのだ。
俺は、プリンタやFAX、パソコンなど様々な事務機器のリースなどを主に手がけている会社に身を置いている。新規の顧客を開拓するために営業に出たり、定期顧客のリース機械のメンテナンスを巡回して行っている。この場所は、そんな外回りの途中で見つけた場所だ。定期の顧客を巡回するルートの途中にこの場所はある。
最近はおりしもの不況を受けて、なかなか新規の顧客を取ることが出来ない。会社での残業も減った。上司はいつも苦虫をつぶしたような難しい顔をしている。数字に追い詰められる毎日。そんな状況に疲れると、時折この場所に訪れる。
川岸の堤防を入ったところに空き地があり、そこに営業車を留める。
白の古ぼけたワゴン。トヨタの古い型のスプリンターだ。
振り返り車の位置を確認しながら、ゆっくり川岸の道を歩く。
川を舐めるようにして桜並木が続き、そこを真っ直ぐ歩いていくと、ふと思いついたように開けた道へ出る。
草が生い茂る堤防沿いの道。車が一台通れるか通れないかという細い道に、車が通ることはめったにない。川の遥か下流の方向に高速道路が通っており、行き交う車と定期的に並んだ高速のリノリウム灯が見える。
気が向くと、タバコをくわえたまま、高架下まで歩くこともある。
夕暮れにこの辺りを歩くのが好きだ。
6月の梅雨時期特有のむっとした湿気を帯びた嫌な空気が、少しだけ軽さを含み、心地良い川面の風となって体を吹き抜ける。
スーツの上着を脱ぎ、シャツだけになってネクタイを緩める。
ポケットから携帯の灰皿を取り出し、タバコの火を消す。
そしてもう一本マルボロに火をつけ、ゆっくりと味わうように吸い込み、煙を吐き出す。紫煙の流れと川の流れを交互に眺め、意識を川の流れと同化するように心を無にしていく。
その時、ふいに声をかけられた。
〝宗司。〟
この声。
遠い記憶が自分の中でゆっくりと、そしてはっきりとかたち作る。
今吐き出した紫煙が何かの形を作り出すのを、ぼんやりと眺めるようにその光景は自分の前に現れた。
と、同時に夢の中にいるような不確かな空間の中へ自分が移動したことがわかる。
自分はリアリストではない。
そう思う。
じゃなければ、この状況に体が反応するわけがない。アレルギーの子供のように体がまず先に拒否反応を示すだろう。
だけど、俺は自然にその声に反応した。
「功一。功だな。」
「まだタバコ止められないのか。宗司。」
3メートルほど先に功がいた。高速の高架へと続く緩やかな堤防の道に。傾きだした陽が作る影に沿うようにして彼はいた。
「今までどこにいた?」
「ちょっとな。」
彼はこちらを向いて笑顔を見せた。
変わらない。
ブルーのチェックのシャツの裾をひざが擦り切れたジーンズの上に出し、足元には白のナイキのシューズ。よく目にしたスタイル。
ニキビの跡が残る頬。薄っすらと生えた無精ひげに、折れそうなほどの細い首。幼さの残る表情。20年前の自分を見ているようだ。
功はゆっくりと歩いて俺に近づいてきた。
消えないだろうか。
何故かそれを気にしていた。
功が歩いて俺の近くまで来るうちに消えてなくなりはしないだろうかと。
だけど、確かな足取りで彼は俺のすぐ隣までやってきた。
肩が触れ合うほどの至近距離まで。
だけど、体温は感じられない。
そう、生きている人間の体温だ。
功は死んでいる。
間違いなく。それだけははっきりと実感した。
あの春の夜。折れ曲がったガードレール。道路にこびりついた赤黒い血の色。
消すことも変えることも出来やしない。あの事実を。
鉄屑のように折れ曲がって煙を上げたバイクと共に、功は逝ってしまったのだ。
永久に。