12話 Here
〝あれは夢だったんだろうか。〟
手に固い感触と、ずっしりとした重みを感じながら、一時その赤い懐中電灯を見ていた。
功が手にした。功が指しかけた明り。俺を包んだ。
安心感、その暖かさと人の思いに繋がっているという安心感。
功は笑った。
〝僕たちは途中。ここにいる。それだけでいいんだ。〟
何となく、先が見えてきたような気がした。明るい光が差し込むような。
「あなた。ご飯が冷めちゃうわよ。」
階下から麻子の声がした。
「ごめん、今行くよ。」
階段の端から大声で返事をし、スーツの上着を脱ぎにかかる。
あの、赤い懐中電灯がまだあるのか気になって、仕事からすっ飛んで帰ってきた。
あの夜のことは夢なのか、現実に起こったことなのか、自信がなかった。
気がついたら朝だった。隣に麻子が眠っていた。眠っている妻の髪の毛の感触を確かめると、柔らかい花のようなやさしい香りが鼻をくすぐった。
スーツの上着をクローゼットにかけようとして気がついた。
(そういえば、あの半紙に包んであったものって。)
功が俺に手渡したもの。あの半紙の包みをポケットに入れたままだった。
あの日、来ていたスーツ。
ポケットの手をいれるが、指先には何も触れない。
空だ。
(変だな。このポケットに入れたままだったのに。)
功が何を俺にくれたのか、気になった。
それとも、あれは夢だったのだろうか。
功の話す息遣いが現実のもののように感じられてた、あの川岸の道の風景を思い起こした。
「お、今日は俺の好物だな。」
テーブルの上には、サーモンのマリネと肉じゃがが並んでいる。
「サーモンのいいのが手に入ったのよ。それと掘りたてのジャガイモを隣の奥さんから頂いたのよ。」
白いエプロンをつけた麻子が笑顔で振り返った。
(今日は機嫌が良さそうだ。)
白い頬を少し上気させたように微笑む妻を見てそう思った。
「何かいいことあった?」
俺の問いに答えずとも、目は笑っている。
「これ、見て。」
麻子がキッチンのカウンターから取り出したのは、小さな素焼きの器に入った鉢植えだった。
ひょろっとした細長い茎の先端に、薄い紫色をした小さな花がついている。
触れると壊れてしまいそうな薄い透けるような花びら。
まるでガラス細工のようだ。
「へえ、可愛いなあ。」
「そうでしょ。私が育てているのよ。今朝、気がついたらこんな可愛い花が咲いていたの。」
麻子にガーデニングの趣味があるとは知らなかった。あの丈夫な観葉植物、ポトスでさえ枯らしてしまうのに。
「珍しいな、麻子はポトスでも枯らしちゃうのに。」
「それを言わないでよ。」
麻子は口を尖らせて、付け加えた。
〝植物の世話が嫌いなわけじゃないわよ。ポトスはたぶん私と相性が悪いだけなんだから。〟
「でも、どうしたの?急に。」
花を植えたり、土いじりをする様子を今まで見たことがなかった。時々、切花を買って花瓶に生けたりするのは見たことがあるけど。
「これ、あなたのスーツのポケットに入っていたのよ。」
「スーツのポケットに?」
「そうよ、半紙に包まれていて、何かなと思って包みを開けたら種が入っていたの。」
「種?」
功がくれた包み。あれ、種が入っていたのか。
何故、種なんだろう?
クリーニングに出そうと思って、上着のポケットを確かめていたら小さな半紙の包みが出てきた。中に種がいくつか入っていたので、興味を惹かれた彼女が試しに小さな鉢に2、3粒植えてみたら、あっという間に芽が出て花が咲いたというのだ。
「今までこういう気持になったことってなかったんだけど、植物を育てるって楽しいのね。」
麻子は新しい楽しみに夢中になっているようだ。
「土から芽が出て、その芽がどんどん大きくなっていって、葉をつけて。すると毎日〝今日はどのくらい大きくなったかな。〟って、見るのが楽しみになってくるの。水をやったり、土を足したり、そういう世話がね、なんていうかすごく楽しいの。」
「へえ、そうなんだ。」
「じっとこの小さな植物を眺めていると、日々変化していくのを感じる。命が育っているっていうのかな、そういうのが何だか。」
「何だか?」
「愛おしい。」
麻子は照れくさそうに視線を逸らした。
〝愛おしい。〟
命が育っていく過程を見ることが、感じることが、その命に対して愛おしいと思う感情が。
ふたりの間に訪れることなく、去っていった小さな魂のことを思い起こした。
命を育てることが、彼女にとってはつらいトラウマなのではないかと、俺は勝手に思っていた。
だけど、それは勝手な俺の思い込みだったらしい。
現実、この小さな植物の、小さな命が、麻子を癒してくれているみたいだ。
「興味をひかれたから、他にもいろいろと植えてみたのよ。」
麻子はそう言い、俺の手をとってベランダへと誘った。
アパートの猫の額ほどの小さなベランダに、いくつかの鉢が並び、小さなコンテナには緑色の葉をつけた苗が植えてあった。
「これから寒くなるから、あまり数はないけど、チューリップとムスカリの球根も植えてみたの。春になると咲くからね。」
「楽しみが増えたな。」
そう返すと、麻子は嬉しそうな顔をした。
食卓に戻り、サーモンのマリネをつつきながら、ビールをグラスに注ぎ、二人で飲み始めると、麻子は、
「私、このままでは駄目なんだよねって、ホントはわかっていた。」
脈絡もなく話を始める彼女に戸惑って、
「急に何?」
そう返すと、
「宗司、こないだ夜中にどこかへ行っていた。」
ああ、あの晩か。
「宗司もつらいんだよねって。私がこんなんだから。」
あの日、実家に顔を出して帰宅した後、麻子がひとしきり取り乱して、もめた時のことを言っているのだとすぐにわかった。
「気にするな。」
麻子は首を振った。
「何か始めたらいいかもしれないって思って、気分転換にもなるからって、自分でもそう思った。」
「で、ガーデニング?」
そう言うと、
「いい趣味でしょ。」
おどける妻。
「ああ、いいと思うよ。」
麻子は麻子なりに、考えているんだ。
俺より前向きかな。
あれからふと嫌になって、例の受付譲嬢との関係を清算した。彼女は、思ったとおりあっさりと別れ話に首を縦に振った。
「さ、もっと食べて。」
麻子は俺の皿に料理を取り分け、勧める。
「麻子のそういう楽しそうな顔って、久しぶりに見る。」
「え、そうかしら。」
「でも。麻子が楽しそうにしているのを見るのが、嬉しい。」
「ホント。」
「ホントだよ。」
彼女の顔を見ていればわかる。だって毎日一緒に暮らしているんだから。落ち着いて穏やかな時の麻子は、ゆっくりとした動作で動き、ふくよかな頬を膨らませて笑う様は、白い花が咲いたようだ。そんな麻子を見ているのが嬉しい。こちらまで楽しい気持になる。
「結局、夫婦って合わせ鏡みたいなモンなんだと思うよ。」
「合わせ鏡?」
麻子は首を傾げた。
「つまり、麻子が幸せなら、俺も幸せ。お前が悲しいなら、俺も悲しい。」
小首を傾げて、少し考えた後、彼女はこう言った。
「私、前も言ったことがあるけど、何かをしないと人に愛されないって思っていた。宗司に何かしてあげないといけないって、ずっと思っていた。だから。」
確かに麻子は献身的な妻だ。料理も美味しいし、部屋もいつも綺麗だし、いつも俺のことを考えてくれている。
そして、子供のいる楽しくて、暖かい家庭。麻子が夢見た幸せな家庭。だからこそ子供もあんなに欲しがったのだろう。
「子供のこととかもそう?」
彼女の顔を覗き込む。
「宗司、嬉しそうだったから。あんな顔始めてみた。はにかんだような、にやけた感じで、宗司もこんな顔するんだって、びっくりしたけど、私もすごく嬉しかったから。」
最初に妊娠した時。それを聞いた時の俺の表情が、あまりに嬉しそうで、忘れられなかったと。
「そんなことを重荷に思ってたの。俺のせい?」
麻子は首を振った。
「宗司のために赤ちゃんをって、そればっかりを思ったわけじゃないけど、二回目に流産した時、自分の存在価値って何だろうって、考えてしまったの。宗司と幸せな家庭を築けなかったら、私はどうしてここにいるんだろう、自分は何をしていったらいいんだろうって、わからなくなってしまったの。」
妻が悲しそうに涙目になったのを見て、思わず肩を抱き寄せた。
「馬鹿か。お前は。」
麻子はびっくりして俺の顔を見つめる。
俺は笑った。
「今だって幸せじゃないか。どうしてずっと先ばかり見ているんだ。」
「先?」
「そうだよ。麻子は今を見ていない。今、こうしてふたりでいるんだ。こうやって美味しいご飯を食べている。幸せじゃないか。」
〝違うか?〟
目で問うと、麻子は首をゆっくりと横に振った。
「麻子がここにいてくれるだけでいい。麻子が毎日楽しそうに笑ってくれたらいい。それだけでいい。」
「それだけ?」
「そうだ。それだけだ。それだけでいいんだ。」
物事の本質って、結構シンプルなのかもしれない。俺はそう思った。好きな人がいる。愛している人が楽しそうにしてくれている。それだけでいい。それだけで自分も幸せだ。何も望まない。
〝だからさ、腹減っている時って、飯食ってれば幸せだろ。そんなもんだろ。〟
功の笑う顔が見えるようだ。
「それにさ、途中でいいんだ。先の事をあれこれ考えるのもわかるけど、いや、俺も結構そういう人間だからさ、わかるんだ。麻子のこと。だけど、この途中の道筋を楽しんでいこう。その先に何があるのかは、ふたりでゆっくり考えていこう。それでいいんじゃないか。」
麻子はほっとしたような顔をした。
「私、ここにいる。それだけでいいんだね。」
繰り返した。
「そうだ。それだけでいいんだ。」
「さ、食べよう。せっかく麻子が作ってくれた肉じゃがが冷めちゃう。」
「そうね。」
麻子も笑って、食卓の席に着こうとし、はっと思い出したように、
「そういえば、宗司に葉書が来ていたわよ。」
「葉書?」
ダイニングテーブルの脇のチェストから、一枚の葉書を彼女は取り出し、俺に渡した。
「わ、懐かしい。」
表書きのミミズが張ったような癖のある文字を見て、一発で差出人がわかった。
「誰?」
長屋さんだ。
実際会う機会は減ったが、それでも彼は、山へ入った際に撮った写真を時折葉書にして送ってくれる。今までも、神々しい日の出に照らされた山頂の写真や、切り立った崖を思わせる尖った山頂の岩に立つ彼の写真や、またあるときは可憐な山野草のアップの写真や、いろんな写真を送ってくれる。下には必ず長屋さんの自筆でメッセージが。
裏をひっくり返して、心臓が音を立てた。でも次の瞬間、胸の中に灯がともるように、ほのぼのとした暖かい心持に身が浸された。
「麻子。」
「うん。」
「たまには山へ行ってみようか。」
「山?」
テニスで鍛えた彼女は、スポーツは何でも好きだ。嬉しそうに目を輝かした。
「楽しそう。」
「よし、じゃあ今週末は決まりだな。」
紅葉に色づく山の稜線が目に浮かんだ。山へ入ってみようなんて、こんな気持になるなんて自分でも不思議だった。そう、麻子と行ってみよう。またあの神聖なる心安らぐ空間へ。
〝たまには山へ登らんか。〟
長屋さんの自筆のメッセージが書かれた裏面には、薄い紫色の可憐な花弁をつけた山野草が、涼しげに風に吹かれていた。