10話 夜の道
たまらなくなって家を抜け出した。
夜道の暗い電柱の明かりを頼りに、今抜け出してきた建物を振り返る。
小さなアパート。メゾネットタイプの出窓と広いベランダがついた白い部屋。明るい陽光が大きな窓からいっぱいに差し込み、フローリングの床はぴかぴかに磨き上げられ、オーブンからは麻子が焼いたほうれん草のキッシュの焦げるいい匂いがした。
幸せだったのに。
いや、今でも幸せなのだ。
麻子がいるから。
でも。
今、麻子がどこにいるのかわからない。麻子が立っている場所の距離がつかめない。
もどかしくて、心が小さく振動して、その音がすぐ耳元の側でざわめいてたまらなくなった。
ベッドで、安らかな寝息を立てて眠る麻子のパジャマのクリーム色の薄い生地が、胸の辺りで上下するのを、ベッドの脇に立ってじっと見ていた。
サイドテーブルの上の充電器に立てかけておいた携帯のブルーの画面が小さく震えた。彼女からのメール。密会の約束の確認。
たまらなく自分が嫌になった。
東京から戻ってきたのは、両親が心配だったからではない。もちろん、兄貴に死なれた両親が心配だったのは事実だが、それが戻ってきた理由の大半ではない。
自分の将来にたいしたビジョンがなかった。
商社に勤めだし、仕事が面白くなかったわけではない。それなりに面白かったし、満足していた。だけど、10年先、20年先の自分の姿が見えなかった。明確にここにいて、この会社に勤めることが、自分の求めていることなのだと、はっきり確信を持つことが出来なかった。オールを忘れたボートのようにふらふらと池の真ん中を浮かんでいたようなものだった。だから、両親の懇願に、田舎に帰って親の面倒をみることを、自分の存在価値、自分の目的だと思ったのだ。
「どこか遠いとこ見てるんだよね。俺には関係ないって顔してさ。」
功の言葉が浮かんだ。
だけど、どれだけの人間が自分の存在価値を、生きている目的みたいなのを理解しているというのだ。何の疑惑もなく、何の疑いも持たずに、真っ白に洗濯された洗い立てのシャツのような人生を、どれだけの人間が送っているというのだ。
「宗司は、意識をそこに集中させるってことが出来ないんだよ。」
気がつくと例の川岸の堤防に来ていた。
振り向くと、自分が乗ってきたパールグレイのジェッタが月の光を受けて、怪しくその車体を光らせていた。
(いつのまに。)
薄い月明かりの下に功の姿が見えた。
何故かその月の明かりがラベンダー色の光の渦に見えた。
「お前は俺が考えていることがわかるのか?」
俺は聞いてみた。
功は人の胸の中が透けて見えるかのようだ。
「宗司が悩んでいることは昔から変わらないよ。その悩みを抱えていることが、宗司そのものの本質なのかもしれないけどね。」
功が何を言おうとしているのかわからず、俺は黙った。
月の明かりが眩しいくらいに輝く夜だった。堤防沿いの草むらが、月光に照らされて金色に光った。功が立っている位置がはっきりと確認できた。
あれから功に会いたくて、話の続きがしたくて、何度もこの場所を訪れた。同じ場所なのに、今現在立っているこの空間は俺が何度も行き来した場所とは違うところのような気がした。薄い膜が張ってある。もうひとつの世界の扉が開いていた。そう、ほんのわずかに体をずらすだけでそんな空間がいつでもそこにあるのだ。
功は、薄いブルーのシャツを風に揺らしながらゆっくりとこちらに近づいてきて、俺の肩を叩いた。
「宗司は、どうして僕がここに来たのか不思議に思っているだろう?」
俺は黙って頷いた。話したいことは一杯あったのに、今度会えたら言おうと思っていたことが一杯あったのに、うまく言葉に出てこなかった。
ふたりして堤防の道に腰を下ろすと、眼下に流れる川の流れが少し緩く穏やかになったような気がした。
「また功に会えるとは思っていなかった。」
そう言うと、功は口元を少し緩めて笑った。
「悩んでいることの答えなんて、たぶんひどく単純なものなんだと思う。」
功はそう言った。
「どういうことだ。」
「だいたい腹減ってたら、飯食ったら幸せになるだろ。そんなもんだと思うよ。」
功は笑った。
「山へ行くとそれが実感できた。だから僕たち山へ行くのが好きだったんだよ。」
功は、一番初めに登った山で会ったあの大きな木の存在が忘れられなくて、あの後も何度かあの山に足を運んだ。登山口から1時間半もかからず登れる手軽な山だったから、シーズンの初めなどに足慣らしもかねてよく登った。
でも、ある時、そんな何度も登ってよく知った山なのに、俺たちは遭難しかかったことがあった。功は、その時の恐怖が忘れられないと、何度も俺に語った。
「あの時、あの懐中電灯の明りが宗司を捕らえた時、あの気持は忘れられない。本当に怖かったんだ。」
何故あの時、あんな遅い時間から登り始めたのか皆目記憶にないんだが、通常なら日が暮れる前に林道まで下りてこなくてはいけなかったのに、下山し始めたのが、もう薄っすらと日が西に傾き変えた頃だったんだ。
12月の終わり頃だったか。小春日和の暖かい日で、山頂で食事を取った後、うとうとと俺たちは昼寝をしてしまった。山頂には誰もいなくて、貸切りで、気を良くした俺たちはウィスキーの小瓶を少し空け、そのまま眠ってしまったのだ。
日の傾きを見て、慌てて下山し始めたものの、冬の日の夕暮れは早い。あっという間に日が傾き、西へ沈みだした。慌てていつものコースを下り始めたのだが、その途中で、口喧嘩になってしまった。きっかけはなんだったのか思い出せない。眠り込んでしまったのが、お互い相手のせいだと難癖をつけ始めたのかもしれない。たぶん本当に些細なことだったと思う。ちりぢりになって、功はさっさとスピードを速め、どんどん山道を下りていった。俺は一緒に下るのが嫌で、わざと距離を開けた。それでも日はゆっくりと山の木々の上に黒い影を落とし始めていたから、あせって先を急いだ。功の姿は見えなくなっていた。
屋根を下り、傾斜のきつい足場の悪い岩が転がる道を慎重に下り、枯れた広葉樹の葉を踏み、先を急いだ。ヘッドライトも懐中電灯も何も持っていなかったら、日が暮れたら真っ暗だ。俺はあせって、腕時計で時間を確認した。下り始めてから、1時間が経過していた。もう、あの例の大きな木が立つ沢への分岐点が見えてくるはずだった。だけど、5分経っても、10分経っても、あの木が見えてこない。
背中に冷たい汗が落ちるのを感じた。道を間違えたらしい。
何度も登っている山。道順も、どこを曲がったらいいかも、頭の中に叩き込まれているはずだ。なのにどこで間違えたのか。さっぱりわからなかった。いつもは耳に心地よい枯葉を踏む音もざわざわと嫌な胸騒ぎを代弁するようだった。まだ、日は暮れていていない。薄っすらとあたりは暗くなり始めていたが、日没までにはまだ少し時間がありそうだ。俺はもう一度時計を見た。分岐点がある地点を見つけなければ。沢に出れば後は下へ下るだけだから、日が暮れて道が見えなくなっても、何とかなるだろう。分岐点へ出るまで一時間。10分過ぎているから、今来た道を10分戻ろう。その辺りで間違えたに違いない。
もう一度来た道を慎重に戻り始めた。辺りはますます暗くなってくる。木々が生い茂り、葉の隙間から申し訳なさそうに空が見えるだけだ。日が沈むと、月の明かりさえ僅かしか入らない。視界がきかなくなってしまう。いつもは優しく包んでくれる自然の暖かさが、急に掌を返したように恐ろしい畏敬の存在になってしまうことを、肌で感じた。
時間を計って10分戻ったところで立ち止まり、ゆっくりと辺りを見回した。そこで運よく曲がった場所を間違えていたことに気がついた。緩やかに道が二股に分かれていて、そのどちらもあまり傾斜がついていないので、同じ方向のように見えた。だが、いつもだったら気がつくはずなのに、気がつかなかったのは功に腹を立てて歩いていたからだ。
あいつ、こんなことくらいで怒らなくても。
ふたりとも、この程度の山なら、いつも登っているし、もちろん単独で入ったって全然平気な山だし。そう、のんきに構えていた。
まさか、こんなところで迷うなんて。
ほんの僅かな不注意がこんなことになるなんて。
もう日はすっかり西に傾いていた。ゆっくりと濃い夜の暗闇がすぐ鼻先まで迫っていた。
間違った二股の道を確かめて、今来た道とは違う方向の道を選ぶ。暗くなった山道を手探りでゆっくり歩いていくと、あの木が立っている分岐点まで出た。
俺はほっとした。あとは、沢伝いに下りていけば林道に出られる。
沢を流れる水の音がかすかに聞こえる。沢から離れないように注意深く足を運んだ。沢を横にして歩を進めているうちにすっかり日が落ちてしまい、辺りは暗闇に包まれた。
頭上に視線をやると、申し訳程度に月の明かりが木々の葉の間から顔を除かせている。月の光を頼りに足元に目を落としてみても、1メートル先すらはっきりと見えない。木の根やこぶ、石ころなどにつまずきながら、注意深く歩を進める。そのうち暗さに目が慣れてきた。それでも足元はおぼつかない。ぎりぎりまで手探りで進む方向を模索しなければ進めない。勘だけを頼りに。
時折立ち止まり耳を澄ませる。注意深く音を拾おうとするのだが、風が揺らす葉のざわめきが遠く聞こえるだけで、辺りは静寂と山肌に濃い影を落とす漆黒の闇だけが、俺の周りの空気を包んでいる。
功はどうしただろう。
林道まで下りられただろうか。
ふと、功のことを思う。途端になんともいえぬ恐怖に襲われ、震えが足元から這い上がってきた。
道を探すことだけに神経を集中させていた。功のことを考えた途端、自分がこの闇の中でただひとりなのだと気づき、今更ながらその現実が全身にまとわりついてきた。
恐れをふるい落とすように何度も首を振り、目を凝らす。辺りは闇。ぼんやりと木の影が見える。俺はその場にしゃがみ込んだ。
動けない。
いや、動かない方がいい。
このまま動いてもまた道に迷うかもも知れない。
たかだか1000メートルほどの低い山だと侮っていても、明りもなく何の装備も持たない自分にとっては1000メートル級の低山も3000を越す高山もこの暗闇の中では脅威でしかない。
夜が明けるのを待ったほうがいい。せめてツェルトがあれば風除けになるのに。頬に当たる風が冷たく徐々に気温が下がってきているのを感じてそう思った。だけど次の瞬間、
〝駄目か。明りすらないのに。〟
ツェルトがあったって、設営することも出来ないのに。
自分の考えたことがおかしくてひとり笑ってしまった。
薄い月明かりが木々の葉の間から漏れてくるのを頼りに、風の当たらない方角を探し、そこに腰を落ち着けた。先ほどより夜の闇は濃くなり、遠くの方で、かすかに鳥の鳴くような声が耳に入ってきた。
「あの時はあせったよ。後ろを振り返ったら宗司いないんだから。」
「てっきり後ろをついていると思っていた。だけどあの時、無性に腹が立っていたから、口を開くのが嫌で、それに時間が押していただろ?とにかく日が暮れる前に林道へ出たかったからさ。」
功はあの時の事を口早にまくし立てた。少し興奮しているように見える。
「で、林道へ出てやれやれと思って振り返ったら宗司がいないし、遅れてるんだろう、少し待てば来るかなって思って、その場でだいぶ待っていたんだけど、全然そんな気配もないしさ。辺りが真っ暗になってくるし、宗司来ないし、いよいよやばいな、あいつ道に迷ったかなって、あせってきた。」
功は当時の心境を思い出してか、眉間にしわを寄せて苦虫をつぶしたような顔をした。
あのときの暗闇は、そうちょうどこんな闇だ。
晩秋を思わせる冷たい夜風が頬を撫でていく。功は身震いをしてシャツの襟を立てた。
〝いや、もっと真っ暗だった。〟
〝そうだね、山ン中だから。〟
同じ夜の闇でもここは明るい。
俺たちは川岸の土手に腰を下ろしていた。月の明かりを受けて、草むらに夜露が光っている。川の流れも月光の下、ざわざわとかすかな光を反射して流れ、見るものをひどく幻想的な気分にさせた。