1話 あの明かり
「あなた、夕食出来てるわよ。」
「わかった。すぐ行く。」
妻の声に振り返りもせず返事をして、階段を駆け上がる。
寝室の奥のクローゼット。
吊るされたスーツやコート。その衣類の奥のファンシーケース。
〝これだ。〟
ケースを手前に引き出し、蓋を開ける。
長い年月の間、1度も開けられなかったためか、蓋を開けると湿気たような古ぼけた匂いがした。
ミレーのザック。ノースフェイスのフリース。ストック、アイゼン、コッヘル。
使い込んだ山の道具がこぼれるように出てくる。
懐かしさに息が詰まるようだ。あの山の空気、木々の間を流れる風の音。踏みしめて歩く枯葉の優しい息遣いにも似たあの音。沢を流れる涼やかなざわめき。虫の声。
肌にそれらの懐かしい山の息遣いが張り付いてくる。
使い込まれた山の道具をひとつ、ひとつ手に取り、懐かしさに胸が一杯になりながら、一時の間、その感触を楽しんだ。
そして、クローゼットの奥にひとつの箱を見つける。
古ぼけた茶色の箱。
木製の蓋を開けると、その場の時間が止まったような気がした。
赤い古い型の懐中電灯。
よく使い込んで、あちこちに傷が入り、手に持つ部分が少し薄黒く汚れている。
ああ、あの時の。
歩調に合わせて上下する明り。ゆっくりと近づいてきたあの明り。
泣きそうに顔をゆがめて、ため息ともつかぬ大きく息を吐き出し、俺の肩を抱いた。
〝功。〟
また、行こう。あの時間と場所へ。