*00 かさおい
春。少年が家のドアを開けると、外はしとしとと雨が降っていた。
湿気を多く含んだ雨の日独特の空気は、多くの人間をどこか憂鬱な気分にさせる。しかし、真新しい制服を身に纏った彼――彼はいわゆる「高校1年生」だった――にはそれが当てはまらないようだった。
濃いグレーの上着に雨が滲むのも気に掛けず、学校へと続く坂道を下っていく。
「時間はまだ、大丈夫だよな……」
少年は腕時計に目を向けた。時計の針は12時46分を差している。今日は学校行事のため、登校は午後だ。決して少年が壮大な寝坊をしているわけではなかった。そして案の定、登校の時間は幾分か余裕があった。
その余裕のある時間をどう過ごそうか――、少年は考えを巡らせながら、歩みを再開させた。今日の雨は考え事をするには丁度いいBGMだ、と少年は思った。
曲がり角に少年が差し掛かったとき、ふいに、目前をピンクの傘が横切った。それは、最初は「あれっ」と意識の片隅にちらつく程度の背景だった。しかし彼の脳裏には、次第になにかこみ上げてくるものがあった。
「まさか――……」
その傘に、少年は見覚えがあった。「そんな筈はない」とかぶりを振りながらも、思わず少年は傘を追いかけていた。
水溜まりの水が、勢いよく跳ねて飛び散る。
雨は次第に強くなり、傘を差していても服がびしょ濡れになった。さすがの少年もこれにはやれ、と、普段なら溜息の一つも漏らしたくなるところだが、今はそれさえも二の次である。
生憎、ピンクの傘は急いでいるようだった。少年が追いかけても、中々その距離が縮まらない。時に少年は運動というものがからっきし駄目だった。心底自分の体力のなさを呪う。
下り坂も終わりにさしかかろうという時、ピンクの傘がはた、と止まる。踏切の遮断機が下りたのだ。これはチャンスとばかりに少年の走る速度もグンと上がる。
――が、唐突に傍らの路地から透明なビニール傘を差した、同じ高校の制服を着た少女が少年の視界を遮った。
「わお、グッドタイミング。陽子ちゃんが走ってくるの見えたよぉ」
間延びした声に、ピンクの傘が振り向く。
「私、遅れちゃったと思って。こんな雨で待たせるの悪いと思って……わっ、制服びしょびしょ」
「うわ、すごい濡れ方。派手にやったねぇ」
振り向いた少女の顔は、《彼女》の顔とは違った。少年の中で、急に気分が萎んでいくのが分かった。
「そっか……、そんな訳、ないよ、な……」
脱力して、少女たちが楽しげに歩いていくのを見送る。脱力してはいるものの、不思議と少年は、人違いであったことを悲しいとは思っていなかった。
懐かしい《彼女》の言葉が、ふいに少年の耳に蘇る。
“逃げてもいい。――逃げてもいいけど、いつかは向き合わなきゃならない時が来る。忘れないで”
聞いたその時には、その言葉の意味が少年には分からなかった。陳腐で偽善的だ、なんて当時ひねくれていた彼はそう思ったものだった。
でも、今ならその意味が分かる。
何故だか、そう思った。
「俺は、逃げない」
その呟きは、まるで溜息のようだった。強い雨音で消えそうな、本当に、本当に小さな呟きだった。
けれど確かに、それには確固たる少年の意志が宿っていた。
雨は以前、止む気配はなかった。