外の世界
足枷が地面を擦るたび、鉄球が嫌な音を立てる。
重い。
息が苦しい。
肺が焼けるみたいだった。
それでも止まれない。
止まれば終わる。
そんな気がしていた。
しばらく走った先で、前方から怒号と悲鳴が聞こえてきた。
どうやら先に飛び出した奴隷たちが、ごろつきの集団とぶつかっているらしい。
「お頭ー!! こっちです!!」
「早く! 声が近づいてる!」
暗がりの向こうで、金髪の男と赤髪の女が手を振っていた。
「レオ! テッサ! 残ってるのは俺たちだけか!?」
「はい、お頭たちで最後です!」
ゼルムおじさんの問いに、金髪の男――レオが答える。
その直後、レオの目が僕へ向いた。
それだけで分かった。
こいつ、僕のことが嫌いだ。
「……そのエルフのガキは何です?」
侮蔑の混じった声だった。
ゼルムおじさんは「気にするな」とだけ言って、テッサと一緒に横穴へ入っていく。
僕も続こうとしたが、レオが一歩前に出て道を塞いだ。
「おいガキ。余計なもん拾ってんじゃねぇよ」
低い声。
吐き捨てるような言い方。
「お頭がいいって言うから従うが、そいつがお頭の邪魔になるなら俺が殺す」
背中のフリージアがびくりと震えるのが分かった。
僕は睨み返す。
「……好きにすればいいよ。僕も、その時はお前を殺す」
レオの眉がぴくりと動いた。
一秒でも長くこんな奴の前にいたくなかった。
僕はその横を抜けようとする。
「後ろに気をつけながら走れよ」
レオが鼻で笑う。
「あまりに遅いと蹴り飛ばしてやるからな」
「お前こそ置いていかれないようにしろよ」
そう言い返して振り向いた、その瞬間だった。
僕はレオに体当たりした。
僕とフリージアはまとめてレオと地面に倒れ込む。
「何しやが――!」
怒鳴りかけた言葉は、金属音で途切れた。
さっきまでレオが立っていた場所に、剣が振り下ろされていた。
追手だ。
二人組の男が、いつの間にかすぐ後ろまで迫っていた。
理解した瞬間、レオが僕の襟首を掴んだ。
「さっさと奥まで行け!!」
そのまま乱暴に投げ飛ばされる。
フリージアごと転がり、肺の空気が抜けた。
「そんな奴ら無視して、お前も来いよ!」
思わず叫ぶ。
だがレオは振り返りもしない。
「馬鹿野郎。こいつらに場所がバレるほうが面倒なんだよ」
吐き捨てるような声。
「お前らは足手まといだ。さっさと逃げろ」
その背中を見て、言葉が詰まった。
嫌な奴だ。
腹が立つ。
でも敵じゃない。
レオが横穴の入り口を塞ぐように立つ。
二人の追手も、狙うべき相手が僕たちではなくレオだと分かったらしい。
「行こう!」
僕はフリージアを背負い直し、奥へ走り出した。
背後で戦う音が響く。
剣が岩を削る音。
怒鳴り声。
誰かの息遣い。
足音。
振り返りたくなる。
でも振り返れば足が止まる。
だから前だけを見る。
「……あの人、大丈夫かな」
背中でフリージアが小さく呟く。
「大丈夫だよ」
僕は即答した。
「ああいうのは、しぶとそうだし」
本当は、ただの願望だ。
けれど不安を口にしたところでどうにもならない。
その直後、また後ろから足音が聞こえてきた。
追手か。
心臓が嫌な跳ね方をする。
暗い。
横穴は主坑道よりずっと狭く、灯りも少ない。
等間隔に置かれた明かりの向こうは、ほとんど闇だった。
見たくない。
でも気になる。
葛藤しながら振り返ると、赤髪の男が走ってきていた。
一瞬だけ身構える。
だが次の瞬間、それが返り血を浴びたレオだと分かった。
「よかった……!」
フリージアが安堵の声を漏らす。
僕も知らず息を吐いていた。
レオは面倒くさそうに鼻を鳴らす。
「お前、俺のこと嫌いなんじゃなかったのか」
走りながら、低い声で聞いてくる。
「何で助けるようなことをした」
「別に」
僕は前を向いたまま答える。
「嫌いでも、見捨てる理由にはならないだろ」
レオが少し黙る。
「……感謝はしねぇぞ」
「いらないよ、別に」
言い返すと、背後で小さく鼻で笑う気配がした。
その時、前方に光が見えた。
小さい。
けれど確かな光だった。
暗闇の中で、それだけが妙に神々しく見える。
近づくにつれ、そこに立つ二つの影が見えてきた。
ゼルムおじさんとテッサだ。
「遅かったじゃねぇか」
ゼルムおじさんが言う。
「確認しに行くところだったぞ」
「二人組に見つかって、レオが処理してたんだよ」
僕が先に答えると、ゼルムおじさんは少しだけ眉を上げた。
「ほう」
「僕が助けてあげたし」
意地悪く言ってやると、レオが露骨に顔をしかめる。
ゼルムおじさんは喉の奥で笑い、僕の頭を乱暴に撫でた。
「そうか。よくやった」
その一言だけで、疲れが少し軽くなる気がした。
「さあ、ぐずぐずしてる暇はねぇ。俺が先に出る。次が嬢ちゃん、その次がガルムだ。最後はレオ」
ゼルムおじさんが穴へ身を潜らせていく。
体の大きい人だから、妙に窮屈そうだった。
フリージアを先に行かせ、続いて僕も穴へ体を滑り込ませる。
最初に感じたのは、知らない匂いだった。
湿った土とも、血とも、汗とも違う。
どこか青くて。
冷たくて。
甘いような、柔らかいような。
落ち着く匂い。
手のひらに触れるのは、岩でも泥でもない。
ふわふわしたもの。
草だ。
ゼルムおじさんに聞いたことはあった。
草原の草。
森の草。
風に揺れる緑。
でも知識と現実は全然違った。
出口が近づく。
白い光が、穴の向こうから差し込んでくる。
眩しくて、思わず目を細めた。
そして外へ出た。
立ち上がった瞬間、息を呑んだ。
色があった。
暗い茶色と黒しかなかった世界の外に、こんなにも色があるなんて知らなかった。
鮮やかな緑。
朝の光。
風に揺れる木々。
遠くで鳴く鳥の声。
肌を撫でる冷たい空気。
全部、初めてだった。
視界がにじむ。
何度も目元を擦った。
これは痛みの涙じゃない。
恐怖の涙でもない。
嬉しくて、勝手に溢れてくる涙だった。
「綺麗だろ」
横で、ゼルムおじさんが歯を見せて笑う。
「この世界には汚ぇもんも多い。だが、それと同じくらい綺麗なもんもある」
僕は何度も頷いた。
言葉が出ない。
フリージアも、静かに空を見上げていた。
その横顔は、さっきまでの怯えた顔とは少し違って見えた。
やがて「狭ぇ……」というぼやきと共に、レオが最後に穴から這い出てくる。
そのまま鞘で土を削り、出口を埋め始めた。
「外に出て終わりじゃねぇぞ」
ゼルムおじさんが言う。
「もう仲間たちは隠れ家に向かってる。ここから西へ行った場所だ。エルフの国境も近い」
その言葉に、フリージアの肩がぴくりと動いた。
僕は彼女の横顔を見る。
まだ不安は消えていない。
でも、さっきまでみたいな空っぽの顔じゃなかった。
だから僕は笑って、手を差し出した。
「大丈夫だよ。行こう」
フリージアはおずおずと手を伸ばす。
その細い手を握った瞬間、彼女の顔に初めてちゃんとした笑みが浮かんだ。
綺麗だ、と思った。
それは空や森を見た時とは別の、もっと近くて、でも同じくらい眩しいものだった。
僕たちは手を繋いだまま、森の中へ足を踏み出す。
まだ何も終わっていない。
むしろ、ここから始まるのだと、風の匂いが教えてくる気がした。




