夜明けとともに
夢から引き戻したのは、遠くで響いた鈍い音だった。
――ドンッ。
地面が揺れる。
続けて、もう一度。
――ドンッ!!
目を開けた瞬間には、ゼルムおじさんも起き上がっていた。
さっきまで寝息を立てていたくせに、まるで最初から起きていたみたいな動きだった。
「ガルム、離れるな」
短く鋭い声。
「俺の背中だけ見てろ」
それだけ言い残して走り出す。
僕も慌てて追いかけた。
主坑道へ飛び出すと、そこはもう騒然としていた。
横穴から次々と奴隷たちが出てくる。
見張りたちは怒鳴りながら持ち場へ戻そうとしている。
悲鳴と怒号と足音がぶつかり合って、何が何だか分からない。
「貴様ら!! 持ち場へ戻れ!!」
剣を抜いた見張りが叫ぶ。
だが、もう遅かった。
ざわめきは一度起これば止まらない。
不安は伝染する。
怒りも、恐怖も、焦りも、一気に広がっていく。
その真ん中で、ゼルムおじさんが大きく息を吸い込んだ。
「てめぇら!!」
坑道全体が震えるような声だった。
ぴたりと、何人もの動きが止まる。
「祭りの時間だ!!!」
一瞬、空気が凍った。
次の瞬間――爆発した。
「うおおおおおお!!」
「走れぇぇ!!」
「ぶっ殺せ!!」
突撃する者。
悲鳴を上げる者。
戸惑う者。
そのすべてが濁流みたいに前へ流れ込んでいく。
見張りは五十。
こちらはその何倍もいる。
しかも、奴隷たちの中には最初から暴れるつもりだった連中が混じっている。
流れさえできれば、あとは押し潰すだけだった。
ゼルムおじさんの拳が、最初に立ち塞がった見張りの顔面へめり込む。
骨の潰れる嫌な音。
男が仰向けに倒れる。
ゼルムおじさんは躊躇なく馬乗りになり、何度も拳を振り下ろした。
一撃。
二撃。
三撃。
動かなくなるまで。
僕の喉がひゅっと鳴る。
――殺した。
分かっていた。
ここで躊躇うような人じゃない。
守ると決めたもののためなら、平気で人を殺せる人だ。
それでも、実際に目の前で見ると足がすくんだ。
「奴隷ども!! 今が最後のチャンスだ!!」
坑道の奥で、別の男の声が響く。
「生きたい奴は走れ!! 死にたい奴はここで死ね!!」
その言葉で、流れは決まった。
人の洪水が外へ続く道へ殺到する。
剣を振るう見張りもいた。
だが押し寄せる数の前では意味がない。
転んだ者が踏まれ、倒れた者が押し潰され、悲鳴が土壁に反響する。
その光景を、ゼルムおじさんは少し離れた場所から冷静に見ていた。
「……僕たちも行かないの?」
思わず聞くと、隻眼が前を向いたまま答える。
「ここからが本番だ」
低い声だった。
「外にはもっといる。この騒ぎも伝わってるはずだ」
「じゃあ――」
「俺たちは別だ」
きっぱり言い切られる。
「脇道を使う。仲間が掘った抜け道だ」
「外へ走った人たちは?」
僕が問い返すと、ゼルムおじさんは振り向いた。
「全員で同じ道を行けば助かると思うか?」
言葉に詰まる。
「俺はただの人間だ。全員は救えねぇ」
胸が締め付けられた。
「だから選ぶしかねぇ。それが俺のやり方だ」
正しいのか間違ってるのか、僕には分からなかった。
けれど、それがこの人の現実なのだとだけは分かった。
残っていた数人が集まる。
昼の話し合いにいた顔ぶれだった。
「お頭、予定通りです」
金髪の男が言う。
ゼルムおじさんは頷き、先頭を任せた。
「行くぞ」
その時だった。
少し離れた場所で、薄緑の髪が目に入る。
エルフの少女だった。
座り込んだまま、動かない。
首輪をはめた首が小さく震えている。
体が勝手に動いていた。
「何してるの! 逃げよう!」
声をかけると、少女が顔を上げる。
赤い目。
虚ろな表情。
「……怖いの」
かすれた声だった。
「逃げても、どうせ殺されるかもしれない」
ひきつった笑み。
今にも壊れそうな顔。
「何が正しいのか、分からないの……」
分かる、と思った。
痛いほど分かった。
ここにいたいわけじゃない。
でも外へ出るのも怖い。
知らないものは、いつだって怖い。
それでも。
「行こう」
僕は手を伸ばした。
「一緒に逃げよう」
少女の指先が、少しだけ震える。
けれど伸びてこない。
その背後に、見張りが一人現れたのが見えた。
血走った目。
抜き身の剣。
こちらを見つけた瞬間、一直線に駆けてくる。
「ガルム!!」
ゼルムおじさんの声が飛ぶ。
けれど、もう間に合わない距離だった。
剣が振り下ろされる。
首か。
肩か。
腕か。
どこでもいい。
当たれば終わりだと分かった。
僕は咄嗟に、少女を庇うように前へ出た。
右腕を上げる。
反射だった。
普通なら、斬れる。
子供の細腕で受け止められるはずがない。
そんなこと、僕にだって分かっていた。
なのに。
刃が腕に触れた、その瞬間だった。
――ビキィッ。
妙な音がした。
金属が悲鳴を上げるような、嫌な音。
見張りの剣が、真ん中からひび割れていた。
一拍遅れて、砕ける。
破片が散る。
僕も、見張りも、何が起こったのか分からなかった。
「……は?」
間抜けな声を出したのは、たぶん僕だ。
腕を見る。
斬れていない。
血も出ていない。
ただ、じん、と変な痺れだけが残っている。
見張りの顔が引きつる。
「な、何を――」
最後まで言わせなかった。
体が勝手に前へ出ていた。
拳を握る。
やることなんて分からない。
でも目の前のこいつを止めなきゃいけない、それだけだった。
僕の拳が、男の服の上から胸へめり込む。
殴った感触は、変だった。
肉を打つ感触じゃない。
壁を壊した時みたいな、何かが内側から崩れる手応え。
男の体がくの字に折れた。
口から血を吐き、数歩よろめき、そのまま倒れる。
動かない。
静かだった。
あれだけうるさかった坑道の音が、急に遠くなった気がした。
「……今、何をした」
背後から、ゼルムおじさんの声。
振り返ると、さっきまでの冷静な顔が少しだけ崩れていた。
驚きと警戒と、何か別の感情が混ざった目。
僕は自分の拳を見た。
「……分からない」
本当に、それしか言えなかった。
何かがズレた。
そんな感覚だけが残っている。
斬れるはずのものが斬れなかった。
壊れないはずのものが壊れた。
理由は分からない。
でも考えている暇はなかった。
「お頭!」
金髪の男が叫ぶ。
時間がない。
ゼルムおじさんは一瞬だけ僕を見つめ、すぐにいつもの鋭さを取り戻した。
「その嬢ちゃんを連れて来い。話は後だ」
少女を背負う。
軽かった。
怖いくらいに。
「……名前」
走り出す前に、背中で小さな声がした。
「フリージア……フリージア・エッセンテ」
「分かった。フリージア、しっかり掴まってて」
「う、うん……」
ゼルムおじさんが前を走る。
僕はその背を追った。
さっきの感触が、まだ腕の奥に残っていた。




