自分の存在
自我が芽生えてから最初に覚えているものは、きっと人それぞれ違うのだろう。
母の顔かもしれない。
父の声かもしれない。
暖かな食卓や、柔らかな寝床かもしれない。
だけど僕が最初に覚えたものは、そんな優しいものじゃなかった。
恐怖。
痛み。
それから、鉄の冷たさだ。
首には鉄の首輪。
足には重い足枷。
擦れるたびに皮膚が剥け、乾いた傷口に汗が染みて、焼けるように痛む。
僕は親の顔を知らない。
自分がどこで生まれて、どうしてここにいるのかも知らない。
知っているのは、ここが地獄みたいな場所だということだけだった。
薄暗い坑道。
湿った土の臭い。
削られた岩肌。
怒鳴り声。
鞭の音。
泣き声。
血の臭い。
強面の男たちが、奴隷たちを“人間”としてではなく“道具”として扱う。
そこに年齢も、性別も、種族も関係ない。
人間も。
亜人も。
エルフも。
みんなまとめて、穴を掘るための物だった。
今日を生き延びる。
鞭で打たれない。
殺されない。
願いなんて、それだけで精一杯だった。
そんな場所で、僕が持っていたものは二つしかない。
一つは、自分がまだ子供だという事実。
もう一つは――
「おい、ガルム!!」
振り向くと、つるはしを肩に担いだ男がニヤニヤ笑っていた。
「見張りの連中、そろそろ交代の時間だ。今のうちにさぼるぞ!」
まるで宝でも見つけたみたいな顔をしている。
体は傷だらけ。
無精髭も生えている。
右目には眼帯。
どう見てもまともな大人じゃない。
けれど、僕に名前をくれた人だった。
ゼルムおじさん。
それが、この地獄で僕が唯一信じている人の名前だ。
「さぼったら見つかるよ……」
僕が小声で言うと、ゼルムおじさんはけらけら笑った。
「見つからねぇようにやるんだよ。休むのも立派な仕事だ」
「それ、たぶん違うと思う」
「細けぇことは気にすんな。ほら来い」
そう言って、さっさと歩いていく。
呆れながらも、僕はその背中を追った。
この人は適当だ。
変なことばかり言う。
まともなことを教えてくれる時より、どうでもいいことを教えてくる時のほうが多い。
けれど、そんな人が僕に名前をくれた。
名前のなかった僕に、自分の名前から一文字ずらしただけの、雑な名前を。
――ガルム。
適当すぎるだろ、と思ったことは何度もある。
それでも、嬉しかった。
名前を呼ばれるたび、自分が“物”じゃないような気がしたからだ。
脇道へ入ると、そこにはすでに二十人ほど集まっていた。
全員、顔だけは見覚えがある。
だが名前は知らない。
話したこともほとんどない。
“周りは敵だと思え”
それがゼルムおじさんの教えだった。
なのに当の本人は、その“敵”と普通に笑って話しているのだから意味が分からない。
「ゼルムさん、ガキもここにいていいんですかい?」
一人の男が言う。
視線が一斉に僕へ集まった。
嫌な目だった。
値踏みするような、邪魔者を見るような目。
その空気を、ゼルムおじさんは鼻で笑って吹き飛ばす。
「いいんだよ。こいつは俺の相棒だ」
そう言って、僕の頭を軽く小突いた。
「ガキだが、そこらの腰抜けよりはよっぽど根性がある」
からかうような声なのに、少しだけ胸が熱くなる。
「……子供扱いしてるじゃん」
「当たり前だ。ガキはガキだろうが」
そんなやり取りに、何人かが小さく笑った。
少しだけ、空気が緩む。
だが次の瞬間、ゼルムおじさんの顔から笑みが消えた。
「――予定通りに進んでるんだな?」
声が低くなる。
さっきまでの軽薄さが嘘みたいだった。
「奴隷はおよそ百人、外の仲間は五十ほどです」
「見張りの配置も、昨夜と大きくは変わってねぇ」
「上手くいくかは、やってみなきゃ分かりませんが……」
小声で交わされる言葉。
そこでようやく、僕は気づいた。
この人たちは、たださぼるために集まったわけじゃない。
「一か八か、か」
ゼルムおじさんが小さく呟く。
「だが、ここでやらなきゃ一生このままだ」
誰も反論しなかった。
坑道の奥で水滴が落ちる音だけが、やけに大きく響く。
「騒ぎが起きたら、周りも巻き込め。逃げる気がねぇ奴も無理やり走らせろ。流れさえ作りゃ、人は動く」
「……はい」
「生きて外で会おう」
短い言葉だった。
それなのに、妙に重かった。
男たちは一人、また一人と持ち場へ戻っていく。
最後まで残った僕は、黙ってゼルムおじさんを見上げた。
「おじさん。今の……」
「戻るぞ」
それだけ言って、僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
いつもの乱暴な手つきだった。
けれどその手は、少しだけ強ばっているように感じた。
その日の仕事を終え、寝床代わりの横穴へ戻ったあと、僕はすぐに詰め寄った。
「昼の話、何だったの!?」
「焦るなって」
ゼルムおじさんは壁にもたれ、しばらく黙っていた。
やがて、隻眼が真っ直ぐ僕を見る。
「明日、ここを出る」
たったそれだけの一言で、心臓が変な跳ね方をした。
「当然、お前も一緒だ」
「……本気で言ってるの?」
「冗談で命張るかよ」
笑って言う。
でも目は笑っていなかった。
ずっと準備してきた。
仲間も集めた。
外とも連絡を取った。
決行は明朝。
淡々と説明されるたび、喉の奥がひりついていく。
失敗したらどうなる。
捕まったらどうなる。
殺されるのか。
それとももっと酷い目に遭うのか。
想像したくなくても、勝手に浮かんでくる。
体が震えた。
「怖いか」
「……うん」
声がうまく出ない。
「怖い……」
ゼルムおじさんはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が逆に苦しかった。
「だがな」
低い声が落ちてくる。
「ここで踏み出さなきゃ、一生このままだ」
外の世界の話を、何度も聞いた。
空の色。
風の匂い。
森の音。
食べ物の味。
街のざわめき。
人の笑顔。
そのたびに僕は思っていた。
見てみたい、と。
「俺は言ったよな」
ゼルムおじさんが言う。
「見せてやるって」
「……うん」
「なら、信じろ」
反射的に叫んでいた。
「信じてる!」
言った瞬間、喉が震えた。
「信じてるけど……怖いものは怖いんだよ……!」
それが本音だった。
ここは嫌いだ。
苦しい。
痛い。
消えてしまえばいいと思ってる。
それでも、ここからいなくなることを考えると、足がすくんだ。
そんな僕を、ゼルムおじさんは突然抱き寄せた。
汗と土の臭い。
でも、不思議と安心する匂いだった。
「よく聞け」
耳元で低く響く声。
「今日教えるのが最後になるかもしれねぇから、ちゃんと覚えとけ」
それから少しだけ間を置いて、ゼルムおじさんは言った。
「死ぬのが怖ぇなら、理想を持って死ね」
意味は分からなかった。
だけど、その言葉は妙に胸に残った。
「おじさんの理想って何?」
聞くと、ゼルムおじさんは笑った。
いつもの、ふてぶてしい笑顔で。
「俺の自由と、仲間の命だ」
迷いのない声だった。
「ガルム。お前は自分で見つけろ」
「理想も、信念も」
「それまでは、俺に命預けとけ」
僕は何度も頷いた。
この人の言うことなら信じられる。
そう思えた。
地獄みたいな場所で、たった一人だけ。
この人だけは。
そうして目を閉じた僕は、夢を見た。
誰かがいた。
輪郭の曖昧な、大人の女の人。
顔は見えない。
けれど、すぐ後ろで微笑みながら見守っているような、そんな不思議な感覚だけが残った。
初めまして!!駄文を呼んでいただきありがとうございます!
漫画や小説を書くと自分の脳みその中を覗かれてるような気持になると聞いたことがありますが、なんとなくその気持ちが分かります、恥ずかしぃ!!
頭の中でこんな感じに進めていきたいという部分があるので、そこにたどり着くまでは頑張って続けていきたいなと思っております。
ではでは~どんな感想も(もらえるのであれば)ウエルカムです!




