~下弦~
やがて話が終わり、室内が静寂に包まれる。
信じられない経緯に、冬夜は呆然とした。
しかし、いくら手繰ろうとも記憶の糸は闇に飲まれ何一つ思い出せない。
彩華の話は長い長い夢がたりのようで、現実感が皆無だった。
「彩華さま…」
「“様”なんていらない。以前のように“彩華”と呼んで」
だが、その“以前”を冬夜は知らない。
胸を騒がせる激情の正体はわかったけれど、失われた記憶が恨めしい。
今までも、戻らぬ記憶に悩み、口惜しくて眠れぬ夜が幾度もあったが、今ほど焦燥を感じたのは初めてだ。
頭痛は更に激しさを増し、頭蓋骨を割りそうな勢いで響く。
冬夜は思わず、眉間を押さえて苦痛に呻いた。
「冬夜!」
彩華が心配そうに近寄って来る。
その時、冬夜の懐からパサリと何かが落ちた。
「!」
それはあの春の日以来、肌身離さず持ち歩いていた簪。
目にした瞬間、彩華は驚きの目を向けた。
だがそれは、彼が女性の持ち物を所持していた事に対してではなく。
「冬夜、鍼――― 持っていたの?」
「…え?」
「これ、朧家の鍼灸術で使う針よ」
言いながら、彩華は簪を手に取り末尾の装飾をはずす。
実は、冬夜は前に装飾部分を取り落としてしまった事があった。
誤って壊したと思い込んでいたが、それはカムフラージュ的に後付けられた装飾だったのである。
本来の姿に戻った細く鋭い針を、彩華は冬夜の指に握らせた。
「貴方はこうして、鍼灸学を学んでいたのよ…」
せつなく見つめる彩華の瞳に、冬夜は思い出せない悔しさで歯噛みする。
今すぐ思い出したい。
どうしても思い出したい。
――― 二人が共有する思い出を取り戻したい。
鍼灸の閃きが、ふと冬夜の脳裏で弾けた。
「彩華さま」
「“彩華”よ。…何?冬夜」
「記憶を封じる経絡があるのなら、逆に蘇らせる経絡もあるはずですね」
「…!」
その問いは彩華にとって予測済みのものである。冬夜ならば、きっとそう考えるだろうとわかっていた。
事実、指摘された経絡は存在するのだから。
「……ええ」
「場所はどこかわかりますか」
「咲桜里に……教えてもらったけど…」
「さおり?」
「貴方の姉上」
冬夜はふと思い当たる。
桜の下で出会った女性、彼女が姉だったのではないだろうか。
だから、わざと簪に偽装した鍼を渡してくれたのではないか?
――― 記憶を取り戻させる為に。
しかし今は推測よりも、先に進む事が先決。
「でもそれは、朧家の鍼灸術でも秘伝の技と聞いたわ。施術できるのは皆伝者である貴方のお父上だけだって」
「私もかつては皆伝だったのでしょう?」
「……そうだけど、でも今は……」
「大丈夫です」
躊躇する彩華に、冬夜は絶対の自信で答える。
15年間、積み上げてきた鍼灸術の技は記憶を封じられても体が憶えていた。
幸いと言うか、この数年間も修行していたから腕は鈍っていないはず。
己の存在証明にと続けていた事は、やはり無駄ではなかったのだ。
「冬夜…」
「大丈夫、必ず思い出す」
不安を隠せない彩華に、冬夜はそう告げて鍼を構える。
定めた狙いは、己の頭部。
わずかでも狙いが狂えば、命に関わる微妙な部位。
だが迷いなどは無い。
思い出してみせる。――― 彩華の事を。
冬夜は呼吸を整え、もう一度 彩華を見てから目を閉じた。
そして、一気に経絡を突く。
続く




