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~宵待~

春の花が姿を消すと木々の緑が鮮やかさを増し始める。

やがて灼熱の陽射しが降り注ぎ、長く暑い日々が続いた後、ようやく涼やかな風を取り戻す。


その日、住職は隣村の僧侶の元を訪ねて行き、寺には留守番の十夜と小僧たちだけが残っていた。

修行の合間には、わずかな自由時間が与えられている。

十夜は密かに裏山に入り、一本の樹に向かっていた。

時折 枝から離れた枯葉がひらひらと舞い落ちる。不規則な軌道を描くそれを目掛けて手を一閃した。

それは寸分の狂いもなく葉の中央を貫き、形を崩す事なく樹皮に縫いとめられている。

十夜が投げたのは、竹や葉を細工して作った細長い針。もう何年も前から、この修行を続けていた。

きっかけは住職に“鍼師”の話を聞いた時。

不思議に心に残り、試しに長針を作って投げてみたら、少し練習しただけで定めた狙いに的中するようになった。

身元のよすがに縋りたい一心で始めた修行の真似事だったが、的中した時の爽快感には気分が高揚したし、狙いを定める瞬間の精神集中や緊張感は心の重みを、いっとき軽減してくれる。

僅か数年でこんなに上達したのは、基礎を叩き込まれていたからに違いない。

きっと物心つくかつかないかの頃から、鍼灸術を学び始めていたのだろう。

十夜には、この特技を伸ばす事が存在の証のような気がしてならなかったのだ。


「……さまー」

「!」

「とおやさまー?」

ふと小僧の声が聞こえ、十夜は手にしていた針を懐に仕舞う。

「十夜さまー!」

「ここだ」

返答を返しつつ、寺に向かって戻り始める。

小僧の声の調子から察して、何か問題でも起きたのだろうか?

茂みから現れた十夜に小僧は困惑の表情で駆け寄った。

「どうした?何かあったのか」

「はい。あの、実はたった今、門前に……」


小僧と共に山門へ駆けつけた十夜は、驚いて目を見張る。

そこには一人の女性が、門に縋りつくような体勢で倒れ込んでいたのだ。

今どき珍しい振袖着物といういでたちだが、履物も履いておらず白い足袋は土だらけ。

よく見れば長い袂や裾にも、かぎ裂きや傷みが見られる。

長く美しい漆黒の髪も、乱れて葉や小枝が付着していた。

「どうしましょう、十夜さま」

小僧たちはオロオロと、困り果てた様子で遠巻きに見ている。

彼らが困るのは当然だ。ここは寺だけでなく山全体が女人禁制なのだから。

最年長者としての責任もあり、十夜は女に声をかけた。

「……大丈夫ですか?」

女性には意識があったらしく、苦しげに息をつきながら顔を上げる。

(―――!?)

その瞬間、十夜は心臓が止まりそうな衝撃を受けた。

理由はわからない。しかし、それは相手の女性も同様らしく、目を見開いて凝視している。

「……とう……や───……!!」

「えっ!?」

不意に女性は両手を伸ばし、十夜にしがみつく。

そして、そのまま気を失った。

「…………」

十夜はその場に固まってしまう。

全身に響きわたる激しい心拍、胸にあふれる謎の感情、そして指先まで震えるような不思議な感慨。

抱きしめたい衝動に理性が揺らぐ。

そんな不埒は許されないとわかっているのに、体が、手が、勝手に動いてしまいそうだった。

動揺、狼狽、困惑、郷愁、激情。

さまざまな葛藤が渦を巻き、しばし己を失ってしまう。

「…十夜さま?」

小僧の声で我に返り、十夜は腕の中の女性を抱き上げた。

「客間に布団と湯を用意してくれ」

「どうなさるんですか?」

「……行き倒れた女性を放置するわけにはゆかんだろう」

「でも、女性の立ち入りは…」

「非常時だ、責任は私が取る。それと、急いで医者を呼んで来てくれ。和尚に連絡するのも忘れるな」


客間に布団が敷かれると、十夜は女性の帯に手をかけた。

「意識の無い女性の着物を脱がせるなんて、失礼ではないでしょうか?」

小僧は恥じらいながらそう聞くが着せたままでは帯が邪魔になって寝かせられないし、締め付けているのも体に良くない。

そう説明すると、すぐに納得した。

ほどいた帯は絢爛な美しい手織で帯留・帯締め・帯揚げもすべて高級品と推測できる。

鮮やかな色彩の振袖は手染め・手仕立てとおぼしき一級品。

こんな田舎に縁のある令嬢とは思えない。

襦袢の紐も少し緩めて布団に寝かせ、ついでに泥だらけの足袋も脱がせて布団をかけた。

ぬるめの湯で額の汗を拭き、シーツに広がる髪を整える。

怪我は無く、倒れたのも病ではなく疲労または精神的なものだろうと察せられた。

「……綺麗な方ですね」

傍らで様子を見守っていた小僧がポツリと呟く。

「本当に。…こんな美しい方、初めて見ました」

女人禁制の寺で修行しているとはいえ、小僧たちにも家族の記憶があるし、時折、村へ遣いに下りる事もあるから女性と接する機会が皆無ではない。

それでも彼らが一様に見惚れ、頬を染めるほど、この女性は美しかった。

十夜も改めて彼女の顔を見つめ、今更ながら認識する。


――― 確かに美しい。まるで天女のようだ。


春に桜の木の下で出会った女性も美しかったが、彼女の淡く儚げな雰囲気とは違い、今目の前にいる女性は、“目の醒めるような”美しさである。

一目見ただけで生涯忘れない程の鮮烈な印象だった。

だが門前で目が合った瞬間の衝撃は、ただ美貌に驚いただけとは思えない。

ダテに寺住まいだったわけではないのだ。日々精神修養を積んでいるから、美女にたやすく心惑わされるほど未熟ではないはずなのに。

――― では、なぜ?


そういえば、と思い出す。

この女性は、意識を失う前に何と言った?

『十夜』と呼ぼうとしたのか?

それとも、別の名を?


――― 誰の名前を?


すべては、彼女が目覚めてからだ。

いまだ胸から消えない不可解な激情を堪えながら、十夜は眠る女性の覚醒を待つ。


そして夕刻、ようやく彼女は意識を取り戻した。


続く

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