~有明~
忘れていても良かったのだ。
生きてさえいるのなら。
だが再会すると、名前を呼んで欲しくなった。
もう一度抱きしめて、愛されたいと望んでしまった。
「私は……子供を守る事もできなかったのに、なんて強欲で浅ましいのかしら…」
「彩華…!」
冬夜は自責と罪悪感に苛まれながら、彩華を抱く腕に力を込める。
彩華が一人で苦しみ悲しんでいた頃、自分は何もかも忘れて安穏と寺で生きていたのだ。
本来なら共に受けるべき苦悩、いや、自分が受けるべき罰だったのに。
「浅ましいのはオレの方だ。彩華も、子も守る事が叶わず、生き恥を晒しながら、それでもまだ彩華を望んでいる」
「冬夜…」
「まだ許されるか?彩華。生涯、彩華を離さんと誓う事が」
その時、閉ざされていた障子がスッと開いた。
「!」
握り合った手は離さぬまま、二人は反射的にそちらを見る。
廊下に立っていたのは住職だった。
「思い出したようじゃな、十夜。……いや、冬夜殿」
住職はそう言って畳に手をつき 深々と頭を下げる。
「やはり御坊は知っておられたのか。オレ…私の事を」
でなければ、いかに寛大な僧侶といえど、得体の知れぬ記憶喪失の少年を養子同然に優遇するはずが無い。
冬夜の問いかけに和尚はうなずいた。
「拙僧と村長には話が通っており申した。村の外に出さぬよう、外部の者と接触させぬよう、何も思い出す事の無いよう、ただ静かに暮らさせよと」
「……父の命令で?」
「いかにも。冬夜殿の父君とは、かつて修行に立ち会った縁がありましたのじゃ」
住職は遠いまなざしで回想する。
六年前の初秋、住職の縁故から突然の申し出があった。
記憶喪失の少年を一人、寺で預かってもらえないかと。
聞けば、さる名家の嫡男だが取り返しのつかない大罪を犯し、代償として記憶を封じられたという。
今後は生涯、償いの日々を送らせる。その為の受け皿が必要なのだと。
詳しい経緯は不明ながら、朧の名を聞いた住職は、これも何かの縁だと思い引き受けた。
直々に冬夜を送り届け、くれぐれも頼むと頭を下げて立ち去った朧当主の後姿を今も覚えている。
「冬夜殿、父君を恨んではならんぞ。決してそなたが憎くて捨てたわけではないのだからな」
「……承知しております」
あの父の気質を考えたら、殺されても文句の言えない事をした自覚はあるのだ。
強く、厳しく、妥協を許さず、武士然とした父は一徹で、頑固で、自身や家庭よりも主家の為に生きていた。
不肖の息子が彼の信念を傷つけた事は、想像に難くない。
彩華だけしか目に入っていなかった昔と違い、仏の教えを学んだ今なら父の苦悩の程も理解できる。
「…それでもオレは、父の意には添えません」
「冬夜……」
冬夜は抱き寄せたままの彩華に視線を移した。
――― 再会したから。
愛していた事を思い出してしまったから。
もう、二度と離れては生きられない。
「……すぐに父の手が回るだろう。これ以上、寺に迷惑をかけるわけにはゆかない」
冬夜は再び住職に向き直り、決意に満ちた声で宣言した。
「オレはここを出ます。そして、彩華と共に生きてゆく」
住職は二人を止めようとはしなかった。
春先に姉と名乗る女性が父に内密で母の死を伝えたいと現れた時から、この日が来る事を予期していたのかも知れない。
それとも、再会を喜び合う恋人たちを引き裂くに忍びず慈悲をかけてくれたのだろうか。
いずれにせよ、冬夜たちには彼の目こぼしがありがたかった。
「至聖寺の住職を訪ねなさい。きっと力になってくれる」
小僧たちが起きだす前に寺を出るべく、わずかな手荷物をまとめる冬夜に、住職は逃走資金を手渡した。
それは冬夜の養育費代わりに朧家から供出された巨額のお布施で、元々冬夜のものだからと。
「和尚殿、長年お世話になったのに何一つ恩を返せぬ不義理をお許し下さい。もし父の使いが来たら和尚の留守中、修行に耐えかねて逃走したと伝えて欲しい」
「そんな戯言を信じるような父君ではなかろう?」
住職は穏やかに笑み、それから真摯な口調で告げた。
「父君は昔、そなたと同様に苦悩し運命を恨んでおった」
「───え?」
「仕えるべき高貴な御方に懸想してしまい、叶わぬ恋を諦めるにはどうすれば良いかと泣きつかれたぞ」
「…………」
冬夜と彩華は顔を見合わせる。
朧の当主が若い頃、想いを寄せた相手とは、おそらく。
彩華とよく似た美しい女性の面影が二人の脳裏を同時によぎった。
「そなたたちが幸せになる事は、必ずしも親不孝とは限るまい。……達者でな」
「和尚殿…」
「……ありがとうございます」
冬夜と彩華は何度も礼を言い、寺を後にした。
時刻は夜明け時。
長かった夜はもうじき終わり、新たな一日が始まる。
それは文字通り、二人にとって新たな一歩。
「本当に、母君や御家を捨てても後悔は無いか?」
「もちろんよ。私に必要なのは冬夜だけだから」
昨夜までとは別人のように明るい笑顔で彩華は笑う。
心惹かれた美しい華、焦がれ続けた気高い月。
これを守る為なら、どんなことでもできる。
冬夜はそう確信した。
「今度こそ、必ず彩華を守る」
「ええ、冬夜」
「どこへ行こうと、何が起きようと傍を離れん」
「私もよ……冬夜」
彩華は幸せそうに微笑み、冬夜の腕を抱きしめた。
まるで希望の象徴のように、太陽が昇り始める。
明るくなった空には、名残り惜しげに白い月が姿を残し、旅立つ二人を見送っていた。
完結




