~彼岸~
座敷牢に入れられてから、ひと月近くが過ぎている。
薄暗く狭い牢内で冬夜は、命じられたわけでもないのに正座を崩さず瞑想していた。
しかし脳裏に浮かぶのは、彩華の事ばかり。
初対面以来、こんなに長い間 会わずにいるのは初めてだ。
元気でいるのか、叱責されてはいないか、胎児は無事か。
気になって仕方が無いけれど、今の彼には為すすべが無い。
ただ当主が暴挙に及ぶような人間ではない事に望みをかけて彩華の無事を祈り続けていた。
その時、静寂を破って鍵の音が響く。
重々しい音を立てて扉が開き、現れたのは父だった。
冬夜は反射的に背筋を伸ばし、まっすぐに瞳を向ける。
いつも食事や着替えを運んだり様子を見に来るのは母親で、父が足を運ぶなど無かったのに。
さては遂に裁可が下るかと考える。
身一つで勘当されるか、仏門に放り込まれるか、絶海の孤島に幽閉されるか。
いずれにしても、真摯に受ける覚悟はできている。
だが父は無言のまま歩み寄り、牢内に入って来た。
「冬夜」
「はい」
しばしの沈黙の後、父は言葉を続ける。
「――― 彩華様を愛しているか」
思いがけない問いかけだった。
罵るでも嘲るでもなく、感情を含まぬ声で父は訊く。
不思議に思いつつ、冬夜は正直に本心を答えた。
「はい。愛しております」
「誰よりも、幸せになっていただきたいと願っているか」
「願っています」
断言する息子に向かい合う父の表情は、格子の向こうで揺れる灯りが逆光になって、よくは見えない。
ふいに父の腕が上がった。
殴られるのかと、冬夜は思わず身構える。
「…!?」
しかし父は殴打せず、代わりに強い力で抱き寄せた。
普通の家庭の父子とは違い、幼い頃から戯れに肩車すらしてもらった事は無く冬夜は驚きのあまり硬直する。
その背後で、父は袖口から密かに鍼を抜き出した。
「……己の身命より、彩華様を大切に思うか」
「無論です」
即答する冬夜の声に迷いは無い。
それでこそ朧という家に生まれた、朧家の男たる所以。
鍼の先が、音もなく狙いを定める。
なのに殺気の片鱗すら感じず、冬夜は気づかなかった。
「――― ならば死ね。彩華様の御為に」
「 !!」
直後、鋭い痛みが冬夜の頭を貫く。
声を上げるよりも早く、意識が闇に飲み込まれる。
「……許せ、冬夜…」
父の腕の中で崩れ落ちながら、冬夜は最後にかすかな謝罪を聞いた。
父が刺したのは、朧流鍼灸術秘伝・忘却の経絡。
自分自身の事も、彩華の事も、禁を破った事も、何もかもすべて忘れさせ誰も知らぬ地へ追放する。
表向きには死んだ事として。
それが父の下した裁定だった。
記憶は“消去”されたわけではなく、封印して鍵をかけただけ。
同じ朧流鍼術で鍵を開けば、冬夜はすべてを思い出す。
しかしそれはありえない。
なぜなら、この秘伝の技法を為せるのは、当主の他には皆伝を果たした息子以外にはいないのだから。
その息子も、今や鍼灸術を忘れた身。
命だけは残っていても、実質的には死んだも同じ。
朧流を受け継ぐ直系の男子は、永遠に失われた事になる。
冬夜は密かに屋敷から運び出され、遠く離れた片田舎の山寺に置き去られた。
――― そして六年の月日が流れたのである。
膨大な量の記憶と感情の渦が脳内に溢れ、冬夜は畳に突っ伏した。
点滅する意識の中、激しかった頭痛が、潮の引くように消えてゆく。
「冬夜!───冬夜 !?」
耳慣れた声が心配そうに繰り返している。
それは、幼い頃から呼ばれ続けた自分の名前。
覗き込む顔を見上げると、まぶしさで目が眩んだ。
「……あや…か……」
名前を口にするだけで、愛しさが胸から溢れ出る。
その瞬間、冬夜は彼岸の淵から現世へ戻って来た。
続く




