第8話 恋人力、Lv1
翌朝。日差しはまだ柔らかく、窓のカーテン越しに白く差し込む光が部屋全体を包んでいた。時計の針の進み方すらゆるやかに感じられる静寂の中――咲は目を覚ましていなかった。
いや、正確には、目を閉じたまま起きていた。深く息を吸い静かに吐く。昨日、有眞と交わしたすべての言葉、触れられた感触、交わされた唇の熱、それらが一晩経ってもまだ体内を巡っていた。夢ではない。確かに、彼の目を見て返事をしてキスをした。今もその余韻が喉の奥と胸の裏側を焦がしていた。
「……バカ。」
ぼそりと呟く。そう言いながら、咲の声にはどこか甘さが滲んでいる。シーツを引き寄せる手の先、少しだけ震えていた。いつもなら休みも予習か読書に早々と取りかかるが、今日はベッドから動けない。何かに包まれるように瞳を閉じぬくもりの記憶を反芻していた。
その瞳の奥には、有眞の顔が浮かんでいる。
無邪気で、強引で、でもどこまでも真っ直ぐで。自分がずっと遠ざけていた「感情」という不確かな存在を、あの人はいつも簡単に押し込んでくる。昨日もそうだった。
「なんなんですか、本当に……。」
言いながら、咲の頬がふっと緩む。自分でも気づかないほど柔らかく穏やかな笑み。
ベッドの横の机には、昨日返しそびれた有眞からのメッセージがまだ開かれずにあった。
【有眞】
おはよ。咲ちゃん、ちゃんと起きてる?
今日、午後からちょっとだけ顔見れるかな。
昨日のキスの件、夢じゃなかったって再確認させてほしい。ダメなら無理しないで。少しでも会えたら嬉しい。
咲は画面を見つめたまま、指を止める。昨日の夜なら、このメッセージに何か反射的な言葉を返していたかもしれない。でも今は違う。何をどう返せばいいか、もう少しだけ時間がほしい。窓の外では鳥の声がしていた。ゆっくりとカーテンが揺れて咲の髪に光が差し込む。
「会うのが怖いんじゃない。今までの自分に戻れない気がして。」
ぽつりと、自分に言い聞かせるように呟いた。感情に流されること。それが、こんなにも優しくて残酷で幸福なことだとは。咲は目を閉じたまま、もう一度だけ深呼吸をする。静かに携帯の画面に指を伸ばした。
【咲】
少しだけなら。
返した瞬間、胸の奥が少し熱を帯びた。いつも通りに整えられた文面なのに、そこに込めた感情だけは昨日までの自分とは違っていた。
咲がメッセージを送信してから、まだ一時間も経っていない。部屋に静けさが戻ったのも束の間、玄関のチャイムがなる。咲は思わず肩を跳ねさせた。
「……早っ!」
思わず口をついて出た言葉に自分で赤面する。慌てて携帯を手に取り、有眞からの通知を確認するがメッセージは来ていない。つまり――来るとは言ってないのに、もう来た、ということだ。
「やっぱバカだこの人っ!!」
そうぼやきながらも、咲の足は自然と玄関へ向かっていた。階段を降りてドアを開けると、そこには制服姿のまま無邪気な顔で片手を上げる有眞が立っていた。まるで昨日の続きを始めるかのように。なぜ制服????
「咲ちゃーん、お邪魔しまーす。」
「言ってない!まだ『どうぞ』って言ってない。」
「え、もう昨日で俺たち、そういうのナシの関係になったと思ってたけど?」
「どこの解釈ですかそれ……っ。はやく靴脱いで、入るならですが。」
咲がぼやきながら扉を開けると、有眞は満面の笑みで玄関に踏み込む。その様子は、もはや彼氏面という言葉が似合いすぎるほど自然で堂々としていた。二人は部屋に上がり、昨日と同じように机を挟んで向かい合う。だが空気は明らかに違っていた。いつもの無言の予習時間ではない。咲は意識して有眞の目を直視しないようにしていた。照れ隠しで問題集を手に取るも、ページがまったく頭に入ってこない。
「咲ちゃん、昨日の話は夢じゃなかった?」
「夢じゃないですよ。」
「じゃあ、キスも?」
「あの……だから、その話は……!」
「ね、もう一回していい?」
有眞が少しだけ身を乗り出した。咲は机の上のシャープペンをつかみかけて――が、寸前で手を止める。
「暴力はやめますが、そういうの急に言わないでください。」
「急じゃないよ。昨日から、ずっと言いたかった。」
咲は黙り込む。有眞の目は昨日と同じく真剣で、ふざけてなどいない。この人は、本当に――こうして真っ直ぐに、照れもせずに、好きだと言える人なのだ。
「ほんと、ずるいです。」
「ずるくない。咲ちゃんがかわいいのが悪い。」
「……は?」
「昨日からずっと思ってた。てか、前から思ってたけど。」
咲の耳がふたたび赤くなる。じりじりと熱が頬に広がっていくのが、自分でも分かるほどだった。
「勉強しに来たんじゃないんですか。」
「勉強もしに来た。でも咲ちゃんと、もっと近くで話したかったのが一番の理由。」
「それ、言いに来ただけなら、……せめて違う服で来てくださいよ。」
「制服フェチか?」
「ちがいます!!」
咲がばたんと机に伏せる。その様子を見て、有眞は楽しそうにどこか安心したように笑った。
この日は、たぶん今までで一番、“勉強の進まない”時間になる。それでも――この時間を咲はきっと嫌いにはなれない。いや、もうとっくに。
なれなくなっていた。
咲は登校早々、どこか元気がなかった。普段ならすれ違いざまに軽口のひとつも返してくるのに、この日に限っては廊下で出会っても目も合わせず少し背を丸めて歩いている。鞄を肩からずらし、階段を降りるときに小さく「っ……」と呻いた声を有眞は聞き逃さない。
「咲ちゃん?」
「あっ、有眞……おはようございます……。」
「いや、絶対今、“痛っ”って言ったよな?」
「べ、別に寝違えです。寝違え、はい。」
妙に強調された言い訳に、逆に不自然さが浮き彫りになる。有眞は眉をひそめながら咲の背後に回りこむように覗き込んだ。
「嘘つけ、それ腰だろ。歩き方も変だし!」
「だから……寝相が悪かっただけですってば。」
昼休み、屋上。風が吹き抜ける中、有眞は咲の背中をじっと見つめていた。咲は弁当を広げながらも、座る動作すらも慎重で明らかに動きがぎこちない。
「咲ちゃん、昨日さ誰かとどっか行った?」
「……え?」
「俺たち、まだしてねぇのにさ……なんでそんなに腰が痛ぇわけ?」
「……」
「……」
「はぁっ!?!?!?!?!?」
咲の顔が音を立てて真っ赤になった。驚きと羞恥が一気に押し寄せ、弁当の箸を取り落としそうになる。周囲の風景がスローモーションになる中、有眞はふてぶてしい顔で腕を組んでいた。
「いや、だって。そういう話かと……」
「ちっっっっっがいます!!何を勝手に妄想してるんですか!!昨日は家でずっと模試の過去問解いてて、それでずっと座りっぱなしだっただけです!しかも床に正座で!」
「……えっ、そうなの?」
「“そうなの”じゃありません!!この変態勘違い男!!」
「いやでも、咲ちゃんが他の男とヤってるとか流石に想像したくなかったけど。腰痛いって言われたら、それくらいしか……。」
「はい、解釈が最低です。」
咲はぷるぷる震えながら、有眞の頬を思いきりつねった。
「いててててっ、やめろ!耳ちぎれるって!」
「ちぎれろ!むしろ一回人間関係ちぎれてしまえ!」
「えぇ……俺たちって、もう恋人だろ?」
「恋人だからってなんでも言っていいわけじゃないんですよ!!」
しばらくして、落ち着いた咲がふぅとため息をつく。風が二人の間を通り過ぎ、陽射しが制服の影を淡く照らしていた。
「……もう。ほんと、そういうとこ嫌いです。」「でも、好きでしょ?」
「……黙れ。」
「照れてる〜〜〜〜〜〜〜♡」
咲はもう一度弁当の箸を振り上げたが、有眞はその手を取って軽く握った。
「ごめんごめん。でも嫉妬したんだよ、俺。」
咲は驚いて有眞の顔を見る。その横顔には、あのふざけた笑みではなく、どこか拗ねたような子どもみたいな純粋な表情が浮かんでいた。
「だって、咲ちゃんの全部、俺のもんだって思ってたから。」
「……バカ。」
「でも、咲ちゃんの“いてて”って声は俺が原因で言わせたいとは思ってる。」
「殺すぞ。」
「……ご褒美?」
「変態確定です!!!」
咲の怒声が、風に乗って校舎中に響いたのだった。昼休みが終わり、5限目の授業が始まる前――。
有眞は、まだ少しふてくされた顔で咲の隣に座っていた。腰痛誤解事件のあと、咲にこっぴどく説教され、なんとか機嫌を直してもらった……はずだったのだが。
「あの、有眞。」
「ん?」
「授業中、喋ったらぶっ飛ばしますからね。」
「え、それもう付き合ってるって前提の口調じゃん。咲ちゃん、もしかして俺のこと――」
「ぶっ飛ばしますって言いましたよね?」
「は、はい。」
咲の冷え切った笑みと筆箱を握る指先の力に有眞は思わず背筋を伸ばす。その間にも先生が入ってきて、授業が始まろうとしていた。
――が。
教科書を開こうとした瞬間、有眞の机に1枚のメモが滑り込んできた。
【今日、家来ますか?】
咲の横顔は澄ましたまま。ツンツンした表情なのに、ちゃんとこういうデレをしてくれるのがずるい。
「咲ちゃん、好き。」
「今は授業中です。」
「小声だからセーフだろ。」
「それでも、です。」
しかも机の下、有眞の膝をさりげなく蹴ってくる制裁付き。放課後、有眞は廊下で咲の荷物を持とうとして、カバンを取り上げた瞬間――。
「ちょ、有眞っ!?カバンの中、開けないでくださいっ!!」
「え、なんで!?浮気の証拠?」
「ちがいます!!ちがうけど見られたくないものが――」
そのとき、有眞の指先からひらりと落ちたのは、ピンクの小さなノート。
《◯◯と付き合うなら、絶対に自分がリードしないと無理!→反撃されそう。→でもそれがちょっと好き……?》
ページに走り書きされた文字、有眞の名前が◯◯さんに置き換えられているのがミエミエだ。
「咲ちゃん、俺のこと好きじゃん♡」
「ちがっっっ……違うんです!これは、仮定の話で……思考整理で……もう最悪ぅうう!!」
顔を両手で覆って、咲はうずくまるようにしゃがみこんだ。
「俺、咲ちゃんの『反撃されたい願望』についてもっと詳しく知りたいな。」
「死ね。」
「好きの裏返しでしょ?俺、Mでも全然いいよ?」
「もうお願いだから黙ってくださいほんとに。」
通りがかる同級生たちが「またやってるよ……」と苦笑いしながら視線を逸らしていった。帰り道、有眞は後ろからぴったり咲にくっついて歩く。
「今日の俺のどこが一番可愛かった?」
「脳の異常を疑いました。」
「正直でよろしい。逆に一番好きだったのは?」
「無言でプリント配ってた時。」
「そこかよ!?一番影薄いやつじゃん!」
「有眞は黙ってればいいんですよ。」
「えー、でも俺、咲ちゃんの反応見たいから喋っちゃう……♡」
「じゃあ明日から口にチャックつけてきてください。」
「はい!じゃあ咲ちゃんのチャックは俺が外s――」
「言っていいことと悪いことの違いを一生かけて教えてあげますね。」
昼休み。いつもの廊下、いつもの光景。咲は購買で買ったパンを手にベンチに座っていた。ぼーっと遠くを見ながら一口かじろうとした瞬間――
「うぇーい!!久々じゃね?咲〜〜〜!!!」
「ふぐっ!?……う、うるさいです……首、しまってます!!」
不意打ちで背後から首をガシッと回された咲は、反射的にパンを取り落としそうになった。声の主は有眞の友人で咲とも一応顔見知りの男子。彼のテンションの高さに咲のテンションはだだ下がりだった。
「なぁなぁ、聞いたか!?有眞の誕生日に、俺さ妹のサイズ合わなくなった服渡してやったんだわ。アイツ、くっそ喜んでてウケた〜。」
「…………はい?」
咲の咀嚼が止まる。
「てかさ、咲は何あげたん?アイツ、けっこうお前のこと気にしてるっぽいじゃん?まさか何もあげてないとかないよな〜?」
「……え?」
しん、と世界が止まった気がした。
──誕生日。
有眞の誕生日。
えっ、待って。終わった……?
もう、過ぎたの……?
「いつですか?」
「は?なにが?」
「有眞の……誕生日です……。」
「あー……先週の木曜だな。放課後カラオケ行ってたんだよアイツら。知らなかったの?まさか……お前……」
その友人は一瞬、まじかよという顔をした後に思いっきり笑った。
「まっっっさか〜〜!お前、あいつと仲良くしてんのに知らなかったとか、まじでそれウケんだけど〜〜〜!!」
咲の手からパンがぽとりと落ちた。心臓が変な音を立てている。胃の奥がひゅるりと冷たくなる。
──知らなかった。
本当に知らなかった。有眞の誕生日なんて、ちゃんと聞いたことも気にしたこともなかった。それなのに――。
(……僕、アイツの……彼氏なのに。)
その日の放課後。校舎の裏手で有眞を捕まえた咲は唐突に聞いた。
「有眞。」
「んー?どした咲ちゃん。お怒りですか〜?」
「誕生日いつですか。」
「……は?」
「何月何日ですかって聞いてるんです。」
有眞は一瞬ぽかんとしたあと、笑い出した。
「お前……いま?」
「いま、です。」
「マジで今なんだ!?もう終わったよ!?」
「…………知ってます。」
「じゃあなんでいま?プレゼントくれる感じ?」
「うるさいです。」
咲は真顔で、有眞の制服の胸ぐらを軽く掴んだ。
「教えてくれてもよかったじゃないですか。」
「いやいやいや、誕生日くらい調べろや彼氏。」
「彼氏って自分で言わないでくださいっ……!」
「でも、俺も言ってなかったし。それは、咲ちゃんにどうせ忘れられるって思ってたからで……って、あー今のナシ!忘れて!今の俺、めちゃくちゃダサい!」
「ダサいですよ。ほんとに。」
「うっ……!」
咲は一度目をそらした。そして、唇を噛みしめるようにしてぽつりと呟く。
「でも……聞けなかったんです。誕生日とか知るほどちゃんとした『彼氏』になれてる気がしなくて……。結局、僕は自分のことでいっぱいいっぱいで、全然……。」
有眞の顔から冗談が消えた。
「咲ちゃん。」
「な、なんですか?」
「じゃあ、今からやり直そ?来年の誕生日、期待しとくからさ。今からカウントダウンでもする?」
「……めんどくさいです。」
「ええ〜〜〜!?じゃあなんか奢ってよ!彼氏力の回復として!」
「来週の火曜日、クッキー焼きます。」
「まじで!?手作り!?うおお咲ちゃん好き!!」
「うるさいです。調子に乗らないでください。」
「でも咲ちゃん、ちゃんと落ち込んでくれたからチャラ。むしろプラスポイント♡」
「チャラじゃないです。プラスでもないです。マイナスがちょっと減っただけです。」
「じゃあ俺、誕生日10回くらいあるってことにする。」
「死にますよ?」
「咲ちゃんの手作り食べて死ぬなら本望♡」
「だからそういうふざけた……!」
放課後の空。冗談交じりの小競り合いの中で、咲の心に積もっていた罪悪感は少しずつ溶けていった。
来年は絶対。
誰よりも早く「おめでとう」を言って、誰よりも温かいプレゼントを渡すって決めた。
“恋人”らしく、ちゃんと、なりたいから。




