表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/17

第7話 どうかしている

 咲は机に突っ伏したまま、何度も深呼吸を繰り返していた。顔の火照りは収まる気配を見せず呼吸だけが不自然に浅い。有眞の腕が今も肩に回っている。その温もりが体の奥にまで染み込んでくる気がして、余計に平静を保てない。


「落ち着いた?」

「落ち着くわけがないでしょう……この状況で……。」


 咲は顔を上げ、額にかかった前髪を押さえながら有眞を睨んだ。その視線には、もう明確な拒絶はない。むしろ、どこか覚悟を決めたような静けさすら宿している。


「本当にどうかしてますよ。あなたも、俺も。」

「うん。だから今だけは、ちゃんと“どうかしてる”ままでいさせてよ。」


 そう言った有眞の声は、驚くほど優しくて、熱を帯びていた。咲がふっと目を伏せる。


「ねぇ、咲ちゃん。」

「なんですか?」

「咲ちゃんは、ファーストキスしたことある?」


 咲は一瞬、言葉を失った。問いかけの意味を理解した瞬間に心臓が大きく跳ね、体温が一気に上がっていく。指先まで血が巡って落ち着かない。


「そんなこと、わざわざ口にする必要がありますか。」


 ようやく絞り出した声はかすれていた。言葉の端々にいつもの冷たさをまとわせようとしたが、震えが混じっていて説得力はなかった。有眞は咲の反応をじっと見つめ、逃げ場を与えない。からかい半分の視線ではなく真剣に答えを求める眼差し。


「気になるじゃん。俺の咲ちゃんが、誰かにもうキスされてるのか、それともまだなのか。」


「俺のって……。」


 咲の頬に赤みが走る。言葉を返そうとしても舌がもつれて出てこない。自分がこんなにも動揺しているのを悟られたくないのに、目も逸らせなかった。


「……ありませんよ。そんな経験は。」

「……そっか。」


 一拍置いて有眞の口元がゆるやかに笑みに変わる。その笑みには茶化しも、勝ち誇りもなく、ただ静かな安堵と熱が滲んでいた。


「よかった。だったら、俺が最初でいい?」

「っ……!?」


 咲の視界が一瞬にして揺れる。頭の中に浮かぶのは理屈でも冷静な判断でもなく、ただ有眞の顔が近づいてくる映像だけ。喉が乾き胸がざわつく。


「馬鹿なこと言わないでください……。そういうのは……順序とか……!」


「順序?説得?そういうの、全部吹っ飛ばしたくなるくらい、お前のこと欲しいんだよ。」


 咲は視線を伏せ唇を噛んだ。強がろうとすればするほど、返す言葉が見つからなくなる。有眞の言葉が胸の奥にひりつくように残っている。恋愛は遠い世界の話で、まずは勉強・目標・夢——それだけを選んできた自分にとって、「誰かとキスをする」という発想は現実味がない。


「……俺、さ。」


 有眞がゆっくりと続ける。


「こういう時、冗談っぽくごまかした方がいいんだろうけど……咲ちゃん相手だとできないんだよね。」


 咲は反射的に顔を上げた。有眞の横顔は、いつものように軽い笑みを浮かべているのに、目の奥はどこか真剣で真っ直ぐだった。からかい半分の視線ではなく答えを欲している瞳。


「女の子と付き合ったことはあるし、それなりにデートもした。でも……いつも“いい人”で終わってた。心臓が本気で動く感覚なかった。」


 有眞は息を吸い言葉を紡ぎ続ける。


「でも咲ちゃんといると違う。笑ってる顔も、怒ってる顔も、全部俺の胸に刺さる。もっと近くに行きたいって思う。ふざけたくなるし、困らせたくなるし、同時に誰にも触らせたくなくなる。」


 咲の指が机の端で小さく震えている。心の奥で何かが揺らいでいるのを自覚しながらも、反射的に反論の言葉を探した。


「そういうの、簡単に口に出すことじゃないでしょう。」


「簡単に出してないよ。本当に思ってるから、言ってる。」


 咲は息を呑んだ。胸の奥がざわざわして言葉にできない感情が渦を巻く。有眞の顔がゆっくりと近づく。距離が縮まるごとに自分の中の冷静さが削ぎ落とされていく。


「咲ちゃん、俺のこと嫌なら本気で突き飛ばして。……でも、今だけは、俺の気持ちちゃんと聞いて。」


 その声は真剣で、震えていて、でも温かかった。咲は長く息を吐いた。胸の中に溜まっていたものが少しずつ溶けていく。


「僕は、論理的に答えを出すべきだと思ってきました。感情は曖昧で信じるには根拠が弱すぎる。だから、こういう話題も本当は避けたいんです。」


 吐き出すようにそう言いながらも、胸の奥が熱くてたまらなかった。感情に理由はいらない、そう言ってしまったら自分がずっと築いてきた“理屈”の盾が意味を失う。


「でもな、咲ちゃん。」


 有眞の声が静かに割り込む。


「俺は逆なんだ。理屈はどうでもいい。感情が先にあって、理屈はあとからついてくる。俺が咲ちゃんのこと考えて眠れなくなるのも、ムカつくくらい気になっちゃうのも、全部“好き”って感情が先にあるからだよ。」


 咲はぎゅっと唇を噛み視線を逸らした。頭の中で「認めるな」と声が響く。けれど、その声は有眞の真っ直ぐな瞳に溶かされていく。


「本当に貴方という人は、どうかしています。」

「うん。だから俺と一緒にどうかしてよ。」


 その一言に、胸が大きく跳ねる。逃げたいのに逃げられない。有眞の手が自分の腕をそっと包み込む。体温が直に伝わって心臓の音がどんどん速くなる。


「僕だって、こんなこと考えたことなかったんです。」


 かすれた声で、ようやく吐き出す。


「ファーストキスなんて別に興味はなかった。……ただ、もし誰かに勝手に奪われるくらいなら――」


 ゆっくりと、息を吐いてから有眞の方を真っ直ぐに見つめる。


「貴方の方が、まだ……マシです。」


 目をそらさず、そう言い切った咲の声音には、ツンとした鋭さとほんの少しの照れが混ざっていた。有眞の表情が変わった。ふっと口角が上がり、いつもの悪戯っぽい笑みになったかと思えば、次にはその奥にある本気の熱を押し出すような視線になる。


「じゃあ、いただきます。」


 低く、色を含んだ声。咲がそれを聞いた瞬間、再び身体が硬直する。


「な――」


 言いかけたその言葉ごと、有眞の唇が奪っていった。柔らかく、けれど遠慮のないキス。浅く触れるだけでは終わらない。彼は咲の後頭部にそっと手を添えて、ゆっくりと、けれど確かに深く唇を重ねてきた。咲の目が見開かれ、そして、次第に閉じていく。


 最初はただ受け入れるしかなかった唇の熱が、だんだんと咲の中に何かを溶かしていった。まるで味わうように咲の唇をなぞり、少しずつ角度を変えて、もっと深く――貪るように唇を這わせる。


 空気が、肌が、熱を帯びていく。


 息をするたびに、相手の温度が流れ込んでくる。咲の指先が有眞の袖をぎゅっと掴んでいた。無意識に逃げ道を閉ざしていた。


 長いキスだった。


 それでも、有眞がようやく唇を離すとき咲はほんの少し追いかけるように顔を上げてしまった。


「……やば。」


 有眞が笑う。息が混じった少し掠れた声。咲は何も言えず胸を上下させながら俯いた。唇が、まだじんじんと熱を持っている。


「咲ちゃん、顔……真っ赤。」

「当然でしょう……あなたが……その……」


 言葉がまとまらず、咲は再び顔を伏せる。有眞はその様子を愛おしそうに見つめながら小さく囁いた。


「もっと早く、お前のこと好きって気づいてたら、俺、全部壊してでも奪ってたかも。」


「……バカ。ほんとバカ。」


 それでも、咲は否定しない。唇に残った余韻が鼓動よりも雄弁に答えを語っていた。咲の声に空気がまたひときわ張り詰める。


 静かな時間が流れる。部屋にはふたりの呼吸音とカーテンを揺らす風の音だけ。有眞は咲の横顔を見つめながら、そっと言葉を落とした。


「ねぇ、咲ちゃん。」


 咲がわずかに目を向ける。


「付き合おうよ、俺たち。」


 その言葉は、重くも軽くもなかった。真っ直ぐで有眞の本心そのものだ。


「ほかの人にお前取られるの、マジでヤダ。」


 咲の瞳が揺れる。


「全部、隣がいい。お前の隣。模試の席も、勉強会も、下校の道も、恋人も、全部。」


 言いながら、有眞は咲の手に触れた。指先がそっと触れると、咲は反射的にぴくりと手を引きかけるも、結局はそのまま、手を逃がさなかった。


「俺の全部に、お前がいたらいいなって、そう思ってる。」


 真っ直ぐすぎるその告白に、咲は瞳を伏せた。唇が何度か言葉を形づくろうと動き、やがて静かに呟くように答える。


「気持ちは、わかります。僕も貴方といる時間が嫌じゃないどころか……正直、落ち着くというか。むしろ、変に安心してる自分がいることにも気づいてます。」


「じゃあ――」


「でも。」


 有眞の言葉を咲が制した。


「“好き”という感情は、瞬間的な高揚によって簡単に生まれることもあります。けれどそれが、“付き合う”という関係に変わった途端に、価値観や生活リズム、将来への見通し、他人への説明責任、いろいろな不安要素が現実的になって……そのすべてを“気持ち”だけで乗り越えられるとは限らないです。」


 有眞は黙って耳を傾けていた。


「僕たちは、まだ高校生で将来も定まってないです。恋人って言葉が重くのしかかって、壊れてしまう関係も沢山あるって知ってるから。」


 それは冷静な分析でありながら、どこか不器用な優しさでもあった。咲は、自分なりにこの関係を守ろうとしていたのだ。


「でも。」


 言葉を切ったのは、有眞だった。


「それでも、俺は“今”のお前と、ちゃんと向き合いたいって思ってる。未来の不安も、ルールも、説明責任も、いくらでも考えてく。でも、今この瞬間、お前を“彼氏”って呼べないのが一番不自然なんだよ。俺にとっては。」


 咲の瞳が揺れる。


「先のことなんて、どうなるかわかんない。でも、目の前のお前は確かに俺を見てくれてて、触れてくれて、キスもさせてくれた。それで“付き合わない”って選択は俺にはない。」


 しばしの沈黙。咲は目を伏せたまま、机に落ちる自分の影を見つめていた。それからゆっくりと目を細めてため息をつく。


「貴方は、ほんとそういう所だけ真っ直ぐで、ずるいんです。」


 有眞が小さく笑う。


「それ、今のは“OK”ってことでいい?」

「まだ、全てを納得してるわけじゃありません。でも……仮に僕が貴方とそういう関係になって、何かが変わるとしても……」


 言葉を選ぶように、咲はゆっくりと言った。


「その変化に少しだけ興味があります。」

「おお、咲ちゃんのOK来たー。」

「うるさい。うるさい、ほんと。軽くすんな……!」


 咲が顔を逸らすと、有眞は咲の手をそっと握ったまま、もう一度静かに笑う。


「じゃあ今日からよろしくな、俺の恋人。」

「……本当に、どうかしてます……でも……」


 咲は照れたように目を伏せ、かすかに微笑んだ。


「嫌じゃないです。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ