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第5話 逃げないでくれ

 静寂が戻った咲の部屋で、空気はどこか柔らかく、それでも張り詰めたままだった。問題集のページがぱらっと風にめくられる。咲は視線をそこに落としたまま、しかし一向に集中できていない。沈黙を破ったのは有眞だった。


「なあ、咲ちゃん。」

「……何ですか、また。」

「同性愛についてどう思う?。」


 咲の手が止まる。有眞の方を振り返ると、そこにはいつものふざけた笑みではなく、何かを試すような、あるいは自分の心を確かめるようなそんな瞳があった。


「変かどうかを決めるのは、社会でも他人でもなく自分自身です。」


「……真面目か。」


「答えたまでです。理屈で言えば、人が人を好意的に見るという感情に性別は必ずしも必要ではありません。過去の事例から見ても、同性間の恋愛は文化や歴史によって存在が認められてきました。感情とは本来、もっと曖昧で規格化されるものでは――」


「ごめん、理論じゃなくてさ。俺、女の子と付き合ったことあるけどピンとこなかったんだよね。かわいいな〜とか思っても、それ以上がないっていうか。」


 そのまま有眞の言葉に耳を傾ける。


「お前と口喧嘩してるときとか、模試の順位張り合ってるときとか……お前のこと考えてる時間が圧倒的に長くてさ。で、気づいたら異性より咲ちゃんの方が……ずっと好きだった。」


 有眞は目をそらさないまま言い切る。あまりに真っ直ぐな言葉に胸を刺されるような感覚を覚えた。


「……バカ言うないで下さい。」


 ぽつりと、そう言った咲の声はかすれていた。そして次の瞬間、顔が真っ赤に染まる。


「何ですかいきなり……。冗談なら……」

「本気だけど。」

「言い方ってものがあるでしょう。説得とか……順序とか……!」

「咲ちゃん、今の説得された?」


 有眞は頬杖をついて、ふっと笑う。その横顔はどこか大人びていて、普段のふざけた陽キャのそれではなかった。


「俺、別に論破したいわけじゃないんだよ。好きって言いたくなっただけ。理由とか、理屈とか、お前に説明できるようなことじゃないけど。咲ちゃん見てると胸がざわざわするし触れたくなる。」


「……論理的に破綻してます。」


「じゃあ、咲ちゃんは?」


 口を開きかけて閉じた。何をどう言えば正解なのか分からない。いつもは整然としている頭の中が、今はまるで教科書をばら撒かれたようにぐちゃぐちゃだった。


「わかりません。」

(そっか。でも、赤くなってる時点で少しは俺の勝ちだよな。」

「……黙れ。」


 咲は顔を伏せて小さくそう呟いた。その唇の端は、ほんの僅かに揺れている。有眞は、勝ち誇るでもなく穏やかに笑っていた。まるで、ようやくずっと欲しかった本音のページにたどり着いたように。


「っ……!?」


 次の瞬間、有眞の手が咲の腕を取ってするりと力を込めた。


「ちょっ……何を――」


 戸惑いを吐き出す前に、その体はふわりと引き寄せられる。咲の細い肩が有眞の胸にぴたりと収まる。抵抗する暇もなく彼の腕が背中に回り、その身を包み込むように抱きしめられた。耳元に響くのは、有眞の心音――やけに早く、強く、まっすぐだった。


「……ッ、有眞……っ……離して下さい……!」


 咲は反射的にもがこうとしたが、有眞の腕はしっかりと自分の体を捉えて離さなかった。それでも無理に押さえつけるような力ではなく、ただ、「お前を逃がしたくない」と言っているような、優しいけれど抗えない温度がある。有眞の唇が咲の耳に触れるか触れないかの距離にまで近づく。


「咲ちゃん、逃げないで。」


 囁く声は、掠れて低い。普段の調子とは違う真剣な緊張したような声。


「俺、お前の事ずっと欲しいって思ってる。」


 咲の全身に鳥肌が立つ。


「ふざけてねえよ。お前がムカつくこと言っても、俺がくだらないことしても、それでもさ――全部、咲だからよくてさ。」


 吐息が耳にかかる。咲の背筋がぞわりと震えた。


「もしこれが間違いでも、俺は咲を選ぶ。」

「……っ……や、めて……ほんとに……。」


 咲は震える声で必死に言葉を絞った。頬はすでに熱を帯び耳の先まで赤く染まっているのが、有眞にもはっきりわかる。それでもなお咲は、懸命に自分を保とうとしていた。


「こんな……近い距離で、そんなこと言われても、まともに考えられるわけが……。」


 有眞は小さく笑って、抱きしめる腕の力をわずかに緩めた。けれど、咲を放すことはしない。代わりに、もう一度ゆっくりと耳元で囁いた。


「いいよ、考えるのはあとで。でも今だけは、俺にお前を感じさせて。」


 掴んだ服の裾に力が入り、そのまま、ぎゅっと有眞の胸元を握りしめた。


 逃げなかった。

 拒まなかった。


 有眞はその反応に、静かに目を閉じ咲の頭に顎を乗せる。咲の体温が自分の胸にじんわりと染み込んでくるのを感じながら。窓の外、春の風がカーテンを揺らしていた。ただの勉強会だったはずの午後は、もうとっくに別の意味を持ち始めている。

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