第4話 冗談じゃなくて
咲の部屋は静まり返っていた。白とグレーを基調にした整然とした空間。その中で、唯一“整然”の対極にある存在がソファに寝転がっている。
「咲ちゃんちって、なんか……“病院みたい”って言ったら怒る?」
「言わなくていいことは、黙っていてください。」
咲は眼鏡越しに有眞を冷たく睨んだ。机に向かいノートに数式を書き込んでいる手は止めない。ペン先の走る音と有眞の無駄話だけがこの空間を満たしていた。
「いやさ、これ“勉強会”なんだろ?なのにお前しか勉強してないっておかしくね?」
「おかしいのは、勉強会に来て寝そべってるあなたの方です。」
「うわ、正論で怖……。でもさ、咲ちゃんがあまりにも真面目すぎて、俺が崩してあげないとって思ってさ?」
「ありがた迷惑です。むしろ退室をおすすめします。」
有眞はふてくされたように身を起こし、咲の机のすぐ横に移動して椅子を引く。咲はため息をついたがそれを拒絶はしなかった。
「じゃあ、せめて教えてよこれ。数Cのベクトルあんま理解できてないんだよね~。」
「本当にわからない人は、公式の丸暗記じゃなくて空間把握から理解しようとします。」
「おっ、じゃあ咲ちゃんに教わるのが一番ってこと?」
にやりと笑って肘ぇ咲の肩をつつく。その瞬間、咲のペン先が一瞬止まった。
「やめなさい。」
「え~、だってさあ。ほら、咲ちゃんって肩こんなに細いのな。机より華奢じゃん?」
「……やめなさいと言いました。」
有眞はまったく反省する様子もなく、今度は咲のノートを覗き込む。視線がやたら近い。横顔同士が触れるほどの距離。
「文字も几帳面すぎない?なんか、咲ちゃんって人間そのままって感じ。」
「近い。」
「いいじゃん、減るもんじゃないし。あれ、耳赤い?咲ちゃん~、照れてる~?」
「うるさい。そもそも集中できないなら帰ってください。」
「いやいやいや、せっかく来たのに。咲ちゃんに会うの楽しみにしてたんだからさ。」
言った瞬間、空気が一瞬固まった。咲は動きを止めたまま有眞の顔を見つめる。有眞は、いつものように軽い笑みを浮かべていたが目はふと真剣になっていた。
「その“冗談”何回目ですか。」
咲はそっけなく言いながら視線を逸らした。胸の奥が思いがけず跳ねたのが自分でもわかる。有眞は答えず机の上のペンをくるくると回しながら真顔で呟くように言った。
「冗談じゃなかったら、どうすんの?」
「意味がわかりません。」
「そっか。ま、いっか。」
そう言って、有眞は突然、咲の肩にあごを乗せた。咲の全身がびくっと反応する。
「ちょっ……!なにを――」
「動かないで。咲ちゃん、せっかくの勉強時間なんだから。俺、静かにしてるからさ。」
「……重い。」
「咲ちゃんって、怒るとますますかわい……いや、なんでもない。」
「下らないこと言ってると、本当に追い出しますよ。」
怒気を含んだ声に有眞は満足げに身を引いた。再びソファに寝転びスマホを弄りながら小さく笑う。
「ねえ咲ちゃん、勉強ってさ一人より二人の方が楽しくなるってことない?」
「あなたとは例外です。」
「でも、俺とだけは勉強続いてるよな?」
咲は答えなかった。ただ黙って再びペンを動かし始める。その手の震えが微かに残っていたことに有眞は気づいていた。咲もまた、頬の熱が引かない自分に気づいていた。
「なあ、咲ちゃん。」
ソファの上でごろりと寝転がったまま、有眞が唐突に声をかけてくる。咲は机に向かって問題を解いていたがペン先を止めずに返す。
「今度は何ですか。」
「それ、メガネ。」
咲の手がぴたりと止まった。
「……何が、ですか。」
「伊達メガネでしょそれ。」
ゆっくりと振り返る。無表情の仮面を崩さずに有眞を見つめるが明らかに目の奥が揺れていた。
「なんで、それを。」
「去年の体育祭。借り物競争でメガネ外して遠くからもの見つけたの俺見てた。」
「……あれは……」
「しかもさ、視力検査のときも普通に裸眼で読めてたよな。Cの向き全部正解してたし。」
有眞はにやりと笑って、咲の反応を楽しんでいるようだった。咲は明らかに動揺して、肩を強張らせ机から少し身を引き顔を少し逸らす。
「……黙っていてください。」
「別に責めてないよ。むしろ、似合ってると思うけど?」
「だったら、触れないでください。」
「そんなに気にしてたんだ? かわい――」
「その先の単語を口にしたら、あなたをこの窓から投げます。」
「こわ。」
有眞はひるむどころか楽しそうに笑いながら身を起こし咲のすぐ後ろに立つ。そして、ふいに咲の肩に手をかけ、ひょいと眼鏡を奪うように外した。
「もうっ……!!返してください!」
咲は立ち上がって奪い返そうとしたが、有眞は眼鏡を片手にひょいと背を反らして逃れる。その場に立ち尽くした咲の素顔をじっと見つめた。青みがかった瞳。整った眉。普段はレンズの奥に隠れている表情が今は全てあらわになっている。そのあまりにも整いすぎた素顔に有眞は思わず言葉を失う。
「……お前さあ」
「なんですか。」
「いや、なんか……あんまじっと見れねぇな、これ。」
咲の顔が一気に赤く染まる。いつもの冷静な仮面はどこにもない。耳まで真っ赤になって、視線も合わせられず咲はぎゅっと拳を握りしめた。
「見ないでください。」
「無理。すげぇ綺麗だなって、思って……。」
「やめろ……って……言ってる……。」
咲は小さな声でそう言って視線を落とした。机の陰に隠れるようにして顔を伏せる。呼吸が浅くなるのが自分でもわかった。有眞はようやく、ふざけた笑みを引っ込めた。手にしていたメガネをゆっくり咲の机に置き、しばらくそのまま見つめる。
「……ごめん。今のは、やりすぎた。」
静かな有眞には珍しい低い声。咲は驚いたように顔を上げる。ふと視線がぶつかり、すぐに逸らす。
「なにを急に。」
「お前が照れるとこ初めて見たから。ちょっとドキッとしてさ。」
「それは、言わないでください……!」
咲は小さく呟いて、メガネを取り戻し手早くかけ直した。だがその手は微かに震えていたし頬の赤みもすぐには引かない。有眞はもう何も言わなかった。ただその姿を黙って見つめて。茶化すでも皮肉るでもなく静かに。咲は視線の端でそれを感じながら、再び机に向き直る。
けれど、もう問題文の文字は頭にほとんど入ってこなかった。




