第3話 理解不能の君が
咲は参考書を広げ、赤ペンで黙々とマーカーを引いていた。机の上は整然としていて、彼の性格そのものを映している。そこに、ノートも持たずに有眞がひょいと腰を下ろした。
「よっ、咲ちゃん。今日も机と結婚してんの?」
「……何の用ですか。生徒会長はもっと別の“仕事”があるでしょう。」
「おお、ツンツン。俺さ、ここで咲ちゃんの顔見るのが仕事だから。」
「職務怠慢にもほどがある……。」
「怠慢じゃない。これが俺の生きがい。」
ペンを止めて、咲は深くため息を吐く。
「本当に、あなたという人は理解に苦しみます。なぜ僕にばかり絡むのですか?」
「ん?簡単じゃん。咲ちゃんが、俺にだけ刺々しいから。クラスの誰に対しても完璧で先生に対しても模範的。なのに、俺にだけ口が悪くなる。なんで?」
「……無意識でしょう。」
「いやいや、無意識で“お前は脳が軽い”とか言えんでしょ。」
「事実ですから。」
「おい!?」
有眞が声を上げると、図書室の司書に「お静かに」と睨まれた。咲は眉一つ動かさず、再び問題集に視線を落とす。しばらく沈黙が続き、カリカリと鉛筆の音だけが響いた。その静けさの中で不意に有眞がぽつりと呟いた。
「ねぇ、咲ちゃん。」
「なんですか。」
「俺のこと嫌い?」
ペン先が止まる。咲はほんの一瞬だけ動揺を見せたが冷静を装って返した。
「嫌いかどうかを問われれば……煩わしい相手です。」
「ふーん。じゃあ俺のこと気にしてんじゃん。」
「……違います。」
「違わない。だって咲ちゃん、俺が近づいたらすぐ顔しかめるのに席立って逃げないでしょ。」
「あなたの相手をする方がまだ効率的ですから。」
「効率で俺を選んでくれてるってこと?」
「曲解しないでください!」
にやりと笑う有眞。その顔を見ているだけで、咲の胸の奥に妙な熱が広がる。だけどそれを認めるわけにはいかない。
「本当に鬱陶しい。」
「ありがと。咲ちゃんにそう言われるの、俺だけだから嬉しい。」
「……理解不能です。」
咲はノートに視線を戻しながらも、耳の先がほんのり赤い。有眞はそれを見逃さず、わざと机に頬杖をついて彼をじっと見つめる。
「ねぇ咲ちゃん。もし俺が本気で好きって言ったら、どうする?」
一瞬、咲の指が止まる。彼は何も言わず、ただペン先を強く紙に押し付けた。
「返答する義務はありません。」
「そっか。じゃあ俺は勝手に言い続けるね。」
「……勝手にすればいい。」
言葉は冷たかった。けれどその横顔は、心の奥に小さな波紋を隠しきれていない。
窓の外はすっかり暗くなった。
有眞は咲がまとめたプリントに視線を落としていた。几帳面な字、的確な要点、線で結ばれた関連語句。横にいる本人そのままを写したような整然としたノートだった。
「……やっぱり天才だね、咲ちゃん。これ見てるだけで俺、三割くらいは頭よくなった気がするよ。」
返事がない。隣を見ると咲はシャーペンを握ったまま、ゆっくりと首が傾いていた。
「……寝た?」
細い肩が小さく上下し、一定のリズムで息が聞こえる。完全に寝落ち。有眞は苦笑して、ペンをそっと指から抜き取り机の上に置いた。
「真面目すぎるんだって。無理しすぎ。」
そう呟いた瞬間、咲の身体がわずかに傾いた。反射的に腕を差し出すと、そのまま自分の肩にストンと重さがかかる。
「……っ」
咲の黒髪が頬に触れ、微かにシャンプーの匂いがした。有眞はしばらく固まったまま動けず小さく息を吐く。
「……可愛すぎて心臓止まる。」
机に突っ伏して眠ってくれた方が、まだ平静を保てた。肩に寄りかかられて、こうも無防備な顔を見せられると、どうしていいかわからない。咲の唇は少し開いていて呼吸の音が静かに漏れている。長い睫毛の影が白い頬に落ち、普段の張り詰めた優等生の顔はどこにもなかった。
(普段はツンツンしてるくせに、こんな顔して寝るんだな。)
耳元に囁いても返事はない。有眞は少し体をずらして、咲が楽に眠れるように姿勢を整えた。自分の肩に体重が預けられ、じんわりと温かさが広がっていく。
(ずっと俺に甘えてくれたらいいのに……なんで起きてるときは強がるんだよ。)
そう言って、咲の指先にそっと触れる。握られてもいないのに、まるで「ここにいる」と伝わるようで有眞の胸の奥がじんと熱くなった。
「俺はどこにも行かないよ。咲ちゃんの隣にいるから。」
部屋の中は静かで、聞こえるのは二人の呼吸だけ。咲が小さくもぞりと動いたが起きる気配はない。有眞は肩に重さを感じながら、咲の寝顔を見つめ続けた。
――勉強も大事だ。けれど、この瞬間は、何よりもかけがえのない時間だった。




