第2話 その口の悪さも
放課後の図書室。カーテン越しに差す夕陽が机の上に淡い橙を落としていた。ページをめくる音と、時折誰かの咳払いだけが響く静寂の空間。
咲は参考書を広げたまま眉間に皺を寄せ、赤ペンを走らせていた。その集中力は尋常じゃなく、隣に腰を下ろしている有眞がわざとシャーペンを転がしたり、小声で呼びかけても、まったく動じない。
「咲ちゃん」
「……」
「咲ちゃーん」
「……何ですか。」
「やっと返事した!」
有眞が小声でガッツポーズをすると、咲はため息をつきながらも口元がわずかに緩んだ。
「くだらない。」
「今、笑った?笑ったよな?」
「笑ってません」
「いやいや、今絶対笑ってた!咲ちゃんの口角、いつもより三度くらい上がってた!」
「角度で測るな、馬鹿。」
そう言いつつも、咲の頬はわずかに赤みを帯びている。有眞はそれを見て胸の奥がじんと熱くなった。
――あ、やばい。
たったそれだけで、自分がどれだけ浮かれているのかを自覚する。咲の笑い顔。ほんの少し口元がほぐれるだけで世界が鮮やかに変わって見える。そして、ふと思った。
(……誰にも、見せたくないな)
クラスメイトの前で完璧な優等生で冷静沈着な綾瀬咲。その彼がふっと崩す笑顔を自分だけが知っているという事実。独占欲とも嫉妬ともつかない感情が胸の奥で熱を帯びて渦を巻く。
「なにを、じっと見ているのですか?」
不意に咲の視線が上がる。青い瞳に射抜かれて、有眞は慌ててごまかすように笑った。
「いや……なんか、咲ちゃんって笑ったらめっちゃ可愛いなって。」
「……っ、何を……!図書室で声を張り上げないでください!」
「張り上げてないって。小声だよ?」
「周囲に聞こえたらどうするのです。」
「いやむしろ聞こえてもいいけど……でも、ほんとは誰にも聞かせたくないんだよな。」
「……は?」
「だって、咲ちゃんが笑った顔は俺だけが知ってたいから。」
沈黙。咲は一瞬きょとんとした後、耳まで真っ赤になり勢いよく視線を逸らした。
「理解不能です。あなたは本当に……。」
「理解不能でもいい。俺が独占したいから。」
「っ、子供じみたことを……!」
「でも本気。」
有眞が真顔で言い切ると、咲はペンを握る手を強く震わせノートに無駄に線を引いてしまった。それを見た有眞は、にやにやと笑いながら囁く。
「照れてる顔も誰にも見せなくていいよ。」
「……黙れ。」
そう吐き捨てながらも、咲は机に影を落とすほど深く俯いた。頬の赤さが隠しきれていないのを有眞だけが見ている。
――その笑顔も、照れ顔も。全部、誰にも渡したくない。
有眞は咲の隣に静かに座り続けた。
ある日。窓の外は薄紅色から群青へと移ろい、グラウンドからは部活生の声が遠く響いていた。クラスの大半はすでに帰り、残っているのは咲と有眞、そして数人の居残り組だけ。咲は黒板近くの席に座り模試の復習ノートを開いていた。
几帳面な字でびっしりと埋まったページは、まるで教科書の縮図のように整っている。その隣に机をくっつけるようにして腰かけた有眞がいた。ノートも広げず、顎に手をつきながら咲の手元を覗き込んでいる。
「なぁ、咲ちゃん。」
「何でしょうか。」
「友達として聞くけどさ。咲ちゃんにとって“俺”って、どういう存在なの?」
不意に向けられた問いに咲はペンを止めた。視線を逸らしながら慎重に言葉を選ぶ。
「建前を言うなら。」
「建前?」
「同級の少し騒がしい生徒会長です。」
「うわ、だいぶ冷静な評価〜〜。」
「事実です。あなたは目立ちたがりで、常に周囲に声をかけて、空気を明るくする役割を担っています。その点は、評価してもよいと思っています。」
「“よいと思っています”って、親戚のおじさんみたいな言い方!」
有眞が笑うと咲は咳払いして続きを口にする。
「ただ、本音を言えば」
「うん」
「騒がしく苛立たせ勉強の邪魔をする。それでも、なぜか放っておけない存在です。」
言い終わると机に小さな沈黙が落ちた。咲は眉をひそめ、ペン先で紙を小突きながら俯く。
「なるほど。本音の方が“友達っぽい”な。」
「どういう意味ですか?」
「だって友達って、そういうもんだろ?ウザいけど結局一緒にいる。めんどくさいけど居心地がいい。咲ちゃんにとって俺がそうなら、めっちゃ嬉しい。」
「……理解不能です。」
「理解しなくていい。俺は俺で、咲ちゃんのこと“友達”なんて建前で言ってるけど……本音はもっと違うよ。」
咲が顔を上げる。夕陽に照らされた有眞の瞳は珍しく真剣だった。
「本音?」
「うん。本音は――俺、咲ちゃんが誰と話しててもちょっと気になる。笑った顔とか、怒った顔とか、俺以外に見せてほしくないって思ってる。」
「……それは、友人の域を超えているのでは。」
「そうかもね。でもまだ“友達”ってことにしておく。咲ちゃんが逃げないように。」
「……っ」
咲は返す言葉を失い視線を伏せた。心臓が早鐘のように打っている。それを悟られまいとわざと冷静にペンを動かす。
「あなたという人は、本当に建前と本音の使い分けが下手です。」
「下手っていうか、咲ちゃん相手だと全部漏れちゃうんだよなぁ。」
「……迷惑です。」
「でも嫌じゃないでしょ?」
「知りません。」
そう吐き捨てながらも、耳の先は赤く染まっていた。




