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第17話 冬を超えて、春の始まり

 一瞬、電話の向こうが静まり返った。夜の虫の声だけが間を埋める。


『咲ちゃん、今、なんて言った?』

「今すぐ、会いたいです。」


 自分でも驚くほどはっきりした声。誕生日の夜、家の灯りの中で涙を流した直後。心のどこかが――はっきりと「このままじゃダメだ」と訴えていた。


「ちゃんと……話をしましょう。」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が震えた。怖い。けれど逃げたくなかった。有眞と厳しい冬を迎える前にちゃんと向き合いたかった。電話の向こうで、ふっと息を呑む音がする。


『咲ちゃんから、そう言うなんて反則だろ。』


 少し笑ったような、でも震えが混じった声。


『どこ行けばいい?今、家出る。』

「駅前のロータリーで。」

『了解。走る。』


 通話が切れる直前、彼が小さく付け足した。


『来いよ絶対。途中でやめんなよ。』

「行きます。」


 切った携帯を胸ポケットにしまい、僕は玄関に向かった。母さんと父さんはまだ台所にいて食器を片付ける音が響いている。靴を履きながらリビングの灯りを振り返る。


「行ってきます。」


 そう小さく呟いて、夜の冷たい空気の中へ踏み出した。冬の手前の空気は澄んでいて、頬に触れる風がやけにまっすぐだ。街灯のオレンジが歩道をまだらに照らしている。駅までの道は何度も歩いたはずなのに、今夜は足音が胸の鼓動と重なってやけに大きく響いた。あの人に「ちゃんと話をしよう」と言うなんて、僕らの関係が始まって以来、初めてかもしれない。いつもは有眞が先に踏み込んで、僕が皮肉で受け止めて照れ隠しで押し返してきた。


 でも今日は、違う。僕の方から呼んだ。僕の言葉で夜を切り開いた。交差点の信号が青に変わる。冬の気配を帯びた風が頬を撫でていった。胸の奥が不思議と澄んでいる。駅前のロータリーには、ちらほらと帰宅の人影。ベンチの横の時計は夜の9時を少し回っている。ポケットに手を突っ込んで待っていると――。


「咲ちゃん!!」


 夜を裂くような声が聞こえた。振り向くと、有眞が全力で走ってくる。パーカーのフードがばたばた揺れて息を切らしながら笑顔だった。僕の胸の奥がどくんと鳴る。


「……来た。」


 彼は走りながら笑っていた。まるで、冬の空気も夜の街も全部吹き飛ばすような勢いで。


 これから、ちゃんと話をする。

 冬が来る前に二人で。

 逃げずに言葉で心で。


 有眞は走ってきたせいで肩で息をしている。頬は赤く吐く息が白く揺れた。僕は、思わず足が動いた。


 一歩、二歩――気づいたら走っていた。


 有眞が驚いたように目を見開いたその瞬間、彼の胸に飛び込むようにして抱きつく。コートの布越しに伝わる体温が冬の夜にじんと沁みていく。


「……ごめん……」


 喉の奥が詰まって言葉がうまく出てこない。胸に顔を押し付けたまま肩口に涙が滲む。


「ごめん……ごめんなさい……有眞……」


 有眞の両腕がゆっくりと僕の背中に回される。強く抱きしめ返されて全身が包まれた。


「……咲ちゃん……?」


 少し戸惑った声。でもその声には、責める色なんて一つもない。


「俺、なにかした?」

「違う!」


 顔を上げることができない。目を合わせたら、きっと堪えられなくなる。胸の奥から溢れてくるものが止まらない。


「僕が……僕が……っ」


 言葉にならない。あの日、冬の入り口にあったあの喧嘩、傷つけてしまったこと、何も言えずにいたこと。全部が一気に胸の奥からあふれ出してくる。


「僕はずっと、自分のことばっかりで。人の気持ちにちゃんと寄り添えなかった。」


 やっとの思いで絞り出した言葉が夜気に溶けていく。


「有眞が、僕の隣で何を思ってたのかちゃんと見ようとしなかった。怖くて踏み込めなくて……それを、あなたにぶつけて傷つけた。」


 有眞の手が僕の背中をゆっくりと撫でる。冬の風がコートの裾を揺らす音が聞こえる。


「咲ちゃん、泣いてんの?」

「泣いてません。」


 否定した声は、どうしようもなく震えていた。涙がコートの胸元を濡らすのが自分でもわかる。有眞は小さく息を吐いた。抱きしめる腕の力が少しだけ強くなる。


「謝んなくていいよ。」

「謝らせてください……」

「いいって。俺、あのとき咲ちゃんのこと嫌いになったわけじゃない。むしろ、俺はずっと咲ちゃんにちゃんと向き合ってほしかったから。だから、あの喧嘩は俺も引けなかったんだと思う。」


 僕は顔を上げた。夜の街灯の下、有眞の目がまっすぐ僕を見ていた。少し潤んで確かに僕を見ている瞳。


「咲ちゃんに“無理に変われ”なんて言いたかったわけじゃない。ただ……俺の気持ちにちょっとでも触れてほしかっただけ。」


 その言葉が胸に突き刺さる。あの冬、僕が逃げたものの正体がはっきりと形を持って迫ってくる。


「……ごめん……」


 また声が震えた。両手が彼の服の胸元をぎゅっと掴む。


「僕……有眞を傷つけた。なのに、何もできなかった。」


 有眞は一瞬だけ目を閉じ、それから僕の額にそっと自分の額を合わせた。距離が近い。呼吸が混ざる。


「今、来てくれただろ。」


 その一言が静かに胸の奥へ落ちていった。


「逃げなかった。咲ちゃんが“ちゃんと話そう”って言ってくれた。それだけで、俺は嬉しいんだよ。」


 涙が一筋、頬を伝った。彼の手がそっと拭ってくれて指先が温かい。震える唇で、もう一度だけはっきりと彼の名前を呼んだ。


「有眞。」

「なに。」

「ありがとう。」


 言葉が途切れ、僕はもう一度、彼の胸に顔を埋めた。彼の腕がしっかりと僕を抱きしめ直す。駅前のロータリーの灯りが、ふたりの影を長く伸ばしていた。冬の夜――僕は初めて真正面から有眞に謝った心の底から。抱きしめながら、涙と一緒にずっと言えなかった想いをこぼした。


 有眞は、何も責めずにその全部を受け止めてくれた。


 駅前の灯りがひとつ、またひとつと落ちていき夜は深さを増していた。冷たい空気のなか、僕たちはまだ互いの腕の中にいた。泣き腫らした目も掠れた声も隠さない。有眞が僕の背中に添えた手をゆっくりと離した。代わりに、両肩をそっと掴んで正面から僕を見る。


「咲」


 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がかすかに震えた。呼吸が白い夜気に混ざってゆく。


「……なに」


 掠れた声で答えると、有眞は少しだけ笑った。泣いたあと特有の滲んだような柔らかい笑顔。


「誕生日おめでとう」


 その言葉が夜の空気を優しく震わせた。


 一瞬、時間が止まったように感じる。走って、泣いて、抱きしめて――その流れの中に突然差し込まれた“誕生日”という言葉が胸の奥の奥で静かに灯った。


「……そんなこと……今、言います……?」


 思わずうつむいた僕に、有眞は軽く首を振った。


「今だから言いたかったんだよ。」


 その声は冗談なんかじゃない。柔らかくて、でも揺るぎがない。


「今日、どうしても直接言いたかった。“おめでとう”って。だって……」


 一呼吸置いて有眞は僕の両手を取った。指先から伝わる体温が、じわりと心まで染み込んでいく。


「もうとっくに、心は咲に染まってるから。」


 その言葉が落ちた瞬間、胸の奥に強烈な熱が走った。静かな夜の空気の中で、その一言だけが異様なほど鮮やかに響いている。有眞の目はまっすぐで逃げ道なんてどこにもない。からかいも照れ隠しもなに一つ混ざっていない。本当の気持ちだけが僕にぶつかってくる。


「……なに、それ。」


 やっとの思いで絞り出した声は情けないくらい震えていた。頬が熱い。冷たい風の中なのに指先までじんじんと火照っていく。


「お前が俺の人生に現れてから色んなもんが変わったんだよ。ムカつくくらい真っ直ぐで、俺の嘘とか全部見抜いてくるくせに、自分のことになると不器用で。そんな咲ちゃん見てるうちに気づいたら、全部お前に染まってた。」


 有眞は笑うでもなく、泣くでもなく、穏やかな表情で言葉を続けた。


「俺が生きてきたなかで、こんな風に“人に染まる”なんて、想像もしてなかった。だから、今日くらいはちゃんと伝えたかったんだ。おめでとうって。」


 涙腺がもう一度決壊しそうになる。夜風が頬を撫でても、その熱はまったく冷めない。胸の奥がぎゅっと苦しくなるくらい満たされていく。僕は何かを言おうとしたけれど、言葉が喉で詰まる。代わりに一歩近づいて、有眞の胸にそっと額を預けた。


「ありがとうございます。」


 それだけで精一杯。有眞はそれで十分だとわかっていたみたいに、静かに僕の頭を抱き寄せた。夜の空には、雲の隙間からいくつかの星が滲んでいる。遠くでタクシーが通り過ぎる音、信号のカチカチというリズム――その全部が僕たちの時間の背景になる。


 抱きしめられながら、僕は心の中でひとつ、はっきりと確信した。この人は、僕の人生の“偶然”じゃない。そして、僕の心もまた、もうとっくに有眞に染まってしまっていると。


 1月最後の土曜日。外気は痛いほど冷え込んでいるのに、試験会場の空気はどこか湿っていた。座席の間を縫うように歩いて指定番号を探し受験票を机の右上に置く。ペンを整え、深呼吸をすると胸の奥でかすかに鼓動が跳ねた。この冬一番の本気――大学入試プレ模試。


 解答用紙をめくるたび、有眞がどこかで同じページを繰っている気配を感じる。顔を上げれば試験官ににらまれるから、視線は上げない。だけど、あの呼吸は耳に残る。


「負けない」


 それだけを指標に直前の一週間を詰め込み、最後の夜まで図書館に残った。誰も知らない深夜の自習室、資料棚の間で交わした数式と単語の応酬。そして帰り道、凍った息を吐きながらかわした約束。


 終わったら、ぜったいに一番を分け合おう。


 結果が返ってきたのは、ちょうど試験から1週間ぐらいだ。午前中の授業を終え、昼休みに入るやいなや担任が成績ファイルを抱えて廊下を練り歩く気配が広がった。


「綾瀬、真壁、職員室来い。」


 呼び出しの声がドア越しに届くと、クラスが一瞬ざわめいて静まる。目立つ二人が同時に呼ばれれば話題にならないわけがない。


「お祈りの時間だな。」

「あの二人ならむしろ仕上げてくるだろ。」


 そんな囁きを背に廊下を歩く。職員室のドアを開けると、担任は分厚いファイルを机に置き眼鏡の奥で目尻を緩めた。


「よくやったな。二人ともA判定。それも余裕のAだ。」


 あっけないほど淡々と、それでいて確かな温度を帯びた声だった。


「……まじ?」


 隣の有眞がぽつりと漏らす。口は笑っているのに目の奥が信じられないと言っている。


「国語・英語は満点近く。数学なんざ満点。綾瀬、ほんとに本命は医だな?」


 咲は軽く頭を下げた。胸の内側で熱が広がる。数字で確かめた自分の努力。そして、隣で同じ景色を見ている誰か。


「真壁も。お前、どこでこんな点数取るための勉強してたんだ。」


 問いかけに有眞は「秘密です」と悪戯っぽく笑った。担任は苦笑を返して紙を閉じる。


「ここで気を抜くなよ。」


 紙を抱えて廊下に戻ると、教室から伸びた無数の視線が刺さる。ドアを開けた瞬間、誰かが弾けるように叫んだ。


「どうだったー!?」

「結果見せろー!」


 有眞は見せびらかすように模試票を頭上に掲げた。Aの文字がはっきり見え、それを見た瞬間、教室は拍手とブーイングと悲鳴が入り混じったカオスへ。


「バケモン!」

「どこで勉強してたんだよ!」

「絶対カンニングだろ!」


 有眞は机に飛び乗る勢いで「努力は裏切らないんだよ諸君!」と叫ぶ。咲は慌てて袖を引っ張り下ろした。


「落ち着け、恥ずかしいです。」

「いいじゃん、咲ちゃんのAも自慢したいんだよ!」


 クラスメイトが一斉に押し寄せ、咲の模試票を覗き込み


「満点!?」

「なにこの化け物ペア」

「ここに『共同勉強ラウンジ』でも作るか?」

「うちのクラス、全国チャート教室爆誕か!」


 教室は祭りの熱気を帯び、騒ぎは5分でホームルームのチャイムにかき消されるまで続いた。晴れた夕焼けがガラス窓を朱に染める。教室の隅で荷物を詰め終えると、有眞が手首をつかみ「ちょっと屋上寄ろ」と小声。ドアを抜け非常階段を上がる。乾いた風が頬を撫で冬の空は凛と冴えていた。フェンスの前まで歩き、夕日を背にした有眞はポケットから折りたたんだ紙を取り出す。今日届いた成績票。


「これ……今なら胸張って渡せる。」


 風で紙が揺れて、志望校の欄にかかったA判定の文字が夕日に透ける。


「前までは“取れたらいいな”くらいだったり今日、確信した。咲ちゃんとなら、ここから先も全部、戦えるって。」


 咲は言葉を噛んだ。試験前、夜の図書館で背中合わせに参考書を開いた時間。真夜中、互いの家をはしごして問題を出し合った日。窓の外で初雪が降るのも見過ごして、数式の山に潜った夜――。


「誕生日の夜、咲ちゃん泣きながら謝ったじゃん。俺、あれで全部覚悟決まったんだよ。もう二度とお前の涙を“独りの寂しさ”にはしないって。」


 夕暮れの空気が胸に染みる。言葉に詰まった咲の代わりに有眞が続ける。


「今日、一緒にA取れたこと最高に嬉しい。」


 ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉は飾り気がない。それでも胸の奥が温度を帯びていく。


「ありがとう」


 たったそれだけが、声になった返事。けれど有眞は満足げに頷く。風が吹き二人の制服の裾が揺れる。もう一度、互いの模試票を合わせて空にかざす。紙越しに見える夕陽は真っ赤で、文字は光に透かされて金色に輝いた。いつの間にか、咲の手の中に有眞の指が滑り込んでいる。くすぐるように絡んで、もう離さないと告げるみたいに。


「行こうぜ。」


 有眞が小さく呟く。足下には暗くなり始めた校庭。昇降口の灯りがひとつ、またひとつと点り始める。


 春の朝は、冬の残り香と新しい季節の匂いが混じっている。校門の桜はまだつぼみを閉じたままだけれど、空気はもう冬とは違っていた。登校路に並んで歩く僕と有眞の吐く息は、以前よりずっと薄い。マフラーを外した首元にあたる風が柔らかい。


「始まっちまったな、高三。」


 有眞が制服の襟を直しながら、少し気恥ずかしそうに笑った。


「いよいよ、ですね。」


 僕は答えながら、校舎の正面に掲げられた横断幕に目をやる。〈受験は団体戦!〉と大きな赤い文字。毎年見慣れていたはずなのに、今年はやけにその言葉が重たく響いた。教室に入ると机の配置も担任の口調も少しだけ引き締まっている。黒板には「3年1組」と書かれ、その上にカウントダウンの日数が貼られていた。数字が妙に現実味を帯びて見える。


 クラスメイトたちもどこか空気が変わっていた。いつもの冗談も交じるけど、それでも心のどこかで全員が同じ「残り時間」を意識しているのが分かる。有眞はそんな空気の中でも、いつも通り騒がしく笑い、みんなに絡み、クラスを明るくしていた。その横顔の奥にはあの冬の夜とは違う真剣な色が見え隠れする。


 昼休み、僕たちはいつものように図書館の隅の席に向かった。まだ桜の咲かない中庭を見下ろせる窓際。参考書を机に並べると、有眞が少しだけ真面目な顔になって言った。


「咲ちゃん」


「……なに」


「ここから一年、本気でやろうな。」


 窓の外で、冷たい風に揺れる桜のつぼみが一斉に陽を浴びる。春はまだ始まったばかり。


 ――冬が終わっても、隣にはあなたがいる。

 ――これからの春も、夏も、その先も。


 新しい季節の始まりに、僕たちは静かにページを開いた。最後の一年。並んで歩く未来は、まだ白紙のまま。でも確かに同じ方向を向いていた。

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