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第14話 愛はいつだって計算違い

 夜の街は、昼間の喧騒を飲み込んだように静まり返っていた。街灯の光が雨上がりのアスファルトを鈍く照らし吐く息が白く滲む。咲は図書館での勉強を終え、いつものように家へ向かう帰り道だった。無意識に夜空を見上げたとき――ふと、公園のベンチに座るひとりの人影が目に留まった。街灯の下、スニーカーのつま先を地面にぶつけるようにして前屈みになって座る後ろ姿。乱れた制服のジャケットと、見慣れた癖のある髪。


「……有眞?」


 声をかけると有眞が顔を上げた。いつもの軽い笑みはなく薄暗い街灯の光の中、その目はどこか彷徨っていた。驚いたように瞬きをして、彼は「……咲ちゃん?」と小さな声を漏らす。


「こんな時間に何をしているんですか。家は?」


「ちょっと出てきただけ。」


「“ちょっと”でこんな時間に公園にいるわけないでしょう。家出ですか。」


 咲の問いに有眞は肩をすくめて視線を逸らした。返答を避けるその態度に咲はため息を吐き、隣に腰を下ろす。ベンチの鉄板は冷たく夜気が肌に沁みた。


「理由を話してください。」

「別に、大したことじゃない。」

「大したことじゃないのに、夜中にベンチで座り込む人間がいますか。」


 有眞は膝に肘を置き顔を伏せた。いつもの軽口も茶化す余裕もない。その様子を見つめながら、胸の奥がざわつく。いつも自分の前で堂々としている彼が、まるで逃げ場を失った獣のように見える。


「何があったんですか。」

「……別に。」


 短い返事。咲は一度目を閉じ、静かに呼吸を整える。怒鳴るでも無理に引き出すでもなく淡々と続けた。


「言いたくないなら、それでもいいです。でも、僕は今の貴方を見て、何も知らないままにしておくのはもっと嫌です。」


 その一言に有眞の肩がわずかに揺れた。しばらく沈黙が落ちたあと、彼はかすれた声で吐き出すように呟いた。


「……親父と喧嘩した。」

「喧嘩?」

「つーか……俺が一方的にキレたって言うのが正しいかもな。何年も溜まってたやつ……ついに爆発したっつーか。」


 有眞は頭をぐしゃぐしゃにかきむしる。目元は赤く、いつもとは違う。咲はただ黙って、彼の言葉を待った。


「俺さ、母さんの話はよくするじゃん。」

「はい。」

「でも、親父のことほとんど言わなかったろ。」

「言わなかったですね。」

「言いたくなかったからだよ。」


 その声は、今にも千切れそうなほど細い。それでいて奥底に熱がこもっていた。


「昔っからさ、気に入らねぇとすぐ手が出るやつなんだよ。俺が悪いことした時とかじゃない。ただ、気に入らねぇってそれだけで。母さんは“あの人は疲れてるだけ”とか“あなたに期待してるのよ”とか言って……。でも俺は、殴られんのも、怒鳴られんのも、期待なんかじゃないってずっと思ってた。」


 咲の手の中で、ペンでも本でもない“言葉”が静かに重く落ちていく。有眞は小さく笑った。乾いていて痛々しい笑い。


「だからさ、母さんのことしか話さなかったんだよ。母さんのこと話してるときだけは、俺の中がぐちゃぐちゃにならないから。」


 咲の胸の奥がぎゅっと痛んだ。ずっと隣にいたはずなのに、その痛みを知らなかった自分に気づかされる。


「僕は、何も貴方のことを知らなかった。」

「知る必要あったか?」


 有眞は視線をそらしたまま、少しだけ声を荒げた。


「俺の家がどんだけぐちゃぐちゃでも、言ったって何になるんだよ。可哀想だなって思われるのも、慰められるのも、まじで一番ムカつく。俺が言ったところで、お前が親父を殴りに来るわけじゃねぇだろ。なんも変わらねぇんだよ。」


 言葉の端が震えていた。怒りと悲しみが混ざって行き場を失った声。咲は反論しない。その横顔を見つめた。拳を握りしめた手が白くなる。


「中学のとき、俺が病んでたの覚えてる?」

「はい。」

「成績のことだけじゃなかったんだ。親父の機嫌を取るために、いい子のフリばっかしてた。親父の“理想”の息子を演じるのマジで息苦しくてさ。夜中に一人で寝転んで、“いなくなれたら”って何回も思ってた。」


 吐き出されるたび、夜の空気が少しずつ軋む。咲は初めて見る有眞の“本当”に言葉を失った。明るくて、茶化して、誰よりもまっすぐな彼の奥底に、こんな暗いものが渦巻いていたなんて――。


「……有眞。」


 名前を呼ぶと、有眞はかすかに眉をひそめた。咲はまっすぐに彼を見た。


「貴方のことを理解しようとしていなかった。勝手に明るくて、強くて、何もかも大丈夫な人間だと決めつけていた。」


「……そんな顔すんなよ。」


「顔なんてしてません。」


 声が震えているのは隠せない。有眞は咲のその顔を見て気まずそうに目を逸らした。


「悪ぃ、こんな話したくなかった。」

「でも、話してくれたじゃないですか。」

「……たまたまだよ。お前がそこにいたから。夜で誰もいなかったから。本当は、誰にも知られたくなかったんだよ。」


 有眞の肩が小さく震えているのが見えた。強がっているけれど、心の奥は限界に近いのが分かる。咲は静かに自分の上着を外して有眞の肩にそっと掛けた。驚いたように目を丸くする有眞に咲は短く言った。


「寒いでしょう。」

「……バカかよ。」

「貴方が言わないなら、僕が聞くしかないじゃないですか。僕は――貴方の隣にいるって、そういうことだと思ってる。」


 有眞の喉がひくりと動いた。視線が夜空に逃げる。


「……なあ、咲ちゃん。」

「なんですか。」

「俺、もしお前がいなかったら……今ここにいなかったかもな。」


 その声は小さく、それでいて痛いほど真実だ。咲は返事をせず、そっと隣に座り直し肩と肩を並べた。夜の空は深く、冷たく、それでも隣に座る温もりがはっきりと伝わってくる。


 ――知らなかった。有眞の中に、こんな夜があったことを。


 その夜、二人の間にあった見えない壁が静かに音もなく崩れ始めていた。街灯の下、ふたりの間を夜風が通り抜ける。落ち葉が足元をさらさらと擦っていく音だけが響く。有眞は俯いたまま、両手を膝の上でぎゅっと握りしめていた。沈黙は重く、でも逃げようとすれば簡単に逃げられる――そんな脆さと崩したくない緊張が入り混じっている。不意に有眞の肩が小さく震えた。押し殺していた呼吸が、少しずつ漏れ始める。


「……なんかさ」


 声は擦れていた。


「泣きたくなってきた。今さら、何話してんだろって思うのに止まんねぇわ。」


 鼻をすすりながら、有眞はかろうじて顔を上げた。街灯に照らされた瞳が潤んでいて、いつもの明るさなんて一欠片もない。咲は黙って見ていた。手を出すことも慰めの言葉を挟むこともできない。目を逸らさずに、そこにいた。


「ずっと、俺は“平気なやつ”でいようとしてたんだよ。学校でも、家でも。家じゃ、逆らったら殴られるだけだし外じゃ余裕ぶってないと誰も寄ってこねぇし。馬鹿みたいにな、明るいフリして面白いやつで誰にでも話しかける“真壁有眞”でいれば全部なんとかなるって思ってた。」


 有眞は歯を食いしばる。


「でもさ、夜になると全部静かになるだろ……?そしたら、急に頭の中ぐちゃぐちゃになって。親父の声とか、母さんの泣き声とか、外の冷たい風とか全部戻ってくんだよ。誰にも言わなかったけど一回、本当に消えようとした夜があった。」


 咲の指先が無意識に膝の上で強く握られる。けれど、有眞の言葉を遮ることはしない。


「屋上でさ……フェンスの向こう側に立ったんだよ。でも、足が震えて結局動けなかった。情けねぇよな。ただ座り込んで泣いて。誰にも見られないように、次の日ケロッとして行ったけど心の中はずっとあの夜で止まってた。」


 涙がぽと膝の上に落ちる。有眞は手の甲で雑に拭ったけれど、拭っても拭っても止まらない。


「俺、強くねぇんだよ。ずっと“強いフリ”してただけだ。あんな家のこと誰も知らなくていいって思ってたし。お前にも絶対言わないって思ってた。だって、お前に知られたら、俺……俺の“余裕”全部、壊れる気がして……!」


 言葉が途切れる。喉の奥が詰まって、もう声にならない。嗚咽が漏れ握った拳が震えていた。咲はゆっくりと立ち上がり、有眞の前に回り込む。しゃがみ込むようにして同じ目線の高さに立つ。有眞が泣き顔を隠そうとするのを咲はその手をそっと押さえて止めた。


「見せてください。」


 その声は優しくも鋭い。逃げ場をなくす声。だけど、責める響きはない。有眞は抵抗しようとして出来なかった。咲の視線が、まっすぐで、どこまでも揺らがないから。


「俺、こんな顔……」

「僕にだけ、見せればいいじゃないですか。」


 その一言で、有眞の目からまた涙が零れる。嗚咽が夜の静けさに溶けていく。強がりも冗談も剥がれ落ちて、ただひとりの少年として泣いていた。咲はそっと、有眞の頭に手を置く。撫でるでもなく、ただ「ここにいる」ということを伝えるように。


「僕は、あなたの全部を知らないままで“理解してるつもり”になってました。ごめんなさい。」


「謝るなよ。お前が悪いわけじゃねぇだろ。」


「それでも、知らなかったのは事実です。今こうして話してくれて、僕は嬉しいです。」


 顔を覆った手の隙間から、かすかに笑った。涙と鼻声でぐちゃぐちゃになった顔で、それでも笑おうとした。


「なんか、ダサいな俺。」

「ダサくなんかないです。かっこつけすぎなんですよ、いつも。」


 泣き声も嗚咽も、もう隠さない。その夜、初めて有眞は自分の痛みを誰かに全部見せた。咲はその痛みを拒まず、まっすぐ受け止めた。


 その瞬間――舗道の向こう側から靴底を乱暴に踏み鳴らす音が夜気を裂いた。乾いたアスファルトを叩く重い足音。背筋をざわりと撫でるような、あの独特の気配。有眞の肩がびくりと跳ねた。


「……っ」


 咲が顔を上げると、薄暗い街灯の下をひとりの男が歩いてくるのが見えた。無精髭、皺の伸びきっていないシャツ、手にはコンビニ袋。酔ってはいないのに歩き方だけが妙に乱暴。有眞の目が一瞬で強張る。膝の上の手がぎゅっと握り込まれ爪が皮膚に食い込んでいた。


「……親父だ。」


 低い声。震えが混じっている。


 男――真壁の父親は、二人の姿を見つけた瞬間、眉間に深い皺を寄せた。夜の住宅街の静けさにその声だけが鋭く突き刺さる。


「有眞」


 その一言に、有眞の体がぴくりと硬直する。咲は思わず一歩、有眞の前に立った。


「こんな時間に何やってる。家に帰れ。」

「帰らねぇよ。」


 有眞の声は低い。その声に宿る感情は、咲にすら初めて見る種類のものだった。怯えと怒りと、ずっと飲み込んできた何かがごちゃ混ぜになっている。


「なんだその口のきき方は。お前、俺に向かって――」


「うるせぇ!!」


 咲は思わず息を呑んだ。いつも茶化して、ふざけて笑いで場を和ませる有眞の声じゃない。喉が引き裂かれるみたいな本気の怒鳴りだった。


「もう、帰んねぇ!あんな家、帰るわけねぇだろ!母さん泣いてんのに、お前何してた!?酒も飲んでねぇのに殴って、怒鳴って、全部“俺のせい”にして!そんな家に、俺が帰る理由どこにあんだよ!!」


 街灯の下、彼の頬を伝って涙がまた零れた。父親は一瞬たじろいだように見えたが、すぐに顔を歪めて吐き捨てるように言った。


「ガキが偉そうに。俺が誰のために働いてると思ってんだ。」


「“俺のため”なんて一度でも思ったことあんのかよ……」


 有眞は唇を噛み顔を上げた。咲の手が、ぎゅっと袖を掴む。今にも飛びかかりそうな気配と崩れそうな不安が同時に見える。咲は一歩踏み出した。視線を男に向ける。冷たいが真っ直ぐな目。


「有眞は、今夜は帰りません。」

「は?」


 男の眉がぴくりと動いた。


「……こいつは誰だ。」

「クラスメイトです。」


 咲は一歩も引かなかった。


「彼は今、帰りたくないと言いました。理由も聞きました。少なくとも、“帰ればいい”で済む話じゃない。」


「ガキが……お前には関係ないだろう!」


「関係あります。」


 咲の声は低く、しかし揺るがない。彼の冷静な物言いは父親の乱暴な空気とは対照的で、その静けさが逆に場の緊張を際立たせる。


「僕は、彼の“今”を知ってしまいました。無関係でいられるほど、薄情な人間じゃありません。」


「おい、咲……」


 有眞が小さく震える声で呼ぶ。でも、咲は目を逸らさない。父親が一歩、二人に近づこうとした瞬間――咲は有眞の手首をぎゅっと掴んだ。その指先は冷たいのに不思議と頼もしい。


「触らないでください。」


 咲の一言に、父親の足が止まる。街灯の光が、彼の眼鏡の縁に反射して冷たく光った。


「暴力は、もうやめた方がいい。あなたがどんな理由で怒っているのか、僕には全部は分かりません。でも――この人をこれ以上追い詰めることは誰が見ても“間違い”です。」


「……何様のつもりだ。」


「彼の“隣”にいる人間です。」


 夜の冷気とは別の張り詰めた沈黙。有眞が驚いたように咲を見上げる。父親の顔が歪んで何かを言いかけたその時。


「……もういい」。


 有眞が立ち上がった。泣き腫らした目のまま、まっすぐ父親を見る。


「俺、もう黙ってんの疲れた。家も、あんたも、俺にとって“逃げ場”じゃねぇ。今夜は帰らない。母さんには俺から連絡する。それで文句あるなら二度と帰んねぇ。」


 父親の目に一瞬だけ動揺が走った。けれど何も言わず、袋を握る手に力を込めると乱暴に踵を返して夜道の向こうへと消えていく。残された空気が酷く重いのに澄んでいた。有眞は、しばらくその背中を見送ってから、ふらりと力が抜けたようにベンチへ腰を下ろす。


「言っちまった。」


 声は震えていたけれど、どこか少しだけ晴れやかだった。咲は何も言わず隣に腰を下ろした。肩と肩が触れる距離。夜風はまだ冷たい。でも、ふたりの間だけは確かに暖かいものがあった。


 夜の静寂を裂くように、遠くから甲高いサイレンが近づいてくる。パトカー特有の赤い回転灯が住宅街の角を曲がり、ゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた瞬間に空気が変わった。周囲の家の玄関先やマンションの廊下から人が顔を出す。通りに面した街路樹の影の中で2人は言葉を失った。パトカーが角を曲がった瞬間、誰かの声が小さく聞こえる。


「あの子、真壁さんのとこの子じゃない?」

「さっき怒鳴り声がしたの、あそこの前よね。」

「通報した人、たぶん向かいのおじいさんじゃない?」


 ひそひそ声が重なって、波紋のように広がっていく。夜風に乗って有眞の耳に届いた。彼は目を見開き急に呼吸が浅くなる。


「……やべ……」


 有眞は、肩が強張り両手が膝の上で小刻みに震えている。咲はすぐに彼の腕を軽く掴んだ。


「大丈夫です。……大丈夫。」


 自分でも驚くくらい落ち着いた声が出た。有眞の震えがほんの少しだけ収まる。パトカーは二人の前で停車。車体のライトが夜の道を白く照らし制服姿の警察官が二人、車から降りてくる。通報を受けたというのは一目で分かった。


「こんばんは。ここで何かトラブルがあったと通報がありまして。」


 落ち着いた声だったが、有眞の体はびくりと跳ねた。父親はすでに立ち去っており、残されているのは泣き腫らした顔の有眞と咲。周囲には野次馬の視線。冷たい夜風のなか、その空気だけが妙に熱を帯びていた。咲は深く息を吸って、一歩前に出た。


「トラブルというほどではありません。ただ、彼が少し家でのことで混乱していただけで……今は落ち着いています。」


「ご家族の方はいらっしゃいますか?」


「父は帰りました。」


 有眞が絞り出すような声で答える。目元にはまだ涙の跡が残っていた。警察官は視線を交わし、やさしい口調で続ける。


「ちょっとだけ話、聞かせてもらえるかな?ここじゃ寒いし車の中でもいい。」


 有眞は俯いたまま固まった。咲がそっと横顔を見ると唇が震えている。拒絶とも恐怖ともつかない混ざった表情。


「話せること、無理に全部言わなくていいです。」


 咲は小声で囁いた。


「でも、もう“一人で抱える”のは、いいでしょう。」


 有眞はその言葉に微かに目を伏せ、やがて小さく頷いた。パトカーの赤い光が夜の住宅街の壁を淡く照らす。野次馬たちは距離をとりながらも、ざわめきは消えない。咲はそのすべてから有眞を庇うように立っていた。その夜、有眞は警察官に事情を少しだけ話し、母親にも連絡が行き近所の民生委員や児童相談員も介入することになった。咲は最後まで付き添い、有眞の母親が来るまでベンチの横で待ち続けた。


 翌朝。


 教室の席に有眞の姿はない。


「真壁、今日休みだって。」

「昨日、真壁の家ら辺にパトカー来てたんだろ。なんかあったらしいぞ。」

「え、マジ……」


 噂はあっという間に広がった。普段から目立つ存在だった有眞だからこそ、その不在は余計にクラスの空気をざわつかせる。


 二日、三日……

 それでも、有眞は学校に戻ってこなかった。


 放課後になるたび、教室の窓から校門を眺める癖がついていた。そこに彼の姿が現れることを無意識のうちに願いながら。しかし、その日々は静かに過ぎていく。文化祭の準備が進み、笑い声や作業の音が廊下を満たしていくなか――咲の胸の奥には、ひとりだけ空席がぽっかりと空いたまま。


 あの夜、あの光の中で見た有眞の震える背中が、どうしても頭から離れない。


 その日、有眞が姿を見せたのは昼休みの少し前。教室の扉が静かに開き、いつもと変わらぬ制服姿で立っていた。けれど、誰の目にも分かった――“いつも通り”じゃない。


 ざわりと教室の空気が一瞬で揺れる。誰とも目を合わせず視線を足元に落としたまま、ゆっくりと自分の席へ歩いていった。ざわめきが背中にまとわりつく。ひそひそ声が波のように押し寄せ引いていく。


「有眞、戻ってきた……!」

「本当だ。」

「なんか、ちょっと雰囲気ちがくね?」


 声に出して近寄る者は誰もいない。いつもなら自分から教室の中心をかっさらっていく男だ。冗談を飛ばして、空気を掴んで、笑わせて――。今の彼は、まるで音を失ったようだった。咲は席から立ち上がると、ためらいなく歩いていく。ざわつく視線が集まる中、有眞の机の前に立い声をかける。


「おはようございます。」


 有眞は小さく肩を揺らした。そして、ゆっくりと顔を上げる。目の下には薄く残った隈。けれど、そこにいつもの強がりの笑顔はなかった。


「……よぉ。」


 かすれた声で、それでも笑おうとしたのがわかる。咲は何も言わずその声を受け止めた。


「ちょっと、色々あってさ。」

「知っています。」

「……だよな。」


 短い言葉が、やけに深く響く。咲は何も詰めなかったし、余計な気休めも言わなかった。その沈黙が有眞には救いだったのかもしれない。


「ありがとな、あの夜。」


 誰にも聞こえないくらいの声で、有眞が言った。咲は視線を逸らさず、わずかに頷く。それだけで有眞の目が少しだけ緩む。昼休み、いつものように男子の数人がふざけながら弁当を広げていた。その中に有眞が何も言わず歩いていった瞬間――空気が一瞬固まる。


「お、おい……真壁。」

「……よう。」


 有眞はぽん、といつも通りの調子で肩を叩き自分の席に腰を下ろした。無理に笑っているわけじゃない。ただ、戻ってきた。それだけで、男子たちが小さく笑い、いつのまにか昔と同じような軽口が飛び交い始めた。


「お前どこ行ってたんだよ〜!サボりかよ!」

「うるせぇ、ちょっと有給休暇取ってただけだ!」

「学校に有給ねーよ!」


 笑い声が弾ける。ほんの少しぎこちない。でも確かに有眞の居場所はここにあった。咲は窓際の席からその様子を見た。数日前、夜のベンチで泣き崩れていた姿が脳裏をよぎる。それでも今、彼は自分の足で教室のドアを開けて帰ってきた。その背中は、あの夜より少しだけ――まっすぐだ。午後のチャイムが鳴り担任が教室に入ってくる。ほんの一瞬、有眞と目が合い、教師は何も言わずに小さく頷いた。それを見た有眞は深く息を吐いて背筋を伸ばした。


 文化祭まで、あと数日。


 止まっていた時間が、また少しずつ動き始める。


 放課後、橙色の光が差し込む昇降口は、文化祭準備で賑わう昼間とは打って変わって静まり返っていた。廊下には掃除のモップのかすかな水音と風に鳴る窓のきしむ音だけが残っている。咲は鞄を肩にかけながら、靴を履き替える有眞の背中をじっと見つめていた。


「有眞。」


 呼びかける声は、自然と低く柔らかいものになった。有眞は振り返りもせず少し肩をすくめる。


「なんだよ。」

「話してください。」

「……何を。」

「この数日、何があったのか。」


 咲の言葉は静かだった。責めるでも、追い詰めるでもない。ただ、まっすぐな声音。有眞は靴のかかとを乱暴に踏み込むと、ふぅ、と長く息を吐いた。


「警察の取り調べ。あと、児童相談所とか親父の会社のやつらとか。正直、わけわかんなかった。」


 有眞の声は淡々としていたが、その端々には乾いた裂け目のような疲労がにじんでいる。


「通報した近所のじいさんが、昔からうちの親父のことよく思ってなかったみたいでさ。あの夜のやり取り全部聞かれてた。暴力沙汰になりかけたのもあって即通報。」


 有眞は苦笑したが、その笑いはどこか震えていた。


「親父、署で一晩拘束された。俺も母さんも事情聴取。今は保護観察がついてる。母さんは親戚の家に身を寄せてて、俺は……まあ、家には戻ったけどあの人は別の場所にいる。」


「そうですか。」


 咲の声は淡い。けれど、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。有眞は、靴の先で地面を蹴りながら更に低い声で続けた。


「俺さ……ずっと、父親の話になると無意識に避けてたんだよな。母さんの話ばっかりして“家族=母親”みたいに自分の中で変換してた。ほんとはずっと見えてたんだよ。あいつのやってることも、母さんが怯えてるのも、俺が黙ってることで何も変わらなかったことも。」


 咲はその場から一歩近づいた。

 有眞の肩がわずかに震える。


「数年前、ばあちゃんが死んだときもな……」


 有眞は視線を遠くに投げる。校門の外、夕暮れに染まる街並みの先を、まるで過去の一点を見つめるように。


「表向きは“階段からの転倒”ってことになってた。でも、あれ親父が怒鳴りながら突き飛ばしたんだ。俺、見てたのに怖くて何も言えなかった。母さんも“事故だった”って言い張って誰も責められなかった。」


 夕風が吹き抜ける。落ち葉が靴先を転がっていった。


「この前の取り調べでさ、近所の人が“昔もおかしかった”って証言して再調査が始まった。もう、止められねぇんだって。全部、きっと明るみに出る。」


 咲は、何も言葉が見つからなかった。慰めの言葉なんて、そんな簡単なものでは届かない。だから、静かに一歩近づいて有眞の肩に手を置いた。有眞が一瞬、びくりと反応したあと咲の胸に額を預けるように身体を寄せる。堰を切ったように腕がまわされ、咲はきつく抱きしめられる。


「なんでだろ……お前の顔見たら泣きそうになる。」


 有眞の声が、咲の肩に滲んでいく。咲は抵抗しない。制服の肩口に感じる温かさと、彼の震える息をそのまま受け止めた。


「ずっと“明るく”してりゃ大丈夫だと思ってた。バカみたいに笑って冗談言って。全部、隠せるって思ってた。でも……ダメだった。」


 抱きしめる力が、ほんの少しだけ強くなる。


「何十年も、お前の隣にいたいって思うのおかしいことなのかな。こんな俺が、そんなこと考えるの変なのかな。」


 ゆっくりと有眞の背中に腕を回した。優しく、けれど揺るぎない力で抱きしめ返す。


「おかしくなんか、ありません。」


 その言葉は、静かで真っ直ぐだ。


「僕だって、貴方の隣にいるときが一番安心します。」


 有眞の呼吸が一瞬止まり、咲の胸に顔を埋めたまま、小さく震えた。その震えが、痛みでも悲しみでもなく確かな温もりに変わっていくのを感じる。過去の痛みも、まだ終わっていない現実も、全部ひっくるめて――それでも“隣にいたい”と願った有眞の言葉は確かに咲の胸に刻まれた。


 二人の影が並んで伸びていく。その距離は、もうあの日のような遠さではない。


 俺の人生には、何もなかった。


 そう言い切ってしまえるくらい空っぽだ。家にはいつも怒鳴り声があって、壁にはヒビが入ってる。夜は食器が割れる音がBGMみたいに響いてた。母さんは、俺の前では笑ってたけど、笑い方がいつも少しぎこちなくて。俺はそれを見ないふりをしてた。だって、見たら壊れてしまいそうだったから。


 学校でも、それなりに明るくやってた。ふざけて笑って、目立って、バカみたいなことばっかして。みんなに「陽キャ」だの「ムードメーカー」だの言われるのが、心の隙間を一瞬だけ誤魔化してくれた。


 でも、帰ると全部消える。


 明かりを点けても、家の中には何もなかった。俺自身も何も持っていなかった。


 夢もない。目標もない。


「好きなもの」を聞かれても、答えられなかった。だから、人の顔色ばかり見てた。場の空気を読んで笑って冗談で全部を包んで。それで“自分”を作った。そんな俺に……咲は最初から容赦ない。他人みたいに表面を撫でることをしないで、俺の一番嫌な部分を平然と突いてきた。


 うざいとか、バカだとか、脳が軽いとか。


 でも、その全部が誰よりもちゃんと俺を見てる目から出た言葉だった。あの日、ベンチで泣きそうになってた俺を咲は見つけた。夜風に晒された俺を逃げずに問い詰めた。俺がずっと押し込めてきたものを、引きずり出して真正面から受け止めた。


「僕は何も貴方のことを知らない。理解しようとしてなかった。」


 そう言った時の咲の顔を今でも鮮明に焼きついてる。誰よりも冷静な奴があんな顔で俺を見た。まるで、俺の痛みまで一緒に背負おうとするみたいな目だった。俺の過去を聞いても軽蔑しない。哀れみもしなかった。ただ、そこにいて抱きしめてくれた。


 俺はずっと、抱きしめられる価値なんてないと思ってたんだ。


 何も持ってない俺に、何かをくれる人なんていないと思ってたから。でも、咲は違う。


 あいつは「何もない」俺を、「俺」として見てくれた。


 初めてだった。泣いてもいいって思えたのは。誰かの胸に顔を埋めて、声にならない声をこぼしても……“ここにいていい”って思えたのは。あのとき、あいつの制服に染み込んだ俺の涙は、情けないとか恥ずかしいとかそんな次元じゃない。


 ……生きてるって、実感だった。


 咲に出会うまで、俺はただの空っぽだった。でも今は、あいつといる時間が――俺の「何もなかった」場所を少しずつ塗り替えていってる。


 何十年も、この隣にいたい。


 この温度、この匂い、この鼓動――全部、俺の空っぽを埋めていくものだから。


 おかしいなんて、言わせない。俺は、あいつと出会ってやっと「俺」になれたんだ。咲の隣じゃなきゃダメなんだ。涙が勝手にあふれてきた。泣きながら笑うなんて自分でも初めてだ。


 何もなかった俺に、「隣にいていい」って教えてくれたのは、綾瀬咲……お前なんだよ。


 愛ってやつは、いつだって計算違いだ。


 頭の中で完璧に描いたシナリオを、あっさりと横からぶっ壊してくる。俺はずっと、計算する側の人間じゃなかった。むしろ、誰かの計算の外側で場を笑いで誤魔化して生きてきた。それで十分だったはずなんだ。深く踏み込まない。誰にも踏み込ませない。そうやって空っぽのまま、何も考えず、何も背負わずに――生きていくはずだった。


 なのに。


 咲は、俺の“想定”をいちいち全部ひっくり返してきた。俺がからかえば、真顔で刺してくる。俺がふざければ、呆れながらも付き合ってくれる。俺が泣けば、黙って抱きしめてくる。


 あいつは理屈の人間だ。計画を立てて、未来を見据えて、一歩ずつ進んでいく。“正しさ”で自分を律して努力で世界を形作っていく。そんな咲の隣に、自分みたいな“成り行き”で生きてきた人間がいていいはずがない――本当はずっとそう思ってた。


 だけど、あの日。


 俺は気づいてしまったんだ。愛は理屈じゃない。未来を見据えて慎重に積み上げていく咲の世界の中にも、俺という“計算外”が割り込んで……そして、あいつもまた俺を選ぼうとしてくれている。それは、すごく怖いことだった。計算外の存在は計算された未来を狂わせる。俺が隣にいることで、咲の人生をぐちゃぐちゃにしてしまうんじゃないか――そんな恐怖が胸の奥に張り付いて離れなかった。


 でも。


 あいつの制服を掴んで泣いたとき。咲は、逃げなかった。計算を狂わせる俺を拒まなかった。むしろ、胸の奥に抱き込むようにして、「ここにいていい」と言ってくれた。予定していなかった出会い、予想していなかった感情、予定にない涙。全部、咲と出会って初めて俺の世界に生まれたものだった。


「おかしいことなのか」って、あのとき言った俺の言葉。今ならわかる。おかしくていいんだ。予定外で、計算外で、予想外で――だからこそ本物なんだよ。


 咲の歩幅に合わせるには、俺はまだ未熟だ。傷だらけで、めんどくさい過去を抱えて未来をきれいに描くなんてできやしない。でも、隣に立ちたいって思ってる。ずっと、あいつの隣で“計算外”の存在として生きていたい。計算違いだからこそ――俺たちは、お互いを見つけた。


 ――予定通りになんか、なってたまるか。

 ――俺は、お前と出会ってしまったんだから。


 咲がふと振り向いて、「なに?」と首をかしげる。俺は「なんでもねぇよ」と笑ってごまかす。だけど胸の奥では、はっきりと響いていた。


 “これが、俺の未来だ”って。


 翌日。夕暮れが早くなり始めた頃、校舎の窓から差し込む光は、どこか柔らかくて懐かしい色をしていた。廊下を吹き抜ける風が紙の束をさらりとめくる。季節の移ろいが音もなく学校を包み込んでいく。教室では、文化祭の準備に追われる声が響いていた。テープの切れる音、ハサミの金属音、笑い声。賑やかなはずなのに、ふとした瞬間に胸の奥が静かになるような、そんな秋特有の“間”がある。


 窓際の席に座って、俺はぼんやりと外を眺めていた。赤く染まり始めた校庭の桜の葉が風に乗って一枚、また一枚と落ちていく。咲はその隣で、いつも通り真面目な顔で台本の赤ペンを走らせている。ペン先の音が規則的でそれがやけに心地よく感じた。


「……なに。」


 視線に気づいた咲が顔を上げる。眉をひそめたその表情も、もう見慣れたものになった。


「別に〜」

「気持ち悪い顔してます。」

「してねぇし。」


 小さな言い合いも、季節の匂いと一緒に胸に染み込んでいく。どれも大きな事件だったのに、今はこうして並んで座っているだけで心が落ち着く。


 秋の空は高い。


 未来はまだ遠くて、手を伸ばしても届かない。この季節の中に確かにある“今”は、俺の胸の奥で確かに息づいている。窓の外を見ていた咲が不意にぽつりと呟いた。


「もうすぐ、本番ですね。」


 その声は少しだけ緊張と期待が混ざっていて、俺はその横顔を見ながら胸の奥がじんわり熱くなる。


 とある、秋の話。


 俺と咲が、“ただのクラスメイト”でも“犬猿の仲”でもなくなっていった、そんな季節の話だ。恋は、派手な告白や運命的な瞬間だけでできているわけじゃない。こういう何気ない季節の匂いと重なる一コマ一コマが、ちゃんと“未来”の輪郭になっていく。


 俺はきっと一生忘れない。


 だって、ここから先の何十年を――隣で生きたいと思ったのは、この季節からだから。

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