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第12話 手放したくない

 西の空が朱に染まり始める頃、下校のチャイムはとっくに鳴り終わっていた。秋風が教室のカーテンをやわらかく揺らしていたけれど、僕の心は重いまま。いつもより少し遅れて鞄を背負い階段を降りていく。下駄箱の前、誰かに待たれている予感がしていた。


 やっぱり。


 昇降口の壁にもたれかかって、有眞がいた。僕を見つけると、ひょいっと顔を上げて軽く片手を上げる。


「よっ、咲ちゃん。今日もご機嫌ななめ?」

「……誰のせいですか。」


 言い返しながら、でも足は止まらない。有眞の横を通り過ぎようとすると、彼はゆるく歩調を合わせてきた。自然なことのように僕の左側を歩いてくる。もう、それも慣れてしまっている自分がいた。大通りに向かう道を選ぶか、それとも少し遠回りして公園の脇を通るか。今日は後者だった。僕が意図的にそちらを選んだことを有眞は気づいていたかもしれない。


「話しがしたいです。」


 ふいに歩みを止めた咲の声は、どこか硬かった。有眞はその横顔を覗き込むように立ち止まった。


「なんか、深刻?」

「少しだけです。」


 公園のベンチに進んでいき腰を下ろし、隣に座った有眞に視線を向けずに話し始めた。


「昨日、親と少し話をしたんです。医者を目指すっていう今の自分と恋愛について。ちゃんと考えるべきじゃないかって。」


「うん」


 有眞は静かに頷く。咲の言葉の続きを待つように。


「どうすればいいか……分からないです。親に言われたこと、ぜんぶ正しいんです。僕はまだ医者になれてないし、進路の途中にいるだけ。今ここで立ち止まったら全部崩れちゃうかもしれない。正直、自分が恋愛に向いてるとは思えません。感情で動くの苦手なので。優先順位をつけるとしたら、どうしても“目標”が先に来る。好きって気持ちも理屈で割り切れるものだと思ってたました。」


 そう言う咲の声は、どこか自嘲的だった。


「だから、距離を置いた方がいいのかもしれないって。もし僕の選択が有眞の未来も邪魔してるなら嫌なんです。それでも……離れたくないって思ってしまったんです。」


 言いながら、情けないほどに喉がつまって目の奥が熱くなる。昨日、あれだけ父に強く言い返したのに今こうして言葉にするたび怖くなる。未来が、全部、手のひらから滑り落ちてしまいそうで。


「一緒にいてほしいんです、僕……。」


 一瞬、沈黙が落ちた。風が街路樹の葉を微かに揺らす音が聞こえる。そして――ふいに、有眞の腕が咲を包んだ。すっと自然に優しくあたたかく。


「それ、俺にとってはすげぇ嬉しいんだけど。咲ちゃん、俺もね親に言われたことがあるんだ。」


 耳元で囁くような声。咲の心臓がどくりと跳ねる。


「中学のとき、友達できなくて病んでた時あんだよ。誰かに認められたくて、誰かに振り向いて欲しくて無理して成績上げた時期があってさ。夜遅くまで勉強して部活もサボって顔色悪くてさ。親が心配して、いろいろ話してくれた。」


 咲はその腕の中で、小さく動かないまま聴いていた。


「母さん、俺に言ったんだ。『人生は、誰かと一緒に笑っていられる時間があれば、それでじゅうぶん価値がある』って。『テストの点数や順位が全部じゃない。有眞のとなりに誰かがいて、幸せそうに笑ってたら、それが一番だよ』ってさ。」


 有眞の声が震えていた。思い出しただけで涙が出た日のこと。


「咲が俺の隣にいて、ちょっと不器用でも笑ってくれたり黙って頷いてくれたりするだけで、俺はちゃんと『価値のある人生』だって思えるんだよ。」


 咲は、小さく息を呑んだ。有眞の言葉は、まるで彼の体温みたいに、胸の奥に沁みていく。


「俺が一緒にいたいって思ったのは、お前が拗れてて、理屈っぽくて、全部一人で抱え込もうとする奴だから。咲ちゃんの未来にとって“マイナス”になりたくないって思ってんだよ。咲が目指してる医者の道って、多分、俺が思ってる以上に大変なんだろ?」


「……はい。」


「勉強、努力、責任。患者の命がかかってるって、そういう世界だろ?だから、咲の邪魔にはなりたくない。……けど、それでも……俺もお前と離れたくないよ。」


 有眞の瞳は、いつになく真剣だった。まっすぐで、どこか不器用なほどに真摯な色をしている。


「咲が泣くくらい、悩んでくれたってのは分かった。じゃあ、今は一緒に悩んでくれないか?俺と。別れなくて済む方法をちゃんと考えるから、努力するから。お前が俺と一緒にいたいって言ってくれた以上、俺だって――その未来に居場所ほしいよ。」


 僕の胸に、何かがじんわり染み込んでくる。


「バカですね、あなた。」

「それ、褒め言葉か?」

「どうでしょう。」


 涙が出そうだった。だけど、それ以上に心が少しだけ軽くなった。未来のことは、きっとまだまだ悩まないといけない。両親を説得するのも進路を守るのも簡単じゃない。


「僕の未来に、貴方いるって言い切れるようになりたいです。」


 僕はそう言った。誓いでも予告でもなく、ただ願いのように。


「じゃあ俺は、お前の隣にいられるように全力で“いい男”になるわ。」


「手始めに、ちゃんと誕生日教えてください。」


「え!?今それ!?いやでも、覚えられやすくてさ、7月7日。七夕!」


「……ロマンチストかよ。」


「咲ちゃんが願ってくれたら、叶う気がするしな。」


 有眞はいつもの調子に戻ったように、からかうように笑った。でもその笑顔は、少しだけ目元が赤くて僕と同じように胸が苦しいのを隠してる顔。僕たちはまた歩き出した。夕焼けの街を寄り添うように。


 未来のことも、不安も、不確かなものばかりだけど――それでも、今は隣にこの人がいる。それだけで、僕はまた明日を信じてみようと思えた。


 夕焼けの色が街の壁に薄く貼りついて、俺たちの影だけがやけに長かった。咲は、少し前を歩いている。風が吹くたび、黒髪の端が揺れて指先で触れたくなる衝動をどうにか飲み込む。さっき「一緒にいてほしい」って言われた時の心臓の跳ね方を胸の奥で持て余していた。


 俺は、のんきなフリをするのが得意だ。明るい声で空気を軽くして、茶化して、笑いに逃がす。そうやって、いろんなものを誤魔化して生きてきた。でも今日は、うまくできなかった。喉の奥に堅いものが引っかかって呼吸が少しだけ痛い。横断歩道の手前、信号が赤に変わる。俺たちは並んで立ち止まった。咲の横顔は目元が少し赤い気がする。


「なあ、咲」


「……なんですか」


「朝の話、ありがとうな。ちゃんと家で話してくれて。俺、逃げずにいる」


「……逃げると思ってません」


 青になった。歩き出す足音が、俺と同じテンポを刻む。

 俺はふいに、最初の頃のことを思い出していた。


 ――あんなに犬猿の仲だったのに。


 図書室で席を勝手に取って座ったら、「生徒会長は他にやることがあるでしょう」と冷たく言われた日のこと。

 模試の掲示板の前、俺が順位を眺めて「お前、また上がってるじゃん」って言ったら、「あなたが下がれば良い」って平然と返された日のこと。

「脳が軽い」と正面から刺してきて、俺が冗談で受け止めるしかなかった日のこと。


 あれ、ぜんぶ、嬉しかった。

 今こうして認めるのは悔しいけど、あの刺すような言葉で、咲は俺のところにだけ来てくれてた。誰にでも完璧で、距離を保つくせに、俺にだけ尖ってくる。それを「嫌われてる」だなんて、俺はたぶん――ずっと喜んでいたんだ。


 公園に入って、ベンチに腰を下ろす。自販機で買った缶ココアを咲に押し付けると、「糖分の塊」と文句を言いながらも受け取った。温かさにほっとしてるの、丸わかり。

 俺は、わざと飲まずに缶を握る。手のひらがじんわり熱を吸っていく。「一緒にいてほしい」の熱も、このくらい分かりやすい温度だったらいいのに。


「父さんがね」と、咲がぽつりと言う。

「“ずっと”って言葉は時に人を縛る、って。だから“いま”を積み重ねろって」


「うん。かっけぇな、咲の父ちゃん」


「……厳しいです。でも、正しいです」


「正しい、な」


 俺は、缶の縁に親指を押し当てる。熱が爪の根元にまで沁みて、指先が少し痛い。

 正しい、って言葉は、俺にとって難しい。俺はいつだって“楽しい”方へ身体が傾く。咲に会いたい、触れたい、笑わせたい――それが先に来る。

 だけど今日ばかりは、俺も“正しい”に手を伸ばしたかった。咲の未来のほうへ、俺の足を向けたいと思った。


「咲。俺、ちゃんと咲んち行くよ。唐揚げは喜んで食うけど、それより先に、挨拶する。ルールも、時間のことも、勉強のことも、俺の口で言う。『邪魔しません』じゃなくて、『一緒に進みます』って」


 咲は驚いたようにこっちを見る。

 その青い瞳は、最初に見たときより、ずっと柔らかい。俺だけが知ってる、守りたい色。


「できるんですか。あなたに」


「刺さる言い方すんなよ。でも――できる。やる。朝の音読も、寝る時間の固定も、会う頻度の調整も。俺のほうが合わせる。いや、合わせたい。だって、咲と別れるのだけは、正しくないから」


「……理屈になってません」


「理屈はあとからついてくる、って昨日言ったろ」


 咲が、ふっと目を伏せて笑った。

 その笑い方、俺が世界でいちばん好きなやつ。誰にも見せたくないやつ。胸がとうとう痛くて、俺は視線を空に逃がす。

 夕焼けは赤くて、でもどこか冷たかった。冬が近い。肩が触れたとき、制服越しでも分かる温度で、俺はもうダメだった。


「なあ、咲」

「……はい」

「俺、さ」


 言葉が続かない。喉の奥が詰まって情けないほど声にならない。笑って誤魔化したら、たぶん今度も逃げてしまう。だから、笑わない。深呼吸を一つ。肺が冷える、目の奥が熱い。


「お前のこと、初めて“綺麗だ”って思ったの体育祭の借り物競走だった。遠く見たとき、なんか殴られたみたいにドキッとして。あの瞬間から、他の女子が全員背景になった。」


 咲が、驚いたように目を丸くする。俺は小さく笑って、でもすぐ真顔に戻す。


「それからずっと、羨ましかった。咲が誰かと笑ってると胸がざわざわする。模試で負けると本気で悔しいのに、その悔しさの半分は“お前の横に立てなかった”っていう意味のほうで。……ひねくれてるよな、俺。」


「あなたが、そんなふうに言うの初めて聞きました。」


「俺も、はじめて言った。」


 缶を置いて指の腹で目頭を押さえた。涙は嫌だ。泣くのはカッコ悪い。俺はいつでも余裕でいたい。だけど、余裕なんか一ミリもなかった。昨日の夜、咲が父親の前で泣いたことを朝に聞いた時からずっと――悔しくて、誇らしくて、苦しくて、嬉しかった。


「どうすればいいか分かんねぇの、俺も同じだよ。でも、分かるまで一緒に歩こうぜ。お父さんの“半年後もう一度話す”って条件だって受けて立つ。模試の結果だって、時間管理だって、なんでも数字で見せる。俺、逃げないから。咲の未来と両親とちゃんと向き合うから。」


 自分の声が震えてるのが分かる。情けねぇ。でも、これは逃げちゃいけない震えだ。咲は黙って聞いていた。俺は呼吸を飲み込みながら言葉を絞り出す。


「それでもさ。たぶん完璧にはできない。嫉妬するし、バカな勘違いもするし、言わなくていい一言でお前を困らせる。……でも、失敗したら直す。何度でも。『ずっと』を言うために、『いま』を毎日お前の隣で選び直す。俺の“正しい”は、そこだけだ。」


 風が吹いた。咲の前髪が揺れて、目元が隠れる。次の瞬間、俺の袖口がキュッと掴まれた。細い指。いつもペンを真っ直ぐ持つ指だ。


「僕も、完璧にはできないです。」


 小さな、でもはっきりした声だった。


「弱いです。怖いです。すぐ逃げたくなるし、言い訳を考えます。勉強が僕を守ってくれると、どこかで信じてる。あなたと一緒にいる“いま”が僕を守る日もあるのかもしれないって、昨日、はじめて思いました。」


 袖の掴む力が少しだけ強くなる。俺は反射的に手を重ねた。ほどけないように、でも壊さないように。


「別れたくないです。もっと言うと――いなくならないでください。僕が言えなかったときも、言えるまで待っててください。……あなたが待てる人だって知ってます。」


 そこで俺は、とうとうダメになった。視界が滲む。頬の筋肉がじんわり熱くなって、あぁ俺、泣いてるわって間抜けなくらいはっきり自覚した。


「お前が、そんなこと言うから〜〜。」


 言いながら笑って、笑いながら泣いた。肩が震えるのをごまかすみたいに、咲の手を握る力をほんの少し強くする。咲は驚いた顔をして、それから俺と同じように笑った。泣きそうで、でも笑ってる顔。この人のそんな顔を俺はこの先何百回でも、何千回でも、俺の前でだけ見たい。


「なぁ、咲」

「……はい」

「犬猿の仲やめる?」


 少しの沈黙。咲は、首を横に振った。


「やめません。犬猿のまま、隣に立ちます。」


 俺は声を立てて笑った。涙で鼻声になっていて、きっとダサい。でも、これは俺たちの答えだ。喧嘩して刺して文句を言ってそれでも隣に立つ。犬猿の“仲”って、結局“仲”だ。俺と咲にはそのほうが似合ってる。


 角を曲がる前、空を見上げる。夕焼けはもう紫に変わりかけていて、遠くで一番星が瞬いていた。俺は心の中で子どもみたいにお願いをする――七夕でもないのに。


 明日も、隣で。

 あさっても、隣で。

 恋人のまま、隣で。


 涙の跡が乾いていく頬で、俺は咲の横顔を盗み見て、また少しだけ泣きそうになった。あんなに犬猿の仲だったのに。この“仲”を俺は一生、手放したくない。

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