2人目:ソロレイドプレイ
……また、無駄死にか。
焼け焦げた人骨を踏み越えるたび、靴底に焼けた灰が貼り付く感触が伝わってくる。
ここは《封域:灰竜の巣》。
ギルドの名札を背負った連中の屍が、焦土に転がっている。
(隊列を組んで、魔法を囮にして、スキルを盛って――。結局、灰になっただけだ。)
目を伏せる気はない。
何百人死のうが、俺には関係ない。
目指すは、その奥に潜む――獄炎の灰竜。
剣を握る右手に、冷たい汗が滲む。
皮の柄巻きが汗を吸い込む音が、やけに鮮明に聞こえる。
俺は《ザイラス・グレイフォード》。
無冠の剣鬼。
スキルも魔法も捨てた、ただの剣士だ。
剣一本で、この封域の奥にいる《伝説》を斬り捨てる。
それだけのために、ここに立っている。
――ズズッ……。
焦土の向こう。
灰色の空気を裂いて、巨体がうねった。
黒い煤の瞳が、無数の死体を越えて――俺を捕えた。
(……やっと、俺だけの死合いだ。)
俺は剣の柄を握り直した。
右頬の古傷が引き攣る。
自然と口の端が、吊り上がっていた。
剣を抜く音。
焦土の風が止まる。
――グォォォォォォ……ッ!!
封域全体が、竜の咆哮で震えた。
鼓膜の奥が軋む。肺の空気が逆流する。
足元の焦土が、熱波で割れる音がした。
《獄炎の灰竜》。
体長二十メートルを超える灰鱗の古竜――
封域の扉を開ける《鍵》でもあり、ここで死ねばただの骨と炭屑だ。
ギルドの奴らは、レイド戦の定石をよく分かっていた。
(……まず魔法職が封印域外から遠隔火力で削る。
タンクが竜の前脚と尾を釘付けにして、支援職とヒーラーが死なない距離でバフを撒く。
そして……全員のスキルを一斉解放して、HPをゴリ押しで削り切る――。)
そんな定石を守って死んだ山が、これだ。
(……滑稽だ。)
灰竜が咆哮と共に、地を抉る尾を叩きつけた。
残ったギルドの残党が悲鳴を上げる間もない。
「うわああ――ッ!」
封印領域の淵で詠唱していた魔法職の光が、呑まれた。
次の瞬間、残った前衛も一斉に吹き飛ぶ。
灰竜の翼――欠損しているはずの左側を庇うように、前脚が大地を薙ぎ払った。
……残ったのは、俺だけだ。
灰竜の煤黒の眼が、はっきりと俺だけを見る。
(定石も、スキルも、魔法も。俺にはいらん。)
呼吸が深くなる。
柄を握る手に、血が滲んだ。
(必要なのは……俺と、この剣だけだ。)
灰竜の口が、ゆっくりと開く。
焦土が、熱で脈打った。
――ザッ。
焦土に踏み込む自分の足音が、やけに遠くに聞こえる。
灰竜との距離、十メートル。
封域の焦げた空気が、肺に刺さる。
俺の前に残っていた誰もが、さっきの尾撃で吹き飛ばされた。
(これで、やっと――俺と、おまえだけだ。)
灰竜の煤のような眼が、ジリジリと瞳孔を絞る。
相手は知性がある。
目の奥に、こちらの呼吸を探る気配がある。
だから――。
「……笑うな。」
無意識に、口の端が吊り上がっていた。
剣を握ると、どうしても笑ってしまう。
柄巻きに沁み込んだ古い血と汗の匂いが、心を研ぎ澄ませる。
(剣だけでいい。
剣だけで、魔法もスキルも、ギルドの大軍も――超える。)
焦土を蹴る。
鉄靴が焼けた地表を削り、粉塵が舞い上がる。
――ゴォッ!
灰竜が前脚を振り下ろす。
頭上に迫る、岩塊のような鱗の塊。
避けない。
一歩、剣を逆手に構える。
「……ッ!」
剣の腹で鱗を受け流し、そのまま力を殺すように肩を捻る。
ガギィィン――ッ!
衝撃が脊髄を揺らす。
だが――切れた。
前脚の皮を一枚、剥ぐ。
灰竜が初めて低く咆哮を漏らした。
(良い。分かってきた。)
巨竜が知性で動こうが、パターンを学習しようが――
斬れる。
俺の剣は、そのためだけにある。
――ゴウッ!
低く呻くような息が、地鳴りに変わった。
灰竜の尾が、焦土をえぐりながら俺を薙ぎ払う。
横薙ぎの尾撃は、封域外まで吹き飛ばす威力。
ギルド共の戦術書には、必ず『集団で分散回避』が書かれている。
俺には、仲間がいない。
だから――俺は跳ばない。
尾の軌道を読む。
焼けた大地の割れ目を、一瞬で踏み切る。
ズザッ――!
尾が髪を撫でる。
腕一本分の距離を、躱した。
(次は……左前脚だ。)
焦土を蹴り、尾の内側に踏み込む。
竜の巨体の下――熱と鱗の圧力の真下で、刀身を反らす。
灰竜の爪が俺を捉える瞬間、斬り上げる。
ギィィンッ!
剣が火花を散らす。
爪の先が弾かれ、軌道がずれた。
俺の肩口を掠めて爪痕が走る。肉が裂ける音を自分で聞く。
(いい……血の温度が、丁度いい。)
右足を地面に叩きつけ、もう一歩。
灰竜の肩に――刃を滑らせる。
鱗が浅く裂け、熱い血が噴いた。
灰竜が低く唸る。
知性が、俺を値踏みする。
(頭を使え。俺の剣を、甘く見るな。)
口の端がまた、勝手に吊り上がった。
――ガァァッ……!!
灰竜の喉奥で熱が震えた。
前脚を低く構えると、まるで獣のように地を蹴った。
巨体が俺の視界を埋め尽くす。
(来い。)
剣の鍔を握り直す。
灰竜の前脚が地面を裂き、同時に顎が開く。
薙ぎ払いと噛み付き。
どちらを食らえば骨ごと潰される。
ザッ――
足をずらす。重心を捻る。
巨竜の爪が肩をかすめる前に、刃を滑らせる。
ギィンッ!
爪が弾かれた反動で灰竜の顎が俺の首に迫る。
(遅い。)
腰を落とす。頭を傾ける。
歯の先が耳をかすめ、獣の息が髪を焦がした。
剣を逆手に構え、喉元を掬うように斬り上げる。
ザシュッ――!
血が飛ぶ。
灰竜が短く咆哮する。
だが、巨体が止まらない。
尾が背中を狙って迫る。
振り返らない。
尾の起点を読む。
――左脚を支点に、地を滑る。
ズザァッ!
尾が背後を薙ぎ、焦土が火花を吐く。
息が熱い。
腹にかすった衝撃が内臓を揺らす。
(まだ、切れる。)
前脚の踏み直し。
隙を突いて、肩甲骨の下に剣を叩き込む。
ギィィンッ!!
硬い。
それでも鱗を数枚削ぎ落とした。
灰竜が低く唸る。
目が俺を追う。
読み合いが、加速する。
灰竜の胸が大きく膨らんだ。
焦土の空気が一瞬で乾き、熱が肌を裂くように突き刺さる。
(来る……!)
俺は血の味を吐き捨て、剣を逆手に握り直す。
「――ッ!」
獄炎が吐き出された。
ゴオオオオオッ!!
封域全体を焼き払う灼熱の奔流。
逃げ場などない。
ギルド共は、これを分散避難と魔法障壁で凌ぐ。
だが俺には――障壁など、ない。
(避けろ……!)
俺は熱波に目を焼かれながら、足の裏だけを信じる。
砂利の感触。割れ目の位置。
熱風の壁をかいくぐり、灰竜の懐へ滑り込む。
呼吸が焼けた肺に突き刺さる。
焦土を蹴り――
(潰すなら――左翼の根元!)
灰竜の左肩、欠損した翼の付け根。唯一の急所。
剣を両手で握り締める。
――ギィィィィンッ!!
刃が鱗に食い込む。
だが――硬い。
灰竜が咆哮と共に、肩を大きく揺らした。
刃が弾かれる。
俺の体が空中に放り出された。
――ドンッ!!
地面に叩きつけられ、肺から空気が絞り出される。
視界が赤黒く滲む。
(まだ……まだ終わらせねぇ……!)
立ち上がる。
剣を杖にして、足を引きずりながら。
灰竜の黒い眼が、俺を真っ直ぐに睨んでいた。
灰竜の鱗が――
剥がれたはずの肩甲骨が――音を立てて再生していく。
ピキ、ピキ……と肉の音が焦土に響く。
(……再生か。)
灰竜の煤黒の瞳が、俺の足運びと呼吸を測るように瞬きする。
知性が完全に俺だけをロックオンした。
「……ハッ。」
笑みが漏れた。
(良い。魔法もスキルも要らねぇ。
読み合いだけで、全部超えてやる。)
前脚が薙ぎ払われる。
ギルド共なら、これを盾で受け止める。
俺は違う。
斬る。
巨獣の爪先を――斬り落とす。
ザシュッ!!
熱い血が顔を焼く。
灰竜の咆哮が焦土を揺らす。
巨体が暴れると、地面が割れる。
だが俺は、裂け目を踏み越えて足を止めない。
(痛ぇ……けどな……)
左腕が裂けて血が滲む。
剣を右手に持ち替える。
刃の先端が、鋭く震える。
(痛みも全部、剣にくれてやる。)
灰竜の尾が低空でうなる。
避けない。
尾の根元を読む。
俺の足が一歩、半歩――重心をずらす。
尾の衝撃が背中を擦り抜けた瞬間、
右腕の剣が――尾を裂いた。
ギィィンッ!!
尾の鱗が砕け、肉が裂ける。
灰竜の咆哮が絶叫に近い悲鳴へ変わった。
(良いぞ……学習しろ。俺を喰らうために、全部学べ。)
俺の剣が――
それを全部、超える。
――ザァァ……。
左腕から流れる血が、焦土に線を描く。
焼けた風が、血の匂いを俺の鼻腔に叩き込む。
(まだだ……。)
膝が震える。
指が汗と血で滑る。
だが、剣だけは――ぶれない。
呼吸が、一段深くなる。
肺が、炭の匂いを孕む空気を貪る。
(……まだ、斬れる。)
灰竜の残った爪が土を裂き、再び突撃の体勢を取る。
口の奥で、残りの獄炎が揺れるのが見える。
(……来い。)
視界が、鮮明になる。
痛みと熱が、血管を洗い流していく。
余計な思考が剥がれ落ちる。
今この瞬間、俺と剣と灰竜だけだ。
「――ッ……クッ。」
口の端が吊り上がった。
笑いを噛み殺す。
灰竜が地を蹴る。
焦土が爆ぜる。
俺も、同時に地を蹴った。
間合いが潰れる。
爪の先端が、視界いっぱいに迫る。
――剣を、預ける。
刃が爪の付け根を捻り斬る。
ギィィンッ!
爪が吹き飛ぶ。
刃がさらに灰竜の鱗を裂く。
左肩、翼の根本――鱗の下の肉に、刃の先が触れた。
灰竜が怒声を上げた。
(いいぞ……このまま、どこまでも……。)
血まみれの視界に、灼熱の核が揺らめく。
集中が、さらに研ぎ澄まされていく。
刃が、冴え渡っていく。
――ハァ……ハァ……。
血と炭の混じった息が、喉を焼く。
灰竜の肩甲骨――
再生しきれていない鱗の隙間が、わずかに覗く。
そこを貫けば――終わる。
(あと一歩……。)
だが、巨竜もバカじゃない。
残った前脚を伏せ、爪を地面に喰わせ、急所を晒さない姿勢に移った。
(なるほど……そこが、死の間合いか。)
奴の咆哮が、封域全体に反響する。
焦土が震え、視界が揺れる。
俺の鼓膜が破れそうだ。
それでも、視界の中心に映るのは――
あの一点だけ。
灰竜の尾が、再びうなる。
突進か、薙ぎ払いか――どちらも死ぬ。
だが一つだけ、道がある。
(踏み込む。骨を折られても構わん。脇腹を抉られても、剣だけ届けば――いい。)
剣を握り直す。
血が柄に滴り、革が吸い込む音が聞こえた気がした。
焦土の割れ目を踏みしめ、足の甲に力を込める。
灰竜の黒い眼と、視線が交わった。
(――行くぞ。)
巨竜が突進の構えを取った瞬間――
俺の膝が、地を砕いた。
跳んだ。
命の一歩だ。
尾が頭上を掠める感触。
前脚の爪が脇腹を裂く痛み。
だが――
視界の奥、鱗の隙間が、俺を呼んでいる。
――グオォォォォォォッ!!
巨竜の喉奥が、赤く灼けて光る。
吐息すら獄炎と化し、封域全体が焼け焦げた煙の嵐に包まれる。
(吠えるか……いいだろう。)
脇腹を裂かれた血が、脚を滴る。
だが足は止まらない。
(止めるもんか……ここで止まったら……)
剣鬼じゃない。
灰竜の巨体が、赤黒い炎に覆われた。
封域の境界が歪み、空気が燃える。
普通のプレイヤーなら、瞬きする間に溶ける熱。
だが俺は――笑った。
「……ッ、は……ッ。」
口の端が裂ける。
焼けた肺から吐き出される息が血の味を連れてくる。
右足が、焦土を踏み砕く。
巨竜の前脚が迎撃の体勢を取る。
目と目が合う。
俺と、こいつだけの死合い。
(……魔法も、スキルも、誰もいらない。)
(俺と、お前だけで十分だ。)
剣を肩に担ぐ。
膝を沈める。
視界の奥――欠損した翼の基部が、微かに赤い肉を覗かせた。
(――そこだ。)
巨竜が咆哮を限界まで振り絞る。
ブレスと咆哮と衝撃波が、全部を飲み込んだ。
俺は――
その中心に、足を踏み込んだ。
――時間が止まった。
俺と灰竜だけが、この灼熱の中心で動いている。
耳鳴りも、咆哮も、獄炎の爆ぜる音すら――何も聞こえない。
(斬れる。)
脇腹の裂傷も、折れた肋骨も、皮膚を焦がす熱も。
どうでもいい。
足裏の感覚だけが、俺を支えている。
焦土の割れ目を踏み越え、地面を蹴り飛ばす。
灰竜の黒い瞳が、ほんの一瞬、何かを読み損なった。
(今だ――。)
剣を、肩の高さで滑らせる。
剣の腹で炎を裂き、刃が赤熱を帯びた鱗の継ぎ目を捉える。
――ズギィィン……!!
刃が鱗に食い込む音。
骨が砕ける振動が、握り拳を通して腕を伝う。
(まだだ……まだ割り切れ……!)
両脚を肩幅に踏み開く。
背中の筋肉が悲鳴を上げる。
それでも、剣を押し込む。
刃が、赤い肉を裂き、肩甲骨を貫き、肺を突き刺した。
――ゴォッ……!!
灰竜の絶唱が、息に変わった。
咆哮ではない。
巨体が、力なく前へ崩れ落ちる。
俺の肩の上に、燃えた鱗の欠片がはらはらと降った。
剣を、鞘に返す。
脚が痺れても、膝は折れない。
(……これが、俺の――剣鬼の――一閃だ。)
――ゴゴォ……。
焦土の地面が小さく鳴き、崩れ落ちた灰竜の巨体から煙が立ち上る。
もう咆哮はない。
ブレスの残響も、爪の風切り音も、すべてが終わった。
俺だけが、立っている。
血と煤に濡れた革鎧。
剣は鞘に収まっているが、刃先は欠け、柄は血に染まっている。
呼吸を整える。
焦土の上に落ちる自分の吐息が白い霧になって揺れた。
――カラ……。
崩れ落ちた鱗の下に、赤黒い《ドラゴンコア》が転がった。
封域の鍵。
誰かが奪いに来るだろう。
だが、今はどうでもいい。
(……これで、また一つ。群れの英雄譚を……踏み越えた。)
剣を握り直す。
指の骨が軋む音が心地良い。
もう誰も、俺に声をかける奴はいない。
誰も、勝負を横取りしない。
――それが、いい。
剣を振るえば、また笑ってしまいそうだ。
封域の空が裂け、亀裂の向こうに新たな闇が覗く。
その向こうにも、まだまだ伝説がある。
(いいだろう。……剣だけで、全部斬る。)
無冠のまま、誇りのまま。
群れに飲まれない俺の剣は、これからも血を吸い、伝説を屠る。
焦土の上に、ひとり。
無冠の剣鬼、ここに在り。