03話
目を開けた瞬間、いつもと同じように朝の光が差し込んでくる。ほんの少しの違和感を覚えながら、僕はその光を受け入れる。しかし、すぐにそれが何なのかを理解した。
まただ。
前回の出来事、彼女を守れなかったこと、逃げる場所が決められなかったこと、そして――彼女の無力さ。すべてが、まるで夢のように鮮明に僕の中で蘇る。僕は再び、あの夜を迎えているのだ。
2度目のループだ。
目を覚ますと、すぐにわかる。あの悲劇が、繰り返されることを。またあの朝が、再び始まることを。
僕は深く息をつき、ベッドから起き上がった。時計を見れば、時間は昨日と全く同じ、変わり映えのない日常の始まりだった。
この状況に、何度も囚われることになるのだと知りながらも、僕は心の中で叫ぶように思う。
「何度でもやり直すしかない」
前回と同じ失敗を繰り返さないように、今度こそ彼女を守るために、僕はどうにかして――
あの日の朝と同じように、目覚めてすぐにあの感覚が襲ってきた。繰り返す現実。まだ目の前にはやり直すチャンスがある。それを、何度でも手に入れたとしても、どうすればこのループを断ち切れるのか、彼女を救えるのか――その答えが見えないままだ。
朝食を済ませ、部屋に戻ったところで、すぐに扉の外から軽いノックの音が聞こえた。これも、いつもと同じだ。
彼女が来る。
扉を開けると、そこにはやはり彼女が立っていた。彼女の目は、少し不安そうに見開かれ、無言で僕を見つめている。
「おはよう…」
「おはよう。」
いつものように、彼女は少しだけ緊張した表情で挨拶をしてくる。僕は深く息を吐き、心の中で覚悟を決めた。
今日は、絶対に逃げる場所を決めなければならない。
「今日は、ちょっと忙しいんだ。」
そう、できるだけ優しく、けれど確実に伝えた。その一言が、どれだけ彼女に痛みを与えるかを分かっていても、それを伝えないわけにはいかない。
彼女は一瞬だけ驚いたように目を大きく開け、その後、少し肩を落とす。その姿を見るだけで、胸が痛んだ。だけど、彼女がすぐに言葉を探し、静かに口を開く。
「…そっか。」
「ごめんね。今日はちょっとだけ、時間がないんだ。」
「うん…。分かった。」
彼女は、少しだけうつむきながらも、静かに頷く。その表情には、どこか遠慮が見えた。申し訳なさそうに微笑みながら、扉の前からゆっくりと歩き去っていく。
僕はその背中を見送りながら、心の中で呟いた。
ごめん、でもこれがきっと最善なんだ。
彼女を守るためには、逃げる場所を決めて、準備をして、確実に動く必要がある。そのためには、今日、少しだけ彼女に辛い思いをさせなければならなかった。
だけど、もし今、彼女を受け入れてしまえば、また同じ結末に終わってしまう。あの悲劇を繰り返すだけだ。
彼女が去った後、僕はひとり静かに深く息を吐きながら、その場に立ち尽くす。今度こそ、彼女を守りきるために。逃げる場所、作戦、すべてを決めなければならない。
でも、それはただの準備に過ぎない。僕たちが逃げられるかどうかは、全てその先の選択にかかっている
それを考えながら、僕は自分の足を動かし始める。すべてが、まだ始まったばかりだ。
彼女を無理に帰らせた後、僕はすぐに村の中を歩き回ることにした。今日は絶対に、逃げるための場所を決めなければならない。とにかく時間がないんだ。
村の外には、どうしても逃げ道が必要だ。僕は一度、村の商人が営む小さな店を訪れることに決めた。商人は色々な情報を持っていることが多い。村の外の状況についても、少しでも知っておけば、今後の計画に役立つだろう。
店の前に立ち、扉を開けると、温かい空気が僕を迎えた。店内には香辛料や乾物、少し古びた雑貨が並んでいる。商人が奥のカウンターで忙しそうに何かを見ているのが見えた。
「こんにちは。」
「おお、いらっしゃい。今日はどうした?」
商人は顔を上げ、ニコリと笑いかけてきた。彼の目は落ち着いていて、まるで何もかも知っているかのようだった。僕はその目を見つめながら、質問を切り出す。
「少し、外の街について聞きたいんだけど。」
「外の街?ふむ、まあいいだろう。」
商人は少し考え込み、次にこう言った。
「最近じゃ、近くの街、ローズマリスがかなり賑わっている。町の規模も大きく、物資が豊富だし、なによりも比較的安全だ。野盗が頻繁に出ることもあるが、街自体は警備がしっかりしているから、逃げるにはうってつけだろう。」
その情報を聞いた瞬間、僕の中で何かがピンと鳴るのを感じた。ローズマリスか――確かに、あの街は少し遠いが、比較的治安が良いことで知られていた。そして、僕たちが今後生活する場所としては、最適な場所かもしれない。
「それじゃあ、どこからどう行けばいいか、詳しく教えてもらえるか?」
商人は無言で、手元の地図を広げ、指でローズマリスの位置を示した。地図の端を指でなぞりながら、彼は続ける。
「まず、この道をずっと西に向かって進め。途中でいくつか小さな村があるが、その先の山を越えればローズマリスに着く。ただ、気をつけろよ。山道は険しいし、途中には盗賊も出ることがあるからな。」
「分かった。ありがとう。」
僕は地図を受け取ると、感謝の言葉をかけ、店を出た。情報は手に入った。しかし、これだけでは足りない。逃げるためには、まだ準備が必要だ。ローズマリスに行くための道を、そして村を離れる準備をしっかり整えなければ、また繰り返しになってしまう。
その道中で何が待ち受けているのか、僕にはわからない。それでも、今の僕にはそれを選ぶしかないのだ。
情報を手に入れた僕は、すぐに村の中を歩き回った。目的は二つ――逃げるための物資を揃えること、そして村を出る口実を作ることだ。
適当に村を離れようとすれば怪しまれる。ましてや、彼女と一緒にいなくなるとなれば、必ず誰かに疑われる。それを防ぐためには、もっと自然に村を出る理由が必要だった。
僕はまず、村の鍛冶屋に向かうことにした。ここには村の警備に関わる人たちも出入りするし、村の防衛に関する情報も得られるかもしれない。
鍛冶屋の前に立つと、火花が散る音が聞こえてくる。店の中に入ると、大柄な男が鉄を打ち付けていた。
「よう、何か用か?」
鍛冶屋の主人は無愛想な声で僕を見やる。
「ちょっとした護身用に、小さなナイフが欲しいんだけど。」
「ナイフか。狩りにでも行くのか?」
「いや、しばらく村を離れようと思ってる。ちょっと外の街を見て回ろうと思って。」
「……ほう。」
鍛冶屋の主人は一瞬目を細め、興味深そうに僕を見つめた。しかし、それ以上は何も聞かず、奥から短めのナイフを取り出した。
「これでどうだ?軽くて扱いやすいし、旅にはちょうどいい。」
「ありがとう。これにする。」
代金を払い、ナイフを受け取る。それを腰の袋に隠しながら、僕は店を出た。これで、少しは不意の襲撃にも対応できる。
あとは、食料と水、そして移動手段だ。
彼女と共に移動するとなると、徒歩だけでは厳しい。できるなら馬か荷馬車が欲しいところだ。しかし、それを手に入れるにはどうしても金が必要になる。
商人の店に戻り、少しばかりの保存食を購入する。干し肉とパン、塩漬けの魚を少し。長旅に適したものを選んだ。
あとは、どうやって村を抜け出すかだ。
ふと、村の門の方に目を向ける。門を通って出るのは簡単だが、理由なしに外へ出るのは難しい。どうにかして自然に村を出られる方法を考えなければ――
そんなことを考えながら村の広場を歩いていると、ふとある話が耳に入った。
「……今度、ローズマリスへ向かう荷馬車があるらしい。」
「商人の荷物を運ぶやつか?」
「そうだ。護衛がつくらしいが、人手が足りないとか言ってたぞ。」
――それだ。
僕は足を止め、会話を交わしている村人たちにさりげなく近づく。
「ローズマリス行きの荷馬車って、どこで募集してるんだ?」
「あんたも行くつもりか?商人のオヤジが護衛を探してるらしいぞ。たぶん、あの店で話を聞けるんじゃないか?」
これなら、自然な形で村を出られる。
ローズマリス行きの荷馬車――それは理想的な手段に思えた。しかし、すぐに気づく。彼女は乗れない。
村人たちは彼女を嫌っている。誰もが彼女を厄介者扱いし、冷たい視線を向けている。商人が彼女を荷馬車に乗せることなど、到底ありえない。
他の方法を探さなければ。
僕は村を歩きながら、考えを巡らせた。村を抜ける手段は限られている。正面の門から出るのは無理だ。荷馬車に紛れるのも不可能。ならば――
裏口を使うしかない。
村には、村人たちが使わない古い裏道がある。かつては使われていたらしいが、今はほとんど誰も通らない。外壁の一部が崩れかけていて、大人でもなんとか通れる程度の隙間がある。
しかし、その道を抜けた先は森だ。道はなく、しばらく進まなければローズマリスへ向かう街道に出られない。だが、それでも村を出られるだけマシだ。
僕はその場所を確認するため、村の端へ向かった。
人目を避けながら、村の裏手にある崩れかけた壁のそばへ向かう。慎重にあたりを見回し、誰もいないことを確認してから、壁の隙間を覗いた。
いける。
隙間は十分に広い。荷物を持っていても、ゆっくり通れば抜けられる。問題は、彼女をどうやってここまで連れてくるかだ。
無理に連れてくれば、誰かに見られる可能性がある。夜に動くのが一番だが、それまでに準備を整えなければならない。
僕は心の中で計画を立てながら、一度村へ戻った。
まずは彼女に伝えなければならない。
しかし、問題はもうひとつある。
彼女が、逃げることを受け入れるかどうか。
村の裏手にある崩れかけた壁を確認し、僕はすぐに村の中へ戻った。彼女にこのことを伝えなければならない。
彼女は今、どこにいるだろうか。
考えるまでもなかった。いつもの場所――村のはずれ、小さな丘の上。そこに行けば、きっと彼女はいる。
足を早め、丘へと向かう。
そして、やはり彼女はそこにいた。
膝を抱え、遠くを見つめている。風がそっと彼女の髪をなびかせる。静かで、どこか儚げな横顔。
「……来たんだ。」
僕が近づくと、彼女は僕に目を向けた。その表情は、いつも通りのようで、どこか影を落としているようにも見えた。
「話があるんだ。」
彼女は少しだけ首を傾げる。
僕は深く息を吸い、言葉を選びながら話し始めた。
「……この村を出よう。」
彼女の瞳がわずかに揺れた。
「ここにいたら、ずっと苦しいままだ。どれだけ頑張っても、誰も君を受け入れようとしない。だから――一緒に、ここを出よう。」
彼女は、何も言わなかった。
ただ、少しの間、黙ったまま僕の顔を見つめていた。
「……そんなこと、できるの?」
やがて、静かにそう呟いた。
「できる。村の裏手に、古い抜け道がある。そこを使えば、誰にも見つからずに村を抜けられる。」
彼女は膝を抱えたまま、視線を下げる。
「……逃げたら、何か変わるの?」
「変わる。少なくとも、今よりはずっといい。」
「……本当に?」
僕は迷わず頷いた。
「……分かった。」
彼女は静かに立ち上がり、僕の目をまっすぐに見つめた。
「……信じるよ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
今度こそ――二人で、逃げられるかもしれない
彼女が頷いた時、胸の奥が少しだけ軽くなった。だが、安堵している暇はない。逃げる準備を整え、できるだけ早く行動しなければならない。
「今日の夜、村の裏手に来てくれ。準備は僕がしておく。」
「……分かった。」
彼女は静かに頷いた。
日が沈むまでの時間を、僕は慎重に使った。食料や水をもう少し確保し、夜のうちに動けるよう最低限の荷物をまとめる。あまり重いものは持てない。速さが重要だ。
夜――
月明かりだけを頼りに、僕は村の裏手へ向かった。あたりに人影はない。崩れかけた壁の前で、じっと彼女を待つ。
やがて、足音が聞こえた。
「……来たよ。」
彼女が、月明かりの下に現れた。
「誰にも見られてない?」
「うん。大丈夫。」
僕は壁の隙間を指差す。
「ここを抜ければ、あとは森を抜けるだけだ。少し歩けば街道に出られる。そこからローズマリスを目指そう。」
「……分かった。」
僕が先に壁の隙間をくぐり抜ける。小さな石が足元で転がる音がした。彼女も慎重に体を通し、外へ出た。
村を、抜けた。
だ終わりではないが、第一関門は突破した。
「行こう。」
二人で森の中へ足を踏み入れる。
――しかし、その時。
「……待て。」
突如、低く冷たい声が響いた。
驚いて振り返る。そこには、村の男たちが立っていた。
「逃げるつもりだったか。」
松明の明かりが、男たちの顔を照らす。憎しみに歪んだ視線が、真っ直ぐに彼女へ向けられていた。
「……どうして。」
彼女が小さく呟く。
バレていたのか。
どうして? どこで? 誰が、僕たちの逃亡を気づいた?
思考がぐるぐると巡る間にも、男たちはじりじりと近づいてくる。
「どこへ行こうとしていたか知らんが……逃がすわけにはいかん。」
最悪だ。捕まれば、もう次はないかもしれない。
どうする――? この状況を、どうやって打開する?
男たちの松明がゆらめき、森の闇を切り裂いていた。捕まれば終わりだ。
「……どうするの?」
小さく、彼女が僕に尋ねる。その声にはかすかな震えが混じっていた。
考えろ。まだ完全に囲まれたわけじゃない。ここは村の外、暗闇の中だ。村の連中は慣れていないはず。足を止めたら負ける。
「……走るよ。」
彼女の手を強く握る。驚いたように僕を見上げたが、反論はしなかった。
次の瞬間――僕たちは森の奥へと駆け出した。
「待てッ!!」
村の男たちの怒声が響く。松明の炎が揺れ、足音が草を踏みしめる。
森の中を全速力で駆け抜ける。木々の影に隠れながら、月明かりだけを頼りに。彼女の手を引き、転ばないように気を配る。
後ろを振り返る余裕はない。
ただ、全力で逃げる。
――だが。
「……っ!」
突然、彼女の足がもつれた。バランスを崩し、倒れ込む。
「大丈夫!?」
慌てて彼女を引き起こそう近づこうとするが、その時だった。
瞬間、背筋が凍る。
村の連中が、鉄の罠を仕掛けていた。
周りをよく見ると罠で囲まれている。出るには後退するしかないが、無理だ。どうする?!
僕は息をのんだ。
そして、決断した。
「……ごめん。」
ワイヤーを踏んだ。
次の瞬間、僕は彼女を突き飛ばした。
彼女の体が、罠の範囲から押し出される。
バチン!!
凄まじい音とともに、ワイヤーが締まる。
「……っ!」
激痛が走る。足が痺れ、血が滲むのが分かった。
「な、何やって……!」
彼女が目を見開く。
「行って……!」
僕は叫んだ。
「逃げろ……! 僕が足止めする……!」
彼女の瞳が揺れる。
「でも……!」
「頼む……!」
そう言った瞬間、茂みの向こうから松明の光が近づくのが見えた。
もう、時間がない。
僕は彼女の手を振り払った。
「また、後で……!」
彼女は躊躇った。だが、やがて――
「……ごめん。」
涙を滲ませながら、彼女は駆け出した。
僕はそれを見届け、次の瞬間、背後から村の男たちに取り押さえられた。
松明の光が視界を埋め尽くし、怒声が飛び交う。
「貴様……アイツを逃がしたな……!」
彼女は逃げられたのか。
この選択は、正しかったのか。
その答えを知る前に、僕の意識は暗闇に沈ん
意識が戻った時、僕は冷たい床の上に転がっていた。
頭がぼんやりとしている。体が思うように動かない。
……まだ、生きているのか。
ゆっくりと目を開けると、そこは村のどこかの小屋の中だった。窓はなく、かろうじて隙間から差し込む光があるだけ。手首には縄が巻かれ、背後の柱にきつく縛り付けられていた。
「……っ。」
足に痛みが走る。まだ罠の影響が残っているのか、動かそうとすると鈍い痛みが広がった。
「目が覚めたか。」
低い声が響く。
顔を上げると、村の男たちがこちらを見下ろしていた。
「お前が彼女を逃がしたことは分かっている。」
男の目は怒りに燃えている。
「どこへ行かせた?」
僕は何も答えなかった。ただ黙って、相手を睨み返す。
「……答えないか。」
男は足元に転がっている木の棒を拾い上げ、少し舐めるように見つめた後、僕の肩に振り下ろした。
ガンッ!
痛みが全身に走る。肩がひどくズキズキと痛んだ。
「言うことを聞かないなら、もっと痛い目に合わせるぞ。」
男の目に浮かんだ冷徹な光が、僕の体を冷やす。
次の瞬間、僕の腹に一撃が加えられた。
「ッ!」
体が一瞬、引きつったが、すぐに激しい痛みが広がった。内臓が圧迫され、思わず唾を飲み込んだが、それでも言葉は出さない。
男はしばらくその痛みに耐える僕をじっと見下ろしていた。
「本当に言わないな。」
再度、無慈悲に木の棒が振り下ろされる。
ガンッ!
今度は胸に重く当たる。息が詰まり、目の前が白くなる。
「動くな。」
それでも、僕は必死に体を押さえ込んだ。口をつぐんだまま。
男たちがしばらく僕を見守っている。彼らの声がどこか遠くから聞こえる。
「このままだと、無駄だな。」
やがて、男がしびれを切らしたように言った。
「……分かったか?」
「……。」
僕は何も言わず、黙って目を閉じた。内心では彼女を守るために、絶対に言うわけにはいかないという決意だけが強くあった。
男はそれを見て、さらに顔をしかめた。
「なら、もう少し痛みを与えてやる。」
再び、木の棒が振り下ろされる。
ガンッ!
その時、僕の意識が再び遠のいていった。
意識が完全に遠のいたわけではなかった。痛みと寒気が全身を支配する中で、僕はただ、彼女が無事でいてくれることだけを願っていた。
どうして僕はこんな目に遭っているのか、何度も考えたが、答えは見つからない。気が付くと、村の男たちは僕をそのままにして去って行った。夜になって、再び足音が聞こえた。
「……君。」
声が響く。振り向くことはできなかったが、確信があった。エリシアだ。
痛みが一瞬だけ薄れて、目を開けると、彼女が立っていた。
「……どうして、ここに?」
彼女の目には、わずかな涙が浮かんでいた。
「君は……」
僕の言葉を遮るように、彼女が歩み寄り、ひざまずいた。
「ごめん……」
その声が震えているのを感じた。
「私、どうしても……あなたを助けたかったのに。」
彼女の目が、僕を見つめる。そこにあったのは、恐怖と後悔、そして深い悲しみだった。
「でも……でも、私はもう、何もできない。」
その言葉が、まるで鋭い刃物のように胸に突き刺さった。
「どうして?」
僕は苦しみながらも彼女に問いかけた。
「私が……あなたをこんな目に合わせたんじゃないかって……」
彼女の声が震え、顔を背ける。
「……私が、逃げたせいで、あなたがこんなことに。」
その言葉を聞いて、僕は胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
彼女は、こんなにも自分を責めている。
「君が悪いわけじゃない。」
僕はかすれた声でそう言った。
「君を守りたかっただけだ。」
しかし、彼女は目を伏せたまま言葉を続ける。
「でも、私は……。私がいるから、あなたがこんなことになった。こんなことにならなければ、あなたも、みんなも、無事だったのに。」
その言葉は、僕を深い場所へと引きずり込む。
「違う。君は何も悪くない。」
だが、彼女はそれを受け入れなかった。
彼女は静かに顔を上げ、目の中に決意を宿らせる。
「私が、私があなたを守らなかったから。だから、これからは私が……」
その言葉の意味が、僕には分からなかった。
「君を守るために、私はもう……。」
その瞬間、彼女が何をしようとしているのかが、僕にひどく明確に感じられた。
「やめろ、君は……。」
僕は叫んだが、彼女は僕の手を引き寄せ、その指先に刃物を当てた。
「――ごめん。」
彼女の目に浮かんだ涙が、僕の心を深く刺す。
これ以上僕に傷を負わせたくない一心で、こんな選択をしようとしている。
「お願い、そんなことはしないで。」
僕は必死に彼女の手を握ろうとした。
だが、彼女の顔に浮かんだのは、深い悲しみと絶望だった。
「あなたを守れなかった私が、ただ生きていていいわけがない。」
その言葉が、僕の胸を引き裂いた。
「君は、もうそんなことを考えなくていいんだ!」
僕は声を荒げたが、彼女の目はすでに決して引き返せない場所に向かっていた。
その瞬間、彼女が握る刃が光り、鋭く振り下ろされた。