01話
静かな森の中に、彼女はいた。小さな村の外れ、滝のそばの岩に腰掛けて、風に揺れる髪を指で梳いていた。
「ねえ、今度こそ、遠くへ行こうよ」
彼女は笑った。その声が、悲しいほどに澄んでいた。
「この村にいたら、いつか君は――」
言葉を遮るように、彼女は僕の手を握った。
「大丈夫。私は大丈夫だから」
嘘だ。君は優しすぎる。誰よりも傷ついているのに、誰にもそれを見せないだけだ。
この村では、彼女は異端だった。生まれつき不思議な力を持ち、それが「災厄を呼ぶ」と言われていた。彼女のせいで干ばつが起こった、彼女のせいで疫病が流行った――そんな根も葉もない噂が、村中に広がっていた。いや、噂で済んでいたらこんなことになっていないか
彼女は何もしていない。ただ静かに、誰よりも優しく、誰よりも強くあろうとしただけなのに。
「君が傷つくのを、もう見たくないんだ」
僕が強く手を握り返すと、彼女はほんの少し、寂しそうに目を伏せた。
そんな時だった。
森の奥から、松明の灯りが見えた。
「――いたぞ!」
怒声が響き、村の男たちがこちらに駆け寄ってくる。手には鎌や鍬。明らかに、彼女を追ってきたのだと分かった。
「……逃げよう」
僕が手を引こうとすると、彼女は首を振った。
「……もう、いいの」
「何言って――」
「ずっと、こうなることは分かってた。でも、君は巻き込みたくないの」
優しい声だった。悲しくなるほど、優しい声だった。
彼女は、僕をそっと突き飛ばした。
「君だけでも、生きて」
それが、最後の言葉だった。
村人たちが彼女を取り囲む。彼女は抵抗しなかった。ただ、静かに目を閉じていた。
僕は何もできなかった。
彼女を守るために、強くなりたかった。彼女を救うために、遠くへ行きたかった。でも、彼女はそれを望まなかった。
だから僕は、何もできなかった。
ただ、目の前で、大切な人が消えていくのを見ていることしかできなかった。
その夜、村には祝宴の鐘が鳴った。
僕はただ、森の中で震えていた。
――君を守るために、何ができたんだろう。
あの夜、僕はただ一人、震える森の中に取り残されたと思っていた。けれど、目を開けて最初に見えたのは、見慣れたいつもの天井だった。
ベッドから起き上がると、僕は胸騒ぎに襲われた。昨日の惨劇、彼女の優しくも悲しい笑顔、そして、僕の無力さ。すべての記憶が、鮮明に蘇るのだ。
目の前にいたのに何もしなかった口先だけのノミ以下のこんな僕が生きていていいのか?
そう思って、死のうとしたけど、直前で怖くなってしまった。
ナイフを胸に当て、覚悟を決めようとするけど、無理だ
すぐに死ねない言い訳を考えていると、ふと思った
きっと死体はそのまま放置されている、と
せめて、彼女の為になにかしてから死のう、こう思うことで自分をどうにか誤魔化す
色々考えている間に少し気持ちが落ち着いてきた。落ち着いたことで疑問がでてきた
あれ?昨日ってたしか…
誰かが運んでくれたのか?
いや、でもおかしい僕は昨日捕まっていた彼女を逃して、一緒に逃げようとした。そんな奴を無事に家に返すのか?エリシアにあんな事をしたやつらが
悩んでも仕方がない、とりあえずエリシアに会いに行こう
夜明け前の森は、ひどく静かだった。風が枝葉を揺らす音だけが、無機質に響く。僕は村の外れを抜け、彼女が横たわる場所へと足を進めた。
向かう途中、エリシアのことを思う、その中で昨日の言葉を思い出す。
彼女は僕に「君だけでも、生きて」と言った、じゃあ死ぬのは罰を受けて楽になりたい自分の為の行動でしかないのか?彼女の願い通り生きるべきではないか?心が揺らぐ
そうこうしているうちに目的地に着いた
いるはずの彼女がいない。まして、血の跡さえ無い
場所を間違えたのか?
何で間違えるんだよこんな大事なことを、本当に自分が嫌になる。
自己嫌悪に陥る中で他の場所も回ったが、それらしい痕跡が一つもない。
---何かがおかしい
その後も探し続けたが見つけられない
村の奴らが何かしたのか?
これ以上闇雲に探しても仕方ないし、村の奴らから話を聞くしかないな
村へ戻ろう
気持ちを抑えて村の奴らから話を聞こうとしたけど、エリシアって聞こえた瞬間からこっちの話を聞かなくなるから、会話すら出来なかった。
「アイツみたいなのは、どこにいたって嫌われるさ」
「どうせ死んでしまえばいいんだ、あんなの」
「アイツが死ぬなら、村もきっと少しは良くなるだろうな」
「呪われたような目をしやがって」
違和感がある。直感だけど、この違和感はエリシアの死体と関係している気がする。まずは、これを確かめよう。情けないが、これくらいしか今やれる事がないからな
落ち着いて考える為に家へ向かう
なんだか景色が妙に滲んで見える。体が重い。喉が乾いて、息が詰まる。村の朝はいつもと変わらないのに、僕だけが異物になったような気がした。
それでも、足を引きずるように家へ向かう。
扉を開けた瞬間、ふっと懐かしい香りが鼻をかすめた。
花の香り――いや、違う。
血の匂いだ。
瞬間、胸の奥が締め付けられる。
背筋を冷たい指でなぞられたような、息の詰まる感覚。ゆっくりと、部屋の奥へ目を向ける。
昨日と同じ服を着て、昨日と同じ髪をなびかせ、昨日と同じ瞳で僕を見つめていた。
「……おはよう」
微笑む唇が、血の色をしていた。
頭の中が真っ白になる。手のひらがじっとりと汗ばむ。
逃げなきゃ。いや、違う。これは夢だ。疲れ切った頭が見せた幻覚に決まってる。
そう思って、目をこすった。
でも、何も変わらない。
彼女はそこにいる。
まるで、何事もなかったかのように。
「どうしたの?」
首を傾げる彼女の喉元に、昨日見たはずの傷はない。切り裂かれ、血に塗れたはずの肌が、何事もなかったように綺麗なままだった。
だけど――
僕は知っている。目の前で彼女が死んだ事を
なのに、なぜ。
頭の奥で警鐘が鳴る。寒気が背筋を駆け上がる。
「……君は……」
言葉にならない声を振り絞った瞬間、彼女はふっと笑った。
「ねえ、どうしてそんな顔をしてるの?」
優しい声。いつもと同じ、けれどどこか違う声。
「まるで……わたしが死んだみたいな顔」
心臓が跳ねた。
目の前が、ゆっくりと歪む。
確かに彼女は僕の目の前で死んだ筈だ
だけど――彼女は今、ここにいる。
ぐらりと世界が傾く。
息が詰まるほどの違和感が、僕の全身を締め付ける。
これは、何かがおかしい。
いや、違う。
最初から――何もかも、間違っていたんだ。