この契約結婚は破棄しましょう
(運命の人だと思ったのになぁ)
ディアは夫であるヨアンの書斎で、立ち尽くしていた。
結婚して10か月になるディアとヨアンは、誰もが羨む仲睦まじい夫婦だったと思う。たった今までは。
*****
───二人は一年半前のとある夜会で出会って急速に接近し、周囲も驚くほどのスピードで結婚した。
そもそも貴族社会では恋愛結婚の方が珍しい。
幼い頃から許嫁が定められているか、そうでなくても、ある程度の年齢になったら釣り合う家同士が話し合って結婚することがほとんどである。
父母は一人娘のディアを溺愛していて、早く自分たち夫婦のような幸せな結婚をして欲しいと思いつつも、娘が望まぬ結婚を強いることはしなかった。
ディアが望めば侯爵家を継がせるが、本人に興味は無さそうだった。
優秀な婿を迎えるか、遠縁から養子を迎えるか、いくつか手は打ってあるので気にしなくていいと父母は言う。
ディアの方は、貴族の子女が通う学校を卒業した後も続けたい研究があって、結婚は後回しにしていた。
結婚に興味が無い訳ではなかったが、ほとんどの男性は研究を続けることを良しとしなかったので、必然的に結婚からは遠ざかっていた。
夜会で偶然出会ったヨアンは、伯爵家の三人兄弟の長男で、今は現伯爵である父の元で領地経営などを学んでいるという。
ディアが研究を続けていることも肯定してくれた。
ヨアンと最近親しくしていることを聞きつけた父が、侯爵家を彼に継いでもらうことを提案してきた時は驚いた。
しかし、冷静に考えると家を継ぎたくない自分にとってもこの上ない提案のように思えた。
『彼の気持ちも分からないのに、そんな思い上がったこと言えないわよ』
父母にはそう答えたが、後で考えれば、彼にプロポーズされたのは、その話が出た直後のことだ。
伯爵家の跡継ぎである彼がすんなり婿入りできることになったのは、ヨアンの弟が伯爵家を継いでくれることになったからだった。
その話があまりにスムーズに進んだことからも、父と夫が裏で通じていたことは明らかなのに、そんなことにも気づかず有頂天になっていた。
*****
ディアが契約書を見つけてしまったのは、結婚以来、一日も屋敷を空けたことの無いヨアンが、どうしても行かなければならない領地への視察が入り、初めて外泊することになった日のことだった。
一人で夕食を終え、早々に寝支度まで済ませてしまったディアだったが寝付けず、仕方なく論文執筆に手をつけることにした。
研究そのものが楽しくてやっていることなので、その成果をまとめる作業にはあまり身が入らず、後回しにしていたのだった。
いざ、というところでインクを切らしていたことを思い出して、せっかくやる気を出したところだったので、いつもは入らない夫の書斎から借りることを思い立った。
部屋に入った瞬間、今は不在の夫の匂いに包まれ、途端に夫のことを恋しく思った。
(彼はもう寝たかしら。私のことを少しは思ってくれているかしら?)
そんなことを考えながら、ディアは壁一面に規則正しく並べられた書物のうちの一冊を何気なく手に取った。
きれいに並べられた書物の中で少し粗雑に仕舞われ表紙がズレていたから目についただけだ。
そのとき、本棚から筒状に丸められた紙が落ちてきた。
慌てて戻そうとしたが、落ちた拍子に見えた中身にディアの心臓はドクンと脈打った。
(我が家の印章…?)
その印章が公的な取引きの際に使う物ではなく、父が私的な契約を行う際に使う物のように見えた。
隠すように置かれていたそれが気になり、良くないこととは思いつつ紙を広げた。
どうやら父と夫の間で交わされた契約書のようだ。
(……え?)
その契約書には、
・ディアとヨアンの婚姻は契約に基づくものであること。
・婚姻を条件として、侯爵位をヨアンに移譲すること。
・契約の最低継続期間は一年。
・万が一離婚する場合はディアに充分な財産を分与すること。
そして
・ディアには契約の存在を明かさないこと。
────などが定められていた。
なんと言うことは無い。
愛してくれていると思った夫は、単に侯爵位が欲しかっただけだった。
彼自身に惹かれたのは事実だが、結婚しても研究を続けて欲しいと言ってくれたことも大きかった。
自分を理解してくれる人に出会えたと思ったからだ。
(愛してないなら、私が何をしようがどうでもいいはずだわ)
契約書によると一年は離婚できないらしい。
父と夫の契約なのだから、自分が彼に離婚を突きつけても何ら問題は無いはず。
でも、ただでさえ傷心のところに、離婚の後処理などで研究に支障が出るのも煩わしいと思ってしまった。
(こんな風に理屈っぽい女なんて愛される訳がないのに、私ったらよっぽど舞い上がっていたのね。)
ショックを受けると同時に、どこかで冷静に受け止めている自分もいた。
結婚以来、一人寝は初めてのことで、皮肉にもそのおかげで今後のことをゆっくり考えることができた。
その割に出した結論は、情けないことに「先送り」だったが──
*****
翌日、視察を終え帰ってきた夫は満面の笑みでディアの元に駆け寄り、ディアを抱き締めた。
(この笑顔が演技なんだ…もう人を好きになるのは無理そう。でもいきなり嫌いになんてなれないわよ。勝手にドキドキしちゃうんだから。)
抱き締められながら、そんなことをぼんやり考えた。
「ディア?疲れてる?それとももしかして寂しかった?」
少しおどけたように言うヨアンを躱して、答える。
「うん、ちょっと寝不足みたい」
「そうか。じゃあ今日はゆっくり過ごそう」
ヨアンは実家の伯爵家でも似たような仕事をしていたとは言え、侯爵家について新しく覚えることも多く、忙しくしていた。
このためディアが彼の都合に合わせることを止めれば、共に過ごす時間はすぐに減らせた。
「最近忙しい?」
夫が寂しそうに見える顔で尋ねてきた。
(これが演技なんだから我が侯爵家は安泰ね)
「もう少し掘り下げたいところがあって」
「そうか無理しないようにね」
ディアの研究への没頭あるいは逃避は一ヶ月ほど続き、徐々に日常を取り戻したかに見えた。
*****
あの衝撃から一か月、ディアは研究に没頭──するフリを──して時をやり過ごした。
世の中の(貴族の)夫婦は政略結婚ばかりなのだから、自分にも出来ないことは無いはずだと言い聞かせた。
本当は表面上だけの関係だったとしても、以前のように共に時間を過ごし、体を重ねることだって出来るはず────
しかし、それはディアには簡単なことではなかった。
最初から割り切っていれば、違ったのかもしれない。
愛し愛されているゆえの行為だと思っていたものが、相手にとっては義務的なものだと理解しながら続けることは難しかった。
以前のように振る舞っていれば慣れるかも、とあり得ぬ期待をして一月を過ごし、諦めた。
ディアは結婚からちょうど一年となる日を待って、離婚を求める置き手紙を残し夫の元を去った。
*****
──離婚してください。
妻が残した手紙に書かれた文字を見た瞬間、あまりの衝撃にヨアンは心臓が止まるかと思った。
結婚して以降、妻への思いは深まるばかりであり、その日は結婚一年を祝う花と贈り物をいつ渡そうかとそわそわしながら帰宅した。
研究が佳境に入っている時以外は、いつも出迎えてくれる妻がいなかった。
つい最近一段落したと言っていたから、もしやサプライズで何か仕掛けてくれるのだろうか、それなら気づかぬフリをしなければ、などといま思えば間抜けなことを考えていた。
しかしヨアンが私室に戻っても特にそういった気配はなく、その代わりに妻からの短い手紙が一通残されていたのであった。
手紙には、一年経ったから離婚して欲しい、とだけ記されていた。
筆跡は明らかに妻のそれ。
すぐにディアの父母が暮らす侯爵家の別邸に向かったが、そこには居ないという。
居場所を教えてほしいと言うと前侯爵は、
「君ならあの子を幸せにしてくれると思ったんだ。娘は酷い顔をしていた。私達が間違っていたんだ。君を巻き込んで申し訳なかった」
そう言って頭を下げたが、決して妻の居場所を教えてはくれなかった。
しかし、貴族女性の行けるところなど限られており、独身の伯母の屋敷にいることはすぐに分かった。
当然、ヨアンが出向いても面会を認められるはずもなかった。
*****
────正直に言うと、ディアに出会ったのは偶然では無かった。
仕事で付き合いのあった侯爵家の当主から娘に会ってみて欲しいと頼まれ、申し訳程度に一度会ってから断るつもりで、夜会で彼女に近づいたのだった。
結婚ありきの貴族社会で結婚相手も見つからない余程の変わり者なのかと、少し警戒しながら話しかけたが、いたって普通の、いやむしろ魅力的な女性だった。
一瞬で夢中になった。
『自分にはもったいない女性だ』というあらかじめ用意していた定型の断り文句は、必要無かった。
プロポーズしたのは出会って3か月のことだった。
周囲には早いと驚かれたが、彼女のこと以外は考えられなくなっていたから、ユアンにとって当然の流れだった。
その後、彼女の父親から、契約書を作ったから娘と結婚して欲しいと言われた。
父親の頭越しに話を進めてしまうのもどうかと考え、話を合わせることにした。
侯爵の地位になど興味は無かったが、ディアが安心して暮らせる環境に必要ならと跡継ぎとなる話を受けたに過ぎない。
結婚してしばらくは夢のような日々が続いた。
様子が少し変わったのは、ある視察から帰った後だった。
結婚してしばらく経った頃、距離の関係で泊まりの視察が入ってしまい、急いで用務を片付けてディアの元に戻った。
自分の方は会いたくて仕方が無かった妻は、案外ケロリとしていて、研究に没頭していたようだった。
ディアにとって研究を続けられることが結婚の決め手であることは分かっていたが、これまでになく焦りを覚えた。
(私は一日でも離れていたくなかったが、ディアはそうでも無いのかな。研究の方が大事なのだろうか。)
他の条件のいい男が現れる前にと焦って結婚してもらったが、ディアの目が覚めてしまったのだろうか。
手掛けている論文が大詰めとのことで、ディアが彼女の私室で眠る日が一か月ほど続いた。
研究が落ち着いたと言って、二人の寝室にディアが来てくれたときは天にも昇る心地だった。
ディアがどこか浮かない顔をしていたのは気になったが、一か月ぶりに触れる彼女の体に夢中になった。
またこんな日が永遠に続くと思っていた。
*****
ディアの伯母は、いつまででも屋敷にいてくれていいと言ってくれていた。
ヨアンが時間を見ては屋敷にやって来て面会を求めてくるのを断ってもらっていたが、伯母に迷惑をかけ続けることも心苦しくなってきたディアは、意を決してヨアンと会うことにした。
その旨ヨアンに連絡すると、すぐにやって来た。
「手続きは進めてくれてる?一年はとっくに過ぎたはずよ。この契約結婚は破棄しましょう」
ディアは余計な話は無用とばかりに、切り込んだ。
「…やっぱり視察で不在にしたあの時に、契約書を見てしまったんだね。話を聞いて欲しい」
そう言って、過去の経緯や自分の思いを丁寧に説明した。
「それが本当なら契約書など必要無かったわ」
「ディアの言うとおりだ。でもあの後も、その…僕を受け入れてくれた。」
最後の一か月のことを言っているのだろう。
「あなたが愛してない私と出来たんだから、私も出来るんじゃないかと思ったの」
「でも私には難しかったみたい。私のことを愛していないと分かってる人と、体を重ねるのはすごく辛かった。
まるで本当に私のことを愛しているみたいに扱うんだもの」
ユアンは妻が嫌々応じてくれていたのかとショックを受けながらも、何とか言葉を返した。
「君を愛してるんだ。ディアがいてくれれば爵位などどうでもいい」
そう言うヨアンの言葉は演技などでは無いように見えた。
それでも契約などという無機質なもので二人の関係が規定されたことを、ディアはどう受け止めていいのか分からなかった。
「それなら…私ともう一度契約を結んで」
ヨアンに対し、ディアに有利な条項ばかりの契約を突きつけた。
無理を吹っかけて諦めさせようと、思いつくままに書き殴った。
書きながらあまりの横暴さに自分でも笑ってしまったくらいだ。
ディアとヨアンの間で新たに結ばれた契約には、
・契約は、ディアの意思表示があった場合のみ破棄できること
・離婚時に子供がいる場合、親権はディアのものであること
・婚姻後に築いた財産の所有割合はディア9ヨアン1とすること
・ディアが愛人を持つことを認めること。
・ユアンが愛人を持つことは認められないこと。
ディアが戻って来てくれるなら何でもいいと、ユアンは無条件でその場でサインした。
二度目の契約結婚は、破棄されることは無かった────