『火粉を払う、息を吸う 27』 史絵
「だーっ!暑……」
開口一番叫んで、アパートのドアを蹴るようにして開ける。外開きなので、前方へのキックではなく、馬が人を蹴るような感じ。まず取っ手をぐいっと引っ張りできた隙間に細い体を滑り込ませ、膝で脚を「く」の字に曲げて、押し出すように蹴る。咲の脚は細く長くしなやかだが芯があり、無機物への蹴りひとつとっても見ごたえがあった。がぁん。高音を響かせ、部屋と外界という空間が一時的に繋がる。
「さ、入れ」
手をひっぱられ、引きずられるようにして金切音楽蟲が部屋へ入る。よく見ると体中に光の線が引いている。咲の「祈り」によって、全身が糸で縫合されているのだ。
続いて少女2人が、扉を閉めながら入る。がちゃん。
「お、おじゃましまーす」
「おじゃまします」
がっ、がっ、がっ。乱暴にリモコンのボタンが連打される。みるみる、天井付近のエアコンは風を強く吐くようになり、目に見えて、肌に感じて、涼しくなってきた。
「はーっ!!」
実に気持ちのよさそうに、咲は口を大きく開いた。
「ちょっと寒いっスよ。先輩」
「うるせえ」
文句を垂らす蟲の背を、部屋の壁に雑にもたれさせる。あぐらを組もうにも、太もも同士も縫合されているため、できない。蟲は腰をぷるぷるさせながら長座体前屈で息をついた。
蟲の真っ赤な肩に一瞥し、咲は大部屋を出た。
「ボクらも座ろう」
「あ、うん」
じゃーっ。長いこと水の流れる音が聞こえたのち、音が止むと共に咲はキッチンから戻って来た。盆を両手で抱えている。つやつやの、外が黒で中が赤の丸い盆。盆の上にはコップが4つと、銀色のボウルがあった。どれも冷たそうな液体で満ちている。目の前に置かれて少女2人は、コップの中が麦茶と分かった。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
「おう」
つかむと、手が濡れた。かなり冷えている。外側に結露が走っている。かまわず持ち上げて、ごくごく 口へ流し込む。茶色と透明の混じった綺麗な色をしている上に冷たいとは、最高の飲料に思えた。
咲もコップを手に取り、口に近づける。既に半分ほどしかないのは、咲だけキッチンで注いですぐに飲んだからだろう。残りの半分も、今のでひといきに飲み干した。
「ほれ」
コップを持ち換え、今度は蟲の顔に近づけた。その様子を、史絵とまくらは麦茶を飲んで見守った。
「いや、手……」
糸で縫合されている、と言いたいのだろう。眉をひそめる蟲。咲は構わずそのまま、結露の滴るフチを蟲の口にくっつける。「あご上げろ」とだけいって、漏斗にでも流し込むように無理やり、麦茶を蟲の口に注いだ。ぼたぼたといくらか溢れる。
「んっぐっぐっ、ぶはっ!」
「よし、じゃあ──」
「よし、じゃあないっスよ!雑!先輩は!」
ふだん……。ふだん、この二人は、組織でどんな関係だったのだろう。史絵はふと、そんなことが気になった。宗教組織の中でも、先輩後輩の仲で、それなりに親しい位置だったのだろうか。
「ぎっ!!」
およそこの場にいる女の子の声とは思えない叫びが聞こえ、史絵は想像の世界から引き戻された。見ると、蟲の片腕が手からボウルに突っ込まれていた。確か、蟲の手は、あのトイレットペーパー芯キャノンのノズルを直で触る必殺技のせいで、皮膚が広域に剥げていたはずだ。それを、いきなり冷水に突っ込まれたようだった。
「ぎゃああっ!!」
「ちょ、おとなしくしろ」
剥げた手のひらから肘にかけては縫合を解いてもらったようで、久々に動かせる自身の四肢のその一部を、蟲は存分に暴れさせた。痛くてどうしようもないといった様子だ。
「あの、病院連れていかなくていいんですか?」
「史絵。あのなあ、こんなやつ病院に連れていったら、私たちが住宅街で戦闘していたことがバレるだろーが。私たちなら、アタマでも打ってないかぎり、止血さえしときゃ大丈夫だ」
「そ、そうなのかな……」
「ああ。そうだ」
史絵はもはや何も言えない。世の中には鍛え上げられた人間がいるということだろう。
咲は立ち上がり、蟲をずるずる引っ張ってシャワールームへと消えていった。じゃーっ、勢いの良い水の音と、女子にしては低い声の悲鳴が聞こえはじめる。皮膚の捲れた手のひらの次は、あのバックリ裂かれた肩の傷口でも洗っているのだろうか。
足をぺっとりと床につけた状態で、少女2人は部屋に残された。
「シャワー、長いね」
「うん、長い」
普段ならてきとうな会話をしているところだが、すぐ向こうで殺人未遂犯がシャワーを浴びていると考えると、緊張が抜けない。
「ねえ」史絵の唇は僅かに震えている。
「なに?」まくらはそのことに気づいていない様子だ。
「怖かった?」
金切音楽 蟲のことだ。まくらは少し考えてから、
「怖かった」
目を閉じる。どっちが、とかではなく、どっちも。ただ、姿勢は違って。まくらは居眠りするように下を向いて。史絵は天を仰ぐように上を向いて。
「そう……だよね。怖かった、よね」
蟲の攻撃は史絵と、史絵への攻撃を邪魔する咲へ向けられていた。そのため「怖い」でいうなら、史絵の方が恐怖を感じていたはずである。それでも史絵はまくらに「怖かったか」を尋ねた。実のところ史絵の真に恐ろしかったのは、あの銃口を自分に向けられることよりも、あの銃の先にまくらがいるかもしれないことである。蟲はなんとかなったが、今後もああいった“敵”が自分の目の前に現れることは確定している。そのたびに自分の隣でまくらは戦ってくれ、終わったあとに「良かった まくらはまだ生きている」と空気より重く地に沈む安堵の息を吐くのか?いやそれでいけるならいい。言葉から逃げるな。最悪なのは……
「やっぱり私はまくらに死んでほしくない。」
まくらは表情を変えるでもなく、手にしていた麦茶を机に静かに戻した。かたん。必要最低限の音がいやに大きく聞こえ、シャワーの音などは聞こえもしなかった。
「怖かったのなら、逃げてよ。この場からっ。」ぎゅっと目をつむって、叫ぶ前段階の声で史絵は言った。
未だ鼓膜を震わせるのはあの轟音。
蟲が、倒れる直前に放ったあの一撃。
音速の一撃。
円錐の弾丸は運よく人間の頭上を飛んでいったが、もし当たれば、人間は、地面に落とされた林檎のように砕けていた。
「しつこいようだけど、私はまくらに危険な目に遭ってほしくない。まくら、どこも傷つかなかった?」
「うん。どこも……」
「なら良かった──」
「ごめん、嘘。実は砕けたガラス片で少し、手の甲を切った」
左手を甲を向けてひらひら揺らす。薬指から、その対角線にある手と腕の境界にぽっこり膨らむ突起の部分──尺骨茎状突起に向かって、赤い直線が引かれている。既にかさぶたになっているが、傷に違いなかった。
「わ、」
史絵は反応に困った。正直、大怪我というふうには見えない。かといって無傷ではなかった。
「(だから、麦茶を飲むとき右手だけでグラスを掴んでいたのか)」
いや、傷口から菌が入って破傷風になって……みたいな、無茶苦茶に過度に考えて心配することもできなくはないが、流石に大げさ。でも痛いのだろうな、とは容易に想像がつく。戦いをやめさせる根拠にしては弱いが、読んで字のごとく「皮切り」。これを皮切りに、これからまくらにはどんどん「傷」が増えていき取り返しのつかないゴールのテープを切ってしまうのではないかと考えてしまうには、充分な痛々しさだ。一言で言うと、
「今回はそれで済んでよかったものの、」
である。
そして、言ってから、「(あ 自分はまだ まくらの覚悟を認めていないのか)」と思った。史絵は未だ、まくらに戦ってほしくなかった。
「うん。ボクも分かってる。ガラスで手を切る……なんて、家族で海に来た幼稚園児でもできる。そんなことでこれほど痛いのだから、あの人らが戦いで負った傷はどれだけ痛いんだろう」
蟲は手のひらの皮膚が丸々剥げ、「肉」が見えていた。血なんてものではない、肉だ。ナイフを二度も突き刺された肩は、赤い体液が「垂れた」のではなく「噴いた」らしい。命がどばどば外へ溢れていく様。
まくらはまくらで、どうすればついにこの自分の覚悟を史絵に認めさせることができるのか、分からずに困っていた。本心から望んでいるわけでは決してないが、今回の戦いで大怪我をして「それでもボクは史絵のために戦おうとする意志を未だ持っている」と言えたなら、きっと史絵は認めてくれただろうにと思っていた。認める、というより諦めてくれる、といったほうがより正しいだろうか。ともかくこっちは好きでやっていることなので、史絵には素直に守られてほしいのだ。
あるいは、友人歴がもっと、……数年も数十年もあるような関係だったのなら、説得力があっただろうか。命を賭して戦う所存……というやつに。
がちゃり。扉が開いて、咲と蟲が部屋に入った。薄い蒸気が体から上がっている。体を洗い終えたらしい。蟲は肩をぐるぐる包帯で巻かれ、止血が施されていた。素人目から見ても綺麗に巻かれていて、どちらがやったのか分からないが、手慣れていると感じた。二人は宗教組織「世界そのまま社」の実力行使要員と言っていた。平和なこの国であまり想像がつかないが、二人は戦うこと・傷つくことに躊躇いがないようだ。
柱に蟲の背をもたれさせる咲に向かい、まくらは尋ねる。咲にというよりは、蟲も含むように。
「どうして戦っていけるの?」主語をつけ足して、「咲と……蟲は。」
「私と同様に宗教によって苦しむ少年少女を助けようと。そして自分にはそれができるという自信、傲慢、メサイア・コンプレックス、もしくは同病相憐れむ、のためだろうな」
「上が望むからっス」
すぐに答えが返って来たことに、まくらは驚いた。あらかじめ言葉が喉元にセットされていたみたいだ。それだけ心に根付いた“意志”なのだろう。どちらも理由は異なったが、真剣の言葉でることは心で理解できた。
「(ボクも、)」
続きたい。
二人に続くようにして自分も、自分の戦う理由を伝えたい。目の前の、戦う理由に向かって。
「ボクは、史絵を守るために戦っていける。出会って数か月の友人……に命を賭けれるだなんて、滑稽かもしれない。でっ、でも。だったら!そう、まず約束すればいいんだ!」
まくらはなんと言ったのか。言っている意味がよくわからない。
「まず約束する?何を?」
「史絵っ!」
「はっ はい!」
ばん!まくらは手を掴んだ。史絵の両手を、両手で掴んだ。彼女の左手には赤黒い傷跡が数分前から変わらず走っている。
「ボクと今後の人生ずっと友達でいて!」
「え?あ……いい、よ?」
幼稚園児が砂場で交わすような約束だな、と思った。あと、急だ、とも。でも断る理由もない。生涯の友になってくれないかという申し出なんて心地よくないわけがない。つまりとても嬉しい。かっと頬を紅く染める。
前を見ると、当然だけどまくらと目が合う。手をずっとにぎにぎ繋いで、一心が同体になったような錯覚にとらわれる。自分は硬直気味の表情で照れているのだろうが、まくらは笑っている。
「うふふ、ふふ。ねえ史絵」
「な、なに」
「ボクたちってどれくらい生きるのかな。あ、日本人ってどれくらい生きるのだろう」
何を言っているのか。いろいろ頭の処理が追い付かない。日本人ってどれくらい生きるのか?とりあえず自分も考えてみる。推測で数値がはじき出される前に、答えたのは咲だ。
「日本人 女性の平均寿命は87歳ほどだと言われているな」
「じゃあきっと、ボクたちはもっと生きる。あと70年、80年、もっと、ずっとより生きる。ボクは出会ってたった数か月の友人のために命を賭けて戦うんじゃない。何十年来の友人なんかでさえない、生涯来の友人のためだ。だから、そう、ボクは、生涯来の友人のために命を賭けて戦う──
それでいい?」
あらためて見ると、笑顔はいつの間にか止んでおり、彼女の目は真剣か、もしくは銃口だった。史絵は信じることにした。認めることにした。目前の同級生は自分の大切な存在でありそれ以上に、自分を大切にしてくれる存在である。
「いい。それで、いいよ」
どちらからともなく2人の少女は立ち上がった。柱に背をもたれさせて蟲は、麦茶をぐびぐび飲みながらあぐらをかいて咲は、少女らを見上げた。一つになろうとしている少女らを。
「まくら。でも、逃げたくなったら逃げてね」
「ボク ここまで言ったのに、なんでまだそんなこと言うかな」
黒縁眼鏡がずり下がるのも厭わずに。にこりと笑う。
「私も、生涯来の友人には生きててほしいからね」




